「神様っていると思う?」
ふ、と視界を陰らせたそんな声に花坂光が顔を上げると、自分に傘が差し出されていることに気が付いた。まだそれでもぽたぽたと髪先から雨水を滴らせる光は、自分の目の前にいる男に、自分に話しかけてきたこの男に、見覚えはない。
「……どちら様ですか」
「こんな大ぶりの中傘もささずに道の端でうずくまっている少年を見かねた通りすがりの一般人だよ」
そう男は笑い、黒くて長い髪が揺れる。こんなに髪を伸ばすのは大変だったろうな、と場違いなことを光は思う。
「それはどうも……」
視線を下げざまに、ぎょ、と目を見開く。男の足元が目も覚めるような真っ赤なハイヒールだったからだ。え、もしかして女? 慌てて顔を上げると、当の本人はくすくすと笑っている。
「なに、私は男だよ。これはなんというか、趣味の一環だ」
雨の水滴をたくさん飾ったハイヒールでコンクリートをこんこんと軽く叩く仕草。不思議な人だな、と光が感じたと同時に、もしかしてまずい人に絡まれたかな、と寒気もする。
「それで少年、傘に入れてやった礼と言ってはなんだけれど、先の質問に答えてくれる?」
「は?」
「神様っていると思う?」
片や座り片や立ち、ふたりビニール傘の中に入るには狭いのか男は少し距離が近い。慣れない薬品のような匂いがつんと鼻をついて顔をしかめそうになる。いったい何者なのだろう。怪しいスカウトとかじゃないよな?
「神様、ですか」
「そう。たとえば君にとって」
神様、ともう一度舌の上で言葉を転がす。光には特定のなにか宗教があるわけでもないし、心の安寧を委ねられるところもすっかり失った。そうでなければ、この京都歌舞伎町なんて治安の悪い街の裏道で座り込んでなんかいないわけで。
「いませんよ、神様なんて。誰も助けちゃくれません」
「そうかな」
「僕はつい最近、なにに代えても自分を助けてくれると思い込んでいた場所を失ったばかりなのでそう思います」
「それは、気の毒だったね」
トーンの柔らかくなった男の声、傷心気味だった光には些か沁みてしまう。この男はなんの素性も知らない相手なのに。
そもそも、そんな相手にどうして俺は自分のことを喋ったりしたんだ?
「君は今、一人なの?」
「この有様ですし」
「このあたりには家出少年が徒党を組んでいたり、自警団を名乗る連中が集まっていたりするけれど、君はそういうところには行かないの?」
「どうせどこに行っても僕の存在なんて許されません」
「そんなこと」
「あるんですよ。親にだって許されなかった僕が、これ以上どこに行けって言うんですか」
異能力、というこの世界における特異体質が光に顕現したのはつい数日前のことで、これまで光を大切に育ててきた両親は、そのことにひどい拒否反応を示した。まさか自分の息子が「そんなこと」に……随分と軽蔑的である……なると思わなかったらしい。曰く、真っ当に大人になって真っ当に稼いで家庭を持って、幸せになってほしかったのに。「そんなもの」があっては幸せになんてなれるはずない。「そんなもの」を持っていることは許されない。両親が散々浴びせてきた罵倒の文句はそんな具合だった。
光には理解出来なかった、両親が光を「許さない」と言ったことに。
何故他者を「許さない」なんて、「許せない」なんて思うんだ?
すぐに家出よろしく飛び出して、あてもなく彷徨い、異能を持つ者が迫害を受けないというこの街にやって来たのだが。
「異能を持っているんだよね」
ば、とつい顔を上げる。どこでそれを、と尋ねる前に
「なに、さっき良からぬ輩に絡まれていただろう? それをさらっと撃退したのをたまたま見ていたんだ」
見ない顔である光がそういう連中に目を付けられるのはある種当然の流れで、しかし相手の精神状態に干渉できる異能を持つ光はそうやって相手の戦意を削いで今までなんとか凌いできた。
「見てたなら助けてくださいよ、大人なんでしょう」
「だから助けに来たじゃないか」
「傘を渡しに?」
「神様でありに来た」
「はあ?」
間抜けな声が出る。言ってから、失礼な態度だったな、と思ったが男は気にしていないらしい。寧ろ気を良くしたかのようににこにこと笑顔を浮かべている。
「異能力者である君の神であることを私は約束する。君だけじゃない、全世界の異能力者にとっての神であると、私は今ここに誓おう。全ての異能力者が幸福であれるよう全力を注ぐと、誓う」
壮大な話に現実味を感じられないでいながら光は、かっかと身体が火照るのを無視できないでいた。雨で身体が冷えたから? 否、もっと内的に。
この人は、すべてを「許す」。
「君のことも幸福にする、絶対に。私を信じて」
男はしゃがみこみ、視線の高さを合わせる。眼鏡の奥の碧がかった瞳は優しく細められ、包容するように光を見つめる。ああ、これは他者からの優しさ。鼻の奥がつんとなる。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「勿論」
「世の中に、存在することが許されない人間はいますか」
異能力者も含めて、と付け加える。男は柔和な笑みを絶やさないまま、髪先が地面に触れるのも気にせず、首を横に振る。
「いないよ。誰にも存在を否定する権利は無い」
その瞬間、感じたのは心の底からの安堵。そして生まれてしまったのは絶対的な信頼。光はこう言ってもらえることを望んでいたのかもしれない。本当は両親に言ってもらいたかたのかもしれないけれど、良かった、この男にこそ言ってほしかった気もした。
「雨と傘の中で聴く声は特別なんだ。もしそう感じてくれたら、私の言葉を信じてくれたら、一緒に来てくれないか」
男は手を差し伸べる。雨に濡れた大きな手。光はもっとびしょびしょになった手で迷わずその手を取った。どちらの手も冷たかった。
男のことをどうしようもなく見上げながら光は、その特別な声を胸にじんわりと染み渡らせた。この人なら、と手を強く握る。
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