ひそひそと大人たちが交わす囁きが、夏の夕闇に溶け込んでいく。
死の床についているひとの傍らで死期について話すような、ひそやかで、単調で、沈鬱な囁きだった。
盛夏の草いきれを払いながら、不吉な影が小さな村を覆いつくしていく。ぽつぽつと降りだした雨粒が、あっという間に井戸端の広場を湿らせた。夕立だ。母親たちは、幼子の手を引きながら自宅へ走る。ガタン、ゴトリと引き戸に閂をかける物音は、強まる雨足にかき消された。
「来たぞ!」
切迫した父の無声音に仮眠をとっていた土間で飛び起きると、僕はすぐに妹たちを隠れ場所へと導いた。物置前で靖子に抱かれた弟がぐずり出し、ひやひやしてあやしていると、母が靖子の手から弟を取り上げて言った。
「靖子。妹たちを連れて隠れておいで。……この子は、母さんが面倒みるから」
「母さん、でも ── 」
「いいから、早く!」
言うが早いか、娘たちを物置へと追い立て、カタリと隠し扉を落とすと、その戸板に手を当てて顔を寄せた。
「いいかい、よく聞くんだよ。……お前たちは、絶対にそこから出てはいけない。声を出してもだめ。…… もし何かあっても、父さんと母さん、兄さんならなんとかできるから。だけど、お前たちが姿を見せたら、弱みになってしまうんだ」
だから、物音を立てずに、そこにじっとしていなさい。そう言い聞かせると、雑貨を載せた竹かごで手早く出入り口をふさぎ、物置を閉ざした。そうして、母と僕は、父のいる玄関土間へと戻る。
「どこまで来てるの?」
「…… ああ、手前の道を左へ行った」
父の応えに、母は框の上でへにゃりと崩れ落ち、ほおっと安堵の息をこぼす。ほにゃあ、と弟がやわらかな泣き声をあげた。
父は、眦を和らげて、母に隠れ場所にこもるよう指示した。
「…… お前もこどもたちと一緒に朝まで隠れていてくれ。なにかあったら、総一を遣すから心配するな」
母は口を開いてなにか言いかけるが、結局、父の言葉に従った。己もまた、父の弱みになりかねないことを理解していたのだろう。
あああああ ────・・・
やめろおおぉ────・・・
静寂を渡って、悲壮な悲鳴が耳に届く。
はっとして見やると、「おそらく苑尾だろう」と、暗いつぶやきが返ってきた。
頭からすうっと血が引いていく。『私刑』の言葉が脳裏に浮かぶ。
──── そんな!
土間に置いていた竹刀を拾い上げる。
「どうするつもりだ」と鋭く問う声に、助けに行くのだと答えると、利き手を父が抑えた。
「…… あの家は、現地の連中を雇うて下働きをさせておったが、ひと月保つ者はおらなんだ。その意味は、分かるな」
ほのかに揺れるロウソクの炎が、父の顔に陰影を深く刻み込む。竹刀を抑える手がぐっと重みを増す。
「戦争に負けるというのは、そういうことぞ。帝国が強いから、現地の者らはわしらに逆らわんかった。……今は違う」
信じられない気持ちで見上げる。父の武道で鍛え上げた身体が、せりあがるような威圧を込めて目の前に立ちはだかっていた。僕はぐっと全身に力を込める。見捨てることなんか、できっこない!
「父さんは。父さんは、苑尾が殺られるのを黙って許すのか……っ。仲間がいま──っ」
「──── 黙れっ!」
気付けば、父の手で土間に伏せられていた。じゃりり、と小石が頬にめり込む。その姿勢のまま、存外、静かな声音で父の問いが降ってきた。
「お前は昼間、何をしていた」
「なにって、隠し扉を ……」 言いかけてハッとする。── 悲鳴が早すぎた。備えていなかったのか?
父は僕の身体を支え、座るように促される。ストンと土間に腰を下ろした。
「…… 苑尾は、備えなぞ要らぬと言うた。わしが散々に促しても、鼻で嗤うておった。あいつらに何ができるかと。その上、……もしも『来た』としても、返り討ちにしてやるわというて、その場におった現地の用務員を殴りつけた」
「そんな ……」
「総一、よく覚えておけ」と父は言った。
勝ち馬に乗っておるときほど、転げ落ちたときを想像するんだ。
勝ったやつが偉いんだ。なにをしようと、勝ち組こそが正義になる。……その時はな。
なれば、負けた途端、真っ先に石を投げられるような行いはするな、いいな。
父に諭されたあの夏の夜も、もうずいぶん遠くなった。
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