いったいなんなんだ、と花坂光は廊下の真ん中でつい固まる。それが声にも確かに出て
「なにをしているんですか……」
と困惑めいた台詞となった。廊下の端でうずくまる影が光のその声にもぞりと反応する。顔を上げて、鼻先で探知するようにふらふらとこちらの方を向いた。
「その声、ルークス?」
「そうです」
光は……ルークスとは光のコードネームである……そう答えながらもこの状況がいまいち理解できないでいた。目の前で座りこんでいるのはアーテルという男なのだが、何故か布で目隠しをしている。前が見えているようでもなく、光の方を向いているのもぼんやりした角度でしかない。いったいなにが起きているのか光にはまったく掴めない。
「ちょうどいい、手を貸してくれ」
「はい?」
「手を」
言いながらアーテルがこちらにふらふらと手を伸ばすので、その手を急いでとった。冷たくてびっくりする。
「手、冷たいですね」
「そう?」
アーテルはよろよろと立ち上がり、ふう、と息を吐く。何故目隠しをしているのか、何故とらないのか、尋ねていいものか光が悩んでいると
「もしかして、聞きたいことが多い?」
唇の形がほんの僅かに笑った。光は見られていないはずなのに見透かされたような気持になってほんのり恥ずかしくなる。俯きかけながら、そりゃあ、と小さく言った。
「そうか、この状態でルークスに会うのは初めてだったな……最近はあまり皆にも驚かれなくなったから新鮮だ」
「え、何回かしているんですか」
そういう趣味ですか、と聞きかけてやめる、危なかった。
「たまに副作用がひどい日があってね。いつもならまだ耐えられる光にも耐えられなくなることがある。そういう日は、こうやって」
とんとん、と布で覆われた目をアーテルは指で突く。
「視界を覆う」
「そんなにひどいんですか」
「たまにだよ。ところでルークスの手はあたたかいな」
ぎゅ、と握り返される感触。ひと回りは大きいであろうアーテルの手に包まれてしまうと光の手はひどく小さく見える。まだ成長期だしな、と内心で無理やりに。
「そうですかね」
「うん。もしかして眠い?」
「そういうわけじゃないんですが」
「そう? じゃあこのまま俺の手を取って、あの人の研究室まで連れて行ってくれる?」
あの人、がこの研究施設を管轄する「デウス」と名乗る男であることは光にも想像がついた。確か部屋はこの廊下をこのまままっすぐ行って、突き当りを二回曲がった先。
「いいですよ」
「ありがとう」
「このまま、手を引っ張るのでいいですか」
「優しくね」
冗談っぽい言い方に、この人って意外とお茶目だよなぁと思う。この話を他の誰かにしてもあまり同意してはもらえないけれど。
向かい合った状態で両手をとりながら、肩越しに進む方向を見つつ、ゆっくり歩きだす。光に呼応するようにアーテルもぎこちなく歩みを進めた。その足取りは覚束なくて、普段目で見てやっていることだもんな、と光は手にまで緊張を走らせてしまう。
「緊張してる?」
察したようにアーテルが笑う。
「責任重大ですから」
「もし俺やルークスになにかあっても、あの人がちょっと悲しそうな顔をするだけだよ」
それもいやだなぁ、と光は唇をもにょもにょと動かす。人の悲しむ顔なんてあまり見たい類のものではない。
「こういう時はいつも、誰かに手を引いてもらうんですか」
「さっきみたいに見つけてもらえればね」
「誰も通りかからなかったら?」
「壁を触ってひとりで行くか、痺れを切らしたあの人が迎えに来てくれるのを待つよ」
「その布をとるという選択肢は、ないんですよね」
「廊下で朝食をぜんぶ吐き戻してもいいならとろうか?」
「すみません」
「謝ることないよ」
ひとつめの突き当りを曲がる。曲がりますよ、と一応宣言してから。うん、と頷いたアーテルは光に従ってゆっくり歩みをカーブさせ、転びもぶつかりもせず足を動かしている。
緩やかな沈黙にふたり分のゆったりした足音だけが鳴っている。施設の中は静かだった。光はちらりと見やったアーテルがなにを考えているのかな、と思いを馳せてみたが、目隠しをしている上にそもそも表情の饒舌な人ではないのでまったく推し量れない。提供できる話題もここに来て日の浅い光にはなく、ただ、自分に素直に手を引かれているアーテルを見て
「なんか、サーカスみたいですね」
と漏らす。アーテルの、ん、と疑問に似た相槌。
「こう、綱渡りとか、ジャグリングとかそういう……亜種? いや、サーカス見たことないのでイメージの話ですけど」
アーテルがもし目隠しをしていなかったら目を丸くしていたろう。なんとなく歩みが止まる。しかしアーテルはふらと顔を上げて
「へえ、俺を娯楽に使う気?」
食らわせてきたのは予想外の返事。光はきゅっと掌の真ん中を窄ませて
「すっ、すみません、そういうつもりじゃ、」
「分かってるよ」
掌ごしにけしかけられて光はまた歩き出す、転ばないように見やりながら。些かのきまずさを抱えた表情をアーテルに見られることがなくて良かったなと吐く息。
「面白い感性だな。今の俺を見て、サーカスみたい、か」
「すみません……」
「謝るなって」
ふたつめの角を曲がる、目的地のドアが見えた。もう少しですから、と光が声をかける。
「お前のそういうところは嫌いじゃないよ、ルークス」
「そう、ですか」
果たして褒められているのだろうか。もしや、これから会う度にこの話を持ち出されるのではないだろうか。いやはや、口は災いの元……いや、今後の話のネタになる?
「ともかく、ありがとう。もう着く?」
「あ、はい、もう着きます」
目的の部屋のドアの前。アーテルをその目の前に立たせてやって、右の手をドアノブにかけてやる。
「これでだいじょうぶですか」
「じゅうぶんだ。ありがとう、ルークス」
声がした方に顔を向けているのだろう、なんとなく曖昧だ。光よりずっと背の高いアーテルが見下げる角度をなんとなく悩んでいるのが分かる。もう少しこの差を縮めたいなと光は思う。だいじょうぶ、まだ成長期。
「お力になれて良かったです」
「ルークス」
視線がかち合った、気がした。勿論アーテルはまだ布で目を覆っていて、それは気のせいだったのだが。
「また一緒にサーカス、しような?」
ひらひら、と左の手を腹の高さで振って見せてから、アーテルはドアへのノックと共に中に入ってしまう。中からデウスの声が聞こえて、それに答えながら、手をうろうろさせてドアを閉めかねているので一声かけてから代わりに閉めた。静寂。肩から吐いた息。
「サーカス……」
自分の手の中に冷たい手の感触をぼんやり残しながら呟く。気分を害してはいなかったようだが……さて、どうして嬉しそうだったのか光には見当がつかない。今度はもう少し上手くやれるかなぁ、と天井を仰ぐ。
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