京都歌舞伎町の一角にあるこのバーは程良い賑わいをこの夜も見せていて、互いの会話がちょうど届かないくらいの心地良い間隔を保ち続けていた。カウンターの端にひとり座る藤堂満は、目の前に置かれたばかりのゴッドファーザーに口をつけながら限りなく静寂に近い光景を享受していた。薄暗い店内でもサングラスを外さない黒スーツ姿はそこそこ目立つが目にとめる者は今やいない。満はすっかりこの店の常連だった。
からんからん、とドアベルが鳴っても気にする者はいない。
「やっほー、みっちゃん」
だなんて、声をかけられない限りは。
聞き知った声に満は小さく振り向く。隣の席に当然のように腰かけた男、人のいい笑顔を浮かべてひらひらと手を振っている。
「今日もひとり?」
そうだ、と適当に返事をしてグラスに口をつける。男は得心したようにふうんと漏らす。
「俺も俺も。隣、い?」
「もう座ってるだろ」
「へへっ、あんがと」
幼子のように笑う姿。まるで友人のような顔をしているが別にそういうわけではない、少なくとも満にとっては。彼は何か月か前にこのバーでたまたま知り合った男であり、以来会うことが多いからかこうして話しかけてくるようになった。満のことは「みっちゃん」という些かふざけたあだ名で呼んでくるし、自らは「馬刺しあたる」というもっとふざけた名前を名乗るものだから、こんな奴絶対に相手にしまい、と思うのだが、彼はやたらと話が上手いせいかいつもなんとなく話し込んでしまうのがオチだ。今日も恐らく例外でない。
彼は満のグラスを見て
「みっちゃんのそれ、なに?」
「ゴッドファーザー」
「いいなー、俺もそれひとつぅ」
気さくに頼んでは頬杖をついて満の方を見る。そう見られていると飲みにくい、と文句を言おうとしたところで、彼が先に口を開いた。
「ねー、俺ずっと気になってんの、聞いてもいい?」
「なにがだ」
「みっちゃんってぇ、なにしてる人なの?」
目を合わせる。サングラス越しに見た彼は至って真面目に、しかし世間話のレベルでその質問をしただけのようで、満は数回瞬いた。
「なんだと思う?」
「分かんねえから聞いてんじゃんかよぅ」
「内緒だ」
彼は唇を尖らせて、柔らかな糸目は表情を悟らせないが、拗ねたような様子は伝わる。しかし教えてやる義理もない。教えてやる気になったとして、そもそもなんと言えばいい?
彼の前にグラスが置かれ、ありがとー、と声。店の照明を受けてちらちら煌めく薄褐色の液体、ゴッドファーザー。ふと連想したものを満は、いつもこいつには冗談を言われていることだしな、と、口に出してみる。
「……神の使いだよ」
彼はその糸目を見開くことは無かったが、些かの驚きをもって満を見つめているらしい。そんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう、答えに窮したように
「なに突然」
「俺の話だ」
「みっちゃんの?」
「そう」
「みっちゃんが、神のぉ?」
「不満そうだな」
「だって、あんまり現実味がないよ」
「お前は、神を信じないか」
グラスと唇を出会わせながら、んー、と彼は鼻の奥の方を鳴らす。かろんと氷が鳴った。
「気に障ったら悪いけど」
と、彼の丁寧な前置き。
「俺はあんま考えたことないかなぁ、そういうの……信じてるかって言われたら信じてないかも、いるとはあんま思ってないから」
その言葉を聞きながら満は視線を少し下にやっている。彼の手が無意識のように伸びた先を追っていたから。ラフな服装にアクセントを利かせている首飾り、ドッグタグといった方が正しいだろうか。彼の指が言葉と共にそれをいじり始めたのが妙に気になった。
「それは?」
尋ねると、は、と彼も目をやる、今その手に初めて気が付いたらしい。
「あ、これ?」
そして、頬を綻ばせる。何故、と満は言葉の続きを待つ。
「俺のお守り、的な? これがあると安心するっつうか、なんつうか……そういう物。貰ったんだ」
「へえ」
「……神様とまではいかないけど、大事な人だよ」
優しい顔と優しい声。いつも人の好さそうな態度の彼が特段その朗らかさを注いでいるのだろうと推量してしまう。それをくれた主のことだろうが、いったい誰のことだろうな、と思ったが、尋ねないことにした。
彼は頬杖をつき直して、にんまりと唇を笑ませる。
「で、みっちゃんにはいるんだ、神様」
そのワードで想起した影を、決して満は口に出しはしないのだが、
「……ああ」
とは、零した。へー、と彼が上ずりそうに返す。
「ちょっと意外」
「そうか?」
「うん。みっちゃん、あんまりそういう感じに見えないから」
意味が分からない。
「いったいどう見えてるんだ、俺は」
「神様とか信じないし、そんなものはいないって言いそうだと思ってた」
前の自分ならそう言ったかもしれないな、と満は過去を思い出す。異能の副作用に苦しむばかり、薬で昏倒しては意識を朦朧とさせていた日々。不和、嫌悪、焦燥に浸っていたあの時の自分ならきっと、神なんていないと思っていたろうし信じもしていなかっただろう。だが今は違う。
「てか、どっちかっていうと俺がそうっていうか」
満を救い得る、幸福にし得る、負の感情を拭い得る存在が確かにいる。彼が自らを神と称する限り満にとっての神であるし、信じ続けるだろう。
「そんな風に誰かを救える存在なんて世の中にいないと思ってるんだよね」
すべての人間が……否、異能力者がその神の恩恵にはまだあやかれないが、いずれ、いずれ。満は己が光を取り戻せればなんでもよかった。
「神様なんてのは、なんていうのかな、都合の良い偶像? みたいな、」
「都合の良い偶像?」
口をついた復唱、震えた喉。少しサングラスをずらして彼を見た。光度の低い照明は光里にとってしかしまだ眩しくて顔をしかめたくなる。向かい合った男は何故か、少し怯えたように満を見ていた。
「……ごめん、みっちゃん」
「何故謝る」
「怒ってるように見えるから」
言われて、初めて自分を今突き動かしたのが怒りに似たなにかだと気が付く。そうか、俺は怒っているのか、と今更冷静になり。なにに怒っているんだ、もしや図星をつかれたからのような気がしたから。考えたくない。
「そうだな、怒っている」
あの人が都合の良い偶像だと、満には認められない、少なくとも、まだ。
彼は眉根を下げて、滑らかな声色になる。
「ごめん。どしたら許してくれる?」
呷りながら視線をやった顔は本当に申し訳なさそうで、分かってはいたことだが、悪気なんてものが一切ないのだと知る。そもそも最初に彼は「気に障ったら悪いけど」と前置いてくれたじゃないか。それでも先の言葉に平静を欠かずにはいられなくて、彼が悪いわけではないのだけれど。
漬け込むようだが、と満はグラスを置く。
「……今日は、財布空っぽになるまで奢れ」
「え、それでいいの?」
拍子抜けしたような彼の声。ちょっと可笑しくなる。
「なんだ、もっとすごいこと、頼んで良いのか?」
「や、それは勘弁してほしいかなぁ」
カウンターに同じものを頼む、追って隣も同オーダー。少しペースが速くないか、と聞けば、呑まれなければだいじょうぶ、と彼は笑う。その笑顔はあまりに人がいい。
「立てなくなっても介抱しないぞ」
頷いた彼と、こつん、とグラスの縁を軽く合わせる。夜はまだ長く話は尽きなかったが、ふたりが神の話をすることは二度となかった。
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