「あのさ、一つ相談があるんだけど」
夕焼けの橙色で染め上がる帰り路。
桃香は僕との会話の合間を縫って、すこし気後れしたようにそう切り出した。
「相談?」
「うん」こくりと頷いてから、桃香は長く伸びる僕たちの影を見つめた。 「私自身、あんまり変なことだって分かってるから、恥ずかしいんだけど……。 笑わないで、真剣に聞いてくれる?」
桃香とは小学生からの馴染みであるけれど、こんなに切実に訴えかけるような姿を見るのは初めてだった。 頻りに黒いフレームの眼鏡をいじっているのが、彼女の内に巣食う不安を物語っている。
よほど深刻な問題らしい。
僕は頼られる嬉しさに心を踊らせるが、果たして僕で頼りになるのだろうかという緊張から背筋を伸ばした。
「もちろん、真剣に聞く。 何でも言ってよ」
徒歩通学で、桃香の自宅まで歩いて二十分ほど。 校舎からこっち既に半分まで来ているから、場合によっては話が尻切れトンボになるかもしれないが……。
桃香は眼鏡から離した指をキュッと握り込んだ。
「実はね、私の夢に、男の人が現れるの」
僕が言葉に詰まったのは、桃香の憂いとは裏腹に、相談内容が至極あっさりしていて戸惑ったからだ。
「桃香の夢に? どんな男が?」
「全身がね、灰色なの。 その人はいつも私に大きな手を伸ばして襲われそうになって……かと思いきやぷつりと夢が終わっちゃうんだ。 今朝もその夢を見て起きてさ、もうすっごく怖かった。 心臓がばくばくしてさ、いま思い出すだけで嫌になっちゃうくらい」
「そんな酷い夢、あるんだ」僕は自然と顰め面になった。 「今朝もってことは、過去にも何度か見てるってことだよね?」
「そう。 最初は夢の出来事だし気にしなかったんだけど、だんだんおかしいなって思い始めて」
交差点の赤信号で立ち止まり、緩慢な車の往来を眺めながら、桃香が不貞腐れたように続ける。
「お母さんにも相談したけど、夢の話でしょって笑われちゃったんだ。 本当に私は見てるのに。 この目で」その瞳が僕に向けられる。 「……念のためもういっかい訊くけど、暁は信じてくれるよね」
「もちろん。 言ったように、僕は真剣に話を聞くし桃香を疑うことはしない。 ──灰色男の他に、誰かいるの?」
「多分、いないと思う。 男が一人だけ私の前に立ってるの」
歩行者信号の赤を見上げながら、桃香は「いや」と眉間にしわを寄せた。 もうすぐ信号が変わりそうだ。
「……他に、いたかもしれない。 絶対、って確証はないけど」
「仮にいたとしよう。 それは男? 女?」
「うーん、ごめん。 そこまでは」
信号がぱっと青に変わった。 桃香は再び視線を足元に落としながら、僕は前を見据えながら、横断歩道を渡る。 六月にしては天候が崩れる日も少なく、比較的過ごしやすい毎日だ。
僕は夢の事象に際し、掘り下げるべきはやはり灰色男だろうと方針を固めた。
「男の人、背丈はどのくらい」
「私よりおっきいよ。 といっても私の視点は幼い子供くらいだから、男が大人なのかは分かんない。 ほら、小さいときって例えば六年生でもみんな大人っぽく見えたでしょう」
「ああ、たしかに。 中学生になってみると六年生って子供だけどね」
「ま、私たちも大人からすれば子供なんだろうけど」
僕は相槌を打ちながら、改めて、大人になることについて思考を走らせかけた。 担任の言葉を借りて桃香に問いかけてみるのも、徒に話が脱線するだけだ。
「とかく話を聞いた限りで分かっているのは、桃香の夢に出てくるのは灰色をした背丈の高い男ってことかな。 大人かどうかは定かではなくて、ひょっとしたら他にも誰かがいるかもしれない」
「そうそう。 はあ、暁に相談してよかったあ。 お母さんより安心感が違うもん」
「そりゃあ──」
──桃香の支えになりたいんだし。
とはさすがに言えなくてごくんと呑み込んだ。 正義感と恋心は別物だが、口惜しさに心臓が軽く締め付けられて痛くなった。
僕は不意に言葉を切ったことが怪しまれないよう、咳払いをしておく。
「大人には、分からないよ。 子供の悩みなんて。 僕たちが本気で悩んでも、こと非現実な中身だったら冗談の範疇で片付けちゃうんだもん。 参っちゃうよな」
「あははっ。 暁も中学生らしい悩み持ってるんだ」
「当たり前だろう」
桃香を擁護したつもりが、逆に僕の悩みだと受け取られてしまったらしい。 まあいい。 それで悩んでいるのは確かなのだから。
桃香の自宅まで信号は残り二つ。 その間にある程度の情報は得ておきたいけれど、桃香は脱線した話の方を続けた。
「暁は、大人になりたい?」
レンズ越し、きらりと輝く桃香の瞳は興味津々だった。 僕の脳裏を担任の言葉──みんなも大人になりましょう──が過ぎる。
「進んでなりたいとは思わないよ。 なんか、大人が見る世界ってつまらなさそうじゃん。 面白いって思えること、少なそうで。 桃香も、大人になりたくないって思わないのか? 夢の話、否定されたんだし」
「んー……そうね。 ただ、大人になるってつまらないことかもしれないけど、大人にしかできないこともあるじゃん」
「車の運転とか、好きな物を買うとか?」
「とかとか。 謂わば自由になれるんだよ」
「自由と放任は表裏一体って聞いたことあるけど。 寧ろ学生のうちに色々やっておけって言われるのはさ、つまり、僕たちの歳頃が自由な証じゃないかな」
「うわ、哲学みたいな話は苦手! 要は、本人の赴くままに足枷のない生き方ができる──こう考えれば気楽だよ」
また、赤信号に引っかかった。 いつもの経験から言えば、あと一つの信号も抜かりなく待ったを喰らうだろう。 そのぶん桃香といられる時間が増えて、僕は嬉しいのだけれど。
「足枷のない生き方、か。 そうだね」腑に落ちたとまではいかないが、そういうことにしておく。 「てことは、桃香は大人になりたいってわけか」
「大人にしかできないことが、子供にしかできないことを上回るならなりたいかな。 ま、暁と同じで進んでなりたいとも思わないけど。 年齢の嵩ねには抗えないし」
「それこそ哲学っぽいな」僕は苦笑し、「どちらにせよ、僕たちは今すぐに答えが出せないんだ。 保留だ、保留」
「多分、明日になったら忘れてそう」
桃香が軽く笑うのに倣って、僕も笑い返した。
だけど寝て起きたら忘れられるほど、簡単な悩みでないことは理解していた。
それから青に変わった横断歩道を渡り、僕はようやっと話題を本題へシフトチェンジさせることができた。
「明日には忘れてしまう問題より、明日以降も続いていく問題──桃香の夢の謎を解き明かさないとね」
「解決できるかな。 ちょっと心配になってきた」
「きっと大丈夫だよ。 他にも埋められる疑問が残ってるかもしれないし。 ……あ、ほら、夢の中の景色とか! 男と桃香はどんな場所にいるんだ」
「えっと、あれはどこなんだろう。 何かの建物の中ではあるんだけど」
「桃香の家?」
「ううん。 違う。 私の家じゃ、ない。 全然身に覚えのない場所な気がする」
こめかみを人差し指で突きながら、桃香が険しい表情を作った。 真剣に夢の情景を描こうとしているのだから、僕は邪魔できなかった。 桃香が思考を働かせている横で、僕は他に探れる情報はないだろうかと思案する。
もうすぐ最後の信号に差し掛かろうとしていた。 ああやっぱり、歩行者信号が予想通り点滅を始める。
「灰色の男……見知らぬ場所……」
桃香は眼鏡を外し、疲弊した頭をほぐすためか眉間を揉んでいた。 それからふっと息を吐いて、藍色の成分が混じり入る空を仰ぐ。 僕らの帰路を辿る足は止まらない。
「ひょっとして、今日も同じ夢見ちゃうのかな」
「不安にならなくても大丈夫だよ」僕は殊更に明るく言った。 「立て続けに見るってわけじゃないんだろう」
「そうなんだけどさ。 不安にはなるよ。 今度こそ私、襲われちゃうんじゃないかって」
僕はと胸を衝かれ、ようやく、桃香が抱える不安の本質を垣間見た。 同時に、勘の鈍い自分を嫌いになりそうになった。
なにも、灰色の男だけが怖いのではない。 毎度途切れてしまう悪夢──その続きが展開されてしまうことに、恐れをなしているのだ。 寸前まで伸びる男の手が、いつ、自分に危害を負すのか。
「桃香っ!」
「────ぇ」
僕は慌てて桃香の腕を掴んで引き寄せた。 驚いてこちらを振り向いた彼女のすぐ背後を、大型のトラックが勢い良く走り去る。 遅れてやって来た突風が、互いの髪を激しく揺らした。
僕が、守らないと桃香は──。
薙ぎ払われた雑音が息を吹き返して戻ってくると、桃香は呆然とした瞳を眼鏡の向こうに隠し、咲いた花が萎れるように頭を垂れさせた。
「ご、ごめん、てっきり」
「僕の方こそ、ごめん」
桃香の腕を解放するも、申し訳なさと大胆な行動に対する羞恥が喉に詰まってしまって、続けるべき言葉が出なかった。 ようやく会話を再開させられたのは、信号が青に変わってからだった。 短い横断歩道を渡って三十メートル先、桃香の自宅がすぐそこにある。
「……あのさ、明日、桃香の家に行ってもいいかな」
「明日? いいよ、特に用事もないし。 もしかして、夢のことで?」
「うん。 一秒でも早く、桃香の不安を失くしたいんだ」
「…………」
「えっ、僕、変なこと言った?」
「ううん」
首を振る桃香の両頬が赤く染まっている気がした。 おかしいな、夕陽は逆光のはずなんだけど。
「ありがとう。 明日、楽しみにしてる。 朝から来てくれていいんだよ」
「朝からはさすがに迷惑でしょ」
「迷惑なわけない。 なんだったらお昼一緒に食べよ。 ね、そうしよう」
「桃香がそこまで言うなら」
桃香を守りたい堅強な想いとは裏腹に、押しに弱い僕なのである。
明日の約束を取り付けた別れ際、玄関から回覧板を片手に出てきた白シャツの女性──桃香の母親である朱香さんと挨拶を交わし、僕は一人の帰路を歩いた。 といっても、桃香の家から四軒ほどしか離れていないのだけれど。
自宅までの道すがら、思案する。
桃香は今日、安心して眠れるだろうか。
僕に悩みを打ち明けたのだ。 少しくらい幸せな夢を──。
「…………?」
気のせいだったろうか。
今、視界の端に、灰色のコートが翻るのが見えた。 その動きはまるで僕の姿を視認してから路地裏へ隠れたようであり、得体の知れなさにぞわりと肌が粟立った。
僕の家は目と鼻の先だ。 灰色コートの誰かは物陰にひっそり佇んで、僕を待ち構えていやしないだろうか。
方々から夕餉の香りが漂い、それが僕の胸裡で膨らむ不信感と噛み合わず、気味が悪かった。 日頃から閑静な住宅街は、脅威に晒されない安堵と誰とも行き交わない心許なさを内包しているのだと、遅ればせながら思い知った。
僕は深呼吸して、大きく息を呑んでから勢い良く地面を蹴った。 逃げる一心が勝り、路地の陰に一瞥を寄越す余裕はなかった。
灰色のコート。 桃香の夢。 網膜にちらつく高い上背──。
玄関先まで駆けて背後を振り返ったとき、誰かの気配はもう感じられなかった。 あのまま姿を晦《くら》ましたのか、はたまた追うことを諦めたのか。 あるいは……。
とまれ僕は杞憂に胸を撫で下ろし、しかし油断することなく家に入った。 しっかり鍵も掛けておく。 ガチャンという音が妙に鼓膜に馴染んだ。
ただいま、と放った唇が自分でも驚くほど震えていたのは、予想外だったけれど。
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