D-Family 短編集

円ぷりん
円ぷりん

氷に溺れる蝶と水

公開日時: 2021年7月13日(火) 13:30
更新日時: 2021年7月13日(火) 13:39
文字数:2,699

百合、タトゥー描写

 痛くて仕方がない。

 こんなに情けなく涙が出ることがあるなんて加賀谷瑞樹は想像もしていなかった。触れられている皮膚が薄いから、皮膚に触れる器具が鋭いから、触れ方に悪意があるから、理由を考えては掻き消されていく。正直それどころじゃなかった。

 診療台のようなベッドに横たわって、伸ばして拘束されている左脚と、開脚させるような拘束をされている右脚。限りなく身体の大切なところに近い右脚の内腿、ちくりと痛みが何度も走る。実際はちくりだなんて可愛らしいものではないのだが、それ以上の表現を瑞樹は知らなかった。

「痛いだろう、ミズキ。すまないね、でももう少し我慢してくれ」

 熱心に内腿へ鋭利をあてがう男が優し気な声で言う。瑞樹は頷く。この男は自らを「デウス」と称し、瑞樹のことを「家族」として迎え入れてくれた。瑞樹の持つ異能にデウスは深く興味を持ったし、瑞樹自身も自らの異能について知りたかったので、「家族」となると同時にデウスの研究対象になることを了承した。

 今は、その前段階だ。曰く「家族」は身体のどこかに刺青を入れる、と。刺青を施すのはデウス自身であり、デザインや入れる箇所は選べると。どういった経緯で「内腿に蝶の刺青を入れる」ことになったのだったか今となれば思い出せない。それどころじゃないのだ、刺青を入れるというのは絶大な痛みを伴うと知識として知ってはいたが、こんなに痛いとは。

 そ、と頭に伝う体温、薄ら目を開けてみると、ひとりの女がいる。黒くて長い髪に青のインナーカラーを入れた、冷ややかな印象のある人だった。そんな彼女の手が今、瑞樹の額に添えられている。なにか言いたくても震えた息しか出なくて、でもこの「グラキエース」というコードネームを持つ女は、いいの、と微笑んでくれる。それだけで救われた心地がした。顔立ちが妙に美しいグラキエースの笑みは心を浄化するように瑞樹に迫る。

 ぎ、と静かにドアが開く。そちらを見る余裕は無かった。こつこつと鳴る革靴の足音は瑞樹のすぐそばで止まった気がした。ゆらりと影が増えたので、眼球だけをそちらに向ける。

「痛そうだな」

 瑞樹と目を合わせたのは男で、なにやら愉悦そうに笑っている。痛いに決まっている、なんでそんなに楽しそうなんだ、などと言い返してやりたいことはいくつもあったが出来なかった。内腿が焼けるように痛い。身体が捩れそうになる度に優しく制されるのが堪らなく屈辱的な気がして、歯を食いしばる。

 それでも恍惚めいた笑みを浮かべたままの黒スーツの男は、瑞樹から少し離れて椅子に座ったらしい。どういうつもりだ、と聞きたかった瑞樹を

「見ているつもり?」

 と推し量ったようにグラキエースが代弁してくれる。

「だめか?」

「好きにすればいい」

「ふたりとも、少し静かにしてくれないか」

 デウスが汗の滲んだ声で言う。きっと集中力の要る作業なのだろう。ふう、と吐く息が疲労の色を帯びているのが分かった。けれど瑞樹の呼吸はその比でない。噛み締めた唇の隙間から不規則に泣くように漏れていく。アイラインを洗い流すような涙も、尋常でなくかいた汗も、瑞樹ひとりがこの部屋の中で異常だった。

 また内腿が痛み、全身に電気が走る心地がする。つい呻き声を漏らすと、唇に冷たい指が触れて、そのまま涙を拭ってくれた。目を開けなくてもそれがグラキエースの指だと分かった。冷たくて気持ちがいい。つい、縋りそうになる。

 なんて優しい人なんだろう、と、瑞樹は激痛に耐えながら思う。



 グラキエースというコードネームを持つその女が「恋渕氷継」という名前であることを、瑞樹はしばらく後に知った。本人から教えてもらったわけではない。瑞樹が持つ異能の力によるものだ。瑞樹は他者の記憶を覗き見ることが出来、どうしてもグラキエースという女の本当の名前が知りたくて、気が付かれぬようにこっそり覗いてしまった。とはいえ覗いたことはグラキエース改め氷継にはお見通しだったのだけれど。お咎めが無かったのは奇跡である。

 瑞樹は自身の両内腿に入った蝶の刺青を眺めながら、そんなことを思い出していた。あの時の激痛も、氷継の優しさも、すべて瑞樹の記憶の中に大切に仕舞ってあった。痛みを鮮明に思い出せば出すほど、あの時の氷継のことも思い出すことが出来る。

 脚を伸ばすとシーツの感触をさらさらと拾う。オレンジがかったランプに照らされた白のシーツ。揃えた脚の隙間に今も変わらず蝶が舞っていることに、瑞樹はつい笑みを零してしまう。

「なにを笑っているの」

 隣に横たわる氷継が、寝返りざまに問うてくる。長い髪が白い肌の下に敷かれ、背中にびっしり入った氷継の刺青は見えなくなってしまう。代わりに見えた氷継の美しい顔は、あの時のように笑ってはいない。

「なんでもないわ、氷継姉さん……」

 瑞樹はうっとりと言ってから、氷継の薄い唇に自身の唇を重ねる。冷たくて、少しだけ甘い。ずっとこうしていたいとさえ思う。

 氷継は、ふ、と音だけで笑う。

「人の記憶を覗くなんて、悪い子」

 自身の記憶を覗いて「氷継」という名前を手に入れた瑞樹のことを、氷継はしばしばこう言う。ふたりきりの時にだけ。雪崩れ込むように身体を重ね始めてからはこうした、身体を重ねた後の気怠くて甘ったるい時にだけ。瑞樹はそれが無性に嬉しかった。こう言われる度、自分の異能に感謝した。氷継と出会わせてくれた、組織の長に感謝した。

「まぁ、私はもっと悪いことをしているけれど……」

 他者の記憶を操作できる異能を……記憶を消去したり植え付けたりする……持つ氷継は言わば瑞樹の上位互換の存在で、そこにもまた堪らなく瑞樹は惹かれるのだろう。己が永遠に敵わない存在、見上げ憧れ焦がれたい存在。愛している、とは少し違った感情として、瑞樹は氷継をどうしようもなく好いていた。

 シーツに包まれていた氷継の身体が起き上がり、瑞樹と向かい合う。髪に隠された胸が柔らかいことを瑞樹は知っている。その白い肌が絹をも凌駕する滑らかさを持つことを知っている。その優越。

 細い指が頬に触れた、首筋を弄んで、胸の間から鳩尾を撫でる。バレリーナのように跳ねた指は、瑞樹の内腿にたどり着いた。ぞわ、と腹の底に湧く甘美な熱。

「あなたの選ぶピアスと、内腿の刺青だけは、好きよ」

 氷継は決して瑞樹を愛しているとは言わないし、瑞樹の名前も呼ばない。幹部である彼女は「加賀谷瑞樹」という本名を知っているはずだったが、決して呼びはしなかった。それでも良かった。冷たくて優しくて美しい「氷の女王」と少しでも居られるなら、瑞樹はそれで……それだけで良いと思う。そのくらいもう、氷継に溺れてしまっているのだから。

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