「ふんふーん……」
マーサ家で朝食をいただいた後、俺は再び桟橋に来ていた。ちなみに今朝はパンとヨーグルトだった。
「こいつを針に引っ掻けて……と」
ケースからミミズよりも短い奇妙な虫を針の先にくくりつけた。マーサ父から釣竿と餌を借りたのだ。使い方も教わり、怖いものなしである。
コーディアはアンナに連れられてどこかへ行ってしまった。
──まあ、釣りをするなら一人で静かな方が良いのだが。
「そいっ」
初めてだから、とりあえず桟橋の真下に垂らしてみた。
ネロに驚かされ、落ちかけた時に見えたが、そこそこ魚はいた。初心者の俺でも一匹ぐらいは釣れるのではないか。
そんなこんなで待つこと数分。ぼーっと、水平線の向こう側を見つめ続ける俺の感情と思考は消えていた。
ただ、そこに居るだけの存在。感覚が鋭敏になり、微かな揺れをも感じとる。
「む……」
竿の先がぴくんと揺れた。ウキに目をやると揺れている。平常心を保ち、待ち構えているとウキが沈んだ。
リールを巻き、魚との格闘が始まる。座っていては海に引き込まれかねないので立ち上がって両足で踏ん張る。
どうやら、海の中で相当暴れているらしく、リールが重い。ハンドルを強く握って本気で巻きにかかる。
「なめ……る、なよおッ!」
ありったけの力を込めて引っ張る。歯を食い縛り、ハンドルを回す。次第に魚影が上がってきた。
だいたい五十センチ程度だろうか。初心者にしては大きなサイズだろう。
頬を汗が伝う。奴との闘いにも終止符を打つときが来たようだ。
「初ヒットに加え、初勝利ッ!」
網で魚を掬い上げる。ビチビチと暴れ、海水を撒き散らす。しっかりと陸上まで上げるとおとなしくなった。
水色の派手な魚。目は大きく、背鰭が刀のように尖っている。簡単に指が切れてしまいそうな鋭さだ。
口の中は歯が生えていて、それが二層構造になっている。これまた尖った歯で、噛まれたら指を千切られること間違いなしだ。
「ほら、海に帰りな」
うっかり噛まれないように針を外し、海に投げ返す。大きな飛沫を上げて奴は帰っていった。
「凄いじゃないか」
パチパチと拍手の音がした。
「アンナさん、どこ行って──!?」
針に餌を付け直しながら振り返ると、そこには驚くべきものがあった。
「どうだ? 似合うかな?」
「な、なななんで水着なんて着てるんですか!」
アンナは水玉模様のビキニを着ていた。白い肌が童貞の俺には眩しすぎる。
視線のやり場に困り、キョロキョロしているとアンナの足の間にコーディアがいるのに気がついた。
「まさか、コーディアも?」
「その通り」
おずおずと出てきたコーディア。顔を下に向けて頬を赤らめている。
こちらは上下セットのもので、腹部が露出している。柔らかそうな毛皮に包まれた腹、触れてみたい。
そう思っても口には出せなかった。
「どうだね、似合っているかな?」
「え? ああ、いいんじゃないですか?」
「なんだ、反応が薄いな。──ははーん、照れているんだな?」
背を向け、竿を振る。今度は遠くまで飛ばしてみる。
「図星か。肌の一つや二つ、照れるものでは無いだろう。特に胸なんてただの脂肪の塊だぞ? 重くて戦いの邪魔だ」
「まあ、価値観は人それぞれなので口出しはしませんけど。世の中には胸が無くて困ってる人もいるんですよ」
竿を片手に振り向いてビシッ、と言う。最初は呆気にとられていたアンナだが、吹き出した。
「面白いことを言うじゃないか! 笑わせてくれた礼に胸を揉ませてやろうか?」
腕を胸の下で組んで胸を強調する。確かに魅力的だが罠かもしれない。
俺は疑い深いのだ。そのため誰かに騙されるというマヌケな行為は幼少期にしかない。
「遠慮します。下手に触って後から掘り返されたらたまったもんじゃありませんから。それと、女性が安易にそういう事を言うのはよろしく無いかと」
「ユウスケ! 引いてる!」
「──え?」
熱弁に夢中になりすぎて魚がかかった事に気づかなかった。逃げようとする魚に引かれ、竿ごと海に持っていかれる。アンナが手を伸ばしたが、間に合わなかった。
ドボン、と背面ダイブをきめた。糸は切れてしまったようで、もう引力は無くなっていた。
海底を蹴って浮き上がる。顔を出すと、アンナがうつ伏せになって手を伸ばしてくれていた。そのせいで潰れた胸に目が行ったのは内緒だ。
その手を掴んでよじ登る。
「あ、ありがとうございました……」
「私がからかったせいでもあるしな、気にするな」
「で、その水着どうしたんですか」
「店に置いてあったのを買おうとしたんだが、無料でくれた。ついでにユウスケのもあるぞ。ちょうどよく濡れた事だし、着替えておいで」
「えぇ……しばらくしたら乾きますよ。俺は釣りしてますから、二人で泳いでてください」
「つれないことを言うな。コーディアだって待ってるぞ?」
「……コーディア使うのは反則ですよ」
絶対に脱がないという意思を見せつけるとアンナが溜息をついた。諦めたかと思ったら、コーディアが濡れたズボンに触れた。
「お願い」
頑なに着替えようとしない俺に、コーディアという名のミサイルが撃ち込まれた。『絶対』という防壁は崩れ去った。
「……仕方ねぇなあ」
「ほら、これがユウスケのだ」
ニヤニヤと笑いを隠せないアンナ。嵌められたと気づいたのはこの時だった。剣のマークが右の太股に描かれているトランクスタイプの水着だ。
二人から遠く離れた小屋の裏で着替え始める。十数秒で仕度。
濡れた服は乾かしておけばいいのだが、浸かったのは海水だ。
ちゃんと水で洗わなければ衣類が傷んで着れなくなってしまう──と思う。井戸の側にあるバケツを拝借して水を汲む。
「洗剤があればなあ」
無い物ねだりしても仕方がないので全て突っ込む。適当にもみ洗いをして終わり。きつく絞って水分を出す。
借りている小屋の窓枠にぶら下げて完成。
「果たしてこれでいいものか……」
物干し竿があれば、と思ったが乾く、思うようにした。
「ついでに竿を返してこよう」
マーサ家に戻り、彼女の父に竿を返却する。
「どうだい、何か釣れたかな?」
「大きめの魚を一匹ですかね。楽しかったです」
「それは良かった。使いたくなったらまた言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
お辞儀をして二人の待つ桟橋へ向かう。あちらに着くと、二人は既に海に入っていた。ぱしゃぱしゃと水を散らしながら楽しそうにしている。
「ただいま戻りました」
「気持ちいいぞ、ユウスケも来い!」
「いやぁ、俺は見てるだけで十分ですよ」
膝を曲げて桟橋から見下ろす。アンナでもこの高さは届かないだろうとたかを括っていた。
「コーディア!」
コーディアがアンナの肩によじ登った。
「しまっ──!!」
気づいた時にはもう遅かった。ウサギ特有の跳躍力で俺の頭を飛び越して背後に着地。
避ける暇もなく蹴られて本日二度目のダイブ。コーディアもダイブ。二つの飛沫が上がる。
「……で、ここで何するんですか?」
「特に無いぞ。自由に遊べばいい」
「そうですか……それじゃあ、ちょっと泳いできます」
「気を付けるんだぞ」
平泳ぎで崖の方へ泳ぐ。水泳はあまり得意ではないが、まあどうにかなるだろう。アンナとコーディアの楽しそうな笑い声が遠くなる。
波に揉まれながら崖近くまでやって来た。この辺りから浅くなってきていて、足がついた。
海草で足を滑らせないように慎重に歩く。完全に水から上がると目の前は巨大な洞窟だった。
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