◯
頂点まで上がりきった太陽の光が窓を突き破って入ってくる。
五月の熱くて柔らかい空気が教室に充満している。
床に反射した眩しさすら心地良い。
その気持ち良さを喚起するかのように教室の戸が開けられた。
毎度のことだ。
そそくさと入ってきてはサンドウィッチ二個と缶コーヒーを教壇に預けて颯爽と足を組む。
担任は昼休みにすら生徒を監視したいようだ。
チャイムが鳴ったとはいえ、さっきまで授業をしていた教師がまだ教室から掃けていないのにもかかわらず入ってくる。
すれ違い様に会釈などして。
担任に四限の授業がない日はそうしているのだろうな。
周りはチャイムと同時に机を寄せたり椅子の向きを変えたりわらわらと騒ぎだし教室がホコリっぽくなる。
「今日は一緒に食うだろ?」と隣の霜山が毎日のように誘ってくる。
そのすべて、オレには関係ない。
速やかに『昼休みの教室』という名の亜空間から脱出を図るだけだ。
チャイムが鳴る一分前からケツを浮かせて、鳴った瞬間リレーのバトンでも受け取ったかのように弁当箱を持って駆け出す。
校舎裏にある階段に腰掛けて、デカい木の影の下で誰にも気づかれずに腹を満たす。
それがオレの昼休みだ。
誰にも邪魔させない。
しかし今日ばかりはこのルーティンから外れる。
昨日伊佐奈から木田のことを聞いた。
木田のあのギターはじいちゃんから買ってもらったもので思い入れがある。
あいつのギターに対する思いは特別だ。
問題はなぜそれを歌川に言わないのかだ。
父親に反対されていることもずっと黙っていたわけだが。
抱えているものを全て吐けば楽になるものを木田はなぜ溜め込んでしまうのか。
オレには分からない。
そしてなぜ、歌川に言わないものを伊佐奈には言ったのか。
木田のギターに対する思いはおそらくメンバーは知らない。
知っていれば歌川がなぜギターを変えないのかと木田に詰め寄った時点で歌川に伝えるだろう。
メンバーが知らないことを伊佐奈は知っていたことになる。
木田と伊佐奈はどういう関係なのか。
木田にとっては全てを吐き出せる特別な相手なのだろうか。
木田に進路を変えさせるためにはギターに対する熱を爆発させてやる必要がある。
そのための鍵は木田と木田のじいちゃんとの関係性だ。
もし伊佐奈に木田とじいちゃんの関係性を語ってもらえるのなら話は早い。
知らないにしても伊佐奈が問い詰めれば木田は吐くかもしれない。
だから弁当一つ抱えてわざわざ一年の階に来たわけだ。
しかし迂闊だった。
伊佐奈が何組か聞くのを忘れていた。
とにかく手当たり次第クラスのドアを開けて入り口に一番近いやつに、うつろな目をした伊佐奈という女を知らないかと聞いて回った。
当たりを引いたのは5組。
クラスのやつに訊くまでもなくドアを開けた瞬間にスッと目に入ってきた。
教室の中央の席にポツンと座っていた。
まるでプールに一滴、油でも落としたかのように。
孤立して完全に一人だけ浮いている。
周りがはしゃいでできた波は伊佐奈には届かない。
壁がある。
教科書とノートを机に広げてうつむいたまま右を見たり左を見たり忙しくペンを走らせている。
受験を乗り越えたばかりの一年が昼休みにすることではない。
近づいてみるといよいよ見た目とやっていることが合っていない。
バッチリ決まったショートヘアはもみあげ部分がシュルッと長くてアゴのラインに沿って少し内側になびいている。
淡い桜色をした細長い爪は、ペンが持ちにくそうだ。
華やかでどこか影のある雰囲気を観察しながらぬるりと机の前にたどり着くと、伊佐奈は人影に気付いてピタッとペンを止めた。
猫背が段々伸びていき、うつむいていた首を持ち上げる。
「あっ」
いつも困ったように垂らしている眉毛を釣り上げて、口を半分開けている。
片手に持った弁当箱をホイホイと揺さぶりながら尋ねる。
「お前、メシ食ったか?」
すると伊佐奈の顔は溶けるようにほんわりほころんだ。
ショートケーキを一口食べた時のあの笑顔だ。
「お昼、まだですけど?」
◯
「結局カツカレーなんですよね。」
いただきますの代わりにそう言って嬉しそうにお気に入りを頬張始める。
そんな小動物を横目にオレは弁当のフタを開けた。
小動物は小さくモグモグしながら不思議そうにこちらを見ている。
「怒られますよ?」
食堂には来たことすらなかったが食堂で弁当を食ってはいけないルールでもあるのだろうか。
いや、そんなものは無い。
学内の食堂は非営利団体だと聞いている。
ならば食堂で売られている物以外を食堂で食べようと問題はないはずだ。
知らんけど。
一口二口冷たい卵焼きと冷たい米を味わいながら初めて来た食堂を眺めてみた。
一見さほど教室と変わらないように感じるがよく観察すると食堂は殺伐としたトゲが少ないように思える。
一人で居ても視線の集中砲火を浴びることは無さそうだ。
伊佐奈は毎日ここに来ているらしい。
今こうしてカレーに勤しんでいる姿と、教室でペンを走らせている姿はひどく対照的に見える。
こいつは明らかにクラスで一人だった。
今日はたまたま金を忘れて空腹をごまかす為に勉強をしていたそうだが、
ごまかしていたのは空腹だけなのだろうか。
「お弁当いいですね。」
この問いかけはオレの目をジッと見つめて言ってくるパターンだろうと思い警戒しながら横を見ると、
スプーンを止めて遠い目で弁当を眺めていた。
昔の写真でも見ているかのように少し目を細めながら。
「食うか?」
そう訊くと伊佐奈は不意をつかれたようにピクッとなって弁当から目を逸らした。
ぴょんと体を浮かせて尻を撫でるように両手でスカートを直しながら居住まいを正す。
何となくだが、今日はオレがペースを握っているような気がする。
顔を近づけてもう一度問いただしてやった。
「弁当食うか?」
月が満ちたように、うつろな目が大きくまん丸と開いた。
すぼめた首は薄っすらと赤らんでいる。
しばらく目を合わせていると、のったりとした弱々しい声が漏れてきた。
「欲しい...です。」
眉毛のへたり具合から察するに本当に困っていそうだ。
仕方ない、くれてやろう。
弁当箱を差し出すと子猫の首根っこを掴むように慎重に卵焼きを指でつまむ伊佐奈。
申し訳なさそうに小さくなりながら上目遣いで確認をとってくる。
本当に食べていいんですか? と。
なんだろう。
初めて後輩らしいを疑問形を投げかけられた気がする。
いいだろう。食べたまえ。
一段上がった所から縮こまった後輩に弁当マウントを取っていると後ろの方でキラッと何かが光り、即座にオレのセンサーが反応した。
間違いない。
光ったのはオレの探していた金髪だ。
今あいつはカウンターで食堂のおばちゃんと話し込んでいる。
爽やかな風を吹かせて今日のおススメでも聞いているのだろう。
遠くからでも雰囲気の良さが伝わってくる。
オレの視線が自分から他に移ったことを認識した伊佐奈は卵焼きをモグモグしながオレの視線の方へと振り向いた。
メシを奢ることを条件に木田からじいちゃんの入院してる病院を聞き出してほしい、そういうことで伊佐奈を食堂まで連れてきた。
田々木から聞いた話では木田は毎日一人で食堂に来ては最速でメシを食い、最速で部室に来て練習するとのこと。
田々木達は直接部室でメシを食うらしいが、どうやら木田も伊佐奈と同じく弁当持ってこない主義のようだ。
伊佐奈のクラスを探すのに手間取ってもう木田は部室行ってしまったかと思ったが、随分と遅い昼飯じゃねーかヘタレ野郎。
絶対にお前が抱えている熱を全部ぶちまけさせてやる。
◯
伊佐奈は嬉しそうに木田を見上げる。
木田は七福神のようなハニカミで伊佐奈を見下ろしている。
高身長と低身長が立って向き合っているわけだが、その距離は実に近い。
伊佐奈のアゴが木田の溝落ちに入り込んでしまいそうだ。
やはり二人からは先輩後輩の枠を越えた何かを感じる。
その予感はすぐに的中した。
木田が伊佐奈の頭を撫でた。
「メシはいいのか?」
「はい。食べました。」
その直後、撫でた。
「じゃあまた部室でな」
「はい。」
そして二回目の“撫で”
会話はあくまでオレの勝手なアフレコだが別れ際のやりとりを見るに遠く外れているということは無さそうだ。
メシを食い終わった木田は早足で食堂を出て行く。
姿が見えなくなるまで見送る伊佐奈。
一仕事終えてこちらに帰ってくる伊佐奈はふふーんと鼻息を鳴らして満足気かつドヤ顔だ。
「学校から七駅離れた『やまと病院』ですって」
伊佐奈にはすんなり教えるんだな。
こんなに簡単にいくとは思っていなかった。
入部して二ヶ月足らずの伊佐奈が木田の懐に入り込めるのは二人の相性の良さが起因しているのだろうか。
それとも瞳術の力か。
さっきまでマウントを取っていたはずが今は逆に見上げるようにしてボケっと伊佐奈を見ている。
「何て病院ですか?って聞いたら普通に教えてくれましたよ。」
聞いてもいないのに欲しい答えが返ってきた。
オレはそんなに不思議そうな顔をしていたのだろうか。
それともやはりコイツは人の心が読めるのだろうか。
何にしても木田のじいちゃんの居場所は分かった。
礼は言わなくては。
「お前木田と仲いいんだな」
思ってもいない言葉が自分から出てきた。
いや、正確に言えば思ってはいたが。
「木田先輩、好きですよ。」
「軽い人ですけど話易いし。」
「入部したての私に一番最初に話し掛けてくれたのが木田先輩でした。」
言った後、伊佐奈は何かを察したように真顔だ。
そして一歩オレに体を寄せて口だけ笑う。
首を横に傾けて覗き見るような上目遣いだ。
この笑顔はどこかで見たことがある。
天使のような悪魔の微笑みだ。
「木田先輩と付き合ってると思いますか?」
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