二〇一二年十一月三日 土曜日
潮時、という言葉がある。
物事を始める時、物事を終わらせる時に丁度良いタイミング。潮の満ち引きの時間の事もあるのだろうが、どのタイミングでどの行動を起こすことが良いのか、ということだろう。干潮の時に船は出さない方が良いだろうし、満潮の時には潜らない方が良いのかもしれない。それぞれを起こすタイミング、その時。
そんな言葉だ。
そして、それを、俺は一也の行動で見ることになる。
「し、新崎君」
「おぉ、メイドから解放されたのか」
ステージ袖では女子部が既にスタンバイをしていた。今ステージではダンス部が踊っている。このダンスが終われば、直ぐにセッティングだ。先ほどまでメイド姿をしていた香織と水沢は今は制服姿に戻っていた。
「そりゃ本番はこっちだしね」
「衣装は特にないのか」
喫茶店をやっていた連中はメイド服。今踊っているダンス部でもヒップホップ風の衣装を着ている。軽音楽部も女子部は何か衣装を用意するものかと勝手に想像していた。
「メイド服も良かったんだけどね、私と早香の分はないし、制服萌え~って輩も多いでしょ」
「まぁ確かに……」
そういう俺達も制服姿でやる。俺はライブでも着飾ったりなどはしないので、これで充分だと思えるが。
「とりあえずお客は温まってそうだから、一気に突っ走ってくるよ。シメは宜しくね、男子ども!」
「おぉ、任せとけ」
尭也さんが伊関先輩にサムズアップを返す。とは言うものの大トリは吹奏楽部だ。俺達も吹奏楽部の為のお膳立てに過ぎないが、軽音楽部は軽音楽部で盛り上がらせていただくとしよう。きっと俺達ならばやれるはずだ。
「うす!」
ライブ前の緊張感は好きか嫌いかで言えば決して好きではないのだが、かと言って嫌いな訳ではない。何とも言えない、むずむずとした感覚が体の中を這いずり回っている。本番と共にそいつをステージで解放できた時は俺の勝ちだ。それが解放できず、ずっとむずむずしていたら、俺は自分の緊張する心に負けたことになる。ライブは自分との戦いでもあるのだ。少なくとも俺にとっては。
「そろそろだな」
ダンス部が最後の盛り上がりを見せる。ステージ袖から見ていても中々凄いダンスだった。これが普通の高校生の動きだろうか、と思うほどアクロバティックで、動きの一つ一つにキレがある。ダンスに精通していない俺が見ているから余計に凄いと思うのだろうが、客席の盛り上がりを見ると、やはり中々凄いものを見せてもらっているのではないか、と思う。
「うぉーすげー!」
慧太も声を上げた。最後の決めポーズ?なのか、それがバッチリと決まって音楽も止まる。客席からはやんやの喝采。程なくして、以上、ダンス部でした、とのアナウンス。ステージにいたダンス部員が俺たちがいる上手袖とは反対側の下手袖に向かって行く。それと同時に実行委員の数名がさっそく俺達軽音楽部のアンプやドラムセットをステージに運び出す。俺達も続いて手伝いに出る。マイクスタンドを立ててマイクをセットする。ケーブルをセットして、マイクスタンドもある程度の高さで軽く留めておく。ドラムセットは滑り止めの為のゴムシートを敷いて、その上にベースドラムをセットする。瀬野口先輩がタムタムを取り付け、フロアタム、スネア、ハイハット、と次々にセットして行く。中々に手早い。通常は練習スタジオでも、ライブハウスでも、ドラムセットは予めセッティングされているのが当たり前で、ドラマーが一からドラムセットをセッティングする必要はない。それなのにこの手際の良さは何だ。
「まぁ一応三年連続これをやっているからな」
「何も言ってませんが……」
神通力でも持っているのか、瀬野口早香は。
「いや目を丸くしていただろう。確かに普通のドラマーはこんなことまではしないからな」
「ま、まぁそうですよね」
しかし年に一度の文化祭を三年連続でやっただけでこんなにも手馴れるものだろうか。
「それに中央公園で時折野外ライブや夜にストリートでバンドが演奏しているだろう」
「あぁ、やってますね」
きちんとは見たことはなかったが、たまたまやっていて足を止めたことは何度かある。
「今はやっていないが、一昨年までその設営のバイトをしていたんだ。設営だけではなかったが」
「そ、そんなバイトが……」
そういった仕事はプロのバンドについているローディーの仕事だ。中々簡単にありつけるアルバイトではないような気がする。
「EDITIONだよ」
なんですと。
「楽器屋兼練習スタジオの?」
「あぁ」
俺達が良く使っている練習スタジオだ。それ以外でも勿論なじみの店でもある。何しろそこは同級生、いや友達の実家でもあるのだから。
「谷崎の店の?」
「あぁ」
楽器店兼練習スタジオがライブイベントまで仕切っているということなのか。確か聞いた話ではこの辺りの学校の音楽用備品やメンテナンスも一手に引き受けているという。その上ライブイベントまで仕切っているとはどれだけ凄い楽器店なのだ。
「そ、それって……」
「あそこは常時バイト募集中だぞ」
「なんと」
いや、そうではないかと少々期待はした。そろそろ本格的にアルバイトを始めなければ、満足に香織をデートに連れて行くこともできなくなってしまう。
「やる気があるなら話しておくが」
「是非に!」
何という僥倖。渡りに船とはまさにこのことだ。
「判った。ま、とりあえずはこのステージに集中してくれ」
「了解です」
瀬野口先輩の言う通りだ。まずはこのステージに集中しなければならない。女子部の演奏に不具合が生じないように、俺はあちらこちらと念入りにチェックする。体育館は密閉された空間である上に、屋根が高い。音が反響しまくってしまうせいでモニタースピーカーも使えない。ドラムは生音だ。マイクはボーカルとコーラスのみ。ギターもベースもアンプからの音だけが頼りで中音の音作りも難しい。勿論この後に演奏する俺達のこともあるが、少しでもトラブルがないようにしなければならない。
「聞くが聡」
タムのチューニングをしながら瀬野口先輩は俺に切り出してきた。
「何です?」
「みふゆの父親のことは知っているのか?」
「あぁ、会ったことはありませんが、聞きました」
まさか俺が一番好きで聞いているバンド、-P.S.Y-のベーシスト、水沢貴之が水沢みふゆの父親であるとは想像だにしなかった。
「水沢貴之のことを知って、なぜ谷崎愁の父親のことは何の疑問にも思わないんだ?」
「は?」
水沢は自分の家の喫茶店の手伝いの他にも、恋人である谷崎愁の店、EDITIONの手伝いにも良く行っているらしい。つまりは、二人の交際は何方の家族も認めている、ということなのだろう。そのくらいのことならば俺でも想像はつく。
「みふゆの父、水沢貴之さんは-P.S.Y-のベーシストであってレーベル、GRAMの副社長だ」
「はい……」
それは判っている。いや、まさか。
「GRAMの社長は谷崎諒さん。-P.S.Y-のドラマーで愁の父親だぞ」
「……なん」
瀬野口先輩が言う一瞬手前でそこを思いつきはしたが、確信にまでは至らなかった。しかしやはり、そういうことだったのか。つまりEDITIONはGRAM直営の楽器店であって、いわゆる音楽事務所であるGRAMが音楽イベントを取り仕切っている、と。少々の違いはあるかもしれないが大枠はそういうことなのだろう。
「知らなかったのか……」
瀬野口先輩は苦笑しつつそう言った。
「なんですとぉ!」
少々の驚愕はあったにせよ、セッティングはきっちりと終えることができた。女子部の演奏はつつがなく終了し、女子部は女子部でまとまったバンド力を感じさせてくれた。素晴らしい演奏だった。そもそも俺が出張る必要もなく女子部は技術が高いし、自分たちの音楽に対しての理解度も深い。
俺は自分の楽器を抱え、ベースアンプに近付く。まだ香織が片付けをしているので声をかけた。
「良い演奏だったな。カッコ良かった」
「ほ、ホント!」
「あぁ」
これは彼女だから贔屓目で、という訳ではない。もともと香織の演奏力は高かった。ピッキングのパワフルさは多少控えめな気もするが、それを補って余りある丁寧な弾きが香織の持ち味だと俺は思っている。それが本番でも遺憾なく出せるのであれば、香織のステージ度胸は中々のものだ。
「し……」
「し?」
新崎君、のイントネーションだったが、何故だか香織は言い淀んだ。
「あ、あぁ~、あぁ聡君もが、がんばって!」
「あぁ!」
香織が俺を初めて名前で呼んだ。しばらくは無理だろうと思ってはいたのだが、本番前に中々嬉しいサプライズをしてくれる。
逃げるようにステージ袖に消えて行く香織を目で追い、見えなくなると俺は自分のベースのセッティングを始めた。
クロマチックチューナー、プリアンプ、とシールドケーブルを差し、ベース本体とアンプにもつなげる。俺の足元はこの二つだけなのでパワーサプライは使用していない。プリアンプから伸びているアダプターをコンセントに差し込むと、クローマチックチューナーを踏み込んで、チューニングを始める。E、A、D、Gと手早くチューニングをすると、ドラムを振り返る。
「……」
俺の視線に気付いた一也がにやり、と笑う。
「ぶちかましますか!」
「だな!」
俺もその笑顔に笑顔を返す。もしかしたら一也とやれる最初で最後のステージかもしれない。勿論俺はこの後も直ぐにライブを決めるつもりでいる。しかし現実的にそれがいつまで続けられるかは誰にも判らない。だから練習ですらも、一也とやれる時は全力で楽しむのだ。
「……うし!」
各々のセッティングが終わったのを確認すると、慧太が振り返り、ドラムの前に立つ。そこに尭也さん、慎、そして俺が歩み寄る。一也が立ち上がり、左手を出した。その手の上に慧太、慎、尭也さん、そして俺の左手が重なる。
「やるぞ!」
短く息を吸って、一也が言う。
「おう!」
間髪入れずに俺たちは応える。ぐん、と手を下げ、一気に上に手を上げる。
『それでは軽音楽部、男子です』
アナウンスの後、客席が暗転する。一瞬見えたのは五反田、桜木、涼子さん、そして髪奈さんに柚机さんだ。俺にとっては頭の上がらない、そうそうたる面子。これは益々恥ずかしい演奏はできないな。
そんなことを考えた直後、慧太の声が響く。
「スノーキャット!」
俺は直ぐに意識を切り替る。慧太の歌い出しと同時に一気に全員がCを鳴らす。一曲目は勢いのあるロックンロールナンバーだ。俺が最初に聞かせてもらった曲でもある。
危惧していた一也の体調は大丈夫そうだ。今のところは。そしてそれにはかまっていられないほどの高揚感が身を包んで行くのが判る。音響環境はお世辞にも良いとは言えない。しかし文化祭の体育館は人でいっぱいだ。通常のライブであれば、これほどの人を前に演奏することはまずない。
緊張はしていたものの、その緊張感のむずむずが放出されて行く感覚。今日は勝てる。そう確信した。
慧太の声が疾走する。心地良い声だ。練習でもいつも思っていた。尭也さんの荒れたギターと慎の正確なピッキングが妙にマッチしている。
一也のドラムはいつも正確だが、遊び心を失わない。ショートフィルは大体気分で変えているというのだから大したものだ。それがドラマーにとっては普通なのかもしれないが、基本的なビートしか叩けない俺としては充分すぎる技術の高さだし、何よりもベースを弾いていて楽しいドラムだ。
そんなことをぼんやりと考えている内にあっという間にギターソロだ。この曲は最初から尭也さんが四小節、慎がもう四小節を弾くことになっている。ハモリはないが、お互いにソロの弾きとバッキングを交代する時は否応なしにテンションが上がる。これはベーシストの性なのか、自分がソロを弾くことよりも気持ちが高揚して行く。
イェー!と慧太が叫ぶ。どっと客席が沸き上がる。ソロ明けのBメロから最後の大サビ。こうなればもう中音も出音も関係ない。これだけ聞いてくれる人が盛り上げてくれていれば、それなりには聞こえているということだろう。
俺は自分の演奏に集中する。自分の音がこのバンドの音を引き締めている、という実感が渦巻いてくるが、そこに感情を乗せるようなことはしない。粛々と、確実に、自分の仕事をこなす。とはいえ見ている人につまらなそうな印象を与えてはいけない。不自然ではない程度に体を揺らし、ネックを掴みヘッドも揺らす。
大サビが終わり、アウトロだ。ドラムはショートフィルの連続で煩いくらいにクラッシュシンバルを叩き続ける。俺は心の中でカウントをし、一也がぶっ放すフィルの頭と尻のテンポを意識する。あと四小節。あと三小節、あと二小節、そして最後。
最初と同じくCで閉め、ドラムがかき回す。俺も着地点を意識しながらペンタトニックを回し、ハイフレットのAで曲を占める。
「いえぁー!軽音部でっす、よろしくぅ!」
「いえー!」
「いやぁいいノリっすね!最後までよろしくぅ!」
慧太は特に緊張している様子もなく腕を振り上げた。それに併せ、客席にいる大多数の客が一緒に腕を振り上げてくれた。
やはりこのバンドに入って良かった。俺にこの機会を再び与えてくれた一也には感謝しかない。いや一緒にやってくれている慧太も、慎も、尭也さんにも感謝の念は尽きない。
だからこのライブが終わったら、直ぐに次のライブを考えなければならない。遺された時間は僅かなのだから。
残り二曲。疲れはない。しかし一也を振り返って絶句した。顔色が悪い。今までも一度急変してからあまり回復の兆しが見えなかった。しかし今の一也の顔色はさらに輪をかけた状態のように俺には見えた。
(……どうする)
心の中で呟く。一也が望む『いつ通り』ならばどうだ。顔色が悪いぞ、と声を掛ければ済むことなのか。俺は思わず慧太の顔を覗き込むように見てしまった。
「?」
慧太には判っていないのか、一也の顔色の変化が。慎は、尭也さんはどうだ。
「ほれ、ラスト二曲、集中しろ!」
俺の挙動不審な態度に気付いたのか、尭也さんが檄を飛ばす。
「は、はい!」
返事はしたものの、俺の心拍数は上がるばかりだ。舞台袖はどうだ。瀬野口早香が残ってはいないか。俺は入ってきたのとは反対側、退場側の舞台袖に眼をやる。しかしそこに瀬野口先輩はいない。
俺しか気付いていないのか。それとも皆『いつも通り』を徹底しようとしているのか。
「聡」
喧騒の中のはずだというのに、やけにはっきりと一也の声が聞こえた。
「ど、どうした」
「悪ぃ、あと一曲だ。ちと、疲れた……」
「……無理はするな」
俺の言葉を遮って、一也はカウントを入れる。一瞬だけ出遅れた。尭也さんが俺を咎めるように見やる。すぐに意識を切り替えたいところだが、一也が気になる。横目で一也の顔を視界に入れると、一也は笑顔だ。だが顔色は本当に優れない。
「!」
慧太が俺に体を寄せてくる。額から流れる汗が目に入り、そして目から汗が流れている。
(そうか……)
やはり判っているのだな。当然と言えば当然かもしれない。連中は俺よりもずっと一也との付き合いが長い。本当にどうするべきかなど、判り切っていたのかもしれない。
全ては推測の域を出ない。だが、それならば俺にも通すべき意地はある。無理矢理にベースに意識を集中する。だからこそ、無様な演奏はできない、と自分自身に言い聞かせて。
どうしても変えられない未来ならば。
どうしても訪れてしまう現実ならば。
(!)
急激に耳鳴りがした。
ほんの一瞬だけ、僅かに、視界全体が白む。
眩暈に似た感覚。
まずい、と思う間もなく、視界は戻る。
しかし。
(なん、だ?)
自分の体が思うように動かない。いや、動いている。しかし自分の意思と体の動きが合っていないような気がする。
(どうしたって避けられない)
(え?)
頭の中に響く声は自分のものではなかった。
(変えられない現実、潮時ってやつだ)
(一也、か?)
(それなら……)
(いっそここで死ねれば本望だ)
(!)
一也の声が頭に響くような気がした。
しかし、だけれど、それでは、全てが終わってしまう。
(いんだよ、これで。割に合わねぇことに付き合わせて、すまなかったな、聡)
もはや幻聴なのか、奇跡なのか、それすらも判らない。俺の視界には自分のベースのネックしか映されていない。もはや今自分が、何をどう弾いているのかも判らない。
(馬鹿を言うな!これが終わったらすぐに次のライブだ!)
気付けば俺はその一也の声に応えてしまっていた。
(はは、それもいいな。だけどよ、お前らで練習してた曲あんだろ。俺に聞かせてくれよ。知ってんだぜ、俺のために創ってくれた曲、なんだろ)
一也の声は穏やかだった。
(それは、そうだが……。俺は、お前と最後までやり切りたいんだ!)
だからこんなところで逝ってはいけないんだ!
お前はまだ、俺を乗せて叩く必要がある。俺がまだ、お前と、お前たちとこのバンドを続けたいのだから。
(……ありがとうな。割り食わしちまって悪ぃんだけどさ、ちょっと疲れちまった)
(一也!)
諦めを口にするなんてらしくない。
いつだって憎たらしい程の平常心だった一也の言葉だなどと信じたくなかった。
(やー、音楽ってマジすげぇな、こんなことできちまうんだからよ)
(これは、本当に、本当なのか)
俺は夢中になって一也の声を追いかける。
(さぁ、どうだろうな。……でも最後までやり切るってんなら、お前には悪ぃけどこれが最後だ)
一也は笑ったようだった。振り向くことはできない。今の俺自身、何がどうなっているのかも判らないのだ。ただ、一也を留まらせようという一心で、俺は必死に一也に呼びかける。
(待て、一也!)
気付けば最後の一音だった。無我夢中で、我に返っても俺の視界は自分のベースのネックだけが映されている。
「!」
俺は咄嗟に一也を振り返る。一也は優れない顔色のままドラムセットからゆらりと立ち上がった。
「あー、慧太、マイク!」
想像の域を超える元気な声で一也は言う。
「……」
慧太が神妙に振り返る。言葉もなく、自分のスタンドについていたマイクを外し、一也に手渡した。
お前も一也の声を聴いたのか。慎も、尭也さんも客席に呆けたような視線を投げたままだ。俺と同じように、一也の声が聞こえたのだろうか。それともこれは、俺だけの、俺の想いが創り上げた幻聴なのだろうか。
「あー、あー、どうもどうも、軽音楽部男子の部です。次の曲で最後なんだけどさ、どうもこいつら、俺に隠れて新曲作ってたっぽくて、それ、聞きたくないか!」
「!」
一也が叩けなくなってしまった時のために、尭也さんをドラムにして練習をしていたのは、一也も勿論知っている事実だ。しかし、そのメンバーだけで、一也のために創った曲があるのは、俺達だけの秘密だった筈だ。
「おぉー!」
何故一也がそれを知り得たのか、いくつか想像はできる。しかし一也の方はそんなことなどお構いなしに客席を煽っている。先ほどの幻聴のような一也との会話。あれは一也が起こした奇跡、ではないのだろうか。あの奇跡で最後の曲のことを知り得たのではないのだろうか。それとも、すべて俺の勝手な思い込みなのだろうか。
「さんきゅさんきゅ、悪いね、俺ちょっと体調不良で今立ってんのもやっとなんだ。最後にもう一曲、俺も楽しませてもらうからさ、頼むぜ!」
空元気なのか、妙に明るい口調で一也は笑った。
それならばそれでも良い。今すぐにでも休ませて、安静にさせなければならないのかもしれないのだ。
「うぉー!」
俺の感情などお構いなしで客席が盛り上がる。本当ならば有難いことだが、この曲は一也がドラムを叩けなくなってしまった時のために、一也に聴かせるために創った曲だった。一也がステージに立てなくなってしまった時の、いわば保険だ。だから一也が元気なうちは絶対にやるつもりのなかった曲。
それはつまり。
(今、なのか)
「……」
一也の状態が判らない今、無理をさせる訳にはいかない。ばたん、とステージ袖に瀬野口先輩が現れた。やはり一也の顔色が急変したことは事実だ。俺だけが気付いたことではないのだ。瀬野口先輩の顔色も優れない。蒼白、とはこのことを言うのだろう。
「……やるぞ聡」
戦慄く様に尭也さんが言う。尭也さんは覚悟を決めた。ならば俺もその覚悟に応えなければならない。
「……うす」
「頼んだぜ……。悪ぃ姉ちゃん。ちと肩貸して」
「無理するからっ!」
ふらふらとドラムセットから外れ、駆け付けた瀬野口先輩に体を預ける。
「へへっ」
苦笑して一也は舞台袖へと向かう。
「一也」
その一也を見て、慧太が力強く一也の名を呼んだ。
「おう」
「しっかり聴いてろよ。次はお前が叩くんだ」
一つ頷く。俺もそれに吊られて深く頷いた。
「了ぉ解」
一也は軽く言ってひらひらと手を振る。舞台袖に隠れるとそこでへたり、と座り込んでしまった。本当に少し疲れただけなのか。今すぐにでも病院へ運んだ方が良いのではないのか。
何某か言葉を交わしている一也と瀬野口先輩。俺にはその声は届かない。一也としても病院に行くにしろ、あと一曲、次の曲だけは聞きたい所だろう。そんな悠長なことを言っている場合なのかどうか、きっとこの場にいる誰も判断はできないのだろう。
一也に代わって尭也さんがドラムセットに着く。気付けば尭也さんの顔色もあまり良くなかった。いや尭也さんだけではない。慧太も慎も、恐らくは俺も同じような顔色をしているのだろう。しかし時間は迫る。次はメインイベントである吹奏楽部が待っているのだ。あまり時間はかけていられない。
尭也さんが全員を見渡し、一つ頷く。
「おやすみ、ララバイ」
短く慧太が曲名を披露する。
慎のギターが優しくも美しいアルペジオを奏でる。アルペジオの中、控えめにハイハットのカウントが入り、全員がEを鳴らす。
――
或いはお前が呼ぶなら 少し怠いけど 悪態一つで構わない
いつも大概は大丈夫さ 道は悪いけど ほら景色がとても綺麗さ
「陽が落ちる前に干し草をかけてくれ 眠るから」
キラキラ崩れる夜と朝の間 光で終わるその前にもう一度
サラサラ音がする砂みたいな世界 背中の裏側に隠した そっと
「ガスが切れたから歩いて行こう」
少し寒いけど 気が向くならそれもいいさ
陽が沈む時に限って笑うんだな
「呆れたか?」
ヒラヒラ舞い落ちる闇と光の朝 光で終わるその前にもう一度
カラカラ音がする箱みたいな世界 瞼の裏側に隠した そっと
キラキラ崩れる夜と朝の間 始まりの合図で終わる 4コード
ガラガラ音がする夕日みたいな笑顔 ピカピカ光ってるそれをひとつだけ
拾った それ
「おやすみ」
もう一度
――
入りと同じく最後はEで閉める。ライブの最後の曲としては穏やかな曲だが、これは俺達全員の、一也への気持ちを込めた曲だ。一也には聞かせるよりも一緒にやりたいと思っている曲だ。先ほど慧太が言ったように、次は一也にこの曲を叩いてもらう。
『はぁい、軽音楽部でした!ありがとうございましたぁ!さぁ次は大トリ、吹奏楽部ですよぉ!盛り上がっていきましょう!』
アナウンスもそこそこに、俺達は客席に深く一礼をした後、すぐに機材の撤収を始める。ベースアンプの電源を落とし、シールドケーブルを引き抜くと、プリアンプとクロマチックチューナーを脇に抱え、ひとまず舞台袖にそれを置きに行く。
「瀬野口先輩、一也は!」
舞台袖にはまだ一也と瀬野口先輩がいる。座って、横たわる一也を支えている状態だ。
「今はこの状態だ……。今親に連絡を入れて車をお願いしてある。ともかく撤収を作業を急いでくれ」
満足そうな顔で寝息を立てているが、これは本当に寝ているだけなのか、いわゆる昏睡状態なのかは、俺には判らない。きっと瀬野口先輩にも判ってはいないはずだ。
「判りました」
それだけを言い伝えて急いでステージに戻ると、慧太が血相を変えて訊いてきた。
「一也は!」
「今は寝てるみたいだが、家族にお願いして車を呼んだらしい」
マイクスタンドからマイクを外す手が震えている。落ち着け、と言い聞かせても言うことを聞いてくれそうにない。先ほど演奏を終えた女子部のメンバーもすぐに手伝いに来てくれた。
「あ、聡君……」
俺が外したマイクケーブルを拾った人影は、香織だった。もはや泣き顔、と言っても差し支えないほどの顔だが、懸命に涙を堪えている。
「大丈夫、とは言えないが、早とちりも禁物だ。今は一也に賭けるしかない」
「う、うん。あ、あれ……」
上手くケーブルが巻けず、取り落してしまう。俺はそのケーブルを拾うと、香織に手渡した。俺の手も、香織の手も震えていた。
「慌てないでいい。しっかり確実にやろう、香織」
「う、うん」
できるだけ優しくそう声をかける。パニックは無用にパニックを誘い、あっという間に広域に伝播させてしまう。こういう時こそ俺が落ち着かなければならない。
「慌てても俺達には何も出来ない。まずはここを確実に片付ける」
「う、うん」
第三五話:潮時 終り
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