オレが座るソファーの隣に紫苑は座った。ペラペラとめくっている台本には所々付箋が貼ってあり、紫苑のセリフは蛍光ペンで線が引かれている。
「ここ」
紫苑が指差したのは、こんな場面だった。
* * * *
○真一の部屋(夜)
美雪、隣に座る真一をソファーに押し倒す。
美雪「抵抗しないの?」
真一「できないよ」
美雪「昔から変わらないのね。……大嫌い」
美雪は真一に口づける。
動かない真一を残し、美雪は静かに部屋を出る。
真一「……ごめんな」
* * * *
「……」
体が石化して風化して崩れそうになった。
どう読んでもキスシーンだ。
オレに、どうしろと。
「あたし、キスしたことがないの」
「え?」
意外だった。
「祐司、教えて」
うえええええ――――!?
知らないよ! 女の子とつき合った事すらないのに!!
……とは、口が裂けても言いたくない。
オレは真っ白になったまま、滝のような冷や汗をかいた。
「オレより、真一役の役者さんに聞いた方がいいよ。それこそ慣れてるだろうし」
「あたしは、祐司に聞きたいの」
紫苑はピッタリとオレに寄り添った。少し眦の下がった色素の薄い瞳が、オレの表情を覗き込んでいるのが視界の端に映っている。
「……」
紫苑はオレの言葉を黙って待っていた。
その視線がつらい。沈黙が痛い。
「い、嫌ならほら、キスNGってことにしよう。いまどき“したフリ”っていうのも珍しいだろうけど、紫苑は新人だし本業の女優じゃないし、きっと許されるって」
紫苑はムッとしたように、厚みのある唇を尖らせた。
「じゃあどうするの? フリだなんて、余計分からないわよ」
そんなの現場で教えてもらってくれ。
オレが黙っていると、紫苑は痺れを切らしたように眉をつり上げた。
「祐司、抵抗しちゃだめだよ」
紫苑はオレの肩に両手を乗せて体重をかけてきた。不意打ちでオレはあっさりソファーにあおむけに転がってしまい、上から顔を紫苑に覗かれた。
台本と同じシチュエーションだった。
「カメラは上から? どれくらいまで唇を近づければいいのかしら」
紫苑の顔が近づいてくる。長いウェーブ髪がオレの頬をくすぐった。柑橘系の香水の匂いがする。体が密着して、紫苑の細くて柔らかな肉体と心地よい重みを受け止めていた。
「もっと?」
スッと高い紫苑の鼻が、オレのにくっつきそうな程顔が近い。紫苑が瞬きをするたびに、長い睫毛の起こす風を感じそうだ。
「まだ不自然かな……」
紫苑は囁いて、整った顔を更に近づけてくる。紫苑の息を唇で感じた。
オレの脳天から足先まで、なにかが一気に駆け抜けた。
「待て待て、オレがやる!」
オレは華奢な紫苑の肩を掴んで、グイッと身体を押し返した。
ヤバイヤバイヤバイ、本当に、キスしてしまいそうな勢いだったじゃないか。
バクンバクンと、心臓が早鐘を打っていた。
「祐司?」
「変わって、交代」
紫苑に主導権を握らせるのは危険だと判断して、ポジションを入れ替えた。紫苑をソファーに寝かせてオレが上になる。ソファーにふわりと紫苑のライトブラウンの髪が広がり、さながら王子のキスを待つスノーホワイトかオーロラのようだ。
「舞台とかだと、こんな感じだって聞いたことがあるから、それをするからね」
オレはテーブルに携帯を置いて、ムービー録画をセットした。
「い、いくよ」
オレは紫苑に顔を近づけた。実際にキスしないと分かっていても、緊張する。
紫苑の頬に手を添えると、白い肌は絹のようにきめ細かくて、オレの無骨な手で傷つけてしまいそうで怖くなった。
ゆっくりと顔を近づけると、紫苑は瞳を揺らして目を閉じた。見てなくていいのかな?
角度をつけて口づける寸前に、頬に当てていた手の親指を紫苑の唇に乗せた。オレは自分の親指にキスをして、わざと軽く音を立ててから唇を離す。
これならかなり際どい角度から映しても本当にキスしているように見えるはずだ。親指を押しつけてるから唇が圧迫されて変形するし、結構リアルだ。
「録ったの、見てみよう」
ソファーに座らせると、紫苑はホンワリとした表情をしていた。
「なんだか、本当に祐司とキスした気分」
そういうこと言うなってば、もの凄く、照れくさいだろ。
ムービーを再生して、二人並んで携帯の画面を覗き込む。画面が小さいというのもあるけど、殆ど真横から録ったのに唇がくっついているように見えた。
それにしても、改めて見ると恥ずかしいな。
「すごい。やっぱり祐司、なんでも知ってるのね」
「そんなことないよ」
母が元アイドルだったから、少しだけ見聞きしていただけだ。
「ボイトレ法も詳しかったし、作詞作曲できるし、歌も上手いし、車のナンバー覚えちゃったし」
「……」
「あたしがどんなに怒っても叩いても、全部受け止めてくれる」
そんな風に見ていてくれたのか。
「あたしこんなだから、やっとチャコと親友になれたけど、友達少ないし。遊んでるって思われて、軽い男しか寄ってこないし」
紫苑も苦労しているようだ。
「祐司だってあたしがキスしたことがないって言った時、どうせ嘘だと思ったんでしょ?」
「えっ、いや、嘘だとは」
意外だとは思ったけど。
「でも結衣だったら、すぐに信じたでしょ?」
そこでなぜ結衣の名前を出すんだ。
襟足をさすりながら、なんと言おうか言葉を選んでいると、膝を思い切り叩かれた。
「もういい! あたしもやってみるから、祐司寝て」
はいはい。
オレの上に紫苑が覆いかぶさって来た。オレと同じように紫苑は自分の携帯をテーブルにセットしてムービーを録る。
さっきもそうだったけど、受け身って緊張する。タイミングが分からないからかな。
「祐司は、結衣が好きなの?」
「は?」
なんなんだ突然。
紫苑はオレの腹に座って、ジト目でオレを見下ろしている。
「最近目と目で通じ合ってる感じだし、結衣ってばすぐ祐司の手を握るでしょ?」
ファンと近くで接する場合は、事前にオレの手を握るのがお決まりのようになっていた。元々異性に触れられなかったのをオレがスパルタで慣れさせたから、結衣にとって、もう大丈夫なんだと確認する作業なんだと思うけど。
ってことを、紫苑に伝える。
結衣が男性恐怖症になったきっかけは、プライベートなことなので黙っておいた。
「あとあれだ、結衣はオレに友達宣言をしたからな」
「友達? ただの?」
紫苑はホッとした顔になった。
「なら、いいけど」
ずいと紫苑が顔を近づけてきた。そろそろ始まるのかな?
「祐司、覚えてる? CD十万枚以上ヒットした時の、約束」
約束?
オレは記憶を辿ったが、思い出せなかった。
紫苑のハーフのように彫りの深い可憐な顔が近づいてきて、唇が触れる寸前で止まる。
「感謝のキスを、するって」
「あ……」
“あたしたちのシングルが十万枚を超える日が来たら、感謝のチューをしてあげる”
そうだ、そんなことを言われた気がする。
紫苑の手がオレの頬に添えられ、そしてオレの唇を細い親指がノックした。
「ねえ祐司、この指いる? いらない?」
至近距離でオレを見つめながら、紫苑は吐息のように甘く囁く。
紫苑の長い睫毛が揺れていた。
瞳が妖艶な色を湛え、濃厚な空気が漂い始める。
オレは思わず、生唾を飲んだ。
「……いるに、決まってるだろ」
声が掠れてしまった。
紫苑はオレの唇に親指を乗せて、その上に口づけた。
強く唇が押し付けられて、唇と唇が少し触れた、ように感じたのは気のせいだろうか。
「あたしのファーストキスを受けなかったこと、絶対に後悔するからね!」
顔を離した紫苑は頬を染めて、細い眉を吊り上げていた。
もう後悔してるかも。……なんて。
この後は軽く雑談をして、怪しい車が停まってないか確認してからオレは家に帰った。
自宅のベッドに倒れ込むと、オレは大きく熱い息をはいた。
三人三様の魅力にあてられて、オレは精神的にピンチかもしれない。
十二月に入り、龍一との勝負は残り一ヵ月を切っていた。負けてしまえば母の墓に岩山豪を引っ張りだせないばかりじゃなく、オレは彼女たちとサヨナラをしなければならなくなる。
あともう踏ん張りだ。
――しかし決戦の前に、オレと紫苑の行為が大きな波紋を起こすとは、この時には知る由もなかった。
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