二〇一七年一月二九日 日曜日
飲水思源という言葉がある。
物事の基本を忘れてはならない、また、他人から受けた恩を忘れてはならない、という意味を含めた、戒め、もしくは感謝の言葉だ。
飲み水は当たり前にいつでも飲めるものではなく、水源の恩恵や飲み水になるまでの過程で多くの工程があり、誰かが必ず関わって成されていることを、忘れずに思うこと。そんな意味も含まれているらしい。
あれから、一也が逝ってから四年が過ぎた。
俺は大学生になり、来年は就職だ。香織との交際は勿論続いている。就職し、来るべき時が来れば、結婚も考え始めなければならないだろう。
そしてあの時のバンド、あの頃は名前はなかったが、今ではCease Eraseという立派な名前が付き、連綿と続いている。
Ceaseとは止める、という意味で、Eraseとは消す、という意味だ。直訳してしまうと、消すのを止める、だとかいう良く意味が判らないバンド名になってしまうのだが、これは慎が決めたバンド名だ。どんな意図があったのか、俺は敢えて訊かなかった。どうせ、と言っては随分と投げやりな言い方になってしまうが、バンド名など最初は何という名前を、という奇妙奇天烈な名前を付けてもすぐに慣れてしまうものだ。
つまりは『消さない』ということなのだろう。消さないために続けるバンド、という意味も含まれているのだと俺は勝手に解釈している。
三ヶ月に一度はライブもやっている。今でも瀬野口早香や水沢も、慧太の恋人でもある伊関至春も見に来てくれている。
一也がいなくても、腹は減る。
一也がいなくても、日は沈み、月は登る。
誰にも平等に時間は流れ、過ぎ去ってゆく。思えばこの四年だってあっという間だった。
香織ともバンドメンバーとも、特に喧嘩らしい喧嘩はなかったが、全てが順風満帆だった訳でもなかった。
「よう一也」
俺は瀬野口家之墓と掘られた立派な墓石の前に立って、口に出した。
俺は信心深い訳でもないし、神事仏事のことはからっきしだ。仕来りとしてどんな日には墓参りに行ってはいけないだとか、行って良いだとかを知らない。だから、ふと気が向いた時にこうして親友に会いに来る。
「来年はもう就職だと。信じられるか?この俺が社会人になって働くなんぞ想像もつかん」
コンビニエンスストアのビニール袋から缶ビールを二本、取り出す。一本を開けて香炉の脇に置き、もう一本も開けてそれは俺が一口飲む。
僅かに二ヶ月であったが、一也達と過ごしたあの二ヶ月間は俺の人生の中で最高に輝いている。だからと言ってそれ以外の時間が輝いていなかったかと言えばそれは勿論違う。
その時その時で輝きは増したり減ったりが当たり前だ。人生最高の時間に引きずられて生きている訳ではない。ただ、一也のいない今よりも、一也がいたあの頃の方が、ちょっとだけ輝きが強い。そういうことだ。
大学でも友人は増えたし、バンド仲間も多くなった。高校生の頃ほど偏屈野郎でもなくなったという自負はある。今でも慧太や慎や尭矢さんをからかって楽しむのは俺の趣味の一つではあるが、理屈屁理屈をこねて強情になることは殆ど無くなった。僅か二ヶ月で人は変わることができるのだ。四年も経てば尚の事だろう。
「就職して、仕事に慣れてきたら今度は結婚とか考え始めるんだ。時間ってのは残酷なもんだ」
誰も彼も、ただ悪戯に時を過ごし、ただ漫然と楽しいことだけを追い求めていた頃に留まることなどできはしない。時間だけは、冷酷なほどに平等に流れて行く。
偉い人間だろうが、下衆な人間だろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、そんなものは関係ない。粛々と時を刻み続けて行くだけの無感情なものだ。だから、それに流されてはいけない。
「結婚して、子供が生まれて、成長して、きっと気付いたらあっという間に爺さんだ。ま、その内逝くからゆっくり待っててくれ」
最近いつも同じことを言っているな。
俺が誰かと家族を創り、それを守って行くなど、最近までは考えたこともなかった。そして高校生の時にはそんなことなど想像だにしなかった。
しかし、一也の存在が戒める。
俺はあの時、出来ることは精一杯やった。精一杯やって、一也を喪った時、それが精一杯ではなかったことに気付かされた。まだやれた。まだ行けたのだ。
だがそれも想像の域は出ない。後から気付かされたまだやれたであろうことが、本当にできたとしてもきっと同じように後悔はするだろう。
だからと言って、やれることをやらずに手をこまねいている訳にはいかない。それでは一也達と出会う前の、十七歳の餓鬼と何も変わらない。俺は一也達に出会ったことを誇りに思うし、一也達と過ごした日々を後悔にはしたくない。
だから、それを礎にして俺は生きることにした。今の俺は、一也達がいたからこそ、今の俺でいられる。その事実をいつも忘れないために俺はここに来ているのかもしれない。
「あれ、聡かよ」
俺の思考を断ち切るように唐突に背後から声がかかった。
「慧太か」
先週会ったばかりなので新鮮さの欠片もない。こいつは四年前と少しも変わらない。稚気があり、かといって餓鬼っぽい訳でもない。大学には進まず、専門学校を経て就職をした今年一年目の社会人だ。社会人になっても高校生の頃と印象が変わらないというのは、果たして良いことなのだろうか。
「おぅ、どうしたよ」
「や、時々な、気が向いたら来るようにしてるんだ。こいつに愚痴を聞いてもらってる」
そう言って俺は自然と笑顔になった。流石に二十歳も越えればバンド練習の帰りに酒を酌み交わすこともあるし、こいつとはあれからずっと腐れ縁というか、親友を続けている。だが、三人で話すのは高校生の時以来だし、三人で酒を酌み交わすのは初めての事だった。
「たまにはいい話も聞かせてやれよな。いくら一也でもいじけんじゃね?」
「それもそうだな。一也、俺に憑くなよ」
冗談めかして俺は墓石に向かって言う。
「これで勘弁してやれ」
言って慧太も缶ビールをポケットから出した。俺が缶を置いた反対側の香炉の脇にそれを開けて置く。そして慧太ももう一本、逆のポケットから缶ビールを取り出して、開けた。
「うぃ」
「おう」
俺は手に持つ缶ビールを慧太の持つ缶ビールに軽く当てるともう一口呑んだ。
「しかしお前もとはなぁ」
「お前もそうだったのか」
もしかしたら慎も尭也さんも、瀬野口早香も来ているのかもしれない。時間が合わないだけで。きっとみんな思うところがあるのだろう。一也に対して。一也という存在に対しての自分に。だとするならば一也よ、お前は随分と果報者だぞ。
「あぁ。でも三人で会うのは初めてだな」
「そうだな」
今日は嫌にビールが苦く感じる。そもそも俺はあまり酒に強くはない上に、二十歳を越えたからといって晩酌をするほどの酒好きという訳でもない。だが酒自体は嫌いではないし、成人になってからは、ここに来る時は一也の分と自分の分のビールを買ってくることにしている。そしてそれを呑み終えればその日の一也との話は終わりにしているのだ。
夏の暑い日にでも呑めば旨いと感じることも勿論あるが、冬の寒空の下で飲むビールは俺にはあまり合わないようだった。
「それにしてもお前と聡にはホント、世話んなったよなぁ」
嘆息交じりに慧太が呟く。まさかこのタイミングで慧太がそんなことを言い出すとは思ってもいなかったので、少々驚いた。
「なんだいきなり。ばかなことを言うな。気でも違ったのか?」
慧太の世迷言を俺は正面切って打ち返してやる。礼節を軽んじる性格ではないとは思うが、そんなにしおらしい性格でもあるまい。
「言われ様……。素直に礼言ってるだけだろ」
「そうか。だがまぁ礼を言われる筋合いなどなかったからな」
確かに泣き言の一つや二つ、聞いたことはある。悩み事の一つや二つ、聞かされたこともある。愚痴の一つや二つ、不平不満、罵詈雑言の百や千や万程度が何だというのだ。そんなものは慧太の世話をした内に入らない。逆の立場になってみればすぐに判ることだが、渡樫慧太は馬鹿一直線の正義の男だ。言わずにはいられなかったのかもしれないな。
「お前らに無くてもおれにはあんの」
「そうか。ま、どういたしまして、だ。なぁ一也よ」
くく、と忍び笑いのような笑い方をして俺は手に持った缶ビールを墓石に向けた。
確かに困った奴だ、と思ったことは幾度もあった。だがだからと言って礼を言われる筋合いはこれっぽっちもない。そんなものは単にお互い様という言葉で片付けられる些事でしかない。
「最初さ、お前と初めて喋った時あったろ」
「カツアゲの時か?」
もう流石に随分と前の事だ。だが鮮烈に記憶に残っている。あれがきっかけになって俺はvultureという店を知り、水沢と知り合い、軽音楽部からの勧誘を受けるようになった。俺のような屁理屈偏屈奇人変人を、良くもまぁしつこく誘い続けたものだ、と言うには少々自戒の念も有るのだが、それにしてもそういう連中だったからこそ、俺は救われた。
「あぁそう。あん時な、お前のこと面白ぇ奴だなって思ったんだよ」
「奇異な奴だ」
遠慮の欠片もなく俺は慧太に言い放つ。ま、褒め言葉と受け取って頂きたい。
「俺はともかく他の連中に謝れ」
ということは自分は奇異だと認めているのか。随分と殊勝になったものだ。
だが。
「いや俺の友達は例外なく奇異だぞ。それに気付かんとは連中も自覚が足りんな」
「まぁ、確かにそこは否めねぇか」
恐らく慎。恐らく尭也さん。そして恐らく関谷香織。慧太は脳裏に次々とその人物達を思い起こしたに違いない。
「だろ。ま、俺もお前のことは面白い奴だと思っていた。だからな、あの時は勧誘を断ったが、本心では嬉しかったんだと思う」
今だから言えることだろうな。あの時のはあの時で、俺は持論を精一杯主張していたし、それだけ真剣に考えていた。一也や慧太たちと組むようになって(その間僅かに一ヶ月足らずだったかもしれないが)その考えは少しずつ瓦解して行くのだが、それでも馬鹿だった、とまでは思えなかった。
「素直じゃねぇからな、お前はよ」
俺が素直になったら気持ち悪かろう。
「ふん。まぁ今でもそう変わっちゃいないが、これだけは言えると思ってな」
「ん?」
ぐび、と缶ビールを喉に流し込みながら慧太は視線をこちらに向ける。
「お前らに出会えて良かった、と」
「……はぁー、臭ぇ臭ぇ」
照れ笑い、だろうか。そんなことを言いながらも慧太は笑顔だった。
「半べそ描いて泣きつくよりよっぽどましだと思うが。なぁ一也」
「だからべそは描いてねっつんだよ!」
照れ隠し、だろうな。ま、俺も人のことを言えた義理ではないのだが。
「お前も充分素直じゃないぞ」
俺は残ったビールを一気に胃袋に流し込んだ。恥ずかしいだろうと予想はしていたが、予想外に恥ずかしかった。こんなことはまぁ慧太以外には言えんだろうな。
「ま、人間ホントの根っこの部分なんてそう簡単にゃ変わんねぇよ」
「確かにそうだな」
俺は高校生の時、一也の死を知ってから、自分が変わって行くことを自覚していた。それは以前までの俺を滑稽に感じていたこともあるし、このままではいけないと焦燥感を覚えたからだろう。だが斜に構えていた俺も、それを滑稽に感じた俺も、一也達が生き生きとしている姿を見て焦燥感を覚えた俺も、つまりはその当時の、十七歳の俺だ。両極に物事を考えていたとしても人間として破綻している訳ではない。矛盾などそこかしこに存在する。だから慧太の言う通り、俺の本質など恐らく変わっちゃいない。
「根っこも幹も枝も変わらないかもしれないが、咲く花は変わる。そんなところか」
新崎聡という木は、どう足掻いても新崎聡という木で、それは瀬野口一也という木にも渡樫慧太という木にもならないし、なれはしない。だが、大地から吸い上げる水や養分が違えば、きっと枝葉に着く花はその彩を変えるのだろう。
吸い上げる水や養分が同じでも、木そのものが違えば、やはり違う花を咲かせるのだろう。
慧太はそういうことを言いたかったのかもしれない。当たり前のことなのかもしれないが、中々興味深いことを言う。
「何言ってんだかさっぱり判かんねぇよ」
そうか、判らなかったか。やはりこいつは面白い奴だ。
「ま、判んなくていいさ」
「なんだそりゃ」
いや、相変わらずただのばかだ。
「慎と尭矢さんでも呼んで、どっかで一杯ひっかけるか」
「あぁ、いいねぇ……ぶぇくしっ!」
おやすみ、ララバイ 終り
読み終わったら、ポイントを付けましょう!