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愛ちゃんはどさりと子供部屋の床に倒れて、すぐに目を開けた。その時の愛ちゃんは、元の人間らしい、子供らしい女の子の顔に戻っていた。起き上がってきょろきょろと周りを見回すと、愛ちゃんのそばには見知らぬ僕たちが居て、くわえて部屋が真っ青になっているのを見て驚いて泣き出し、階下に居るお母さんのところへ駆けて行ってしまった。
僕と刑事さんは驚き、喜びながら、どこか恥ずかしいような気分で笑い合い、階段を降りて行った。すると、二階からとたとたと愛ちゃんが降りて来る足音を聴いたのか、飛び出してきたお母さんが愛ちゃんを抱え、泣きながら抱き締めているところだった。
「愛、なんともないの?お部屋で怖くなかった?」
「うん、なんともないよ。でもね、たいへんなの!パパがいなくなったとき、わたし見たの!」
「何を…?」
愛ちゃん以外の、大人である僕たちの間に、その時緊張が生まれた。大人なれば、誰だってこの世界的な怪異の秘密を知って、それを止めたい。そして取り戻したい。特に愛ちゃんのお母さんは、居なくなった旦那さんの心配をしているのか、必死に愛ちゃんを見つめて、「何を見たの?」と聞いた。愛ちゃんは大人がみんな険しい顔つきで自分を見ているので、怒られると思ったのか、なかなか言いたがらなかったけど、ついに口を開くと、大声でこう言った。
「青いランドセルで、青いふくを着た男の子が、わんちゃんといっしょにパパをつれていったの!わたし、パパのへやを開けようとしたとき、見たの!ねえ!パパを取り返して!その子きっと、わるいことするんだから!」
そう言っている愛ちゃんを奥さんはなんとかなだめて抱き締め、愛ちゃんの背中越しに、不安に追い詰められているような目を、僕たちに向けた。僕はその時、「絶対に春喜とタカシだ」と確信した。
「それにしても、弟さんでしたか」
刑事さんは、葛飾区警察署の刑事課に所属する、大木さんという人だと、愛ちゃんの家から帰る道々、自己紹介をされた。
「はい。確証がなかったので…それに夢物語みたいな予想でしたから、言いづらくて…でも、初めに行方不明になったのは、僕の弟でした…」
「それで、あのお宅の旦那さんが残したらしい、「子供が」というメモ書きに一縷の望みを懸け、あなたはやってきた。愛ちゃんがあなたのことを「おにいちゃん」と呼んだのはもちろん弟さんの姿を見たことが関係しているんでしょうが、なぜ愛ちゃんがあんな状態だったのかは、あなたにもわからない。話しづらかったという気持ちはわかります。でもまあ、そんなに気にしなくても、我々が生きているこの世界では、夢物語どころではない天変地異が起きているんだ。素直に話してくれてもよかったですよ。まあ、信じるには私も時間が要ったでしょうが…」
僕たちは大木さんの用意してくれたコーヒーを紙カップで飲みながら、刑事課の室内に戻って、そんなふうに話し込んでいた。
「まあ、奥さんと愛ちゃんについては、もう心配はあまり要らないかもしれません。むろん、旦那さんが居なくなったからこれからは大変でしょうが、愛ちゃんがあの状態のままでいるより、いいでしょう…」
大木さんはそう言った後ちょっと黙っていたけど、やっぱり僕を見て、こう聞いてきた。
「あなたの弟さんが、世界中の人類をさらっている…んでしょうか…?それとも、あなたの弟さんが、なんらか大勢の人たちを集めた、人々をさらうテロ組織の一員で…」
そう言いかけたけど、大木さんは首を振ってから笑い出した。
「いやいや、馬鹿馬鹿しいですな、すみません。そんなことがあるわけがない」
大木さんは笑って自分の言うことを下げ、顔の前で片手を振ったけど、僕は不安なままだった。あそこまで証拠らしきものがたくさんあったんじゃ、あんなに強烈な「春喜を表すもの」があったんじゃ、とても「弟は無関係でしょう」なんて言えなかった。愛ちゃんの部屋の、真っ青に見えるまで春喜とタカシの姿で塗りつぶされた壁が目の裏に蘇り、僕の背筋がぞくりとする。
それにしても、本当になぜ春喜が現れたんだろう。やっぱり人々を人知れず連れ去っているのは春喜なんだろうか?そうだとしても、なぜそんなことを?そして、なぜ春喜にそんなことができるんだ?僕はそんな尽きない疑問に埋もれ、コーヒーをいつの間にか飲み終わってしまった。
僕は大木さんと、「愛ちゃんが元気になってよかった」という話だけをして、胸の内にある不安は口にせずに別れ、僕はそのまま新宿へと帰って行った。
僕は来た道を戻っている最中、「春喜を探し出して、連れ帰らないと。でもどこに居るんだ」とだけ自分に問いかけ続けていた。とにかく、今日はもう遅い。それに疲れたから、すべては明日だ。明日起きたら、春喜をとにかく探すために、方法を考えなくちゃ。僕は中央線のフェンス沿いに自転車を走らせ、その方法に何も心当たりがないことに、その時から苛立っていた。
闇の中で線路沿いに立てられたフェンスの緑色のカバーが濃く深い影に変わって、時々ぽつぽつと立っている街頭の光を照り返しながら、ところどころカバーが剥がれて赤く錆びた鉄線が露出する様子を右手に見て走り続けていた。すぐそこは飯田橋駅だ。今晩も電車は走らない。首都は機能がほとんど停止している。僕がそれを見てまたうんざりするのに気を取られていると、ふと、目の端に白い影が映った。
「わっ…!」
誰も居ないけど、驚きのあまり僕は小さく叫び声を上げて、自分の目の左端、つまりは自転車の目の前に不意に現れた何かに目を凝らす。そして、懐かしい喜びが僕の胸に蘇った。
「タカシ…!」
それは、タカシの姿だった。白くふわふわした雑種で、かつての愛犬タカシが、急に僕の目の前に帰って来てくれたのだ。なぜかはわからないけど、僕はとにかく喜んだ。それに、タカシが居るなら、春喜が居る可能性だってある。僕は自転車を振り捨て、タカシに駆け寄っていった。
「タカシ、お前タカシだろう?春喜はどこなんだ?連れて行ってくれないか?」
僕がきちんとお座りをして自分を待ってくれている愛犬に向かって屈み込もうとすると、タカシは口を開いた。
「おにいちゃん」
その瞬間、僕は全身に衝撃が走ったような驚きと恐怖に、その場からやっと一歩、後ずさった。
待ってくれ。目の前に居るのは「犬」のはずだろ?それがどうして、人間の言葉を喋るんだ?それに…。
「おにいちゃん」
僕は背筋から頭のてっぺんへとゾクゾクと強い寒気が通り抜けていくのが止まらず、手足から力がほとんどなくなったように震え始めようとするのを、必死の思いで止めた。やめてくれよ。お前はタカシのはずだろ…?
「おにいちゃん、おにいちゃん」
僕は耳を塞ぎたくなった。タカシは壊れたおしゃべり人形みたいに、僕を繰り返し呼ぶ。犬が喋るはずがない。それに、その声は聞き覚えがあった。でも有り得ない。そんなはずがない。
緊張と恐怖で僕は呼吸がひどく苦しくなり、口がからからに乾き始めていた僕の口内は、舌と口蓋がひりひりと突っかかった。喉を震わしても、しばらくはひゅうっと音が鳴るだけで、そのことへの焦りと、いつまでも「おにいちゃん」と繰り返し続けるタカシに、僕の体はついに震え始め、タカシに向かって蹲るように膝を折りかけて、自分の片腕に掴まって、なんとか名前を呼んだ。
「…はる、き、…」
すると、タカシはふっと犬らしい好奇心に満ちた目に戻り、僕に向かって飛び込んでこようとした。僕はそれまでの恐怖のあまり、思わずそれから両手で自分を庇おうとしてしまったけど、いつまで経ってもタカシは飛びかかってこなかった。僕は肌全体を恐怖が突き刺し、全身の血がドクドクと脈打ったままなのを感じながら、恐る恐る、両手を下ろした。
そこには、誰も居なかった。
Continue.
なかなか異世界に行きませんね。発想が貧困なのでしょうか…
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