そしてレコーディング当日。朝から蒸し蒸しすると思ったら、昼から雨が降り出した。九月にしては冷え込んできたけど、湿度は高い方が喉にいいとポジティブに考えて、オレはレコーディングスタジオに向かった。
「おはようございます! よろしくお願いします!」
オレは気を引き締めるように、大きな声で挨拶しながらスタジオに入った。エンジニアさん二人から「おはようございます」と返事がきた。
既に来ていた三人は、昨日とは違い私服姿だった。こうなると、それぞれ個性が出て面白い。
結衣は淡いピンクのカットソーの膝下ワンピース。
鈴は白いTシャツに原色の黄色いベスト、ジーンズの短パンという健康的な格好だ。
「みんなおはよう。早速一人一人録ろう。まずは紫苑、ブース入って」
体にフィットしたタイトな白いパーカーに、黒のミニスカートとロングブーツを合わせた紫苑は、はっとしたように手を前にかざす。
「後回しにして、うがいしてくる」
スタジオを出てしまった紫苑。
出端を挫かれて一瞬戸惑う。エンジニアはオレの様子を伺っている。事前に打ち合わせをしていたから、オレがアルバイトプロデューサーだということは知っている。その顔は、頼りないなあという表情に見えた。
オレが弱腰だから、舐められた態度を取られるのだろうか? もっとこう、命令口調とかのほうが、ついて来てくれるのだろうか?
オレはこめかみを押さえて首を振る。できもしないことを考えても仕方がない。
「じゃあ結衣、先に始めよう」
「あの、プロデューサー」
結衣が肩を縮めて、申し訳なさそうにオレを見る。
「今日は、見学させてもれませんか?」
「け、見学!?」
驚いて思いのほか大声になってしまった。ビクリと結衣が肩をすくめる。
「どうして?」
「体調が、悪くて。ごめんなさい」
どういうことだ。紫苑に続いて結衣までも。
スタジオを使うのはタダじゃない、当然利用料が発生する。今日録れないってことは、また別の日に予約しなきゃいけない。一番問題なのは、今日録り終る予定で全てスケジュールを組んでいることだ。デビュー前で今は時間に余裕があるからずらせるけど、簡単に日程を変えられると思われても困る。ここは強気に出るべきか。
今日録らないといけない理由を、オレにしては鋭い語気で説明した。
「ここには来れたんだから、もうひと頑張りして歌ってみよう、な?」
結衣は両手で体を抱きしめると、小さな声で「できません」と答えた。
「結衣、我儘を言うなよ。歌えない程、体のどこが悪いんだ」
結衣の、形のいい薄い唇が微かに動いた。
「なに? もっと大きな声で」
オレは結衣に顔を近づけた。すると結衣は一歩下がり、白い肌を真っ赤に染めて、みるみる瞳に涙を溢れさせた。
「ごめんなさい!」
結衣はスタジオから走り去ってしまった。
「結衣!」
突然の事で、オレは呆然と突っ立っていた。なんで結衣は逃げ出したんだ。
「今、結衣が出て行ったけど」
紫苑がスタジオに戻って来た。
「うん、なんかね、祐司ニイが結衣ちゃん泣かせちゃって」
「泣かせたって……!」
事実だけど。だけど泣く程の事、オレがしたか? いいや、断じてしてない。
「ふうん」
紫苑はオレを胡乱な目で見る。
「なんだよ」
「別に」
紫苑は視線を逸らして、長い指で喉を撫でている。
「紫苑、戻ったならブースに入ってくれ」
紫苑はチラリとオレを見た後、無言で中に入った。最悪な状況だ。
それでも、紫苑と鈴の収録は終わらせないと。
オレは気を取り直して、紫苑がマイク前に立つ姿に集中する。ヘッドフォンをつけたのを確認して、合図を送った後に曲を流す。
紫苑が歌う声が、オレたちのいるスタジオのスピーカーから流れてきた。
「……!」
声が、いつもと違う。
チーフエンジニアがオレを見る。
「プロデューサー、あの子の声、少し掠れてない?」
「はい。いつもはもっと張りがあるんですが」
ほんのわずかの違いだ。だけど本人も気づいてるようで、時々喉に手を当てている。後半になるほど走る癖は直ってないし、高音になると音程まで不安定になった。
「だめだ」
こんなに喉が枯れているんじゃ使えない。
どうしてだ、紫苑も、結衣も、今日に限って。
オレは拳を握りしめた。
「すみません、彼女も後日に回します」
「了解」
チーフはスケジュールの紙に赤いペンでメモをする。
紫苑が歌い終わると、ブースを出るように指示する。
「なんで喉を枯らしてるんだ。今日がレコーディングの日だって分かってただろ」
紫苑は眉を上げて、オレを流し見た。
「あら、気づかないと思ったのに。そうか、耳はいいんだったわね」
オレは拳を更に握り込んだ。爪の先が手の平に刺さる。
「オレを見下してるのは分かってるよ。だけど本番に合わせて体調を管理するなんて、プロなら最低限の務めじゃないのか?」
紫苑は何も言わず、鞄を持ってスタジオを出ようとする。その肩を掴んで引きとめた。
「どこに行くんだ」
「帰るのよ。結衣が録れないんじゃ、どうせまたスタジオを借りるんでしょ。私もその時にするわ。ベストなコンディションで来るわよ」
なんでこうも勝手なんだ。彼女たちのために、オレは努力してこの数ヵ月走り続けてきたのに。
「簡単にいうな! 本当にやる気があるのか!?」
バチン!
紫苑の平手が、オレの頬を打った。
「当たり前じゃない! 誰のせいでこんなことになってると思ってるの? 全てはあなたが力不足で頼りないからでしょ! あなたは自分の事ばっかりよ、あたしたちの人生を握ってるって、自覚はあるわけ!?」
紫苑はオレの胸を両手で突いた。よろけた拍子にテーブルの角が腰に当たる。痛みに顔を顰めると、紫苑はオレの胸倉を掴んだ。
「あなたさえいなかったら、もっとまともなプロデューサーが来ていたはずなのよ。どうしてくれるの!?」
細い眉を上げ、双眸をぎらつかせてオレを睨みあげる紫苑。鬱積した憤懣を、全てぶつけてきているようだ。
ここまで言われて黙っていられるほど、オレだってお人よしでも人間ができてもいない。大体、元はといえば、希望してプロデューサーになったわけでもなかった。
「やってられっか、こんなこと!」
オレは紫苑の腕を振り払って、鞄を掴んでスタジオを飛び出した。鈴の声が聞こえた気がしたけど、止まらなかった。
走って走って、雨でぐしゃぐしゃになって、
頭が冷えた。
……やってしまった……。
町の歩道にあるベンチに腰を下ろす。傘をさした通行人がチラリとオレを見て、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
張り付いた前髪をかき上げて、空を見る。雨が目に入らないように手をかざした。
「気は長い方だと思ってたのにな」
どこからオレは間違っていたのだろう。慣れない仕事を、必死でこなして来たのに。
“あたしたちの人生を握ってるって、自覚はあるわけ!?”
紫苑はそう言っていた。
人生を握ってる。そうだ、分かっているつもりで、分かっていなかったかもしれない。どんなアイドル生活を送るのか、オレの先導にかかっている。若い彼女たちの将来を預かっているんだ。紫苑は特に、親の反対を押し切って九州から上京して来たんだから、やる気がないわけがないじゃないか。あの質問は愚問だった。怒らせて当然だ。
「オレじゃ、だめだな」
明日、綿中さんに謝りに行こう。そして、プロデューサー業から降ろしてもらおう。それで来年、事務所に就職できなくても仕方がない。彼女たちに中途半端なことをしてしまったんだから。
「岩山豪からも遠くなるな……」
そう呟いてから、はっとする。
こういうところを、紫苑に見透かされていたのだろうか。
「はあぁぁーー……」
特大のため息が、ついに漏れてしまった。
やっぱり向いてない、プロデューサーなんて。
頭を抱えるオレに、容赦なく雨が降りそそいでいた。腰の鈍痛が、やけに身体に響いた。
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