翌日、オレは高熱を出してしまった。元々虚弱体質なのに、長時間雨に打たれていたせいだろう。
しばらくベッドの中で大人しくしていたけど、熱が下がらないとみると、午後には出かける準備をした。
勝手にスタジオを出てしまったこと、綿中さんに謝りに行かないと。
昨日と打って変わって雲一つない快晴。温かい日差しが町を照らす中、オレは厚着をしてマスクをつけ、のそのそ歩いてワタナカ音楽事務所を目指した。途中だるさに歩けなくなってしまい、諦めてタクシーを拾う。
綿中さんは社長室にいた。
オレが部屋に入ると奇妙な格好に驚いていた。席を勧められるも、断った。
「昨日は、申し訳ございませんでした」
ふらつきそうになるのを、両足で踏ん張って深く頭を下げる。
「鈴から聞いているよ。大変だったみたいだね」
オレは頭を振った。
「全ては、僕が至らないせいです。この仕事、辞めさせてください。せっかく期待を寄せていただいたのに、力不足でご迷惑をおかけする結果になってしまいました」
そのまま頭を下げ続ける。
しばらくして綿中さんから「顔をあげてよ」と声がかかる。
「年頃の女性を扱うのは、そりゃ難しいさ。でも、本当にここで辞めていいの?」
綿中さんは指を組んで、その上に顎を乗せてオレを見上げる。静かな表情だ。
「紫苑君は中学一年でオーディションに優勝してるだろ? それまではご両親はオーディション活動を応援してくれていたんだけど、いざデビューとなると上京しないと仕事にならないからね。ご両親は猛反対、一人娘というのもあって、実家から出さなかったんだ。初めはいろんなレコード会社から声がかかっていたんだけど、全てご両親が勝手に断ってしまって、どこも手を引いてしまった。紫苑君はご両親と対立状態になってしまったんだ。裏切られた気がしたんだろうね」
紫苑の斜に構えた態度は、その頃の反抗心からきているのかもしれない。
「だけど私だけが頻繁に足を運んで、ご両親を説得したんだ。家出しそうになっていた紫苑君も抑えてね、認めてもらってからじゃないと後悔するからって。高校から東京生活をする許しを得るのに、本当に時間がかかったんだよ」
綿中さんは思い出すようにして、苦笑した。
「私はね、東京に出てこられたんだから、もっと大手のレコード会社からデビューすることを勧めたんだ。協力するからってね。だけど私に義理立てして、うちからじゃないと嫌だってさ。分かるだろ? あの子のレベルなら、もっと盛大にデビューしてもいいはずだよね」
歌唱力もあって、独特の雰囲気があって、容姿もいい。勘もいいし感性もある。紫苑は歌手としての素質を全て持って生まれたかのようだ。
「彼女にとって楽なのはソロデビューなんだろうけど、ストイックに歌手を目指していたから、なんていうのか、コミュニケーション力に不安があるだろ? 友達もあまりいないし……。だから私は、グループでデビューさせることにしたんだ。余計なお世話なのかもしれないけど」
確かに、鋭い棘がありまくるもんな。オレも、どれ程傷つけられていることか。
「人材不足ってだけじゃなくて、私は本当に、祐司君なら彼女たちを纏められると思って頼んだんだ。どうかな?」
紫苑が焦っているのは分かっていた。年齢から来るんだろうとか、漠然と想像はしていても、本人から聞こうとは思ったことがなかった。
結衣だって、あんなに真面目な子がスタジオを飛び出すなんて余程の事があったんだろう。分からないまま、放置してしまっていいのか。
「綿中さん、オレ、もう少し続けてもいいのでしょうか?」
「うん。お願いしてもいいかい?」
「ありがとうございます!」
オレは勢い良く頭を下げて、そのはずみで倒れてしまった。綿中さんに抱き起こされる。
「祐司君、凄い熱だよ!」
「だ、大丈夫ですから」
オレは心配する綿中さんを振り切って、事務所を出た。ここに留まるわけにはいかない。紫苑の携帯に電話を掛けるが、出なかった。時間を確認すると、まだ学校にいる時間のようだ。オレはタクシーを拾って紫苑の高校に向かう。少しでも早く会って、紫苑に謝りたかった。
校門につくと、さすが芸能人御用達の高校だけあって、警備員が三人もいた。オレの格好を見ると怪しまれたので、身元が確かなことを証明するために免許証や学生証を見せて、警備員さんの傍で紫苑を待つことにした。
嘘偽りなく、オレが熱でぐったりしているのを見て、警備員の対応が優しくなった。授業を邪魔したくないから紫苑には連絡しないでくれと頼んでいると、授業終了後にオレが校門にいることを聞いたらしい紫苑が飛んできた。
「ちょっと、こんな所でなにしてんのよ!」
警備員が出してくれた椅子に座りながら紫苑を見上げると、後ろに友達らしき女性も一緒にいた。やっぱり芸能人の卵なのだろうか、ショートボブが良く似合う美人だった。
「紫苑、友達がいたんだね」
ホッとしたオレに反して、紫苑はあからさまにムッとする。
「わざわざ、喧嘩を売りに来たわけ?」
「違うよ、謝りに来たんだ。時間をもらえないかな?」
遠回しな言い方をしている、体力的な余裕はない。単刀直入に切り出した。
紫苑は友達と別れ、オレと近くの喫茶店に移動した。
「やだ、風邪? 近づかないで、あたしにうつさないでよね」
プロとしては正しい発言だが、オレとしては正直、ちょっと淋しい。
ウエイトレスに、オレはコーヒー、紫苑はロイヤルミルクティーを頼んだ。
「社長に色々と聞いたよ。すまなかった、オレ、全然分かってなかったんだな」
「ちょっと、やめてよ」
頭を下げると、紫苑はたじろいだ。
「あなたが頼りないのは事実だけど、昨日喉を潰してたのは、私の責任だもの」
レコーディング前日で気合が入り、練習をしすぎて喉を枯らしてしまったのだと打ち明けてくれた。
「完璧に仕上げたかったの。一発OKをもらいたかったのよ」
「どうして?」
紫苑は整った細い眉をつり上げ、わずかに頬染める。
「見下してたあなたが、結構いい曲書いてくるし、歌も上手かったし、私の気づかなかった欠点まで指摘してきて、悔しかったのよ」
見下されていたのか。
「それに、焦ってた。三つも下の鈴と組まされて年齢を感じたし、自信のあった歌で揺らいじゃって。……だから、あなたに当たってた」
ぽってりとしたチェリーのような唇をゆがめる紫苑。高い鼻梁、長い睫毛に色素の薄い茶色い瞳、そしてふわふわとしたライトブラウンの長い髪。改めて見ると、紫苑は全体的に西洋のお姫様のような品のある容姿をしていた。
ウエイトレスが、頼んでいた飲み物を持ってきた。
そのカップを持ってクイッと紅茶を飲むと、「熱っ」と紫苑は唇を押さえた。猫舌のようだ。
「娘を一人で上京させるなんて、親なら反対して当然だよ。優しいご両親じゃないか」
「優しくなんかない! 私のためを思うなら、すぐに認めてほしかったわよっ」
語尾が荒れた。上京した今でも、親子の関係は完全に修復していないようだ。
「オレは、親がいないんだ。父は生まれる前からいないし、母は高校の時に亡くなって。だから、心配してくれる親がいる紫苑が羨ましいし、大事にしてほしい」
オレは、少し目尻の下がった大きな紫苑の瞳を見つめた。
「だから、このタイミングでデビューして良かったんだって思ってもらえるように、今の紫苑の魅力を百パーセント、いや百二十パーセント引き出すように頑張るから。オレ、プロデューサーでいていいかな?」
「ふん」
紫苑は目を逸らして紅茶を飲むと、「熱っ」とさっきと同じ動きを繰り返した。少し涙目になって唇を押さえる。
「どうせあなたしか、プロデューサーはいないじゃない」
「いないからとかじゃなくて、オレは紫苑に認めてもらいたいんだ」
「なによそれ」
紫苑はしばらく窓の外を見て、オレに一瞬視線を戻してから下を見て、再びオレに目を合わせた。
「そんなウルウルした目で見ないでよ。分かったわよ、これからあなたの話をちゃんと聞いてあげるわ」
「そう……良かった」
目が潤んでいるのは、熱のせいだから。と言い訳をする前に、ホッとしてテーブルに突っ伏した。
どうしよう、意識が遠のいていく。これから結衣の所にも行って、昨日の話をしたかったのに。
「うそ、ちょっと、起きてよ。あたしにどうしろっていうのよ!」
戸惑う紫苑の声を聞きながら、こんな紫苑の声音は初めてだなあと思いつつ、オレは意識を手放した。
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