おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第二十話:奇蹟

公開日時: 2022年4月5日(火) 09:00
更新日時: 2022年11月4日(金) 23:25
文字数:10,000

二〇一二年十月二十六日 金曜日

 奇蹟、という言葉がある。

 人間の能力や自然の力を超越した何かが起こる時、人は奇蹟という言葉を使う。

 まるで神がかったようなことが起こった、などと言う言葉から、宗教との結び付きも強い言葉でもある。

 俺は生まれてきて十七年と少し、ただの一度もそんな奇蹟などにはお目にかかったことがない。きっと奇蹟を期待するなど、絶望したも同然の状況だ。

 そう、まるで今の俺たちのように。


 つい先ほど中間テストも全て終了し、開放感に浸りつつ部室に来た。軽音楽部の部室に来ることがこんなにも楽しみだったのか、と自分でも驚いたがそれはやはり、一つの絶望感に繋がる感情だった。

「……」

 部室のドアを開けて、アップライトピアノの椅子に腰掛けている一也かずやを見て、ほんの一瞬絶句してしまった。

 この一週間であからさまに一也の表情は変わっていた。体調が悪いというレベルではない気がする。目は充血し、若干血走っているし、何より目の下の隈が酷かった。本来当たり前のことなのだが、まるで病人の様相だ。

「よぉーあきら

 それでも一也の態度は以前と変わらない。ならば俺も、できるかどうかはともかく、それを貫き通すしかなかった。

「おぅ。テストはどうだった」

「いやぁ、芳しくねぇなぁ」

 ふぅ、と嘆息して一也は座り直した。それは体が本調子ではないから出たものなのか、テストの出来具合から出たものなのか、俺には判別できなかった。テスト期間中は殆ど軽音楽部の連中とも顔を合わせなかったので、一也の異変には気付けなかった。やりとり事態はいつもの一也とあまり変わらない気がしたのだが、はやりあからさまに病状が悪化していると判ってしまう一也の顔つきに、俺はちゃんといつも通り接していられるのか、判らなくなってしまう。

「勉強会開いたのに……」

 俺は気持ちを切り替えるつもりでそう言った。

 あの勉強会は俺が主催で開いた訳ではないが、あの時は関谷せきたに水沢みずさわ谷崎たにざきも、しん桜木さくらぎも本当に俺たちの面倒を良く見てくれた。そのおかげで今回の中間テストは、俺はかなりできたと思う。

「あん時はあん時で勉強んなったよ。でもテストまで覚えてらんねぇじゃん!」

 それも道理という気もするが、慎や関谷、水沢に教えてもらっている時にノートくらい取ってあるだろうに。

「ノートとか見ればいけるだろ……」

「いや、もうノートに何書いてあっか、いまいち判らなかった……」

 それはもはや自己責任だ。これでは折角の関谷や水沢の気遣いが浮かばれない。

「ノートを整理して書けない奴はばからしいぞ」

「ばかじゃなかったらそもそも勉強教わらない……」

「それもそうか」

 成績優秀者である姉のように生まれて来れれば良かったな、という言葉が頭を過ぎったが、これは何とか言わずに済んだ。『いつも通り』の基準が難しくなってきている。いくら一也がそれを望んだとしても、生まれるだの何だの、とにかく生死に関わる話はしてはいけない気がした。更に言うならば、今の話は姉のように生まれてくれば、病にもかからずに、死なずに済んだかもしれないという会話になりかねない。これからは特に様々なことを危惧しながら話さなければならないということだ。

「うーっす」

「あからさまに覇気がない慧太けいたの登場だ」

 助けに船とはこのことだ。俺一人では会話を巧く進められないかもしれなかったところだ。

「その様子だとお前もヤバかったらしいな」

 にやり、と一也は笑った。軽音楽部には一也と同じクラスの人間はいない。だから、恐らくは一也の豹変ぶりに気が付いた慧太の表情も一瞬だけ曇ったのは俺にも判った。

「ヤバいどこじゃねぇよ文化祭どうすんだよ!」

 わざとなのか、慧太が声を高くする。

「お前は最悪個人練習でもできるだろ」

 そうだ。ギターボーカルなど、音源さえあれば一人で練習できる。一番練習しづらいのはやはりドラムだ。竿物隊はアンプがなくとも辛うじて音は出るし、どうにでもなる。だがドラムはやはり本物のドラムセットで叩いて練習しなければ、中々練習にはならないものだ。ドラム経験は俺にはないが、その程度のことくらいは俺にも判る。

「ヤバいのは尭也たかやさんだな」

 藤崎ふじさき尭也はばかではないが、頭は悪い。それが勉強ができるばかではない、という意味なのかどうかは聊か測り兼ねる。

「でもあの人は勉強はできっからな……。ばかなのに」

 慧太の認識も大して変わらないのだろうが、勉強ができる方だったか。話の判る男なのだろうが、それがイコール勉強ができるという事実には、俺の中ではなっていなかったのだが、これは認識を改めねばなるまい。

「誰がばかだと」

「ざーっす!」

 際どい、いや聞かれたようだから際どくもなんともないタイミングで尭也さんも部室に入ってきた。

「尭也さんは勉強ができる癖にばかだと慧太が言いました」

 藤崎尭也という男は短気で気が短い。しまった、同じ言葉を重ねてしまった。ともかくそのくらい尭也さんはすぐに怒る。なので俺はすぐに保身に走った。

「聡!」

「言ったのは慧太だろうが、思ってんのはてめえだろ聡!」

 良くお判りで。

「思ってますが口には出してませんよ」

「今出したも同然だろうが!」

 何だ、このやり取りは今流行しているのか?

「しかしそれに気付けるとは尭也さんもそれほど鈍い訳ではなさそうだ」

 おっと、思わず口に出てしまった。いかんいかん。

「てんめぇ……。ナースモノ、持って来てやったんだけどよぉ」

 じろりと睨んでから、にやりと笑う。まぁ見てみたい気持ちはあるが、だからと言って済みませんでしたなどと言うつもりもない。どうせ短気なくせに寛大なこの男のことだ、貸し渋りはしないだろう。

「おぉー!おれは?」

「おれは!」

 一也と慧太が色めき立つ。こんな状況になっていても一也はまだ元気だ。妙な勘繰りをするのならば、本当に一也の身体はまだこういったDVDを必要としているのか、という疑念はある。男性としての機能が正常に機能しているのかどうか。

「また猥談か」

「おぉ慎、尭也さんがネタ持って来てくれた!」

 俺の思考を断ち切って、ずん、と偉そうな態度で慎が部室に入ってきた。その堂々さたるや、テストの出来は今回も良かったのだろうな。全く羨ましい。などと思ったのもほんの一瞬で、やはり慎も一也の顔を見て、一瞬だが顔を強張らせた。

「その言い草では慎は要らんのだろう。その分は俺が借りよう」

 そう反撃をさせて頂く。

「要るわ!」

 ふん。ならばまた猥談か、などと言うな。自分だって好きなくせに。

「おぅ、好きなの持ってけ。何なら返さなくていいぜ」

「まじでか!」

 なるほど、きっと尭矢さんもこれは貰い物で、処分に困っていたということか。だとするとこれらが全て尭矢さんの好み、という訳ではではないということなのか。ならば藤崎尭矢の好みとは、ここにないものだろう。ここにあるのはまずメイド、CA、女教師、家庭教師、看護士、風俗、素人……。

「なるほど。ここに熟女モノがないと言うことは、尭矢さんの好みは熟女ってことか」

「ちげぇわばか」

「でしょうね」

 俺も言ってみただけだ。俺も一也も慧太も慎も、熟女モノが好きだとは言わなかったからここにはない、というだけのことだろう。だが、尭矢さんの好みのものがここにはないというのは事実のような気がする。

「おはようございま……す!」

 そんな本当にどうでも良いことを考えていたら関谷と瀬野口せのぐち先輩が部室に入ってきた。関谷は机狭しと広がりを見せるアダルトDVDの数々に絶句したようだった。

「ここここ、これ……」

「関谷は見ないで宜しいものだ。即刻忘れるんだ。これはなかったこと。いいな」

 恰好などつきもしないが、もしも関谷がこのDVDの内容を見たとしたら、恐らく絶句どころの騒ぎではないだろう。ジャケットだけでも刺激が強いものもある。

「何を出している。没収されたいか?」

 対して瀬野口先輩はやはり冷静だ。いつか機会ができたとしたら、是非とも付き合った男性遍歴などを訊いてみたいものだ。

「ちち、ちがう!しまう!これからしまいますー!」

 ば、と慧太がメイドモノと家庭教師モノを手にとってバッグに入れようとする。慎と一也も慌ててそれに習う。看護士モノは机の端の方に数枚重なっているので俺はそろりと手を伸ばす。

「ちょ待て!そっちはおれだろ!」

「え、俺だってこれ見たいし」

 慎が手にした風俗モノをがっつりと掴んで一也が声を高くした。そんなにむきになることか。数枚借りているのだから、見終わったものからシェアして行けば良いではないか。

「お前教師モノだろうが!」

「だけとは限らないだろ!」

 確かに。慎の言うことは正しい気がする。俺は教師モノも風俗モノもあまり興味がないので、四枚ほど重なっていたDVDをすっとバッグにしまった。

「ばか者どもめが……」

 嘆息しつつ、呆れた口調で瀬野口先輩が言う。瀬野口先輩は男にとって新しいネタが入ることの重要性をまるで判っていない。それを女子高生に理解しろというのは酷な話だし、何をどう説明しようと言い訳になるだろう。こればかりは仕方がないことだ。深い深い、埋められることのない男と女の溝だ。

「おい聡、こっそりてめえの分だけ隠してんじゃねぇよ」

「……まったくデリカシーのない男だ」

 尭也さんを睨みつけ、俺はそう言った。もはや先週の阿呆のような会話で色々と曝け出してしまっている。なので今更隠そうとは思わないが、ことはできるだけ穏便に済ませたいではないか。

「男とはばかばかりだな」

「全くだ」

 ふう、と更に嘆息しつつ言った瀬野口先輩に、尭矢さんが同意した。やはり藤崎尭矢とはばかなのだな。

「これは全て藤崎の所有物ではないのか?」

「そうだけど」

 つまり瀬野口先輩は尭矢先輩を含めて、男とは、と言ったのだ。それに気付けないとは。

「そういう意味での納得だったか。これは済まない」

「はは、ヤオイの女も変わんねぇって」

 なんと。やはり藤崎尭矢という男はばかではあるが賢い男だ。瀬野口先輩の皮肉も判った上でそう言っていたのか。だとしても、尭矢さんらしいことではあるが、返す言葉が直球すぎる。

「だからデリカシーがないと言われるんですよ」

 一応、何の得にもならないだろうが瀬野口先輩のフォローに回る。

「言ってんのはてめえだけだろうが!」

 確かに、尭矢さんにそんなことを言える後輩は俺だけだろう。一也や慧太、慎はどことなく、この藤崎尭矢という男に尊敬の念を抱いている気がする。いや俺もある意味では尭矢さんには一目置いてはいるが、それとこれとでは話が違う。

「そうだな。私も常々思っているが口には出していない」

「うわー!出したも同然だろうが!」

 またこれか。まぁ尭也さんが狼狽える姿というのも中々珍しい。これはこれで面白いので構わないのだが。

「ちょ、声がでかい。うるさいですよ」

「おぉー、これは凄いね」

 という声と共に部室に入ってきたのは伊関いぜき先輩だった。手に持った携帯電話で、恐らく尭也さんとDVDがワンフレームに入るように数歩下がると、ばしゃ、と写真を撮った。

「ちょ、伊関、何写真撮ってんだ!」

「もちろん美織みおりに送るの」

 美織とは確か、可愛いと噂の尭也さんの彼女の名だ。まだお目にかかったことはないが、その内会うこともあろう。文化祭に現れるかもしれない。

「やめろばか!すぐデータ消せ!」

「あ、伊関先輩、ちわす」

 狼狽える尭也さんを余所に、俺は伊関先輩に手を挙げた。

「おーっすぅ。皆好きだねぇ、こういうの」

「健全な男子高校生ですから!」

 言い訳なのか、開き直りなのか、ともかく慧太がそう言った。だが本来こう言ったものは十八歳未満は閲覧禁止のはずだ。これらを見て、例えばパソコンだったら再生記録を消去し、返却、もしくは誰かに譲渡、いや、それは足が残りそうなので焼却処分すれば、あっという間に完全犯罪の成立だ。意外と簡単にできるものだな。完全犯罪。

「まぁそうだねぇ。でもさ、ホンモノの女の子にも目を向けなさいよねー」

 アニメやゲームのキャラクターに夢中になるよりもいくらかはマシだろう。映し出されているのは実在する人間の女性なのだから。それでも虚構のキャラクターであることには何の違いもないのだが。

「相手にしてもらえなければこうもなろう」

「そんなに酷くないすよ!」

 良く言えたものだ。俺は少々不安になるぞ。俺のことをきちんと男性として見てくれる女性が現れるのかどうか。俺自身が見つけられるのかどうか。

「どうだかなぁ」

 にやりと伊関先輩は笑った。慧太にとっては中々辛辣な言葉かもしれないな。

「少しおとなしく、いや大人になればいいんじゃないか?」

 慧太にとっては随分と難しい注文だろう。元気でけたたましいのが渡樫慧太のトレードマークだ。それが無くなってしまうとはもはや渡樫慧太ではなくなってしまう。それに慧太はイケメンではないが、決して不細工ではない。大人になれとまでは言わないが、この喧しい性格を何とかすればいくらかは印象も変わるだろう。

「お前だって彼女いないくせに!」

 まぁそうだな。そこは同意しよう。だが俺は女性と付き合ったこともあるし、女性経験もある。そこは慧太とは違う。

「そうね、聡君もね!」

「俺はまだしばらくは妄想の世界で充分です」

 まだ彼女は要らないかもしれない。正直に言えば、今の状況のままでは、彼女ができてもきちんと向き合えない気がするのだ。

「余裕ぶっこいてるつもりだろうがその実おれらと変わんねぇかんな!聡!」

「や、それを言うならおれと聡は慧太とは違うぜ」

 そう喚いた慧太に、すぐに一也は返す。一也もやはり判っていたか。一也の女性遍歴は知らないが、伊関先輩の前にも何人かと付き合ったことがあるのかもしれない。

「だから言うなって!それを!」

 判って言っていたのか。まぁしかし、それほど焦らなくてもそのうちできる。

 きっと。多分。恐らく。

「はいはい、ともかく練習始めるわよー。一年生は今回もごめんね、補佐に回ってくれる?」

「了解ですー」

 ぱんぱん、と手を叩いて伊関先輩が仕切った。部室の奥の方で雑談をしていた一年生たちも返事をする。文化祭が終わったらきちんと機材を使わせるように配慮しなければならない。

 一つ一つ、目の前の状況によって、意識を切り替えて行かねばならない。

 今はともかく練習だ。

「つーか伊関!マジで!データ消せ!消してくれ頼むって!奢っから頼むって!」

 まったく騒がしいことこの上ないな。

「えー、涼子さんのとこでケーキ三つと紅茶二杯くらいなら勘弁してあげよっかなぁ」

「お、奢っから!奢っから!」

 随分と必死だな。美織女史とは下ネタ厳禁の女性なのかもしれない。だとするならばよくもまぁこんな男と付き合えるものだ。

「そんなにか。伊関先輩、消す前に俺にこっそり送っておいてください。これは面白いことになりそうだ」

 貰えなくても構わない。今この場で藤崎尭也をからかえるのが楽しい。だが、貰えたら、きっともっと楽しいだろう。

「てんめぇ聡!」

「何?聡君、藤崎にいじめられてるの?」

 伊関先輩も悪乗りを続ける。伊関先輩ほどの人ならば、藤崎尭也などいつでも手玉に取っているのだろうが、きっと伊関至春しはるという女は基本属性がサディズムなのだろう。怖い女だ。

「そうなんです。なんとか反撃をしたいと思っているんですが、いつもやられっぱなしで枕を涙で濡らしています」

「それは可哀想だね、じゃあこっそり送っておくよ」

 ビボバ、と携帯電話を操作しながら伊関先輩は言った。しかし俺の携帯電話はピクリとも動かない。それもそのはずで、伊関先輩は俺の連絡先を知らないのだ。少し考えれば判りそうなものだが、流石の尭也さんも頭に血が上っているということなのだろう。いや愉快愉快。顔色が悪いながらも一也もニヤニヤしながら事の成り行きを見守っている。あんな表情ができるのならば、きっとまだ大丈夫だ。

「伊関ー!」

「え?ナポリタンとコーヒーとシュークリームも?どうしよう新崎君、そんなに奢られたら流石に藤崎が可哀想……」

 あまり長くからかっていてもさすがに藤崎尭也とはいえ気の毒になってきたのだろう。それともただ単に煩くなってきただけなのに飽きたのか、伊関先輩は締めに入った。

「ですね。じゃあ諦めるとします」

 なのでおれもそれに乗っかることにした。充分に尭也さんをからかえた。ただただ、満足だ。

「てめぇ、いつか覚えてろよ……」

「い、伊関先輩……」

 ギロリと俺を睨み付ける尭也さんの視線に怯えた振りをして、俺は伊関先輩に視線を投げた。

「えっ、もしかして報復される?おっけ、送るね!」

 またしてもビボバ、と携帯電話を操作して、伊関先輩が言う。

「わぁかった!わかったから!」

 これは是非とも美織嬢に会ってみたくなったな。尭也さんが文化祭に連れて来ると良いのだが、こんなやり取りの後では連れてくるかどうかは怪しい。ここは恐らく友人関係なのであろう伊関先輩に頼んでみるとしよう。

「……」

 俺は、先ほど尭矢さんが教室に入ってきた瞬間の顔を見なかった。恐らく、尭矢さんでさえも、一也の変貌には少なからず驚愕したはずだ。普段の藤崎尭矢らしからぬこの狼狽えぶりは、もしかしたら場の雰囲気を暗くさせないためなのかもしれなかった。だとするならば。

(頭が下がる思いだな……)




「聡」

 部活帰り、中央公園の中央噴水広場に差し掛かったところで声がかかった。関谷は今日はvultureヴォルチャーで夕飯を摂るとのことだったので、俺だけ先に帰ってきたのだが、それは結果的に正解だった。

「いると思った」

 そんな予感はしていたのだ。十一月も近い。流石に七時前ともなれば日は落ちて、辺りは暗い。公園の街頭照明は数多く照らされているので、足元が覚束ないということはないが、それでも少し離れれば人相などは判らない。

「だってよ……」

 そう、沈んだ声と共に俺の背後から現れたのは渡樫慧太だ。

「まぁ判る」

 短く、そう答えた。

「だろ」

 一也の病状が恐らくはかなり進行してしまったこと。あの顔色を見れば動揺しない訳がない。関谷が今日vultureで夕食を摂ると言ったのも、恐らくそのことについて、水沢と話したかったからなのかもしれない。

「あいつ、あと何日くらい生きられんだろ」

「判らん」

 慧太の問いに俺はできるだけそっけなく答える。今こいつに必要なのはきっと冷静さだ。こいつの不安に同調して、一緒になって沈んではいけない。一也にとって一番の親友である慧太は、毅然としていなければいけない。だから、そのために今俺ができることを、俺なりのやり方でやるしかない。

「文化祭までもつのか……」

「判らん」

「聡!」

 俺のそっけない口調に意地焼けたのか、慧太は声を高くした。

「俺は一也じゃない。あいつ自身が判らないんだ。俺に判る訳ないだろう」

「そら、そうだけど……」

 淡々と事実を語る。今は想像上の話や、可能性の話などしてはいけない時だ。本来ならば、ばかやろう頭を冷やせ、と言いたいところだが、直情型の慧太では無理もないだろう。

「お前の不安材料を和らげてやる言葉なんか俺にはないぞ」

 だから、あえて冷水のような言葉を俺は慧太に浴びせる。逆効果かもしれないが、それならそれでいいと踏んだ。溜めているものを発散させなければまたすぐに同じ状態に陥るだろう。だから、逆効果なのであれば、大声を出して、不安なことを吐き出してしまえば、きっと今よりはいくらか気持ちが楽になるはずだ。楽になれば、少しは冷静な判断もできるようになるはずだ。

「判ってっけど……!」

「どうしたいんだ」

 結論から言えば、俺に何を話したところで、一也の死は避けられない。死ぬ奴は死ぬ。そんなことなど俺と出会う前から判っていたことだろうに。そういう思いは少し前ならば強かった。というよりもそんな考えしか浮かんでこなかっただろう。だが、今の俺は慧太のメンタル面に悪影響が出やしないかと危惧している。

 これは俺にも友達ができて、少しずつ変化が生じているということだ。これは認めるしかない。一匹狼を気取った、ばかで短慮な俺よりも、よほど良い変化だ。だから、できるだけのことをこいつらに返そう。俺を変えてくれたこいつらへの恩返しと言っては大げさだが。

「一也に死んでほしくない」

「無理だ」

 それは誰もがそう思って、願っていることだ。だが、その願いは叶わない。瀬野口一也はあと数ヶ月の内に死ぬ。これは絶対だ。その上で、俺たちに何ができるかを考えなければならないのに、今更その現実から目を背けられる訳がない。

「決めつけんな!」

 俺が決めた訳ではない。病院へ行き、様々な治療と検査を受けた結果、そういう結論が出たのだから。

「あいつの病気が治るかもしれないと、お前は言うつもりか?」

 医師の診断も純然たる事実も無視をして。

「なんかさ、なんかキセキとか起こってさ!そういうの、たまに聞くじゃん!」

 そこまでか。一也の死から目を背けたくなる気持ちは充分に判る。あいつに死んで欲しくないという思いも判る。だが、そういう逃避はするべきではない。そういう現実逃避はその時だけは楽かもしれないが、結局奇蹟は起きない。自分が期待した奇蹟は起きず、一也は死ぬ。そうなれば、何に絶望して良いかも判らなくなってしまう。自分自身を、見失ってしまう。そんなことにもなりかねない。

「奇蹟は奇蹟だ。稀にも起こらないことだからそう言うんだ」

 我ながら冷たいことを言っているという自覚はある。これは俺自身にも言い聞かせているようなものだ。頭の芯を冷やしておかなければ、こいつのように現実逃避をしてしまう。一也から、目を逸らしてしまう。

「信じたっていいだろ!」

「あぁ。信じるのはお前の自由だ。だが期待はするな」

 奴の病が治るかもしれない、などと信じていても何一つ変わらない。俺だって心の弱いただの人間だ。一也がいなくなった後のことは考えたくない。一也の病が治り、元気になってくれたらどれほど良いか。だが、それは本当に奇蹟でも起きない限りは有り得ない。そして俺は生まれてこの方そんな奇蹟などお目にかかったことがない。きっと一也も同じだ。奴は虚勢だとしても自らの死を受け入れようとしているのに、俺たちがそこから目を逸らす訳にはいかない。逸らしてはいけない。それは一也に対しての裏切り行為以外の何物でもない。何故それが判らない。

「期待は、信じるからするんだろ」

 確かに慧太の言うことには一理ある。だが、それとこれとは別問題だ。期待とは自分以外の何かにするものだ。自分の力が及ばないから、他の何かに期待する。それは自分自身でできる何かを放棄してしまう要因にもなる。

「そうかもしれんな」

 俺は短く答えて、言葉を選ぶ。どういう言葉ならば、慧太に対し効果があるのか。

「……例えば、だ」

 少しの沈黙の後、俺はそう言った。

「お前は例えば自分が完全な女になれると思うか?性転換手術とかではなく、な」

 極端な例えだが、的を射ているはずだ。

「……ふざけてんじゃねぇよ!」

「ふざけてなどいない。お前が言っているのはそういった類の話だぞ」

 土台無理な話なのだ。勿論、一也の病が治療を受けて治るものならば、俺だって回復を望むし、期待もする。だが、そうではないのだ。一也は医師から死の宣告を受け、それを受け入れた。匙を投げた医者でさえ、一也の病の治療法を知る医者がいたとするのならば、その医者に期待するだろう。だが、そんな医者はいない。いないからこそ、一也は死ぬ。そしてその一也は、自らの死を受け入れようと必死に毎日を笑って過ごしている。

「一也がぜってぇ死ぬって、避けられないってお前は信じ込んでるのかよ」

 そう言う慧太の言葉に否定も肯定もせずに俺は歩き出した。このまま立ち話も疲れる。噴水周りにある一番近いベンチまで歩くと、脇にベースのケースを降ろし、腰掛けた。慧太もそれに倣い俺の隣に座った。

「何でもかんでも自分の狭い視野で判断しようとするな。俺だって一也には生きていてほしい。だが、無理なものは無理なんだ。病は治療を受けなくとも直るものとそうでないものがある。あいつのは後者だ。それも医者ですら匙を投げるほどのな。俺たちがあいつの病が消えてなくなればいいと願っているだけであいつの病が治る訳がないだろう。お前の希望とやらは厳しい現実から逃避しているだけだ」

「……」

 恐らく慧太本人も判っていることなのだろう。どうにもならない現実が訪れることは、慧太も判っていることなのだ。だけれど、弱い自分の心を守るために、必死に抵抗しているのだろう。

「毎日、刻一刻と迫る死の恐怖に一番怯えているのは、お前じゃない」

「……」

 誰より辛いのは、慧太でも俺でも、ましてや伊関至春でもない。瀬野口一也本人だ。そう言ってうつむいた俺の背後から、今は一番聞きたくない男の声がした。

「おぅアホウども。丸聞こえ」

 今一番聞かれたくない相手の声が俺たちの背後から飛び込んできた。 

第二十話:奇蹟 終り

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