スリムなシルエットのライダースジャケットを着て、黒いジーンズを履いた男――令は、スマホに目を落としながら大通りを歩いていた。
隣を歩くなごみに「歩きスマホはダメなんだよ!?」と怒られながら。
「ああ、このホテル良さそうだな」
ホテル予約サイトで手頃な部屋を見つけたという正にその時、令はその悲鳴に引っ張られて顔を上げた。
それはどう聞いてもひとりの悲鳴ではなかった。複数の声が混じった悲鳴。
見れば、人々の群れが形成されていた。
みなこちらに背を向けていることを考えれば、人々の視線の先に何かがある、または何かが起こっているのが判ったが、肝心の“何か”は群衆に阻まれて何も見えない。
令はなごみに目配せをすると、その群衆に向かっていく。
群衆から外れて逃げるように駆けていく人も多い。
何人かと肩をぶつけながら群衆を掻き分けて、途中、令は人混みのあいだから“それ”を見た。
若い女性だった。そして若い男。
女性が男の前に跪くその姿は、一見痴情のもつれのようにも見えたが、事がさらに厄介であることは、女性の押さえる腹部から“鮮血”が流れていることからすぐに理解できた。
男の手には女性の腹から流れているのと同じものであろう“血”が付いた包丁が。
「おいおいマジかよ――!!」
令はすぐに立ち竦む群衆を押し分けて、前に躍り出る。
人々はまるで行動が決定できない幼子のように、不安そうな顔をして立っているばかりだった。
その中から本当の子供でもあるなごみも大人を押し分けて出てくる。
令が、女性を刺したであろう男――もはや犯人と言っても差支えないか――に近づく。
すると犯人はビクリと反応して令に切っ先を向けた。
しかし令はそんなものも気にすることはなく、横目で女性の様子を窺う。
女性は令を見上げると、涙を浮かべて必死にちいさく助けを求めようとしたが、声はあまりにも出ない。
令は冷静に女性の容態を窺う。
(出血は多いが意識はある。止血してさっさと治療すれば命を落とすことはないな――)
「ちっ、近づかないでくれ!! おっ、オイ!!?」
「大丈夫。すぐに救急車を呼ぶから。必ず助かるよ」
令は女性のほうに向き直ると、声をかけながら近づいた。
女性のそばで片膝をつくと周りに声をかける。
「誰かベルトを傷口の上で縛って止血してくれ! あと救急車を呼んでくれ!」
犯人は唖然と同時に恐怖のような色をその顔面に浮かべて令を見ていたが、令の行動にますます血相を変える。
「よ、よ、余計なことはしないでくれ!! アンタはとにかく何処かに行ってくれ!!」
悲鳴のような声で犯人は絶叫する。
極度の興奮状態であることは誰の目にも明らかだった。
しかし令はそんなことすら分かっていないかのように、打って変わって落ち着いていた。
周囲を見回すが、勇気ある者はなかなか出てきてくれない。
仕方なく令はなごみを呼んで、トランクケースの中にしまってあるベルトで止血することをなごみに指示する。
犯人はそんな様子を歯をガチガチと言わせながら狂おしそうに見詰めていた。
令は立ち上がると、犯人に向く。
「おい、なんでこんなことをした? 自分がなにをしたか分かっているのか?」
令は非難する視線で犯人に投げかける。
それに対して犯人は、蒼褪めたくちびるをブルブルと震わせて、唾を飛ばしながら泣き喚く。
そう、犯人は涙すら浮かべていた。
「い、言えないんだ!! 何も言えないんだ……!!」
その言葉に令は思い切り眉をしかめる。明らかにおかしな言い回し。
それではまるで――。
と、犯人が包丁を振り回しながら令に突進してくる。
「おっと」
令はそれを容易くかわす。
と、犯人が女性のほうへ突っ込んでいきそうになったので令は首根っこを掴んで、放り投げるように引き倒す。
犯人は少しバウンドしながら尻もちをついた。
「事情があるなら話せよ。力になれるかもしれない」
令は犯人を見下ろして理性的に言葉を投げかける。
犯人は、自分の口の中だけでなにやら呟いていた。
突如、犯人が叫びながら立ち上がる。
それは言葉にもなっていない慟哭だった。
犯人は涙を流しながら令に包丁を突き立てようと突進する――。
その時だった。
犯人は脚をもつれさせ、盛大に倒れ込んだ。
ちいさな悲鳴が周囲に上がる。
犯人はしたたか顔面を打ちつけて、擦り傷やら打ち身を創った。
手で押さえながら、犯人は眩暈を感じつつ顔を上げる。
――すると、犯人の瞳に映ったのは、先ほどまでの理性的な男ではなかった。
そこに居たのは、頬に犯人の刃物による“切り傷”を創った、殺意に満ちた顔の男だった――。
「テメエッ……!! この顔に傷つけやがったナァ……!!?」
阿修羅のような怒気で、令が凄む。
犯人は間の抜けた驚いた顔で、涙を浮かべて令を見上げる。
次の瞬間、犯人は令に引き上げられてボコボコに殴られ始めた。
群衆に悲鳴が広がる。
それは先ほどまでとは違い、どちらかといえば令に向けられたものだった。
周囲は混乱する。
その栗毛の髪はおとなしく整っているのに、今は逆巻いているようにさえ感じられる。
あの落ち着いた男は一体何処へ行ってしまったのだろうか?
「ああぁーっもう令くん! それいじょうやったら死んじゃうから!!」
女性の介抱をしていたなごみがその腰に抱きついて令を止める。
それで令は自分を取り戻したのかハッとして、やっと犯人を殴るのを止めた。
犯人は今やグロッキー状態で、令の片手にだらしなくぶら下げられていた。
「わ、悪い……。つい……」
令がバツが悪そうに頭を掻く――その時。
風前の灯火かと思えた犯人が令の腕を振り払って令の手から抜け出す。
そしてそのまま令の反対に駆けていこうとした時、犯人はまた盛大に転んだ。
あれだけ殴られたのだ、脚にきてないはずもない。
犯人はすぐに腕で身体を押し上げて立とうとしたが――何故か、それが出来なかった。
「ア、アレ……?」
犯人は必死にもがいて立ち上がろうとするが、何故か立てない。
それどころか身体を起こすことも出来ない。
地面に這いつくばって、まるで死にかけの虫のように蠢くことしか出来なかった。
犯人の頭の中にはいくつもの疑問符が浮かび、混乱していくばかり。
そんなところに令はゆっくりとやって来た。
やれやれといった風に犯人を見下ろす。
すると、辺りにサイレンの音が聞こえてきた。やっと救急車と、音から考えて警察が来たらしい。
やって来た時間を考えれば、どうやら既に誰かが通報してくれていたようだ。
いくつも重なったサイレンの音が響く。
間もなく、救急車とパトカーがやって来た。
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