「別れてほしいの」
ベッドの中で突然そう切り出してきた恋人に、深海真守はつい目を見開いた。ピロートークにしては色気が無いし冗談にしては笑えない。今なんて、と真守は上体を起こして背中を向けたまま横たわっている恋人を見る。
「だから、別れてほしいの」
「どうして」
「どうしても」
「志津……」
恋人である浅岡志津は、肩からゆっくり振り返って、その黒いつり目をこちらに向けてくる。最初は咎めるように感じられたその視線がひどく寂し気で愛おしく見えたのはいつからだったろうか。
「あなたに迷惑をかけることになると思うから」
「志津に迷惑をかけられたことなんてない」
「これからの話よ」
「これからだって、」
「あるの」
あまりに断定した口調。これはいつもと違うな、と真守も薄々感じられてくる。しかしその正体がなんなのかまでは察せなかったし、志津からどう引き出したものか少し悩む。
「……さして面白い話でもないの。仕事で、ちょっとね」
「研究所でなにかあったのか」
恋人の志津は異能力の研究機関に勤める研究者で、真守はそのことを誇りに思っている。志津は溜息のようにしかし続ける。
「引き抜きよ」
「引き抜き?」
「崎島碧のところへ」
さきしま、と口の中で小さく復唱して、思い当たる。異能研究の権威である高名な研究者で、志津と同じ研究所に所属しているとかなんとか。数年前に異能研究の為の施設長となったと聞いている。とはいえ、異能とは無縁な真守にはなんの関係もない上に志津からもなにも聞かされないので、記憶からはほとんど消えていたが。
「ってことは、その崎島碧がいる施設に行くのか」
「そう。研究者として」
「すごいじゃないか、おめでとう」
真守としては心からの称賛だったのだが志津はいい顔をしない。不愛想な顔に少しの不機嫌を滲ませているが、その理由は見当もつかなかった。
「崎島碧のところへ行くから。さ、これで説明になったかしら」
志津は起き上がって、ベッド脇に置いてあった服に着替え始める。まだベッドの上で素っ裸な真守は、ぽかん、と口を開け放したまま。
「待て、今のが説明?」
「そう」
「出世するってことがか?」
「施設に住み込みになるの」
「そんなの、会いに行くよ。それがだめならどこかで会えばいい」
「駄目よ」
「どうして」
「あなたに迷惑をかけることになると思うから」
だからどうして、と聞き返そうと思った時には志津はすっかり着替えを終えて部屋を出て行こうとする。シーツに膝をとられながら真守はやっと志津の腕を掴んで、見下ろすような恋人からの視線を浴びた。
「話が掴めない。なにがいけない? なにが志津にとってそんなに都合が悪い? それとも、俺に話せないようななにかがあるのか?」
最後のは口から出まかせだったが、志津はぴくりと頬の上の方を引き攣らせる。真守は一瞬固まった、今のは志津が本音をつかれた時の反応だと知っていたから。
「話せないのは、そこが異能を研究する施設だからか?」
「そう……」
志津が視線を逸らす。沈痛な表情だったが真守にはそれを暴けない。
「……そうか」
真守は志津から手を放し、自分も着替え始める。部屋を出るつもりだったはずの志津は黙ってそこに立っていた。真守は志津の気が変わらないうちにと急いで着替えて……部屋着を大慌てで羽織っただけだが……志津、と恋人の名前を呼ぶ。
「決心は変わらないのか」
「ええ」
「俺たちは別れるのか」
「ええ」
「じゃあ、これが最後の夜?」
そうね、と志津の声が少し震えたのを聞き逃さなかった。真守は志津の手を取って向かい合う、背の高い恋人の近い高さの視線。
「踊ってくれないか」
志津の目が丸く開かれてぱちぱちと瞬かれる。それもそうだ、急にダンスだなんて。真守本人も言ってからなんだか気恥ずかしくなってきた。しかしここで照れてはいけない。
「あなた、踊るの好きだったかしら」
「嫌いじゃない」
「私、踊るのは得意じゃない」
「だいじょうぶ、俺もよく知らない」
「なにもだいじょうぶじゃな、わ」
ぐいと志津の手を引いてはゆるりと回る。踊るというより身体を横に揺らしているだけのような奇妙な動き。まだおっかなびっくりそのステップに合わせてくれる志津が顔をおろつかせているのがひどく愛らしい。真守の口の端に笑みが浮かぶ。
「楽しい?」
「……よく分からない」
「こういう時は楽しいって言っておけ」
「それも、そうね。楽しいわ」
暗いベッドルームでぎこちなく踊るふたり、真守は志津の長い髪が合わせて揺れるのを視界に映しながら、この綺麗な髪もひょっとして見納めなのかな、などと切ないことを思う。
「俺、志津にだったらどんな迷惑をかけられてもいいんだけど」
「そういう程度のものじゃないの」
「本当に、なにをしに行くの、志津……」
ここまで濁されると不安になって来る。恋人はなにか、危険なことに巻き込まれるのではないだろうか。異能研究にどの程度危険が付きまとうのか真守には分からないからなにも言えない。それでも、恋人の身が心配で堪らなかった。
「だいじょうぶよ、真守」
気丈を繕う志津の声。こんなに強がってくれたところに水を差すのは野暮かな、とつい思う。
それと、と志津が足を止めて顔を上げる。一切の羞恥無くまっすぐに見つめてくる恋人のこういうところが真守はどうしても好きだったし、
「あなたのことを嫌いになったわけじゃない。これは本当よ」
これから忘れられそうになんて、到底無かった。
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