「旦那様ーっ。ワタシの旦那様は一体どこにいらっしゃるのでしょー。きっとワタシの与り知らぬところでー、影ながら勤勉に働いていらっしゃるのですねー。それに……」
「ぐっ!? わ、わりぃなマリー、どうやら呼ばれてるみたいだから……」
俺はシズネさんの「さっさと来やがれよ! お前もしかしてサボってやがんのか? ああん!」などと怒りとも嫌味とも取れる言葉を受け、マリーに別れを告げるとすぐに厨房に駆けて行く。
厨房の中に入るとすぐ真正面の壁際には、調理器具である横に4つ並べられた調理コンロやレンガ作りのオーブン、大きな寸胴の大鍋やフライパンなどがいくつも置かれていた。そしてその反対側、つまり作業テーブルには盛り付けようの鉄皿とそれに敷く木皿、大きなカゴにタマネギやピーマン、ソーセージなどたくさん積み上げられている。
まず始めに作業テーブルで材料を切り、クルリっと180度振り向けば調理器具がある。そして調理が終わり再びクルリっと振り向けば、作業テーブル上に盛り付けようの皿などが用意できるのだ。これらは作業効率を考えた『導線』と呼ばれるものである。ま、他にも色々と設備はあるのだが長くなるので、それは追々紹介していこうと思う。
「シズネさん、ごめん!!」
「きっと他の女に言い寄られてー……あら、これは旦那様。珍しいところでお会いしますね」
まだ怒りが収まらないのか、すっごく他人行儀な物言いで嫌味を続けていた。
「ほんとごめんっば! このとおーり!!」
「……ま、旦那様ですしね。仕方ありませんね。さ、既にお湯を沸かしてありますので、さっそくナポリタンを作りますよ♪」
俺が両手を合わせ平に謝罪の姿勢を示すとシズネさんはアッサリ許してくれ、さっそく調理準備へと取り掛かった。
「それではまず、このバットに入っているスパゲッティーを二人前鍋に入れてください。あっ、ちゃんとここにある網の中にですからね」
「分かったよ。コレを入れるんだね? ってあれ?」
シズネさんの指示通りバット、いわゆる長方形の形をした金属製の入れものには水が張られ、中には白く細長いスパゲッティがいくつにも分けられ入れられていたのだ。たぶん一人前ずつに分けられているのかもしれない。
「シズネさん……これがスパゲッティの麺なの? 確かこの店じゃ乾麺のはずじゃ……」
「おや、これは説明不足でしたかね? 確かにこれは乾麺のスパゲッティー麺ですよ。ですがこうして水の中に入れ生の状態へと調理前に戻しておけば、普通の生麺とほぼ変わらなくなるのです。ま、尤も味の点では敵いませんがね」
シズネさんはひょいっと俺が持っているバットから、水で戻した柔らかい麺を二つ手に取ると、銀色が渋いステンレスで作られた網目状のカゴへと入れ、そのまま湯が煮えたぎる鍋へと沈ませた。そしてまな板と包丁片手にタマネギやピーマンの仕込みをしながら、俺へと説明してくれた。
乾麺のスパゲッティーを先に水で戻しておけば、茹で時間を大幅に短縮できるらしい。乾麺の場合普通は茹で上げるのに6~10分程かかるのに対し、水で戻したのはその半分の約3分程で茹で上がるとのこと。これはお客様に料理を提供する時間、いわゆる調理時間を短縮する目的とガス代の節約になるらしい。
尤も生麺ならばその茹で時間は1~2分で早く茹で上がり、また乾麺よりも柔らかくとても美味しいらしい。ならば何故シズネさんは生麺を使わないのか? それは価格と保存性が関係していたのだ。
生麺は数日しか日持ちせず、仕入れ価格も乾麺の2倍以上するとのこと。それではとても低価格では提供できない。
対して乾麺は元々保存するための物なので、数ヶ月以上鮮度を保つ事が出来き値段も安価である。だがその分、味の面では生麺に劣り、また調理時間が長くなるなどデメリットもあるのだとか。
「ま、そんなわけでしてウチでは乾麺を使っているのです。ですが事前に水で戻す事により、調理時間を大幅に短縮してお客様に少しでも早く安く提供しているのです」
トントントン……ジャーッジャーッ。シズネさんは麺を茹でている鍋に背を向け作業テーブルでタマネギをスライスし、ピーマンの種を取ってからソーセージと共に輪切りにしていた。
そしてフライパンを調理コンロへと乗せるとしっかりと熱してから油を引き、ピーマン、タマネギ、ソーセージの順番で炒めながら説明を続けてくれた。作業をしながらだと言うのに、シズネさんは苦もせず普通に会話を続けてくれている。実はこれはとても難しいと俺は後で実感することとなる。
ピッピッ。そしてどこからともなく、何かの音が聞こえてきた。
「あっ、どうやらもう茹で上がりの時間のようですね。ちょっと失礼しますね……」
調理コンロ下に備え付けられていたキッチンタイマーが、茹で上がりの時間を電子音で知らせてくれていたのだ。これはコックによる調理時間のブレを無くす目的と共に、常に鍋に張り付く必要が無くなるのでその間、別の作業ができ効率が良くなる。
「さぁここからが本番ですよ。旦那様もよぉ~く見ていてくださいね!」
シズネさんは寸胴から網目状の四角くく細長いザルを引き上げ、淵へと引っ掛けお湯を切っている。そしてその間、フライパンを揺すり中の具材がコゲぬようにと小刻みに動かしている。
バチバチバチ。熱せられた油によりソーセージやピーマン、タマネギなどの炒める音と共に、香ばしい匂いが俺の元へと漂ってきた。ピーマンに油が絡まり光を反射し、タマネギは火入れにより透明となり、そしてソーセージには少しだけ焦げ目が付いている。まだ一切の味を付けていない、ただ炒めただけの具材なのにとても美味そうに見えてしまう。
「……ゴクリッ」
グーッ。思えば朝食目当てでこのレストランを訪れたのに、未だ食事にありつけていなかったのをお腹の音により思い出してしまった。
「うん? ふふふっ」
「うっ」
シズネさんまでそんな音が聞こえたのか、俺の方を向き音の正体が解ると少しだけ笑われてしまった。お腹の音が鳴るなんて……ちょっぴり恥ずかしい。
「もうすぐですから、ね! っと♪」
俺に向けそう言いながら、湯切りしていた麺を一気にフライパンへと入れた。
ジャーッ! バチバチバチバチ!! 麺の水気により、油とフライパンの熱により激しく弾けてしまう。だがそんな熱を諸共せず、シズネさんは調理を続けている。
ジャッジャッ。菜箸で器用に使いフライパンを前後に激しく揺らしながら、麺へと油をよく絡めている。
「さてと、そろそろ良い頃合いですね」
そしてシズネさんはクルリっと反対側を向き、作業テーブルからケチャップの瓶を取り出した。いよいよこれからメインの味付けになるのだろう。
「ま、お二人分なので大体これくらいですかね」
シズネさんは瓶を傾け、目分量でケチャップをフライパンへと入れた。少し緩めなのか、瓶の約1/3ほどを使っていた。
じゅわじゅわ~っ。途端ケチャップが熱せられ激しく蒸発する音と共に湯気が立ち昇ると、トマトの甘く酸味を帯びた匂いが厨房全体へと広がる。
「ん~っ♪」
思わず香りに誘われ、まるで流れるようにその匂いを辿ってしまう。
「こちらも準備をしておきますかね」
ガチャガチャ、ガチャガチャ。まるでスパゲッティー全体にトマトケチャップを絡ませるよう、円を描きながらフライパン回し、そして隣の空いているコンロへ鉄皿を二皿乗せた。
ガチャっ……ボッ。そして鉄皿を熱しながらも、作業テーブル中央へと木の受け皿を二枚並べた。どうやらもう完成するようだ。
「よいしょっと」
ジジジジッ。シズネさんは専用のガッチリとしたトングを用い、落とさぬよう慎重に熱した鉄皿を木の受け皿へと乗せた。鉄皿の熱により、受け皿にまでその熱が伝わる小さな音が聞こえてきた。
カチャリッ。そして火をかけたままだったフライパンコンロの火を止め、持っても熱くないよう濡れ布巾で持ち手部分を覆うと持ち上げ、鉄皿へと完成したばかりのナポリタンを盛り付けてゆく。
ジュージューッ。ナポリタンに絡んだトマトケチャップが熱せられた鉄皿に触れ、とても食欲をそそる香ばしい匂いと音が響き渡る。
どちらも同じテーブル注文のため同量になるよう、何回かに分けナポリタンを盛り付けしていた。またシズネさんなりのこだわりがあるのか、フライパンの奥から手前へから移していた。
「うん? あのシズネさん、何か盛り付けの仕方に違いでも……」
「ん? ああ、これですか? こうして上に具材がくるように盛り付ければ、少しでも美味しそうに見えるかなぁ~っと思いましてね」
そう言ってシズネさんは麺だけを先に盛り付け、そしてなるべくピーマンやソーセージなど彩りが良いものはフライパン手前へと残していたのだ。そして鉄皿一杯に山盛りとなると、その上に取って置いたピーマンやソーセージを盛り付けてゆく。
確かにこの盛り付けならばお客に出したとき、目の前に山盛り一杯のナポリタンの上に綺麗な色の輪切りしたピーマンや、美味しそうに焦げ目の付いたソーセージが上にくるので、なんとも美味そうに見えてしまうだろう。
これがもしパッと見た感じの表面上に出ていなければ、例え同じ注文品でも満足度が違くなってしまうからもしれない。
よって同じ料理、同じ分量だったとしても、コックのちょっとした工夫次第でお客の感じ方は大きく変わるかもしれない。
「はい、ナポリタンお二つ完成で~す♪」
「すっげぇ美味そうだね!! じゃあさっそく……」
料理を手伝えなかった俺はせめてもの給仕だけでもと思い、ナポリタン二つを運ぼうと手に取ろうとした。
「あっ、待ってください」
「えっ? まだ何かあるの?」
だがそれもシズネさんの一言により、止められてしまう。既に盛り付けも済ませ、一体これ以上何をするつもりなのか俺には皆目検討もつかない。
「いえ、木のプレートの持ち手部分が汚れているのです。だから……こうしてっと。はいできました♪ そんなに重くはありませんが、お一つずつ持って行きましょうかね♪」
シズネさんは近くにあった綺麗な布巾を使い、木のプレートのちょうど持ち手部分のへこんでいるところを綺麗にすると、一つを右手へと持った。
普段何気なく利用しているレストランだったが、ただ料理を作るだけでなく、見た目や価格、そしてお客が満足するようなサービスがあるのだと改めて知ることができたのだった……。
日々描写不足を課題に持ちながら、話は第34話へつづく
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