◯
教室から眺める空は暗くて朝じゃないみたい。
五月の暖かさはひんやりとした湿気に変わって私のメガネを曇らせます。
今日は雨です。
柔らかな無数の針が建物に刺さって木の葉が擦れ合うようなサーッという音が耳に入ってくる。
その場から逃げ出すことのできない運動場は煙が立つようにしぶきが跳ねていて
誰も近づいてはいけない樹海のように冷気を漂わせています。
顔を上げてもう一度空を見ても雨が止むことはありません。
透き通るような真っ青な空を見ると心が洗われるように
どんよりとした空を見ると心は少し重くなります。
一つ心が重くなると私の中のAIは関連グッズを紹介してきます。
原津森くんに勝てなかった。
大会の後、原津森くんに試合を振り返ってもらって話を聞きました。
なぜ私は負けたのか
なぜ原津森くんが勝ったのか
私には全然分からなくて
原津森くんには全てを説明することができました。
私は原津森くんの手の平でコロコロと小さく転がっていただけで、最後はあっさり握りつぶされてしまった...。
今日の天気はちょうど私の心を表しているようです。
こんな時、外は見たくありません。
ごまかす様に私は教室の中をコソッと見渡してみました。
最初に目が行ったのは道引先生。
いつもは足を組んで教壇に浅く頬杖をついているのですが、今日は力の抜けた体を背もたれに任せてバランスを取るようにして腕を組んでいます。
ため息をつく度に首が沈んでうつむいた顔が上がることはありません。
口を結んで珍しく浮かない顔をしています。
天気の悪い日はみんなそうなのでしょうか。
かと思ったら聞き慣れた明るい声が耳に飛び込んできました。
そちらの方へ目をやれば、姉木さんが「だよね!」と言って周りの席の子に顔を近づけて満面の笑みでお話しをしています。
姉木さんは雨の日も元気です。
姉木さんは私とは反対側の世界に生きている人です。
そんな人の声が私にも届くようになったのはロードプルがあったからです。
変わりつつある私の日常は、間違いなくこの人が原因です。
しみじみ視線を正面にやると、
いつもは机にべったり貼り付いているはずのナマケモノの姿が今日はありません。
机と、椅子の背がピタッとひっついて綺麗に並んでいるサマは私を一人にさせます。
主の居ない席を眺めていると心に空いた小さな穴が広がっていく気がして、私はまた窓の外の方に首を回します。
やはり何度見ても、今日は雨です。
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下を向いた顔を傘で隠せば少しは楽になるのだろうか。
あるいはいっそ傘なんかささずに打ちひしがれて、ここで悲しみの全てを吐き出せば前を向けるのか。
遠くの方で震える木田を眺めながら自分ならどうするのだろうかと考えていた。
寺の入り口には人の背よりも高い木札が物々しく立てかけれている。
その木札には墨で漢字ばかりが書かれていて何と読めばいいのか分かるのは「木田一郎」の文字だけだ。
その横には提灯と花が添えられていて一歩寺に踏み込めば周りの人の悲しみが伝染してきて少し体温が下がる。
「あの、受け付けを」
服を掴むようにオレに腕を伸ばしてきた姉ちゃんにそう言われ立ち止まる。
オレは諦めて白と黒の紐が交差するリボン付きの封筒を胸ポケットからスッと取り出し長机に置いた。
受付の姉ちゃんに真剣な顔をしてコクリとうなずく。
姉ちゃんは座ったまま深々と頭を下げた。
このままそそくさと寺の中に入ってしまえば怪しまれかねない。
だから堂々と一歩一歩靴でジャリを噛むようにして奥へ進んだ。
オレは今日、
木田のじいちゃんに線香をあげに来た。
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今にも膝が崩れ落ちそうになっていたのは私よりも息子の方で、
それを見た瞬間涙が止まった。
そして私は赤子ぶりに鳴男を抱きしめていた。
床一面に敷き詰められた小石の上をジャリジャリと歩く音が絶え間ない。
雨にもかかわらず線香をあげに来た人達で溢れかえっている。
祖父母が亡くなった時、私は自然と受け入れていた。
どこか遠い所で起きている出来事で、自分には関係のないことのように感じて、力なく弱っている親父の背中をボーッと眺めていた。
鳴男は違うんだな。
親父には随分鳴男の面倒を見てもらった。
私は自分をかえりみる事をしなかった。
一つ成功を掴んだだけで自分には何でもできるような気がして有頂天だった。
周りの人に支えられ、担いでもらっていることも忘れて自分のやりたいように生き、それが永遠に続くと勘違いしていた。
潮時をとうに過ぎていたにもかかわらず自分を変えることができずに、
妻は愛想を尽かし私のもとを去った。
妻には見放されたが鳴男は私のところに残った。
それはなぜなのか。
ずっと聞けなかった。
息子をこうして抱きしめていることに違和感を感じるほどの関係性だ。
それでも切れない何かで繋がっていて、それをたぐり寄せれば必ずそこには鳴男がいる。
私と鳴男を繋いでくれていたのは親父だ。
親父は鳴男が欲しがるものを与えた。
親父は、私が欲しがるものも与えてくれた。
どれほど嬉しかったことか。
鳴男も同じ気持ちだったのだろうな。
私は、鳴男に何も与えてこなかった。
鳴男を育てたのは私じゃない、親父だ。
音楽にのめり込んだ後は仕事に奔走し、関係性も築かないまま、気づけば鳴男は私と同じ道を辿っていた。
不安しかない。
ほんの少し気を緩め努力を怠ればあっという間に転げ落ちる業界だ。
音楽は甘くない。
さらには鳴男は私に似てお調子者。
売れればどうなるかは目に見えている。
やりたければやればいいが、協力はしない。
私が音楽の道を行くと言い出した時も親父はこんな気持ちだったのだろうか。
色んなことが頭の中を巡り、悲しみが他の感情と混ざって薄まっていた。
そのせいか自分の父親が死んだというのに意外に冷静だった。
感情が振り切れてしまうと良くないことが起きる。
過去の「有頂天からの転落」が私の中でストップをかけているのかもしれない。
バカになることを恐れている。
鳴男はまだわんわんと泣いている。
強く抱きしめていた腕を緩めて少し鳴男と体を離した。
私には息子を慰める言葉が見当たらない。
慰める権利も無い。
体が離れると自分と息子との距離感を改めて感じる。
そんな息子から目を逸らすように顔を上げる。
するとそこには見知らぬ少年が腕をだらんと下げて突っ立っていた。
傘もささず、制服が水滴を弾いている。
鳴男からは友達が葬儀に来るなんてことは聞かされていない。
どうやって入ってきた?
私が疑いの目を向けても少年は平然としていて、今日みたいな天気が似合う邪悪な目をしたまま少し先の方から私達親子を監視している。
◯
木田は、じいちゃんにライブを見に来て欲しかった。
もうそれは叶わない。
死んだ人間は帰ってこないから。
あーしとけばよかった
こーしとけばよかった
後悔を拾い集めるように頭の中で思考が巡る。
今、木田はその螺旋から抜け出せずに苦しんでいる。
オレはあの時あのライブで木田の“本気”を見た。
努力をしていない人間には本気は出せない。
カッコつけて本気を出したフリは出来るが、そんな偽物では人に何かを伝えることはできない。
木田の努力にオレは間違いなく心を動かされた。
お前のその努力は何のためだ?
誰かのために成した努力か?
じいちゃんのための努力か?
違うな。
自分の為だ。
無我夢中で、何も目に入らなくて、ギターを弾いている時しか息をしていくて。
そうじゃないのか?
オレはそうだ。
オレはゲームをしている時しか息をしていない。
ゲームをしていない時間はずっと息苦しい。
ゲーム以外の時間は自分にとって何の意味があるのかオレには分からない。
人のためにやってるんじゃない。
オレがオレであるためにゲームをやっている。
じいちゃんが死んだからって
お前がお前であることから逃げるなよ、木田。
確かにじいちゃんには見せることは出来なかった。
でも、
まだお前の本気を見てない人がもう一人居るだろ?
雨に濡れた靴のせいか
足場を悪くしている砂利のせいか
あるいは他人の心に踏み入ることにためらいがあったのかもしれない。
悲しみに暮れる二人がやけに遠く感じる。
足が重い。
目線だけ先に送ってみる。
打ち震えて呼吸が整わない木田は、何か助けを求めているように背中を丸めている。
オレがただ悲観的に見ているだけなのかもしれない。
ただの勝手な思い込みなのかもしれない。
でも一つ言えることは
助けを求めていようが、助けを求めていまいが、
もしここに木田のじいちゃんが居れば必ず木田を救うだろう。
きっと一日中抱きしめて離さないだろう。
オレは母ちゃんにそうしてもらった。
オレには、そのやり方は出来ない。
だからオレはオレとしてお前を助けようと思う。
一歩二歩と近づき、さっきまで木田に寄り添っていた人物の全体像を確認する。
ジャケットのポケットのあたりには白い花が挿してあり
花からは「喪主」と書かれた白い布が垂れ下がっている。
この人は木田の親父だ。
さらに歩み寄ると木田の親父は目を丸くして、近づいてくる不審者に警戒するように胸を張る。
オレは懐に忍ばせておいた薄ピンク色の紙切れを取り出して、木田の親父の手元にそれを近づけた。
木田の親父はその紙切れのサイズ感や、時刻や場所が書かれたデザイン性からすぐにそれが何であるかを察したようだった。
オレが近づけた手元の方に目を落とした後、ゆっくりと視線をオレへと上げた。
雨音が異様な沈黙を作っている。
オレは木田の親父と目が合ったのを確認してから木田へと視線を向ける。
木田はこちらに気づいて歯を食いしばって息を殺す。
木田の親父は中々チケットを受け取ろうとしない。
だから、胸ポケットにスッと滑り込ませてやった。
オレが木田から買ったチケットは
木田の親父のもとへと移った。
オレができるのはここまでだ。
後は木田、お前がどんな択を通すかだ。
親子に背を向けてから傘をさす。
何も葬式の日にわざわざ降らなくていいものを。
こういう日を好んで神様はいたずらをする。
ライブ当日は雨が降らないといいがな。
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