タイムズ

時代を超えて響き合うショート連作
柚子シトラス
柚子シトラス

第六話 惜夏・上

公開日時: 2023年1月8日(日) 18:00
文字数:1,158

 一九四五年八月、敗戦の報を聞いたとき、僕は満州にいた。

 街中から少し外れた自然の多い居留地の一画が、父やその同僚家族に割り当てられていた。それぞれに庭のある一軒家で、数軒ごとに共同の井戸が備えられた、文化的な村だ。

 

 現地の学校で教鞭をとる父は、その日、早朝から学校に呼び出された。

 昼前に青い顔をして帰ってきた後、まず一番にしたことといえば、台所の奥の物入れに避難場所をこしらえることだった。

 

「母さんに手を出すやつはおらんと思うが……、靖子はもうすぐ九だったな」

 

 二つ下の妹、靖子を含めて僕には四人の弟妹がいた。一番下の弟は昨秋生まれたばかりで、母か靖子がいつもその背に背負っていた。

 弟妹たちをかくまうための隠し部屋をつくるのだという父の言葉に、僕は口を閉ざす。物置の埃っぽさには閉口だが、弟妹や母の安全に代えられるものではない。

 …… そう、僕たちは今や、敗国側の人間なのだ。

 父のいう『帝国臣民に恨みをもつ者たち』には、今ひとつピンとこなかったが、そのうちソ連兵だって南下してくるかもしれない。

 

 太平洋戦争当時、日本は朝鮮半島をすでに自領として併合し、中国東北部を満州国から租借して大陸に足場を築いていた。そしてその地に、大勢の日本人入植者を国策として送り込んだ。都市を建設し、港湾を整備し、鉄道を敷設して、大勢の日本人と現地住民が共存していた。

 …… 少なくとも僕たち家族は、そう思っていた。

 後で教わったことだが、東アジアに平和と安定の共栄圏をもたらさんとした日本帝国の戦いは、しかし、大国列強の思惑の中で孤立し、疲弊し、各戦線で擦りつぶされて、ついには本土にて市中爆撃を浴び、最終的に、あの全てを地獄に叩き落す狂気の爆弾を投下されるに至って、……敗戦を受け入れたのだった。

 

 自宅の改造は続く。

 物置の奥の壁を抜いて階段下とつなぎ、母と弟妹たちをかくまえるだけの空間をつくり、浅い位置に元の壁を置きなおして隠し扉とした。手前には雑多な台所用品、あまり使わない食器や布巾の端切れを、竹かごに積んで無造作に突っ込んでおいた。

 かわやの汲み取り口を改造し終えた父が、酷い悪臭を漂わせながらやってくる。隠れ場所からつながる、いざという時の脱出口を用意していたのだ。できれば使わせたくないが、上手い考えだ。

 

「 ……これでいいだろう。よくやった」


 物置に入り込んで隠し扉を検分した父が広い背中をすぼめて這い出てくると、一分刈りの僕の頭をぐりぐりと撫でた。こんな時ではあるが、弟妹を守るための最後の砦を作り上げた誇らしい気持ちに、僕はほっと頬を緩める。

 渋い顔で父の後ろに控えていた母が、濡らした手拭いを僕らに差し出した。散々に汗と汚れを拭ったそれを、仕上げに物置の隠し扉に下げておく。母の眉間が、危険な深度に達した。

 


 でも、これは仕方がないことなんだ、母さん!

 

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