二〇一二年十一月十日 土曜日
理想、という言葉がある。
考え得る中で、最も完全であること。また、ある条件を完全に満たしているものであれば、それも理想となる。
つまり、理想とは揺らぎないものの事だ。
しかし、完全となるとそいつは終焉へと至る絶望にも繋がるイメージは、ある。
だからきっと、理想と現実という言葉があるのだ。
理想は理想であって、叶わないからこそ理想を抱く。目指す姿と有るべき姿。理想を目指すために、現実の自分を高めようと努力をする。そうした姿が人として自然な姿なのだろうことは、理解はできる。
そうして理想と現実のギャップは少しずつ埋まって行くのかもしれない。
しかしそれでも、手に入れられないからこそ、理想なのだろう。
「済まん、少し遅れたな」
中央公園の中央噴水にあるベンチに座って文庫本を読んでいた香織にそう声をかけた。
EDITIONでの練習を終え、俺は中央公園に向かった。明日は日曜だし一緒に映画を見に行くことにしているが、香織が少しでも一緒にいたいと俺を迎えに来てくれたのだ。
「聡君……」
香織の顔色はあまり優れない。憂いがかったその表情も絵になるとは思うのだが、それは俺の好みの香織の顔ではない。しかしそれも仕方のないことだろう。一也が死んでまだ僅かに一週間だ。
「なんだかあっという間、だったかな」
「そうだな。あいつが死んでから……」
まだ一週間だ、と言おうとしたところで。
「ううん、きちんと話せるようになったの、九月だったんだよ」
俺と香織のことだったか。言われてみればまだ二ヶ月しか経っていないのだ。それは一也と、軽音楽部の連中と出会ってからの時間とさほど変わらない。
「そうか。二ヶ月強、か」
「うん。それなのに、私は聡君と付き合うようになって、瀬野口君は亡くなって……」
確かに色々なことが有り過ぎた。傍から見れば大したことではなかったのかもしれない。だが、俺や香織、軽音楽部の仲間達にとっては長く、そしてあっと言う間の二ヶ月間だった。振り返ってみればあっという間ではあったのだが、その振り返ってみればあっという間という時間は、俺達の中では不本意ながらも満足する日々だったということだ。
「確かに、まだ二ヶ月しか経っていないんだな……」
「凄く濃い二ヶ月だったね」
俺は先に歩き出す。立ち話をしていても良かったのだが、もう夕刻にもなると肌寒い。香織に風邪でも引かせてしまったら申し訳ない。
「そう、だなぁ……」
らしくもなく空を振り仰ぐ。
「聡君、凄く変わったよね」
歩き出した俺に言いながらついてくる。少し、香織の言葉に明るさが差したように感じられた。
「それを言うなら香織もな」
香織の言う通り、俺達はお互いに変わった。特に俺はその自覚が強いが、香織も確かに変わった。一也が以前言ってくれた、俺のことを好きになる前の香織の事は知る由もないが、俺が香織ときちんと話すようになってからでも香織は充分に変わったと思う。
「私を変えてくれたのは、聡君だよ」
「きかっけくらいはあったかもしれないが、変わろうと思ったのは香織自身だろう」
俺自身も今のままではまずいという直接的な危機感があった訳ではなかったが、必要に応じて考え方を変えて行ったように思う。それは決して柔軟な考え方ではなかったかもしれないが、それでも俺の考え方は随分と変わって行った。瀬野口一也という人間の存在をきっかけに。
「きっかけを与えてくれたっていうのは、変えてくれたっていうのと同じだよ」
「そんなもんか」
確かにそうなのだろうな。そういうきっかけを与えてもらえなければ、そもそも変わろう、変えようという意思も働かないものだ。俺も一也の死に直面しなければ、恐らく変わらないままだった。そして今でもベースを手にすることなく、バンドからは距離を置き、慧太や慎と友達になることもなく、こうして香織と付き合うこともなかった。
「聡君だってそうでしょ」
「確かにな」
少し笑顔になって香織が言う。俺の変容っぷりは香織のお気に召したのだろうか。いやそこは是非もないな。でなければこうして付き合うこともなかった。香織ときちんと話すようになった頃、俺はまだ自分が変わろうという考えなど持ってはいなかった。しかしその頃ですら、香織は俺を好きでいてくれたのだ。きっと良い方向に変化していったのだろう。それが誰の意思か、までは深く考えたこともなかった。
「……意志、か」
俺は独りごとのように呟く。
意志の変化。俺にも香織にもあった。そして恐らく、一也にも。いや、慧太にも慎にも、伊関至春にも、だ。
「一也は、死にたかった訳じゃなかったんだろうな」
当たり前に過ぎることを口にする。そもそも死にたがりの人間などいない。いるのかもしれないが本当に死にたい人間は生きてはいまい。何だかんだとポーズをとっているだけの死にたがりならばネット上には掃いて捨てるほどいる。本当に死と直面すれば大多数のまともな人間ならば死にたくない、と考えるはずだ。そしてそれは一也も当然そうだった。
「しかし生きられないと判って、自分の意志をどう変えたんだろうな。……俺には想像もつかん」
「うん」
想像だけなら突き詰めれば出来るかもしれないが、結局それも想像の域は出ない。一也も一度だけだがはっきりと死にたくないと言った。それが本心だろう。プライドの高い奴のことだ。ただ一度きりの本心の吐露だったのだと思える。
「どうしようもないことに立ち向かえる場合と、立ち向かえない場合……」
俺の独り言のような言葉を受けて香織も呟くように言った。
「そうだな」
それが死という現実ならば。どう立ち向かえば良いのか、今の俺にはまだ判らない。
「立ち向かえないって判った時、どういう風に考えるんだろ……」
俺が知りたいのもそこだ。
まずは意志の強さ、だろうか。勇気、と言い換えても良いかもしれない。そんなものを奮い立たせて、自分に言い聞かせる。
そして英断する。
「……」
「聡君?」
つい考えに耽ってしまった。
「すまん」
少し、香織に聴かせる為に頭の中を整理する。
「想像でしかないが、俺も一也と同じような考え方はしたかもしれないな。現実にそこに直面した訳ではないから、想像の域は越えないが」
きっと、一也の潔さに憧れているだけなのだろう。俺がその現実に直面したら、だらしなく、意地汚く、泣きじゃくって、狼狽えて、周囲に迷惑ばかりをかけるかもしれない。
「私は……どうだろう」
香織は芯の強い女性だ。恐らくではあるが、ある意味では自尊心も高い。自分を低く見積もるのは玉に瑕だが、それは自尊心がないこととは少し違う。
「結局想像の域は出ないし、もしもその現実に直面してもその想像通りにできるかどうかは、判らないな」
「理想と現実ってやっぱり違うもんね」
それはその通りだ。
「そうだな……。でも、ま、もしもそうなったら俺も多分、お前には死ぬまで一緒にいてくれ、とは言えないかもしれん……」
相手のことを思えばこそ、だ。俺達には確かに時間はある。一也が伊関先輩に死ぬまでは一緒に居て欲しいと望んだとしたら、伊関先輩は一緒にいただろう。どんなに辛い目に遇うとしても。
そして一也自身が言っていた。
気持ちは何れ薄れるものだ、と。
だとするならば、きっと一也を喪ってそのことを引きずる時間は、僅か数か月か、数年長いか短いかくらいだ。たかだか十七、十八歳でしかない俺達には時間がある。数か月、数年かもしれないが、それが伸びただけで、後の人生の時間の方がとてつもなく長い。時間という秤だけで見てしまえばそういう答えもある。
無責任な想像だけの答えならば、勿論、それを一生引きずって、後追いする人もいるかもしれない。一生誰とも添い遂げずに生涯を終える人もいるかもしれない。だが、大多数の人間はそれを思い出に変えて行ける。人間はそういう風にできている。
そうして一也は、少しでも伊関先輩が自分に使う時間を短くし、次に進んで欲しいと思ったのだろう。自分の気持ちを押し殺してでも。
その考えは判るし、尊重もできる。それが自分にできるかどうかは別として。
「一緒に、いるよ」
にっこりと笑顔で香織が答えた。今はまだ付き合いたてだから、勿論そう答えるだろう。しかし付き合いが長くなればその考えも変わってくるかもしれない。そこも今の俺ではまだ想像の域を出ない。
「いや、しかしだな」
俺の香織への意思は汲んではくれない、ということなのだろうか。
「一緒にいる」
いや、ちがうな、これは。一也も本心では伊関至春と離れたくはなかったはずだ。だがそれを押し殺し、伊関先輩の為に身を退いた。それを判ってるからこそ、本心を押し殺して香織と離れる、ということを良しとしないのだろう。
「香織……」
それにしてもやはり強情な女だ。いや香織の言葉と気持ち、それ自体は非常に嬉しいのだが。もう少し、惚れた男の心意気を立ててくれる、ということも考えて頂きたいが、これは単純に男の勝手な意地でしかないのかもしれない。
結局男など、女には勝てないのだ。あらゆる意味で。
そしてそれが惚れた女であったのならば尚のこと、というやつだ。
「でも私は至春先輩が間違ってるなんて思ってないし、逆に瀬野口君が正しいとも思ってないんだ」
「ほう」
それは少々興味深い。当然なのだろうが、香織もこの件に関しては色々と思う所があるのだろう。
「だってそれは、もしかしたら行き違いも誤解も齟齬もあったかもしれないけど、二人で考えて、瀬野口君が一番だって思って、渋々ながらでも至春先輩が選んで決めたことなんだよ」
「うむ」
結果的にどうこうではなく、その時の決断の話だ。それを選んだのはどんな経緯や思いがあったとしても、本人達だ。他の何物にも責任転嫁をすることはできない。
「それが私の正解で、私が思う正しいことじゃない、って思うだけなんだけど……」
少し自信なさげに香織は苦笑した。
「なるほど」
自分の意思は自分で決める。そこにどんな後悔があっても決めたのは自分だ、ということだろうか。いや、自分の気持ちに正直になるということか。どちらにしても常に自分の内に矢印を向けて物事考える、ということだ。責任回避の自己責任でも、逃避の為の自己犠牲でもなく。
「だから、私は別れてなんてあげない」
「さいですか……」
随分と嬉しそうに香織は言う。勿論俺としては有難いことは有難いのだが。
「聡君は?」
やはりそう来たか。俺は自分の考えをまとめる。
理想を思えば……。
(理想?)
理想とはなんだ。自分が一番したいようにすることか。それとも相手を思って自分の気持ちを押し殺すことか。自分の気持ちを押し殺したとしても、一番幸せでいて欲しい人間の幸せを祈ることが、理想なのか。それともみっともなく足搔いて自分の望みを叶えてもらうことか。
(違う)
理想とは、俺も、香織も、幸せになることだ。だが、香織に死が突き付けられたその時、俺の幸せとはなんだ。香織の幸せとはなんだ。
(なるほどな……)
僅かでも幸せを与えてくれた、一番大切な人のために、自分ができることは何か。お互いの幸せが理想であれば、片方が不幸になるということが現実だ。理想と現実にあるギャップ。それが問題となる。その問題が、逆立ちしても解決できない問題なのだとしたら、それはもはや問題とはならない。解決できない問題は問題ではない。となれば、せいぜい自分ができることを足搔いてでもやり通すしかないのだ。
「……そうだな、それが香織の本当の意思かどうかをしつこく確認するだろうな」
死に直面した香織が、本当に俺を突き放したいのか、それとも一緒にいたいという気持ちを押し殺して別れると言うのか。後悔しないよう、自分なりのやり方で、本当にしつこく確認するだろう。
「多分、だけど、聡君の悪い癖だね」
「悪い癖?」
香織に悟られるような癖が俺にあっただろうか。いや、得てして自分のことなど判らないことの方が多い。それに香織も確信は持てないような言い方だ。俺は香織の言葉を待った。
「聡君の気持ちがそこにないんじゃないかな、って」
以前も似たようなことを言われたことがあった。
(新崎君が部に入って、詠君たちと、本当に一緒にバンドをやりたい、って思う気持ちが大きいかどうか、っていうのが、抜けてる)
「香織の本心を知りたいと思うのは俺の気持ちではないのか」
つまることろ自己犠牲なのではないか、と香織は言っているのかもしれない。だが、それでも好きな相手の気持ちに沿うことは、自己犠牲とは言わないのではないだろうか。俺は少し食い下がってみた。
「そういう訳じゃないけど、じゃあ私の本心が聡君の為だけを思って瀬野口君と同じように、聡君の時間をこれ以上私に使って欲しくないって言ったら、聡君はそれに従うんでしょ?」
しつこいようだが、それが香織の本当の、本心であるのならば、だ。死に直面した香織の、切なる願いであれば、どれだけ理想とかけ離れていたとしても、俺は自己犠牲を選ぶかもしれない。
自己犠牲は、辛いことではあるが、ある側面から見れば楽な方に逃げている、とも捉えることができる。俺にはそんなつもりなど毛頭もないが、いざその時になってみなければ判らないことは沢山ある。
「まぁ、それが本当に香織の本心ならば、そうなるな」
「聡君の本心が私といたいって思っていても、私の望みを優先するんでしょ?」
「まぁ……」
それも楽な自己犠牲、なのだろうか。
それは、俺も香織も辛いのではないだろうか。俺が一緒にいることによって、香織はそれがただ悲しいだけ、という気持ちに陥るのだろうか。
(解らない……)
一緒にいたい気持ちを押し殺して俺と離れた後、香織はどうするのだろう。一也は飄々としていた。もしかしたらあれは、諦めに似た気持ちがあったように、今ならば思う。
「ふふ、ごめんね。どうなるか、とかどうするべきか、なんてその時になってみないと判らないけど、私だって聡君の本心とか望みとか、そういうものに応えたいって思ってるよ」
俺が、だとか香織が、だとか、そういうことではないのだろう。これは恐らく、香織の決意表明と、俺への希望なのかもしれない。
「……今日は少しだけ饒舌だな」
だとしたら、俺はやはりそれに応えなければならない。絶対にないと言い切ることはできないが、この先恐らく一也のように病で俺か香織が命を落とす可能性は低いだろう。そんなことを前提にこれから付き合って行く訳ではない。だが、そういったお互いの気持ちの向きようだとか、そういったものを最初に確認しておくのは悪いことではない。
「少しだけ、慣れてきたのかな」
「そら良いことだ」
笑顔になって香織に応える。リラックスしているときの香織はあまり吃音が出ない。きちんと話せるようになったばかりの頃は酷い吃音だったが、それも香織の個性の一つ、と捕らえることもできた。しかし、香織の吃音は緊張状態にあるといつでも出てくる。だから俺は出来るだけ香織が緊張しないよう、俺と一緒にいる時にリラックスできるように努めなければならない。
「瀬野口君が違うとか至春先輩が正しい、とか私達には判断する権利はないもんね」
「それは、そうだな」
だからこそ、香織は俺にこの話をしたのだろう。一也には一也の、伊関先輩には伊関先輩の、そして俺達には俺達の解がある。
「でも、結果的に至春先輩は幸せなのかな」
「それは判らんな。慧太の頑張り次第というところかもな」
そこは香織も危惧するところだろう。人生の中でも最大級の決断を迫られ、それを選んだというのに、不幸になってしまっては意味がない。伊関先輩も慧太も、お互いに幸せになれるのが一番だとは思うが、これもまた本人達の問題だ。俺達にはどうすることもできない。
「渡樫君、頑張ってるよね」
「だな。ま、いつかは報われるとは思うが……」
香織の目から見てもそれが判るほど慧太は頑張っている。今はデリケートな時期だろうが、慧太は一歩も退かず、踏ん張っている。一也の気持ちに引きずられている、という可能性もあるにはあるが、そこは慧太の気持ちを強く持つ後ろ盾としても作用しているはずだ。決して死者に引きずられている訳ではない、と思いたい。
「そうなの?」
「まぁ、これはオフレコで頼む」
あの時、伊関至春の話を聞いた限りでは、慧太には望みがある。多少匂わせた話はしたが、それも慧太の後ろ盾としてだ。後は慧太自身が頑張らなければ、今恐らく混乱の極みにある伊関至春を振り向かせることはできないだろう。
「うん」
心なしか嬉しそうに香織が頷く。
「ただ、ことは深刻だ」
そう簡単に慧太も告白すれば良いという状況ではないし、今この時点で告白されても、伊関至春も返答に困るだろう。いかに慧太に気持ちが傾いているとしても。
「そうだね……。至春先輩にしても渡樫君にしても、複雑だよね」
「だな。でもま、本人同士の気持ちが一番大事だ。今生きてるのはあいつらで、俺達なんだからな」
一也の示した道標は、今後の俺達の人生の中で道標になるかもしれない。ならないかもしれない。しかし一也の生き様は、俺達の人生の礎になる。それだけは確かだ。
「うん……」
「……別に、死んじまった奴は関係ない、って言ってる訳じゃない」
別に香織は俺を責める素振りなど微塵も見せなかった。だが俺は自分の言葉に少し、後悔した。つもりはなかった。だが、聞きようによってはそう捉える奴もいるかもしれない。例えば太田や野島などは。
「うん」
「ただ、死人に口なしって訳じゃないが、一也自身がああいう気持ちを遺してった以上、それに引きずられることなく、自分達の気持ちで、一也の想いにも沿うカタチを作れれば、それが一番だと思っている」
「そう、だね」
少し、言い訳がましかっただろうか。だが、それが俺の思うところだ。一也が残したリビングウィルは、きっと俺達に公開されることはないだろう。だから、そこに何が記されていたかは俺達には判らない。病院に運び込まれ、やはり家族は緊急で延命処置を施したそうだが、程なくして息を引き取ったと聞いている。
一也のリビングウィルは尊重されなかったのかもしれないが、それでも最低限の延命処置だけで済んだことはもしかしたら、一也の思いとは反駁しなかったのかもしれない。そういう意味では、一也の意思は、念は、遺された者たちに少なからず伝わったのではないだろうか。そう思うのだ。
「念、ってのはある意味じゃ恐ろしいもんだ」
それに俺達が体験したあの一也の最期の声。あんなものを体現させるほどに、人の念は時に強くなる。仮にあれが、俺たち全員の錯覚だとしても、そんな錯覚を全員に起こさせるほどに、俺達の念もまた、強いのだ。
「特に死んじゃった人のは、ってこと、だよね」
「あぁ」
遺された思いは、やはり今生きている人間には強烈な印象を残す。一也はそれを判っていた。だから飄々として『いつも通り』を掲げていたのだ。残された俺達に、出来るだけ強烈な思い……いや、呪いを遺さないために。
「慧太も伊関先輩も、一也の想いだけに引きずられて、本心を見間違えていたりして、それで付き合ったら、それはきっと本当じゃない。上手く回るはずがないんだ」
「お互いが好きでも?」
お互いが好きということが錯覚だったなどということは、経験則からだが、恐らくは普通にあることだ。急激に熱量が覚めたり高まったりするのは、本当に本心からの気持ちなのか。そこを疑う術はきっと本人達にはない。目の前が暗くなれば、思い出したくないような屈辱を思い出し、目の前が明るくなれば、どんなに屈辱にまみれた事態であっても笑い話にしてしまう。そんなことなど当たり前にあることではないか。
「あぁ。嘘で始めたことが本当になることは、あるのかもしれない。だが大体はそんなもの、気持ちが続かない。何れは破綻してお互いに不幸になる。……それは呪いだ」
「呪い……」
俺が朔美に抱いていた気持ちも、一種呪いと呼べるものなのかもしれない。結果的にそれは自己正当からくる独りよがりであると気付くことはできた。大体は気付いた時には手遅れで、その相手に独りよがりだったことを倣い、やり直すことは不可能だ。その時には気持ちは折れているどころか断ち切られていることが殆どなのではないだろうか。
だから俺は、桜木八重とも付き合えなかった。嘘から始めることなど、本心ではない。自分達の気持ちが一時的なものなのか、本心からくるものなのか、常に問いかけをしなくてはならないのではないか。そんな風に俺は考える。
「一也を呪詛にしないためにも、あいつらがきちんと本心で、自分に正直になってやっていかなくちゃ駄目なんだよ」
本当に自分の気持ちに正直になっても続かないことはある。例えば俺の場合などは特にそうだろう。朔美とのことは朔美の甘言に乗って、間隙をついた俺達二人の過ちが相まってのことだった。どちらにも原因はあった。
そうして既に後の祭りになったところで、ようやっと自分たちの過ちに気付けたのはまだ僥倖だっただろう。しかし、一也の気持ちを、遺した思いを、悪者にしてはいけないし、それこそ慧太や伊関先輩の本意ではないのだ。
「その結果、瀬野口君の想いも成就するように、ってこと?」
「あぁ」
そうでなければ、慧太も伊関先輩も幸せにはなれない気がするのだ。二人の間に、常に一也の思いが燻って、それはいつしか重圧になってしまう。
「それは、確かにそうだね」
「でもま、慧太はあの通り、一直線馬鹿だ」
だからこそ、心配なのだ。
「でも、だからこそ心配なんでしょ?聡君は」
俺の気持ちをズバリと言い当てて香織が笑った。
「まぁな。あいつの一直線が、一也の気持ちは俺が引き受ける、なんて思っていたら、危険だとは思う」
そこが慧太の良いところでもあるのだが、決定的な弱点でもある。
「瀬野口君が居ても居なくても至春先輩が好きっていう気持ちの方が勝っていれば、巧くいくかもっていうことだよね」
「その通りだな」
全く持って見事だ。あの一直線ばかが香織の言う通りなのであれば心配には及ばない。
「それなら大丈夫なんじゃないかな。……瀬野口君が元気な頃から、渡樫君、頑張ってたもん」
「……だな」
そこはそうとも言い切れんところだが。一也が伊関至春と別れた以上、一也はもう関係ないと当の慧太が僅かでも思っていれば良いのだが、そこはそれ、簡単には割り切れないだろう。
「悲しくて、寂しくて、あんなに泣きじゃくっても、結局こうなっちゃうんだね」
一也がいないという現実で物事が進んで行く。悲しいが、それは当たり前のことだ。
「それは奴自身も望んで……いや、悟っていたことだ。そして生きている俺達は死人に引っ張られちゃいけない」
死んだ奴は関係ないという意味ではなく。俺達は俺達の親友を悼んで、その思い出を壊すことなく、忘れずに生きて行かなければならない。
「生きてるのは私達だもんね」
「そういうことだ」
気付けば香織のアパートは目の前だった。随分と時間も距離も忘れて話してしまった。香織相手にこれほど思慮深く話したのは初めてだった。
「……お、お茶でも飲んでく?」
「え」
それはつまり、香織の部屋に招待されるということだ。そしてそれはつまり……。
(つまり)
「あ、う、うん。い、いつも、お、送ってもらってば、ばっかりだし……。その、た、たまにはお礼、くらいは……」
淡い期待を抱いたのは嘘ではない。だが俺達はまだ付き合い始めて十日ほどだ。キス以上の展開はまだ早すぎるし、俺が初めての彼氏であろう香織にもまだきつい現実のような気もした。勿論付き合ったその日にというカップルもいるだろうが、それはきっと俺と香織のやり方にはそぐわない。
それに何よりも発現した香織の吃音。これは今、香織が緊張状態にあることの証だ。
「……はぁ」
恐らく、この後数か月付き合って、夜を共にすることになったとしても、その時には勿論香織は緊張するだろう。そしてそれは俺も同じだ。だが、それは今と数ヶ月後とでは意味が違う。だが香織が俺を受け入れてくれようとする気持ちは本当に嬉しいと思った。ぽん、と香織の頭に手を乗せる。
「え?んっ」
手を置いたことでこちらに顔を向けた香織の唇を奪う。こんなこと、全くキャラクターではないが周囲には香織しかいない。たまにはこんなことも良いだろう。
「今日のところはこれで」
「う、うん……」
かぁ、と赤面して香織は頷いた。ほらみろ、キスですらまだこの状態だ。この先になど進めるものか。
「無理しないでいい。そこはそれ、お互いの気持ちがリンクした時でいい」
「そ、そ、そうだねっ」
それは俺が今、香織と寝たくはないといった意味ではないと判ってくれただろうか。そこには一抹の不安が残る。
「じゃ、また明日な」
もう一度キスしたい衝動を抑え込んで、香織の頭に手を乗せた。
「うんっ」
そう安心した顔をされると、なぁ……。
第三七話:理想 終り
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