物書きとして売れるほどの才能はないと気づいているが、どうしても諦めきれずに文章を綴っている。
高瀬涼はノートPCに向かいながら、取り敢えず思い付くままに言葉を並べていく。くだらない言葉が積み重なっても、結局はつまらない文章なのだと分かっているが、夢を捨てきれずにいた。自称小説家と名乗っているが、原稿収入は雀の涙ほどで、担当の編集者に小さな執筆仕事を回してもらったりしている。当然、それだけでは生活が苦しいので、時々、知人の伝で怪しげなアルバイトを紹介され、収入の足しにしていた。
大きく背伸びをして、自分の肩を揉み解す。机の上にあるマグカップを手に取って、冷めたコーヒーを飲んだ。執筆作業を中断して、PCでメールチェックをした。編集者からの仕事の依頼はここに届くようになっている。携帯電話でもチェックはできるのだが、細かい内容を把握するのは、画面表示が大きいPCのほうが楽である。ジャンクメール以外は、特に何もメッセージは届いてなかった。出版業界も斜陽産業なので、売れない小説家に回ってくる仕事も少ない。
携帯電話が振動した。ディスプレイ画面には東山智子と表示されている。
「もしもし。良かったぁ、繋がった。今日は時間ない?」
「あるけど、もう夕方だよ」
「大丈夫だよ。旦那が急な出張になって、いないの」
「分かった。七時くらいに駅前のいつもとこで待ち合わせよっか?」
「うん、嬉しい。今夜は帰らなくても良いから」
短いやり取りをして、高瀬は電話を切った。人妻である智子と知り合ったのは彼女がよく行くスーパーマーケットだった。レジを待つ列が同じになり、彼女は先に精算を終えて、袋詰めのスペースで手早く整理していた。高瀬も精算を終えて、レシートを受け取る。何となく彼女を視線で追っていると、彼女が買った商品を一つだけ置き忘れていることに気付いた。高瀬は足早にそれを回収し、彼女を追い掛けた。そして声を掛けたのである。
それから何度も同じ場所で顔を合わすようになった。軽く会釈をする程度の間柄だったが、智子は特に警戒している様子もなく、高瀬も積極的に彼女と関わろうとは思っていなかった。彼女が既婚者であろうことは明白だし、買い物の量や頻度で確信している、年齢も高瀬よりも上なので、恋愛対象とは意識されていないだろう。
高瀬は二十八歳だった。身長は高く、痩せ気味の体型で、スタイル自体は悪くない。顔はどちらかと言えば童顔で、色白だ。見た目で女性を惹きつける魅力は備えていないが、女性の警戒心を掻き立てるような雰囲気は醸し出していない。否、そうなるように心掛けている。一方で彼女は控え目な美人と言った印象だった。可愛さや綺麗さを殊更、強調しない感じが好感を持てる。彼女が独身だとしたら、高瀬は普通にアプローチをしていたかもしれない。
二人の関係性が変わったのは、高瀬が喫茶店で読書をしている時に彼女が現れたその日だろう。元気がなさそうで、暗鬱とした表情をしていた。高瀬の思い過ごしかもれないと思ったが、彼は思い切って彼女に声を掛けてみた。
それから、二人の距離が徐々に縮まっていった。何となく話の流れで連絡先も交換したので、会う頻度も増えていった。会話を楽しむことができるのなら、もはや関係性の進展には時間が掛からない。
何となく彼女が高瀬に好意を示していると実感し始めて、彼女の夫の悪口がただの陰口ではないと気付いた時に、清いお喋り友達の関係が白昼の不倫関係へと変化したのだった。そして、彼女は秘めたる本当の姿を、徐々に、でも確実に露わにし始めたのだった。
智子の生活圏から少し離れたところにあるラブホテルで、高瀬は彼女との秘密の関係をいつも楽しむ。彼女は専業主婦であり、夫への愛が薄れただけで即離婚と割り切れるほどの情動的な人間ではない。元はと言えば、彼女の夫が堂々と浮気を始めたことがきっかけなのだ。智子は最初、我慢してそれを受け入れてしまった。それが間違いだったのは言うまでもない。ただ夫の気持ちが薄れただけで、経済的に困窮することはなく、表面上は仲の良い夫婦であり、ある意味、仕事だと思えば、智子には苦痛ではなかった。そんな時に高瀬が現れたのだった。
ホテルの部屋では二人は静かだった。饒舌な彼女も、少し妖艶な色っぽさを纏う。
高瀬は彼女と並んでソファに座り、彼女の肩に腕を回した。いつも前戯の始まりの合図はその行動だ。特に決めているわけではないが、智子に対しては同じような手順を踏んでいるような気がする。
抱き寄せて、唇を重ねる。優しくキスをした。何度も。
ゆっくりと時間を使う。
学生の頃は、ただ自分の性的欲求を満たすことだけに終始していたが、今の高瀬には楽しむ余裕がある。否、単純に学生の頃はモテなくて、今のほうがそういう機会が多いから、自然とそうなったのかもしれないが。
キスの時間が長くなる。
唇と唇が重なり合っても、なかなか離れようとしない。
舌がそれぞれの口から伸びて、絡み合う。
高瀬は徐々に気持ちが高揚し、彼女をソファに押し倒した。
智子は微笑みながら、その先を促しているように見える。
今夜は時間がある。
彼女がそう言っていたのを思い出す。
ゆっくりと楽しめる。
高瀬は智子の体を服の上から舐めるように観察してから、ゆっくりともう一度キスをした。
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