タイムズ

時代を超えて響き合うショート連作
柚子シトラス
柚子シトラス

第一話 雌伏

公開日時: 2023年1月8日(日) 12:00
文字数:1,103

 深い飴色の天板の上、ラップトップは沈黙していた。

 そこここに散らばる仕損じのコピー用紙の裏には、独特の筆跡が流れるように踊っている。男はひと仕事終えた鉛筆をカロリところがすと、眼鏡を外して眉間をほぐした。その指先は、薄く鉛筆の墨に染まっている。

 

 進まない草稿案にため息をつき、気分を変えようと湯呑を手にとる。

 机の右隅に置かれた湯呑から熱量がうばわれて、どのくらいの時が経過しただろうか。掌に納まるごつごつとした造形の器である。湯呑として買い求めたものだが、最近は飲み物といえばこれひとつと、マルチに使いまわしていた。薄く茶渋がぐるりと輪になって残ってしまっているそれを片手であおり、熱も香りもとんだコーヒーを喉の奥にぐいと押しやった。

 

 家内がいた頃は茶渋のついた湯呑でコーヒーをのむことなどなかったな、と回顧する。

 フリーで物書きをする男の相棒であり、自らもキャリアを持っていた彼女とは、戦友のような仲だった。世に、仕事は家庭に持ち込まないという向きは少なくないだろうが、男とその妻はこれを大いに楽しんだ。互いの仕事を批評し合い、持論を述べ合い、時には侃侃諤諤かんかんがくがくと議論をたたかわせるのだ。

 

 楽しかった!

 

 時間を忘れて夢中になった。

 失われた時間はその輝きを増すばかりで、一向に色褪せることがない。あるいはもっと時が経てば……

 

 いや、とかぶりを振る。

「僕もこんな歳だ。先に逝っちまったあいつを、そう長く待たせることもないだろう」

 

 時代は、男を置き去りに早足で駆けていく。

 原稿はもとより、紙を使って考えをまとめるスタイルすら、孫娘に言わせれば、もう流行らないらしい。

 

 ふたを開いた瞬間にインターネットに接続される、エキサイティングなラップトップ。

 シームレスに視界に飛び込んでくる、電子書籍のスマートなタイトル。(軽やかな指先タッチで、あなたのアイディアを今すぐクリップ! 世界中の仲間たちとナレッジをシェアするエキサイティングな12の方法)

 視聴者を笑顔にし続けることを至上命題とする、ハートウォームなテレビ番組。

 共感や応援のハートが目まぐるしくやりとりされる、エモーショナルなネットワークコミュニケーション。

 

 一方で、相対する人間のむき身で生々しい本音を引き出し、不都合で不格好な現実を、社会に、そして読者に見せつける。そして時代を動かす。それこそが男の信条であった。

 

 書斎の窓を、一段と激しくたたきつける雨音が、年老いた男の耳を打つ。

(笑顔と共感を執拗に追及しつづける、クリーンで快適で持続可能な社会には、時代を鋭く切り裂くむき身の刃はもう必要ないのかもしれない、な)

 荒れる天に、鬱々と己の去就を思い悩む胸の内を映しみて、男は深く息を吐いた。

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