おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第三〇話:堂が歪んで経が読めぬ

公開日時: 2022年5月5日(木) 09:00
更新日時: 2022年11月5日(土) 02:15
文字数:10,000

二〇一二年十一月二日 金曜日

 堂が歪んで経が読めぬ、という言葉がある。

 平たく言ってしまえば言い訳がましい、いや、正しく言い訳、というところだ。読めない経を歪んだ仏堂のせいにする、つまりは責任転嫁のことだが、自身を棚に上げて、歪んでいる仏堂を責めてばかりの坊主は確かに信用出来ない。歪んだ仏堂に文句を言う暇があるのならば、経が読めるよう努力の一つでもしろ、というのが恐らくは正しいのだろう。

 しかしすべての事象に於いて、それができる人間というのはやはり少ない。

 多くの人間は自身を棚に上げて、棚に上げたことを忘れてしまったまま、自分以外の何かのせいにする。何かに遭った時、その原因を自分の中に求めることができる人間は、やはり少ない。


「どへぇー……つ、疲れた」

「だな」

 今日の俺達は過密スケジュールだ。いや、だった。今すべてを終え、ほぼ机だけになった第二音楽室、即ち軽音楽部の部室で俺達軽音楽部の部員は脱力していた。

「お疲れ様。ま、ともかく後は明日の本番だ。今日はゆっくり休むように」

「そうね。明日演奏できません、なんてないようにね、みんな」

「あーい」

 慧太けいたが答える。慧太は元気だ。あれ以来精神的に参って俺に泣き言を言ということがなくなった。それは伊関いぜき先輩とのことが某かに作用しているのかもしれなかったし、慧太自身、成長したのかもしれない。

「茶でも飲むとするか。部費で出すから誰か、買い出しを」

「俺が行きます」

 俺は瀬野口せのぐち先輩が全てを言い終えない内に立ち上がった。

「え、いいですよ先輩!」

 一年の川口かわぐちが言う。先輩に使い走りをさせたくないという有難い気遣いだろうが、俺は軽音楽部としては一番の新顔だ。一年生を差し置いて明日俺は演奏をする。このくらいはさせてもらいたかった。

「二年とはいえ俺は新参だ。後輩らしい仕事も少しくらいはさせてくれ」

 俺は笑顔になって川口を制する。幾ら一年生にベース経験者がいなかったとはいえ、急に入ってきた俺が文化祭のステージに立つことを面白くないと思っている一年生もきっといるはずだ。だから、できることはやっておきたかった。

「あ、じゃあ私も行くね」

「……ま、まぁいいが」

 水沢みずさわが立ち上がった。意外だったが、恐らくは香織かおりとのことを聞きたいのだろう。

「え、じゃ、じゃあわたしも」

「まぁまぁ香織ちゃんは休んでて!」

 香織も慌てて立ち上がったが、そこは水沢が制した。何か意味がある行動なのかもしれないし、単純に水沢の好奇心なのかも判らない。極個人的には是非とも香織と二人で行きたい所だったが、水沢の厚意も無駄にはできまい。

「えっ、で、でも」

「いいからいいから」

 水沢が俺や香織に対してここまで強引になったことはない。もしかしたらこれは何かあるのかもしれない。

「じゃあ行くか、水沢」

「うん」




 瀬野口先輩から金を預かり、コンビニエンスストアへ向かう途中、俺は今日のことを振り返っていた。

 まずは午前中。

 午前中は通常の授業だった。午後は明日からの文化祭に備え、全校を挙げての準備時間となる。いや出来るところは部活動の時間ですでに色々と準備を始めている部もあった。俺達の演奏に備えての練習もそれに当たる。しかしそれよりも何よりも、五反田衣里ごたんだえりとの会話の方が俺の記憶には残った。

新崎しんざき、軽音部って出番明日だっけ?」

 午前中の授業が終わるや否や、五反田が俺に話しかけてきた。

「あぁそうだな。夕方だ。トリの吹奏楽部の前になる」

「ふーん。……泣かしたらぶん殴るからね」

「話の流れをまったく踏襲できんが、心に留めておく」

 香織が報告したのだろう。香織は水沢と仲が良いが、クラスの中では五反田と仲が良い。もしかしたら俺とのことを相談していた可能性だってある。

「何であんたなんか……」

「ま、まぁそれは俺もそう思うが」

 態々本人を目の前に言わなくても良いではないか。そんなことは俺だって重々承知していることだ。

「え?あ、ごめん!そういう意味じゃないのよ!」

「どういう意味だ?」

 歯に布着せぬ物言いは五反田らしいし、それで俺が傷ついた訳でもなく、気分を害した訳でもない。しかしそれでも五反田は食い下がるように言葉を続けた。

「いや、確かにあんたなんか、ってのはあるんだけど、それはあんたがあんただからって訳じゃないのよ」

「……何だって?」

 言っていることが支離滅裂だ。訳が判らない。

「えーとね、新崎ってさ、ちょっと偽悪っぽいとこあるじゃん」

「偽悪?わざと悪いように見せかけていると?この俺が?」

 いや、言われてみればそう受け取られてもおかしくはない。俺が常々思っている『誰からも好かれるような人間ではない』という気持ちは、確かに偽悪と言ってしまえばそうなのかもしれない。

「そう。人から話しかけられなくても当然。何故なら俺は変人の類だから、ってさ」

「言った覚えはないが……」

 覚えはないが、そう思われている。少なくとも五反田には。これは迂闊だったな。

「でもどっかで思ってんでしょ」

「まぁそうかもな。完全に否定することはできん」

 中々鋭い。いや五反田は元々人を見る目があるようにも思う。俺とこうして分け隔てなく話してくれるというのは、俺の中では五反田が変わり者だということになるのだが。

「でも、自分で言うほどあんた偏屈でもないし、やな奴でもないし」

「そうか……。ならば何故あんたなんかと?」

 そもそもの話がそうならば、応援の一つでもしてくれれば良いと思うのだが。

「つまりよ、あたしの香織が誰であろうと男のものになるということが、あたしをそう言わしめた!」

「なるほどな」

 女友達とはいえ、特に親しい仲の人間が誰かと付き合うということになればそういう思いにもなるのかもしれない。男の俺には判らない世界だ。

「だから、何で寄りにも寄って新崎なんかを好きになったのよって新崎個人を貶めるつもりはなかったのよ」

「ま、フォローは有難く受け取っておく」

 五反田がとことん俺と香織の仲を反対するという訳ではないということが判っただけでも良しとしよう。

「それにね、先々月にさ、あたしが香織をカラオケに誘った後、あんたんとこ行ったことがあったでしょ」

「あぁ」

 確か初めてまともに香織と話した日だ。

「あの時に打ち明けられたの。あんたのことが好きだからちゃんと話したいって。だから行って来い、って送り出したって訳」

「なんと」

 やはり五反田に相談していたのか。この分では水沢や涼子りょうこさんにも話していた可能性は高いな。涼子さんの俺への態度は、今思えば執拗だったようにも思える。

「それにまぁ、あんたにも少しは感謝してるのよ」

「また訳の判らんことを言い出したな。俺は五反田に感謝される何かをしてやったことなど無いはずだぞ」

「そういうところが偽悪だってのよ、あんたは」

 苦笑して五反田は言った。なるほど、こういう所か。勉強になる。

「済まん」

「あんたのおかげでみふゆと仲良くなったわよ」

「ほほう、いつの間に。いや待て、そういうことなら俺は本当に何もしていないぞ」

 確か、以前五反田は自分の心象のみで水沢のことを気に入らないと言っていた。誰それから聞いた噂ではなく、自分で思い込んでいる、と五反田本人が言っていた筈だ。

「あんたがみふゆも香織と同じタイプだって言ったんじゃない。だから香織の友達なんだし、悪い奴のはずない、って思えるようになったのよ」

 なるほど。水沢と香織は確かに大別すれば似ているタイプだ。控えめで大人しくて可愛らしい。そしてどこか一本芯が通っていて、あれで中々強情なところもある。

「それは俺のおかげではなく、お前の懐の深さだろう」

 水沢を嫌っていたのは外野からの情報ではなく自分自身の中に原因があることを五反田は判っていた。そういう、自分の外に原因を向けない五反田だからこそ、人を理解するのも早いのか。

「んー?」

「ま、まぁいいか……」

 全てを言って聞かせても納得はしないだろう。

「新崎君、時間だよ」

「あ、あぁ、そうだな」

 ナイスタイミングだ、香織。

「お、香織。ちょっとくらい新崎を振り回してやんないとダメよ」

 五反田の意識も香織に向いたようだ。今日から香織は眼鏡を外してコンタクトレンズにしている。昨日似合っていると言ったのが功を奏したのだろう。良い傾向だ。

「振り回す?」

「そ。少しくらい我儘言ってやんないとね。あんた控えめだからさ」

「だ、だめだよっ」

 そして五反田の言葉もナイスタイミングだ。香織を良く知る女友達ならば、香織が控えめで大人しい人間だということは熟知しているだろう。そしてその奥ゆかしさ故に、中々自分を出せないということも。だから五反田や水沢のように仲の良い友達が、こういうことを言ってくれると本当に助かる。

「ま、確かにそのくらいはしてもらわないと張り合いがないな。さて行くか」

 赤面している香織を余所に俺は立ち上がる。バッグを片手に、教室の後ろに置いてあるベースを取りに向かう。

「明日見に行くから頑張ってねーん」

「ありがとうな、五反田」

 ひらひらと手を振る五反田に応えて、俺は香織と教室を出た。

「え、あ、あの……」

 狼狽え過ぎだが、それも関谷香織という人間だ。




 午後からの準備のために、さしあたって移動できるものだけは体育館に移動させなければならなかったのだが、女子が夕方から最後の練習に入るため、動かせるものは殆どなかった。部室から持ち出す物をリストアップし、軽音楽部の後の出番になる吹奏楽部の手伝いをするために、俺達は総出で体育館へ向かった。

「吹部って部員多いんだから俺ら行かなくても良くね?」

 一也かずやがぼやくように言う。一也も元気だ。無事に明日を迎えられそうなのは俺達も、一也本人も感じているのだろう。瀬野口先輩が憂いていた一也の英雄的行動もどうやら杞憂に終わりそうだが油断はできない。出来るだけ不自然にならないように、その時々で誰かが一也の傍にいるように心がけている。

「吹奏楽部の手伝いだけではないんだ。飾りつけをしたり、シートを敷いたり、椅子を並べたりと、色々やることはある」

「それって吹部じゃなくて実行委員会の仕事なんじゃ……」

 俺が言おうとしていたことを一也が代弁したような形になった。

「ま、そうだが、旧生徒会長が在籍する部活動なんだ。そのくらいは手伝ってもらわなければな」

「姉ちゃんの個人的な都合じゃん!」

 ま、そのくらいならば軽音楽部から人員を出そう、くらい簡単に言ってのけたに違いない。何せ瀬野口早香はやかのやることだ。

「まぁまぁ一也。吹部って可愛い子多いじゃんか。眼福眼福」

 そうは言うがな慧太よ。口に出しては言わんが、軽音楽部もかなりの粒揃いだぞ。

「力仕事に女子部員が駆り出されるもんかよ」

「それもそうだな」

 それでも全く女子がいないという訳ではないだろう。壁の飾りつけなど、筋力が要らない仕事は山のようにある。それに一般女性よりも筋力のない男だっている。逆に一般男性よりも筋力のある女子生徒も勿論いることだろう。こうした行事の仕事などは適材適所が基本だとは思うが、適材適所とは男か女かの性別だけで量れるものではない。

「文化祭って、生徒会の引継ぎ行事でもあるんですか?」

 先月あたりか、二年生から新しく生徒会長が決定した。顔も名前も知らない男だったが、それに引き代わって、瀬野口先輩が生徒会の仕事をすっぱりやらなくなったかというと、それがそうでもなかったようなので、俺は気になっていたことを口にした。

「まぁそうだな。文化祭は新生徒会長の最初の大仕事。そして旧生徒会長の最後の大仕事だ」

「なるほど」

 名目上は既に瀬野口先輩は生徒会長ではないのだろう。だからと言って新たに生徒会長になった人間に全てを任せて高みの見物、という訳にもいかないようだ。

「うちの文化系の部活も大体文化祭で三年は引退って形らしいですからね」

 聞けば手芸部や科学部、料理部、工作部など、様々な部活動が文化祭を最後に三年生が引退をするという形になっているらしい。

「夏で三年が引退する文化系部活動もあるがな。これから手伝う吹奏楽部など、夏にきちんと公式な大会がある部活動はそうだな」

「なるほど」

 野球部やサッカー部のような大規模な部活動は勿論、ハンドボール部やバドミントン部など、前者に比べれば競技人口が少ない部活動でも夏の大会はある。それが終われば三年生は、我が校の進学率を落とさぬよう、さっさと受験勉強を始めやがれと言わんばかりに引退に追いやられるという訳だ。

「瀬野口先輩、生徒会に軽音楽部にと大変でしょうから、今日だけは色々言うこと聞きますよ」

 恐らく一也の事も気を揉んでいるに違いない。今日だけは、と無駄に強調して俺は言った。一也を差し置けば、きっと一番辛い状況なのは瀬野口先輩だ。忙殺されていた方が余計なことに気を回さなくて済むのかもしれなかったが、言わずにはいられなかった。

「そうか。じゃあその言葉に甘えさせてもらうとしよう。済まないな、あきら

「いえいえ」

 苦笑に似た笑顔を返した俺の学生服の袖がつん、と引っ張られた。

「?」

 振り返るとすぐに袖を離したのか、少し離れた位置にいる伊関いぜき先輩と目が合う。

「……」

 これはつまり。

「一也、トイレ」

 俺は直ぐに前に向き直り、前を歩く一也にそう声をかけた。

「あいよ」




 トイレに入り、少々の時間を稼ぐと階段へと向かう。下に降りれば体育館への連絡通路になるが、上へ上がれば生徒にも開放されている屋上だ。上の踊り場に伊関先輩が立っていた。

「伊関先輩」

 屋上に出ると早速声をかけた。横断幕などを作っているどこぞの部員が数名、きゃっきゃと騒いでいるが、それほど騒がしい訳でもない。

「ごめんね、急に」

「いえ」

 しおらしく伊関先輩は言う。こうして物静かにしていると女学生といった雰囲気がぴったりなのだが、中々どうしてこの伊関至春しはるという女は言いたいことをずけずけと言う女だ。

「色々気遣ってもらっちゃってごめんね」

「謝ることじゃないですよ。ま、気遣ってるのは俺だけじゃないですけど、誰も伊関先輩に謝ってほしいなんて思っちゃいないです」

「可愛くないなぁ、その言い方」

 俺の言葉が諧謔だと判るくらいには落ち着いているということか。

「俺に可愛げがあっても……」

「ま、そうだけど」

 くすり、と笑って伊関至春は欄干に肘を着き、俺に背を向けた。

「……ダメ元で聞くけど、どこまで知ってるの?聡君は」

 俺が誰かに口止めでもされていると踏んだのか。だが別段水沢からは口止めはされていない。

「一也と先輩がvultureヴォルチャーで別れ話をした、ってことは聞いてます」

「経緯までは知らないよね」

「流石にそこまでは」

 恐らく、一也には狙いがあったに違いない。別れ話を態々vultureでしたということは、別れたという事実を周囲に知らしめるためだ。その場で話を聞いていた涼子さんがそれを独自の判断でするはずはない。恐らく一也が涼子さんに頼んだのだろう。だから涼子さんは一也の病のことも知っていた。

「そっか。……聡君にはね、ちゃんと話しておかなくちゃって思ったんだ」

「何故です?」

 冷たい言い方になってしまうが、既に別れている一也と伊関先輩、それと慧太と伊関先輩の話は俺には関係の無いことだ。一也の『いつも通り』に準じていれば、という前提は付くが。

「いつだったか、太田君と会った時さ、聡君、自分の話、してくれたでしょ。私が聞きたいって言った訳でもなかったのに」

「あぁ、聞きたくもない話を聞かせまして……」

 わざと悪し様に返す。あの時は何故バンドの誘いを頑なに断るのかを理解してもらうために話したのだ。あの時、俺と伊関先輩は初対面だった。見ず知らずの人間には話して聞かせても構わない、と思ったからなのかもしれない。

「ホンットに可愛くない!」

「すみません、今のはわざとです」

 くるり、と振り返って俺に非難の色を示してくるが、声に怒気はない。

「面白くもなんともないけど、聞いて」

「判ってます」

 もはや傍で見ている外側の人間ではいられないのだ、俺も。慧太がパニックを起こした時は、まだどこかで外側を感じていた。きっとそれは俺自身の覚悟も踏み込みも足りていなかったからだ。そんな外側を装っている俺に、涼子さんも全てを話す訳にはいかなかったのだろう。

「私ね、一也君が病気だって知ってて付き合ったんだ」

「そこだけは、俺も聞きました」

 その時の一也の心情を推し量ることは、俺にはできない。あいつは、自分が死ぬと宣言された上で、それでもどうしようもなく伝えたかった気持ちを、伊関先輩に伝えたのだ。

「そか。一也君がね、返事はなくても良いから話を聞いてくれ、って……」

「一方的な告白、ってことですか」

「うん。死ぬ前に自分の気持ちだけはちゃんと伝えておきたい、って」

「あいつらしいですね」

 そう言われてみればそれは確かに一也らしい行動に思えた。

「……同情、しちゃったのかな、私。でもね、その時の気持ちは本当に嬉しかったんだ。付き合ってる時も、本当に幸せだったし、でも凄く悲しくていっぱい泣いた」

 とはいえ、だ。

「結局、一也から別れ話を切り出されたんですよね」

「うん。もう先の無い自分にこれ以上付き合わせる訳にはいかないって。もう充分、沢山のかけがえの無いものを貰えたから、って」

 それを口に出した時の一也の覚悟は、どんなものだったのだろう。俺では想像すら覚束ない。

「……フリで始めたことが、そのうち本物になっちゃうってこと、あると思う?」

 そんなものは幾らでも、実に簡単にある。思い込みだってその一つだ。そして思い込みから始まることなど幾らだってある。

「一也を忘れようとする気持ちですか」

「御名答」

 苦笑、なのだろうか。寂しげな笑顔で伊関先輩は言った。

「ホントにね、本当に、色々考えたんだ。多分、私は狡い女なんだと思う。付き合ったのも、過程はどうであっても、一也君の気持ちに応えてっていう形だった訳だし」

「だから別れるのも、一也の気持ち優先で事を考えた」

 伊関先輩の心に影を落としているのはそこだろう。一也がそう言ったから。一也がそう思っているから。一也がそう願っているのなら。では伊関至春本人の意思は?といったところだろう。

「うん……」

「それのどこが狡いんですか」

 だから俺はそれをあえて言う。

「え?」

「誰も彼も聖人君子じゃあるまいし、我が身可愛さで物事考えるのなんて当たり前ですよ」

「当たり前……」

 それだけではいけないと頭では理解している。だけれど、どうしてもそれができない時だってある。

 知り合う前に俺を悪く言っていた慎がそうだったように。今思えば、慎のことなど些事でしかないが、慎の弱さだけを責めることもできない。だから俺は慎本人の口から全てを聞いて、慎の気持ちも背景も理解できたように思う。

「自分の外に原因を求めるのが逃げだって思ってるんでしょう。確かに自分の内側に矢印を向けられる人間は少ないですし、それを見れば身に詰まされる思いにもなります」

「うん……」

 それが易々とできないから、人間は思い悩む。ここ数か月で俺はそのことを学んだように思う。どこかで俺は悪くないと思っているから、自身を見詰め直さないから、自分以外の何かに原因を求めてしまう。しかし、そんなことは誰にでも当たり前にある。今、偉そうに目上の先輩に講釈を垂れている俺だって、そんなことは幾らでもある。

「だけど、それを言うなら一也も同じですよ。目には目をって理論にはなりますが、一也の気持ちの在り処はどうあれ、今はこうして別れたっていう現実があるんです。どれだけ口惜しかろうと、先輩に次を、先を歩んで欲しいって、奴が願った結果なんです」

 だけれど、どこかで棚に上げなければならない時もある。しかし、棚に上げたからには、きっちりとそれを棚から降ろすことも忘れないようにしなければならない。自分で棚に上げたのだから、自分で棚から降ろさなければならない。

「先に進まなきゃ、って思わなくちゃいけなかった私の今、ってことだね」

「そうです。……冷たいかもしれませんが、それが自然なんですよ」

 それが、一也と伊関先輩が出した、結論だ。

「自然、なのかな」

「傍から見れば、一組のカップルが別れただけの、何てことの無い些事です」

「……慧太君ね、一生懸命なんだ。色々と」

 話の矛先を変えてきたか。自分の狡さを言及するのに俺を巻き込んでも無意味だと悟ったのだろうか。

「それは、そうでしょう」

「それが判っちゃうんだよね」

「俺も他人のことをとやかくは言えませんが、奴も嘘が下手な人間ですからね」

 これは棚に上げることができない事実だ。俺は自分で自分にメッキを施していた覚えはなかったはずだが、自分の行動や思惑が他人に筒抜けなほどに判り易い人間だと思ったこともなかった。

「そうだね、聡君も下手だよね。バレバレだったのに」

「う、煩いですよ」

 それに俺には言い訳がある。仏堂が歪んでいたという事実しか見せられない言い訳でしかないのだが。

「そういうね、強い気持ちに惹かれるんだよね。とは言え、っていう気持ちも強いんだけど」

「そこは、判らないでもないです」

 一也と別れて、思いを寄せてくれる慧太とすぐに付き合うということに抵抗があり、尚且つ一也がいなくなってから、というのも心苦しい。そんなところだろう。

「慧太君の気持ちは本当に嬉しいし、応えてあげたいんだけど……」

「キツイですね」

 判る、とは言えないことだ。窮地に立たされている、と言っても良いほどに。

「聡君から話せることって、あるの?」

「いや、今は……」

 一也の、慧太や伊関先輩に対する気持ちを俺は全て聞いた。しかしそれは俺の口から告げることはできない。一也の思いというもののせいにしてしまうことは簡単だが、これを黙っているのは俺自身の責任の問題だ。

「そっか」

「でも、一つだけ」

 当然、知っていることだろうが。

「何?」

「知ってるかもしれませんが、一也は『いつも通り』を望んでます」

「それは聞いてるよ」

 だろうな。真っ先に伊関先輩には言った言葉だろう。死に至る病に侵され、それを理解したうえで付き合った男女が別れた訳ではなく、どこにでもいる普通のカップルが別れただけ。一也はそうしたかった。自分がいなくなり遺されてしまう者達のために、無理矢理にでも。

「なら俺が言った、傍からって考えも重視しないといけないんですよ」

「私が誰と別れようと付き合おうと些末事、ってこと?」

「聞きようによっちゃ意地悪な聞こえ方になりますが」

 だから、失恋のショックから立ち直れば、新しい恋に生きれば良い。今の伊関至春にはそれが難しい、と判ってはいてもそう思わざるを得なかった。一也自身も言っていた。いずれ傷は癒えるものだと。

「それも判ってるつもりなんだけどね……」

 一也の死、という事実は一生忘れることはない。だが、一也と気持ちを通じ合せたことも、一也を好きだった気持ちも、時間と共に薄れて行く。逆に、そうならなければいつまでも前には進めない。伊関先輩もそれは判っているのだ。判っているからこそ、今、もう既に一也への気持ちが薄れていることに、思い悩んでいる。

「でも、少し安心しました」

「これでも一応、食欲無くすくらいには悩んでるんだけど」

 だからと言って、一也が死んで傷が浅いということは有り得ない。一也が死ぬその瞬間まで、ずっと思い、悩まなければならないことなのだ。

「すみません。でも俺も茶化すつもりはありません。原因は外側にあるかもしれない。でもその原因を基に、自分自身で考えを生み出さないと、いつか外側のせいにしてしまいそうで、俺も怖いんです」

 一也が死んだせいだ、などとは一生、口が裂けても言いたくない。

「あ、ごめんね。私だけが悩んでる訳じゃないのにね」

「いや、先輩や慧太に比べれば、俺の悩みはまだ軽い方です」

「軽い重いじゃないけどね」

「そうですね」

 人を気遣える余裕もある。きっと慧太がいれば、伊関至春は大丈夫だ。

「結局、心の赴くままにしかできないんだけどね」

「それが答えで、今は良いと思います」

 後悔など後に幾らでもすれば良い。後悔してそれを礎にして、きっとまた立ち上がることはできる。まだ生きている一也達と、一緒にできることがある以上は、心の赴くままに行動するだけで良い。

「安心した、って言ったよね」

「えぇ、まぁ」

 さすがは伊関至春。鋭い女だ。

「それって助言ってことでいいのかな?」

「さて、どうでしょうね」

 くるり、と伊関至春に背を向けて俺は言った。俺の行動や思惑など、どうせ筒抜けなのだろうが。

「偏屈者。香織もこれから苦労するわ」

「ほっといて下さい。さ、二人でフケてるのがばれると後々面倒な奴らがいますから、早々に戻りましょう」

 そう言いながら俺は歩きだした。きっと伊関至春の言いたいことはこれで全てなのだろう。もしもあるのならば、それはまたその時に聞けば良いのだ。

「だね。ありがとね、聡君」

「いえ、こちらこそ」

第三〇話:堂が歪んで経が読めぬ 終り

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