弱りきった体を病床に預け、呼吸さえ難しくなっている妻がいた。老衰である。人類は、技術の進歩で、ウイルスも、悪性腫瘍も、神経症も、全ての悪い病を取り除いていった。だが、寿命の限界だけは取り除けていなかった。力が抜け始める妻の右手を、ハナレは両手でしっかりと握る。数十年間手をとりあってきた配偶者との別れに、ハナレの唇は悲しみで震えていた。それでも、覚悟はしていた。
この別れは、必然なのだから。
「あなたも早くこっちに来てね……寂しいから……なんてね…………」
それが妻の最後の笑顔だった。妻の右手は緩やかに、かつ確実に生気を失っていき、ついに手から熱が消えた。
魂を、ハナレは初めて意識した。体から妻の魂がスルリと抜け、ヘリウムの入った風船のように、天上へと昇っていったのだろう。そして、ハナレには、妻だった肉体だけが残された。これは、もう妻ではない。妻は、ここでの生を全うし、天へと昇ったのだ。
妻は、違う場所でまた出会える。妻の魂は、天にある。
別れが必然なら、出会いも必然だから……。
ハナレは久しぶりに夢を見ていたようだ。それも、幻じゃなくて、限りなく現実に近い、ハッキリとした夢。鮮明な出来事に思わず体を起こす。久々の妻と再会できた喜びと、妻のいない現実の悲しみが混じり合い、困惑が一層増した。もし、妻がまだ生きていたら、すぐに若返りの薬を調達し、一緒に飲んでいただろう。しかし、妻はもうここにはいない。
いや、考えても無駄だ。そう吹っ切れたハナレは、まだ日が上りかけの早朝の時に立ち上がり、そそくさと朝食の用意をするのであった。
*
「今日もあるのか?」
「あるよ」
息子サトルは毎朝会社の新製品を持ってくる。しかし今日は……。
「このロールパンは、前も食べた気がするが」
「! よく覚えてたね……」
サトルはハナレの予想以上に驚いていた。
「なんじゃ、そんな物覚え悪くなってると思ったか」
「い、いやぁ、でも最近は珍しいと思って」
「やっぱり思っとったんじゃないか」
「ごめんて」
やれやれと思いながらハナレは味噌汁を煮込んでいた。
「最近このロールパンが社内で好評でさ、このままいけばもしかしたら晴れて商品化するかもしれないんだ。これでようやく僕も認めてもらえる」
「おぉ〜やるじゃないか、さすが儂の息子だ」
「やったぜ〜久々に褒められて嬉しいよ」
「そんな褒めてなかったかの?」
「俺にとっちゃね〜昔はもっと褒めてくれたよ」
「そうかの? 変わったつもりはないがのう」
「嬉しい……嬉しいよ」そう小声で言いながらサトルはトイレへと入っていった。
サトルが次に持ってきた試供品もロールパンだった。2日に1回の頻度で、サトルはロールパンをハナレに持ってきた。そしてハナレは食べた。こんなに同じものを持ってくることはなかったが、それでもハナレは嬉しく思い、それを気に入って食べていた。
そんな日常が続いていたある日。
「じゃ、今日は早く出るよ」
「何か、あるのか?」
「うん、大事なプレゼンがあるんだ」
サトルはハナレの用意した朝食をすばやくとり、すぐに家を出ていった。珍しい、とハナレは思った。
*
「なんじゃこりゃあ!!?」
しばらく経った日、ハナレは朝のニュースを見て驚愕していた。とある製パン会社が若返りの薬の成分を配合したパンを完成させたらしい。そのニュースによれば、若返りの薬に含まれる成分は、なんと美味しいらしい。現代に顕現した禁断の果実。ハナレは危ない予感がした。
また、この製パン会社のニュースを見て、すぐに察しがついた。
サトルは、この会社に勤めている。そして、最近新商品が成功したと喜んでいた……。考えれば考えるほど当てはまってしまう。そして、考察がこんなにも早くできてしまう、自分の脳が、ハナレの悪い予感をより一層高めていた。
「余計なことをしでかしたんじゃないだろうな……!」
ハナレは昨日食べたロールパンの袋をゴミ箱から探し始めた。
「袋に成分表があったはずだ……!」
ハナレは必死に羅列された成分からそれを探した。文字を見るのが苦手になっていたはずのハナレの老眼は、鮮明に脳に映像を写していた。
「どこだ……どこだ……」
「ないよ、そんな貴重な成分書かれるわけない。しかも、それは僕が独断で入れたからね。食品表示義務は関係ない」
「……サトル、起きてたのか」
サトルは寝床のある2階の部屋から出てきて階段を降りてる最中だった。
「なんてもの食べさせてるんだ!!」
「生きててほしい、って、家族なら思って当然じゃないの?」
「……ッ! そうだがこれは……!」
何かを息子に言いかけた。だが、それは今や唯一の家族である息子にぶつけるべきではないと、思いとどまった。
サトルは残りの階段を下り、ハナレの焦りとは裏腹に落ち着いて説明を始める。
「父さんはさ、あのロールパン食べてからかなり元気になってさ、俺は嬉しくなって、もっと食べさせれば、もっと元気になるんじゃないかって」
「そんなわけ……」ないはずがなかった。ハナレは最近、体の調子がすこぶるよかった。
「そしたらさ、父さん、体も若返ってるような気がしたんだ」
「……は? なんでお前がそんなことを」
「最近鏡見てないでしょ。老人になってもう鏡は見る必要ないって、思ってたんだろうけど……」
サトルが言い切る前にハナレは颯爽と洗面所に向かった。
「身軽になったなぁ……」サトルはつぶやいた。
ハナレ、今日2回目の驚愕だった。
顔の皺が、明らかに減り始めている。皺の全くない真っさらな肌とは程遠いものの、確実に60代くらいのシワの量とハリが戻っていた。
ハナレは先日のゲートボール会で、お婆さんになぜか褒められたのだった。
『ハナレさん、なんか若返りましたねえ』
『そ、そうかの?』
その時は身に覚えがなさすぎて、とても不思議に思っていた。だが、あのお婆さんは嘘をつくような人間ではないのは会の長年の付き合いでわかっていた。
「そういうことか……!」
ハナレは、サトルから若返りの薬を摂取させられていたということになる。
「元気を出してほしかった。心を病んでしまってどうにかなってしまう前に、体が元気になってくれれば心も元気になってくれるって」
後ろからサトルは言った。
「母さんがいなくなってから、父さんは元気がなくて、まるで抜け殻みたいになってた。」
『抜け殻』。ハナレの脳裏によぎったのは、魂が抜けた妻の肉体。
「そうかもしれない、な」
ハナレも、すでに抜け殻だったのかもしれない。自分の魂も、上に行きかけていた。でもそれは、異常なんかじゃなく、生の行き着く宿命のはずではないのか。
「どうにかできないか頑張ったんだ。くる日もくる日も会社で考えて、ようやく叶ったんだよ……」
歓喜の涙で目を湿らせ、震えた声で悲願を父に報告した。
「サトルの気持ちは、わかった。わかったから……ちょっと、一人にしてくれるか? 散歩してくる」
「……わかったよ。大丈夫? 俺いなくても」サトルは話し切った息継ぎに、大きなため息を混じらせながら心配した。
「若返ってるんだったら、大丈夫なんじゃないのか?」ハナレは家を離れた。無意識に少し皮肉がこもってしまっていた。
もう手遅れだ。あのロールパンを何個食べたかわからない。これからどんどん若返ってしまう。
人生100年といわれる時代で生きてきたハナレの、死をも考慮した人生設計が全て崩れ、どこか喪失感を抱いた。
ハナレは外に出なくなった。老人会にも参加しなくなった。それはまるで人生の終わりを待つ、老人の佇まいそのものだった。しかし、体は若返っていく。鏡を見るのが余計怖くなった。自分の心が、自分の体を受け付けなくなっていたのだ。
サトルは少し心配した。だが、喧嘩をして、機嫌を損ねてしまったと思い、ハナレの悩みの重大さを軽く見ていた。
約1週間後、ようやくハナレが動き出したと思ったら、サトルには目的地を知らせず外へ出ていってしまった。
「父さん……」
外の空は雲によって影を落とし始めていた。サトルは初めて少し嫌な予感がした。
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