おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第十話:虚勢

公開日時: 2022年3月6日(日) 09:00
更新日時: 2022年10月31日(月) 12:41
文字数:10,000

二〇一二年九月二十六日 水曜日

 虚勢きょせい、という言葉がある。

 空威張りや見せ掛けだけの勢いのことを指す言葉だ。虚という字はむなしいだとか、実体のないという意味があり、つまりはその勢いは実体のない見せ掛けだけのもの、という訳だ。

 良い意味では「武士は食わねど高楊枝」などという言葉もあり、どんなに自分が低いところにいても理想は高く持て、だとか、見栄を張る虚勢ですらなくしてしまってはいけない、ということになるが、どちらに転んでも虚勢は虚勢でしかない。


 無念すぎた。自分自身の行いが。

 軽音楽部の連中は揃いも揃ってお人好し過ぎた。だから俺はこいつらの期待に甘えた。やれる癖にやらず、勿体つけて、自分が原因でバンドを切られたことをあたかも心的傷害のように気にして。

 こいつらの期待が心地良かった。やってくれと頼まれることにどこかで快感を覚えていた。たいした腕も持ち合わせていないくせに。

「え、や、やだ瀬野口せのぐち君、な、何言ってるの?」

「何って、ホントのこと」

 あくまでも軽く、そう一也かずやは笑った。空気を重苦しくさせないためなのかもしれない。けれど、もしかしたらこいつは本当に、確実に迫り来る自らの死を覚悟して受け入れているのかもしれなかった。でなければそう簡単に笑うことなどできないような気がする。

「じょ、冗談でしょ?ね、ねぇ新崎しんざき君……」

 そんな風に俺に問われても俺には返す言葉が何がなかった。ショックを受けているのは俺も同じだ。こんな、見るからに健康そうなのに、どこも悪いところなどないように見えるのに、死ぬなんてことが有り得るのか。

「まぁそれでもいんだけどよ、あと二、三ヶ月後にさ、おれがいなくなってその時に死んだって聞かされるよか良くね?」

 それは受け取る側の問題だ。俺は後から聞かされたとしたら、憤って気が狂うかもしれない。どうせ真実ならば、早い内に知っておいた方が良いような気もする。現実感のない話でも真実なのだとしたら、今聞けて、まだましだったのかもしれない。

「ね、ねぇなんで黙ってるの、新崎君。渡樫わたがし君もながみ君も……」

関谷せきたに、気持ちは判るけど、落ち着いて、受け入れてくれ」

 すぐには無理だ。そう言ってやりたかった。だが、そう言ったところで、何も変わらない。唯一つの非情な現実がそこにあるだけで、俺たちは何もできない。死を迎えるという本人がそれをできたからといって、全員がそれをできる訳ではないのだ。人に依るだろうが、ある程度の時間は必要になる。

「そ、そんな、無理だよ!そんな冷静になれる訳ないよ!だって瀬野口君が!」

 言いながら関谷は床に膝を付いた。立っていられなくなってしまったのか。相当なショックなのだろう。

「もしおれのこと好きだったとかならごめんな」

 にへ、とふざけながら一也は笑った。

「一也、少し不謹慎だぞ」

 それだけを俺は短く言った。もしもそれが本当だったとしたらどうするつもりだ。俺のくだらない勘など二度と当たらなくて良いが、それでも人の気持ちのことなど判らないものだ。

「あ、悪ぃ」

「立てるか?関谷」

「……」

 俺は関谷の肩を支えて、入り口から一番近いカウンター席に関谷を座らせた。関谷の顔は完全に血の気が引いていた。涼子りょうこさんがお冷を出してくれたのでそれを受け取ると、関谷の前に置く。涼子さんもことの顛末は知っているのだろう。だからこそ、もう冗談だと思うこともできなくなってしまった。

「関谷、ありがとな。でもな、おれがこんななのも絶望したくねぇからなんだよ。判るか?おれもできりゃ死にたくねんだけどさ、何やっても無理っぽいから、だとしたら……。まぁあんまこんなこと言いたかねんだけど、あと二ヶ月だか三ヶ月だか判んねぇけど、楽しい思いだけしてぇじゃん」

 恐らくはそういうことなのだろう、と今気付いた。一也は恐らく、こうした反応などもううんざりなのだ。だからこそ、自らおちゃらけて雰囲気を少しでも軽くしようとしてしまう。

「多分最初はしん慧太けいたも、みんな今の関谷と同じ気持ちだったと思うんだけどさ、おれの我儘に付き合ってくれてんだよ」

「……だから文化祭だったって訳か」

 どうしても文化祭のライブに俺と一緒に出たかった。そういうことなのだろう。態々学外でバンドを組んで、というよりも確かに話は早い。俺がこんなにへそ曲がりではなかったら。だから、弟の死を知っている姉も、姉の親友の伊関至春いぜきしはるも、俺を勧誘しに来たのだろう。

「ま、そういうこと」

 にこ、と信じられないくらいの明るい笑顔で一也は言った。俺は、その笑顔を無視できるほど薄情な人間ではない。俺、新崎あきらは情に厚く義理堅い。愛想は良くないし、渡樫の言葉を借りればいつも仏頂面をしている上に、他人に好かれるような人間ではない。だが、決して薄情な人間のつもりはない。

「詠」

 殆ど睨むような目つきで俺は詠を呼んだ。

「な、何だよ……」

 安心しろ。この事実を黙っていたことに関しては、俺は誰を責めるつもりもない。

「お前たちのバンドの練習曲、全部俺に寄越せ。コード譜かなんかもあるならそれもだ」

「新崎君」

 つい先ほど言ったはずだ。一也が全てを応えるなら、軽音楽部に入るつもりだ、と。

「何だよ聡、急にやる気んなっちゃって」

 判ったよ、瀬野口一也。お前がそのつもりなら乗ってやる。

「一也、お前の残りの日々が何日かは知らん。お前にその間、楽しいことだけ残してやりたいって気持ちは俺にもあるにはあるんだがなぁ」

 せいぜい偉そうにふんぞり返って言ってやる。

「……」

「そんなくだらないことよりも、この俺が、お前らと組みたい、バンドをしたい、と思ってしまったんだな、これが。どうだ、俺をお前らのバンドに入れてはくれないか。聞けばベースの席は空いてるんだろう?腕は保障しないが、これでも穴埋めくらいはできるつもりだ」

 お前が普通以上でも以下でもない生活を望んでいるのなら。俺はお前の望みを叶えてやる訳ではない。俺がお前たちに頼み込んで、バンドに入れてもらう。

「全くお前は食えねぇ奴だよ」

「お互い様だ」

 ふん、と鼻で笑って言い返してやる。これから死ぬという人間が要らぬ気を回しやがって。俺にも少しくらい虚勢を張らせてもらいたいものだ。そう、虚勢だ。折角できた友達が死に瀕するという現実に、自らの折れそうな心を必死に支えて、口から付いて出たような、ただ単に、虚勢でしかない。

「関谷、妙な気遣いはすんな。今まで通りでいい。少しでもおれに情けかけてみろ。毎日死にたくねぇよぉ、って泣きながらお前に電話してやっかんな」

 ぴんと人差し指を関谷に向けて一也は言う。俺は、何とか虚勢を張るくらいはできている。だが関谷にはそれはできないだろう。俺は自分の心が強くはないことを自覚しているが、関谷は恐らく、そんな俺よりもきっと心が弱い。だからどこかでいつも自分を低く見積もってしまっている。

「い、いいよ」

「ばかかよ。……じゃあ判った。どうせあと数ヶ月だ。お前がおれに情けをかけたり、おれが施しを受けたと思った時点で死んでやっかんな。関谷のせいだー!つって死んでやる」

 わざとらしいほど明るく、一也は言う。逆に俺の心はどんどんと沈んで行くが、表には出さない。そうしなければ一也のこの虚勢も虚勢ですらなくなってしまう。

香織かおりちゃん、判ってあげて」

 涼子さんも苦笑しつつ、そう言った。涼子さんにだってどうしようもないことなのだ。俺たちは愚か、医学のエキスパートでもどうにもできなかったということだ。だから、一也はもう笑って生きることに決めたのだろう。

「……な、何かできること、ないの?」

 気持ちは判らないでもないのだが、もう関谷の言葉は論点がずれてしまっている。それに気付けないのも無理はないが、いい加減気付いてやらなければ一也が気の毒だ。

「ねぇよ。つぅかその考え自体がもうおかしんだよ。お前、普段からなんかおれに尽くしてくれたりしてたんだっけか?死んじゃうから可愛そうで何かしてあげなきゃ、ってことか?」

 恐らく瀬野口一也という人間は気さくで、度量のある人間だと思う。だが、プライドは人一倍高い。こんな豊かなご時世だ。人からの施しを受けなくとも充分に生きて行ける中で、情けと判る施しを受ければ、誰だって侮辱されたと思ってしまうだろう。普通の人間ですらそう思うことだ。一也の置かれた状況ならばそれは尚のこと辛く感じてしまうのかもしれない。

「……で、でも」

「それとも何か?さっきの話ほじくり返す訳じゃねぇけど、お前はおれのことが好きで好きで堪んないのか?違うだろ。お前にはお前の、ちゃんと好きな奴がいて、そいつと幸せになんねぇとだろ」

 少し口調がきつくなったのを自覚したのか、一也はふと表情を和らげて言った。しかし一也の言うことは尤もだ。一也は自分の死によって、誰かの人生が捻じ曲がってしまうことを嫌っているのかもしれない。

「そうだぜ、関谷。これももしかしたら施しっつーか情けなのかもしんねぇけどさ、一也が今まで通りの普通の生活を望むんだったら、おれらが変わっちゃいけねんだよ」

 そうか。渡樫が二度、俺を勧誘しなかったのにはそういった裏があったのだろう。これから訪れてしまう一也の死を知っていても、そんなことなどおくびにも出さずに、ただ俺にベースを弾いて欲しい、と言ってきた。俺はそれを一度は断ったが、そこで渡樫は退いた。一也の病は判る。だが、一也の病など無かったことにするような生活を送るのならば、「いやぁ、誘ったけどダメだったわ」で終わりだ。だから渡樫はどれだけ口惜しくても、そこで退いた。俺の勝手な推測でしかないが、恐らくはそういうことだったのだろう。

「だね。俺だって最初は混乱したよ。でも瀬野口君がってことじゃないと思うんだ」

 詠が勧誘に来た時、最初に挙げた例えはやはり一也のことだった。渡樫の勧誘が失敗に終わったと聞いて、少し強かな手段を使ったのだろう。当然詠の例えでは冗談としか取れなかった。あの時、詠は俺が「噂は事実だったようだな」と言った時に妙に色めき立った。俺は、俺の悪口や陰口を叩いていたという噂が事実だったのだな、と含めたつもりだったのだが、詠は一也の病の話がどこからか漏れていたのか、と危惧したのかもしれなかった。それもこれも全て、一也を慮っての行動だったという訳だ。

「何が……?」

 少しだけ顔を上げて関谷が問うた。今は可愛らしい顔が台無しになってしまっている。

「瀬野口君も、関谷さんも、新崎君だって、同じ友達なんだ。何も変わらず普通に接していないと、それはえこ贔屓になっちゃうでしょ」

「その通りだ。まぁ明日っからすぐ普通に戻れ、ってのも無理な話かもしんねぇけどさ、できるだけ今まで通り頼むよ。強いて言うなら、それが関谷にできることだ」

 うん、と詠の言葉に頷いて一也は苦笑した。関谷のこれもまた、関谷の優しい性格から来ていることが、一也にも詠にも渡樫にも、充分判っているのだろう。

「それとな、俺も知らなかった訳だが、瀬野口早香はやかも伊関至春も、水沢みずさわみふゆも、それから、涼子さんも、責めないでくれ。これは一也に対しての気遣いと、お前への優しさだ。今は判らないかもしれない。だが、自分一人が知らなかったことで、絶対に誰かを責めないでくれ」

 優しさは時に人を傷つける。優しい嘘も結果的には必ず誰かが傷つく。それもこれも傷つけると判っていながらも、より大きな傷をつけたくないがための、優しさに満ち溢れた行為なんだ。

「だな」

 一也は短く頷いた。だが、きっとそれは大丈夫だろう。関谷は自分を低く見積もっている節があるせいか、自分の言動には注意を払っているところが良く見受けられる。自分が言ったり訊いたりしたことで、相手が嫌な思いをしていないかどうか。そういった機微には敏感な人間だ。だから、きっと誰を恨むことも無い、と信じたい。

「聡」

「何だ」

「ありがとな」

 何かがこみ上げてきそうになる。目頭が熱くなるが、ここで泣いては立つ瀬もないし、まだ混乱状態であろう関谷の涙腺を緩めかねない。涙を溜めておくのは良くないことだが、泣くのだとしたら、泣ける時に泣くのが一番だ。なので、今はぐっとこらえる。

「ばかを言うな。礼を言うのはこっちだ。久しぶりに錆付いていたバンド魂に火が点き始めたぞ」

 にやり、とできただろうか。柄にもなくサムズアップまでして、俺は応えた。

「そっか。ま、でもおれもお前が入ってくれて嬉しいぜ。よろしくな」

「あぁ。それじゃ邪魔したな。桜木が来る前に俺は帰る」

 一也の病のことも、桜木の耳には入れたくなかった。まだ恐らく話すことは山ほどあるだろうが、それはまだまだ先の長い、三ヵ月間で少しずつ熟して行けば良いことだ。

「それさっきから言ってるけど何?新崎君は八重やえが嫌いなの?だから振ったの?」

 そう詠が恨みがましい視線を俺に向けた。とりあえず、いつもの雰囲気に詠が戻してくれたことに、心の中でだけ感謝をしつつ、俺はやはり詠はばかなのだ、と再確認もした。

「……あのな。付き合えないことと好き嫌いを混同するな」

 好きではないから付き合いたくない訳ではない。俺は桜木のことを何も知らなかったし、それは桜木にしたって同じだろう。判っていたつもりなのだったら、それは僅かに一面の事実というだけであり、その人間の全ての僅か数パーセントにしか及ばないだろう。だから、友達として付き合いがあったならばまだしも、赤の他人にも近い桜木に告白されても、付き合おうという気は起きなかった。

「今お前たちは付き合っているから、お前も桜木もそれは幸せだろう。だがな、今桜木が幸せならなおのこと、一度自分振った男と顔を合わせる必要性もないんだ。桜木がどう思っているかは知らん。だが俺は俺個人でそう思うから、桜木とは顔を合わせない」

 幸い俺と桜木の仲は深くない。会わなければ会わないで、今まで通りが一番良いのだ。

「そっか。判った。嫌な奴の癖にやっぱりどこか優しいんだな、新崎君は」

「一言多い。それじゃあな」

 にこりと笑う詠にひら、と手を振って、俺はくるりと踵を返した。

「いや待て待て!」

「何だ渡樫」

 騒々しいったらない。明日でも良かろうが。それに一人の時間が欲しい。一人で、頭を冷やして、冷静に考える時間が欲しい。今後のことを。

「何で俺は苗字なんだよ!」

「そこか?」

 恐らくは違うだろう。しかし渡樫慧太という人間は話の腰を折れば、折った方向へとそのまま話を続けてしまう癖がある。なので、こうして極短い一言で是正してやる。

「い、いや違ぇけど!関谷送ってけよ!お前がここに連れてきたんだろ。最後まで責任は持て!」

「……すまない。そうだったな」

 これは確かに渡樫の言う通りだった。家までとは言わなくても、せめて近くまでは送るべきだったな。

「関谷、立てるか?」

「……」

 答えない関谷の肩をぽんと軽く叩いて俺は言葉を繋げる。

「もう遅い。親も心配するだろう。ほら帰るぞ」

 関谷の両肩を掴んで、立たせようと試みる。意外とすんなりと立ってはくれたので、大丈夫なようだ。

「関谷は一人暮らしだよ」

「……そうなのか。ならば尚のこと、一人で帰らせる訳にはいかないな」

 だから遅い時間まで俺のゲームに付き合ってくれたりもしていたのか。

「送り狼か?」

「よせ、人聞きの悪い」

 悪ノリも今は場を明るくするために必要だ。それは判るが、何故関谷の一人暮らしの理由に話が行かない。俺はてっきり、こいつの親が離れて暮らしてて、などという話になるのだとばかり思っていた。その話を避けるように渡樫がいやににやにやした顔で言う。これはもしや関谷も何か事情があり、一人暮らしを余儀なくされているのか。

「聡は女に興味なさそうだもんなぁ」

 一也もそう言って笑う。今は訊けるタイミングではないし、きっと関谷が自ら話そうとしなければ俺からも訊けない理由なのかもしれない。だから一旦そのことを頭から追いやって、俺は一也の言葉に応えることにした。

「だから人聞きの悪いことを言うな。これでも半年前までは彼女がいた」

「なにぃ!」

 そんなに俺に彼女がいたことが不服なのか、渡樫は。

「何だよー。童貞おれだけかよ……」

「ど……」

 詠がぐり、と顔を渡樫に向けた。俺も同じ思いだ。

「やめろ、関谷がいるのに」

「い、いや渡樫君、俺もだが」

 詠はそっちか。俺はてっきり詠も女子がいる場でそんな話をするな、と言うのかと思っていた。しかしそれにしても、こんなイケメンな顔面を持つ詠でも童貞だったとはな。何故だか少しこいつに勝ったような気がしてしまう。

「は?何で!桜木いんじゃん!」

 渡樫のばかなノリで少し心が軽くなったような気がする。こいつはこいつで他では得がたい人徳がある。最初に渡樫と出会った時にも少し感じたことだったが、こいつのまっすぐさは周りも巻き込んで前向きにさせるのかもしれない。

「付き合い始めて何日だと思ってるんだ!ばかか!本当に、いつか言おうと思ってたが渡樫君」

「な、なんだよ」

 体ごと渡樫に向き直って詠が声を高くする。こいつもこいつでしっかりと気遣って、こういう振る舞いができるという訳か。

「ばかか!」

「二秒前に聞いたよ!でもさー、一也だって童貞卒業してんだろー。そういや知ってっか?尭矢さんの彼女、超可愛いんだぜー。すげぇ羨ましいぜ」

「だから関谷の前でそういう……」

 尭矢さんの彼女が可愛いというのは新たな情報だが、それは後でも良い。恐らく関谷は一也のことで頭がいっぱいで、この雰囲気にはついて行けていないはずだ。

「聡の元カノって瀬能か?」

「や、七校だが。い、いや、そんな話明日でもいいだろう。ともかくこんな下らん話にこれ以上関谷を付き合わせるな」

 それに俺の話など大して面白い話でもないし、関谷だって一人で落ち着いてゆっくりと考える時間が欲しいはずだ。自分の気持ちに整理をつけるためにも。

「ま、そうだな。ほら関谷、今まで黙ってたことは謝る。でも、あんま言いふらさないでくれよな。色々面倒だしよ」

 一也も席を立って、関谷の肩に手を置いた。

「……うん。あの、巧くできないかもしれないけど、わたしも普通に、今まで通りにするように心がけるね」

 目が赤い。本当は泣き出したいのかもしれない。けれど、気丈にも関谷は笑った。

「あぁ。それが一番嬉しいよ。ありがとな、関谷」

「うん」

 流石に歩こうとする関谷の肩に触れている訳にもいかなかったので、俺は慌てて手を引いた。関谷は体躯が小さいので、ベースが重そうだ。エフェクターケースは持っていないようだったが、周辺器はおそらくソフトケースの中だろう。それにスクールバッグもある。外に出たらベースは代わりに背負ってやろう。

「よし、行くか」

「送り狼」

 ぽん、と関谷の肩を叩き、俺は一度振り返る。渡樫め、明日覚えていろ。

「……関谷が俺を避けるようになったら渡樫のせいだからな」

「さ、避けないよ」

「だってさ」

 に、と笑顔になって渡樫は言うが、関谷はこういう人間だ。送るのが詠でもお前でも反応なぞ大差ない。

「よし、行こう。涼子さんすみません。騒がせてしまったみたいで」

「いいのよ。今度来たらまたコーヒー、飲んでってね」

 涼子さんも努めて明るくそう言ってくれた。だから俺も努めて明るく返す。

「もちろんです」

「気をつけて。香織ちゃんのこと、宜しくね」

「了解しました。じゃ……」

 少々気が重いが仕方がないな。下校中の関谷をここまでつれてきて、一也が関谷には言うつもりがなかった真実まで知らせてしまったのは俺の責任だ。この責任は他の誰でもなく、俺自身が取るしかない。

「じゃーなー」

「また明日」

 一也と詠がそう言い、渡樫は大仰に手を振った。




 店を出ると、俺は一つ気が付いた。

「少し、待っててくれるか」

 俺はすぐ後ろを歩く関谷にそう言って、携帯電話を取り出した。ついこの間知ったばかりの電話番号をプッシュする。出てくれるだろうか。

「新崎だ。今大丈夫か?」

 程なくして相手は電話に出てくれた。

『あ、新崎君。平気だよ。どしたの?』

 電話の相手は谷崎愁たにざきしゅうだ。恐らく谷崎も一也の病のことを知っていたのだろう。だから、それをいつか、どこかのタイミングで俺が知った時のために、俺のベースを預かると言ってくれたのだろう。全く優しいだけの男かと思っていたが、とんだ食わせ者だったという訳だ。だがそれは、谷崎が熟考して選んだ行動だろう。それが判ってしまうからこそ、谷崎の行動には少しも腹が立たなかった。

「多分だけどな、お前の思惑通りになった」

『え?思惑?』

 いきなり言っても判らないか。いや、惚けているだけか。いや、惚けるというよりは、きっと瀬野口一也の件だろう、という確認なのかもしれない。谷崎が知らない訳はない。谷崎は軽音楽部ではないが、こちら側の商店街では楽器店は谷崎の店しかない。だとすれば一也や渡樫、詠も谷崎のことは良く知っているはずだ。事実尭矢さんは良く知っているようだった。それに谷崎の恋人である水沢は軽音楽部だ。話すこともないようなしょうもない嘘ならば、谷崎の耳には入らないかもしれないが、ことは人一人の命に関わる、真剣な話だ。そんな話を水沢が、深い関係であろう谷崎に話さない訳がない。

「俺のベース、明日学校に持ってきてくれるか?」

 様々な推測からの結論ではあるが、恐らくもう俺のベースに手は入れてくれているのだろう。きっと俺が谷崎に楽器を預けてから、すぐにやってくれていたはずだ。これは俺の勘繰りだが、俺がこの決断を下すまで、余り時間はかからないと谷崎は踏んでいたのかもしれない。

『いいけど、軽音部?』

 やはりすぐに判ったか。俺の推測が正しかったということだろう。

「あぁ。……何故だかは、判るな?」

 谷崎とは軽音楽部の連中と接触する前まで、ferseedaフェルシーダに所属していた頃に少し面識があった程度で、本当に友達とは呼べる間柄ではなかったと思う。だが、軽音楽部の連中と接触し、関谷から水沢と繋がって知り合い、そこから谷崎とのつながりもできた。その時に、谷崎は俺を友達だ、と言っていた。谷崎は実際良い奴だし、俺も悪い気はしなかった。きっとその時から谷崎はこうなることを見越していたのだろう。俺がこの結論を出すことを。

『そっか……。聞いたんだね、瀬野口君のこと』

「あぁ」

 谷崎の言葉は俺の予想の範疇だった。だとしたら、こいつが勧誘に介在していたとは考えにくいが、恐らく俺の性格を鑑みて行動をしていたのだろう。事実が一つである以上、態々確認などする必要もないことだが。

『新崎君ならきっとやってくれるって思ってたんだ』

「だろうよ。まったく、お前も軽音楽部の連中も……」

 誰かの掌で転がされていたという感覚もあるにはある。だが、やはり腹は立たなかった。瀬野口早香や伊関至春が俺に一也の病のことを隠していたことも、渡樫や詠が一也の病のことを言い出せなかったこと、そして一也本人が、自分の病を餌にはしたがらなかったこと。すべて、誰かが誰かを慮ってのことだ。そしてそれに関谷が言った、俺の気持ちというものが大きく動いたということもある。

『ごめんね』

「や、別に腹は立っていないさ」

 本当のことだ。一也のためとはいえ、俺自身がやる気になったのだから。

『結果、騙した感じになっちゃったのかな』

 谷崎も色々なことを黙っていたことに罪悪感はあったのだろう。だがそれもやはり谷崎の優しさがそうさせたことだ。今はそれが良く判る。

「や、それはない。ま、とにかく頼む」

 関谷にも言ったことだが、俺はこの件に関しては黙っていた誰かを責める気など毛頭もなかった。

『うん、判った。僕が言うのも何だけど、ありがとうね、新崎君』

「いや、少し遅かったな……」

 渡樫に声をかけられた時に始めたとしても僅か数週間だが、それでも三ヶ月のうちの数週間は長いはずだ。言うなれば俺は瀬野口が望んでいた生活を数週間、奪ってしまったことにはならないのだろうか。

『そんなことないよ。三ヶ月なんてまだまだ先だよ、新崎君』

 やはり優しい男だな。どいつもこいつも、自分だけの都合で生きている訳ではないということだ。友達がいて、そいつらの気持ちを汲んで、時には自分を押し殺して、時には自分を曝け出して生きているんだ。

「……だな。じゃあ明日」

『うん。明日ね』

 そう言って俺は谷崎との通話を終えた。関谷がくい、と顔を上げてきた。

「谷崎君?」

「あぁ。連中のバンドに参加するなら軽音楽部には入っておかないといけないだろうしな」

 連中のバンドに参加するだけでも良いのかもしれないが、軽音楽部が使用している第二音楽室で練習をするのならば、一年生もいるのだろうし、示しが付かないということもあるかもしれない。だとしたらやはり特別扱いなどされるべきではない。きちんと部員として入部するべきだ。

「うん」

「悪かったな。じゃ、行こう」

 ぽん、と小さな肩を叩いて俺は関谷を促した。

「うん……」

第十話:虚勢 終り

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