二〇一二年十月一日 月曜日
暗中模索、という言葉がある。
文字通り、闇の中で何かを探す、手がかりすらない状態で物事を解決しよう試みる様を言う。そんな手がかりのないままで推論を立てることは、あるいはできることなのかもしれないが、大体が見当違いだし、多くの場合、何も解決などしないというのは俺の実体験だ。
vultureには先客がいた。いや、いつも誰かしら客はいるものだが、知り合いがいたという意味だ。
「こんちは」
「あらあら聡君、香織ちゃん、いらっしゃい」
最近少しずつではあるが、きちんと涼子さんに挨拶もできるようになってきた。俺としては中々目覚しい進歩だ。
「お、聡!関谷も」
早速俺と関谷に気付いた慧太が声をかけてきた。そうだ。店には慧太と伊関先輩がいる。恐らく個人練習を終えて、お茶でもということになったのだろう。
「おす。先輩もお疲れす」
「うんお疲れー。デート?」
にこり、と罪のない笑顔で伊関先輩は冗談を飛ばす。俺は冗談だとすぐに判ったが、関谷はいつもの如く真に受けるだろう。なので一応当たり前の返しをしておく。
「部活帰りですが」
「部活帰りにデー……。そんな顔しなくたっていいでしょ、冗談よ」
伊関先輩と慧太が座っているのはカウンター席だった。涼子さんも交えつつ、談笑していたのだろう。俺も伊関先輩の隣に座り、さらにその隣に関谷が赤面したままで座った。
少々睨みを利かせて言ったので、伊関先輩は苦笑しつつ俺の顔を覗き込んだ。俺も充分冗談だということは判っているのだが。
「俺は別にいいですけどね。関谷に悪い」
「ホントだ。ごめんね香織」
関谷の顔色を伺って伊関先輩は苦笑のままそう言った。
「あ、い、いえ!」
耳まで赤くして関谷は慌てて返す。全く諧謔の判らない奴だ。
「どうだ慧太」
もちろん個人練習のことだ。尭矢さんの話に寄れば、慧太は空ピッキングができないせいで、歌に手の動きが釣られてしまうという。まだまだ初心者の域を出ていないということだ。
「ムジい」
「だろうな。とりあえずピッキングは徹底した方がいいぞ」
「だな。今まで気にしなかったわ」
簡単な弾き語り程度ならばある程度は手癖だけでも弾けてしまう。歌本を見て、好きな曲、やれそうな曲だけをやっていては、あまり上達は見込めない。せいぜいコードチェンジが手慣れる程度で。
「よく気持ち悪くないよね、あれで」
「やってきた環境もあるでしょうからね。最初のうちは空ピッキングの所も音は鳴ってもいい。とにかく反復運動を叩き込めよ」
「おー」
一度付いてしまった癖は中々抜けない。俺も始めた当初は空ピッキングができずに苦労したものだった。
「伊関先輩のような人と個人練習に入れることも稀だ。良い意味でも悪い意味でも楽しめ」
冗談半分で俺は言った。が、慧太の反応は俺の想像とは違うものだった。
「あぁ……」
「何、私じゃ不満?」
今度はにやり、と笑って伊関先輩は言う。どこまで本気かは判らないが、伊関至春という人間はあまり自分の見た目を利用するような人間には見えない。生真面目という訳ではないだろうが、真面目であることには変わりない気がする。だから思ったことをずけずけと言ってしまうところもあるのだろう。
「そ、そんなことないっす!」
なるほど。慧太の反応で少し判ってしまった。少々無粋な真似をしてしまったかもしれない。話を切り替えることにしよう。
「関谷、今日は俺が持とう。好きなものを頼んでくれ」
「え、わ、悪いよ」
関谷はそう言うが、この間から考えていたことだ。そこは譲れない。
「この間、お前を引っ張り回した挙句、缶コーヒー一本で済ませてしまったからな。ちゃんと奢らせてくれ」
おまけに引っ張り回したくせに、送って行くことにまで気が回らなかった。慧太に言われなければ恐らく俺は一人で帰っていたかもしれない。言い訳をする訳ではないが、俺は俺で冷静ではいられなかった。なのでこれはその侘びでもある。
「いいなぁ香織ぃ」
「先輩もレッスン料として慧太に請求したらどうですか」
冗談交じりに俺は言う。伊関先輩には以前奢ってもらったことがあるので俺が奢っても良いのだが、慧太の手前それもあまり良くないだろう。
「お、それはいいかもね」
「よ、良くねー!」
なんとけち臭い男だ。女性一人分の、高々ケーキや飯などそう高いものでもあるまい。だがまぁ金欠の時は誰にでもある。理由も聞かずに責めてはいかんな。俺も大人になったものだ。
「じゃ、じゃあ今日はご馳走になるね、新崎君」
「あぁ、遠慮は無用だ。涼子さん、今日はモカとオムライスをください」
とはいっても関谷のことだ、きっと遠慮するだろう。関谷ならば一番安い物か俺と同じ物を頼むかもしれない。もしそうならば即却下だ。
「かしこまりー。香織ちゃんは?」
「あ、じゃ、じゃあ同じものを……」
「関谷。好きなものを頼め」
あまりに予想通りの行動でずっこけそうになるが、何とか持ち直して俺は関谷に短く言った。
「そうよ香織ちゃん。折角聡君が奢ってくれるって言うんだから、いっぱい食べなきゃ」
「あ、う、は、はい」
流石は涼子さんだ。涼子さんの言葉ならば関谷も逆らえまい。
「慧太君、私もぉ」
くい、と小首をかしげて伊関先輩は言う。慧太の方を向いているので表情までは判らなかったが、この女、意外と見かけを上手に使うタイプだったのか。
「くそー、負けねぇぞ!そんな可愛らしい顔したってだめだ!そもそも俺は金欠だ!すんません!」
「だめかぁ」
「ば、バイト代入ったらで……」
「お、ホントに?じゃあ期待しないで待ってるね」
そうか、本気ではないということか。冗談でやっているのならばまだ性悪女ではないな。そもそも俺が最初に伊関先輩と会った時は、信頼できる、話の判る人間だと思ったはずだ。だから俺はバンドを止めた理由を、軽音楽部の人間では一番最初に話してしまった。恐らく軽音楽部の人間の中では誰より諧謔の判る人間だ。
「き、期待してください!」
良く言った。ある意味ではこれはチャンスでもあろうしな。次回、伊関先輩をここに連れ出す良い口実になる。
「お、言ったなー。さて時間も時間だし、私らは帰ろっか」
「え、帰っちゃうんですか?」
全く同感だ。折角来たのだからこう、何だ、そう、あれだ、何か、こう、楽しい小話などを。和気藹々と談笑を。
「うん。香織と聡君の邪魔しちゃ悪いし」
「なぁ!」
恐らく見たいテレビでもあるのだろう。
「関谷、一々本気にするからからかわれるんだぞ」
「あ、そ、そか」
いい加減学ぶのだ。俺はもう慣れすぎてしまって突っ込む気にもなれない。あぁそうだ、慧太にはしっかり釘を刺して、いや、反撃はしておこう。
「慧太よ、もちろん伊関先輩を送っていくんだろうな」
「当たり前だろ!」
むきになって慧太は言い返してきた。判りやすい男だ。流石に正義の味方と称されるだけはある。俺も幾許かは見習わなければならないところだな。
「え。いいよ近いし」
「近いなら尚のことです。だな、慧太」
「おぉ」
恐らくそれが伊関至春ではなくても、慧太は送って行くのだろうが。
「んじゃお言葉に甘えちゃおうかな。何かあったら守ってね、慧太君」
「ま、任せて下さい!」
どん、と自分の胸を拳で叩いて慧太は意気込んだ。相手が誰であろうと送っては行くのだろうが、送る相手が伊関至春ならば気合も入ることだろう。
「じゃあ香織、聡君、明日ねー」
「送り狼するなよ」
この間の反撃はこれだ。伊関先輩が面白いように乗ってくれた。
「するか!い、いや先輩、しないっすよ!そんな目しないで!」
「何だぁ。しないんだ」
「え!」
やり手だなぁ。
「慧太……」
お前もその辺は関谷と同じだ。一々真に受けることか。
「わ、判ってるよ!じゃあな聡、関谷!涼子さんご馳走様でした!」
本当に判っているのか、恐らく伊関先輩が慧太を誘惑したところでそんな誘惑には乗らないだろうことは想像に難くない。誰でもそうだとは思うが、告白というか、付き合う前からそんなことになどなりたくないはずだ。遊びで寝る間柄であればそういったことも可能なのだろうが、慧太も伊関先輩もそういう間柄ではない。
「はぁい。至春ちゃん、あんまり誘惑しちゃ駄目よ」
「程々にしときます。じゃあご馳走様でした」
にや、と笑って伊関先輩は席を立った。
「腹いっぱいになったのか?」
結局関谷はナポリタンとチーズケーキを食べたのだが、俺だったらナポリタンだけでは腹が膨れないので、ついそんなことを言ってしまった。
「う、うん。ていうかもう苦し……」
「小食だな、関谷は」
昼の弁当箱の大きさを見れば判らなくもないが、経済的には非常に羨ましい。
「男子と比べられたらね」
「時にな、関谷」
「ん?」
「慧太の好きな女とは、伊関至春だな?」
関谷は慧太の好きな女を知っているようだった。俺はその頃、慧太や軽音楽部には興味がなかったのだが、流石に今は違う。何がどう絡んでくるのか、どう一也に絡んでしまうのか、冷静に見極めなければならない。
「あ、うん……」
「だが奴の様子がおかしかったな。何か知って……。いや、関谷から俺に、何か話せることはあるか?」
「……」
俺の質問に関谷はまともに言葉を詰まらせた。つまり、言いにくい何かがあるということだ。恐らく一也が絡んでいる可能性も高い。一也に直接聞き出すことは恐らくできないだろう。だとしたらその話は俺自身の中で禁忌にしておかなければならない。
「なければいいんだ。無理に聞き出そうとは思わない」
そう俺が言った直後、残ったコーヒーを一口飲んで、関谷は口を開いた。
「至春先輩、ね、瀬野口君と付き合ってたんだ」
過去形だ。つまりは。
「別れたのか」
「うん」
それは知っておいて良かったことだ。思う所は沢山出てきてしまったが、まずは関谷の話を聞いて情報を整理した方が良いだろう。
「瀬野口君の病気のこと知る前までは、普通に別れたんだと思ってたけど、きっと、違うよね」
「その可能性はあるな」
全ての事柄に断定はできない。関谷の思う所や、俺の推測も交えて考えなければならないことも多くなってくるだろう。
「慧太は当然、それを知ってる訳だな」
「うん」
慧太がいつから伊関先輩に想いを寄せているのかは判らなかったが、少なくとも、伊関先輩と一也が付き合って、別れたことを知っているという訳だ。
「それは複雑だな。知らなかったとはいえ、茶化しすぎたかもしれん」
それならば慧太のあの微妙な反応も理解できた。
「何かできること、ないかな」
途切れ途切れに言う関谷の言葉に、俺は即答した。
「ない」
「え」
関谷の性格を考えれば、誰かの力になりたい、というのは判る。しかし出過ぎた真似をすれば、誰の逆鱗に触れてもおかしくないことばかりだ。扱いが難しい話であればあるほど、軽率な行動は取れない。
「俺たちにはない。この間のばかに能天気なやり取りを見ただろう。童貞がどうのとか言っていた」
「う、うん」
関谷がいる席で何という話を、と思ったものだったが、vultureであんな話をするくらいだ。恐らく部室ではもっと卑猥なことも話しているのだろう。なので、関谷にはこの手の話の耐性があるのかもしれないが、今重要なのはそこではない。
「慧太は慧太なりに、ケリを付けたいんだろう。一也の気持ちが判らない以上、何とも言えんがな……」
それに俺たちがここで話し合っていても真実は何も見えては来ない。
「……なるほど」
そこに、差し出がましかろうが、お節介だろうが、瀬野口早香が助け船を出した。ということなのか。
「え?」
「今日の組み合わせな、瀬野口先輩が言いだしたんだ」
渡樫慧太も伊関至春も、弟一人に捕らわれずに、無理矢理にでも前を向いて欲しかった、と思ったのかもしれない。瀬野口先輩の真意は判らない。だがそう思えば慧太と伊関先輩の個人練習にも、付加価値がつく。
「早香先輩が?」
「あぁ。俺はベースだけだし、二パートをやる訳ではなかった。だから、当初は俺が慧太の面倒を見ようと尭也さんと話していたんだ」
「早香先輩が至春先輩にやらせたい、って言ってきたの?」
話が早くて助かる。関谷は一度頭が冷えればきちんと人の話を理解してくれる。伊関先輩が言っていた、ある意味での鋭さというものはなるほど、確かにあるのだろう。
「まぁそうだ。元々伊関先輩はギターボーカルだ。俺が教えるよりも格段に慧太の腕は上がる。だから、最初はそういう思惑だと思っていたんだ」
そもそも関谷も男子のバンドに協力してくれていたこともあってか、女子部員が男子部員を手伝うことなど当たり前に過ぎると思い込んでしまっていた。
「渡樫君が至春先輩のこと好きなのは、皆知ってるからね」
「恐らくは伊関至春も、だな」
「うん」
嫌な話になってきた。俺の悪い予感はここの所どんとんと的中率が上がっている。これ以上そんなことにはならないで欲しいところだ。
「となると一番考え易いのは、一也と伊関至春は嫌い合って別れた訳ではない、ということだ」
「瀬野口君の病気のことで、これ以上付き合うの辞めよう、ってなったのかな」
恐らくはそうだろう。残された人間のことを想えば、身を引く気にもなるかもしれない。俺は一也にはなれないので、無責任な空想でしかないが。
「可能性は、あるかもしれないな」
一也の病気は二年近くも前に発症していた。伊関先輩と付き合った時にも、一也はそのことを判っていた。だが、それを伊関先輩に伝えたかどうかは判らない。今は伊関先輩も病のことを知っているが、付き合っていた頃や別れた時に、知っていたかどうかは判らない。
「元々至春先輩のことが好きだった渡樫君を至春先輩に充てがった、とか?」
「あぁ。一也の決断は無駄にはできない。伊関先輩は立ち止まったままという訳にはいかない、そんなところか」
酷な話だ。それをしたところでお互いに幸せになどなれるものか。そう思うのだが、恐らくそんなことなど瀬野口早香だって百も承知のはずだ。
「でも、だとしたら、無理じゃないかな……」
「無理?」
いやそうだな。俺もそこは判る。
「渡樫君には悪いけれど、至春先輩が喧嘩別れでもない瀬野口君のこと、そんなに簡単に忘れられる訳ないと思う」
「……確かに」
仮に、別れた時に伊関先輩が一也の病のことを知らなかったとしたら、知った今となっては余計に一也への想いが大きくなってしまうのではないのだろうか。
「それでも、前を向かなければ、と思っていたとしたら」
「渡樫君のこと、頑張って好きになろうとしてるってこと?」
流石にそれは無理があるだろう。慧太としても複雑な心境なのは頷ける。
「だとすれば慧太にとっては随分と酷な話だ」
「……だよね」
もしそうならば随分と無茶をしている。人の心など簡単に動くものか。とは言っても、何の確証もない話だ。こんなことなど杞憂に終わってくれればそれが一番良い。一也と伊関先輩は喧嘩別れをして、今は慧太のことが気になっている。そんな話が一番平和だ。
「新崎君は、何で別れちゃったの?前の彼女さんと」
「……いきなりだな」
それもそんな話をあのショック状態の中で覚えていたのか。
「あ、ご、ごめんね」
おっと。俺の言い方がまずかったのか、少し吃音が混じり始めてしまったな。穏やかに話さなければ。
「いや、いいさ。ただ、面白くもなんともない話だぞ」
「う、うん」
もう半年以上も前のことだ。今更未練はないし、諦めも付いた。ただし、俺の中で女性という生物に偏見は生まれた。全ての女性がそうではないと信じたいが、信じたいと思っていること自体が疑いを持っていることになる。
「単純に言えば浮気というか、まぁ、他の男に取られたというか」
「とっ」
二の句がないことを見抜いて俺は話を続けた。
「まぁ元々付き合ったのが、間隙って言う訳でもないんだが、振られたすぐ後だったんだ」
「彼女さんがってこと?」
「あぁ、そう。物凄く好きだったらしくてな。だいぶ落ちてたんで、まぁその、ずるいとは思ったんだが、優しくした」
我ながら狡猾な手を使ったと思う。相手を思えば尚のこと優しくしない訳には行かなかった、と言えば聞こえは良いかもしれないが、俺はその時、素直に好機だと思ってしまったのだ。
「ずるくない、よ、た、多分」
「そうか?今となってはまぁそうだったかもな。で、まぁ、そのまま付き合うようになったんだけど」
そう言って俺も残るモカを一口飲み、唇を湿らせた。
「少しして、彼女が好きだった男が、その時に付き合ってた女と別れて、俺が付き合ってた女にちょっかい出し始めたんだ」
バンド関係で何度か顔を見たことがある程度の男だった。話したことはなかったし、対バンも一度か二度位しかしていないはずだ。そもそも付き合っていた女もその対バンきっかけで知り合った女だったし、向こうとの繋がりの方が深かったのは確かだった。
「え、新崎君と付き合ってるの、知ってたの、その人」
「それは判らないな。俺は殆ど会ったこともない奴だったから」
それでも彼女は奴が女と別れたことを俺には言わなかった。俺が知ったくらいだ。当然彼女も知っていただろうに、どんな思惑があったにせよ、そのことを俺に言うことはなかった。最後まで。
「そう、なんだ」
「で、まぁそのまま持ってかれたんだけど」
電話やメールの頻度が下がり、態度も少しずつ豹変していった。俺は元好きだった男と彼女が会っていることも知った。だからもう続ける気が失せた。好きになってもらいたくて努力したことも、繋ぎとめようと努力したことも、全てが無駄に終った。おまけにferseedaに切られたことも相まって、俺には様々な意味で心の力が残っていなかったのだ。
「……」
「間隙を縫ったのは俺じゃなかったって訳だ」
自嘲するように言う。どこかでまさか、と思っていた。繋ぎで暇潰しに使われていたなどとは、微塵も思わなかった。しかし、突きつけられた現実は一つだ。私が一番好きだった人が付き合ってくれると言うから、二番目の君とはバイバイね、という、ばかばかしいほどに簡単な話だった。
「し、新崎君には悪いけれど、ず、狡いよ、その人……」
「まぁそうかもな」
俺も全ての真意は知らない。現実を突きつけられ、その真実を追究するほど固執できなかった。笑ってしまうほどに俺という存在は全てが無価値だったのだ。だから笑って済ませることにしてしまった。
「でも自分だったらどうだ?」
「わ、わたしは優しくされたら、その時は嬉しいって思うけど、一番に好きな人じゃなかったら、付き合わない、と、思う……」
関谷なら確かにそう思いそうだ。いくら優しくされても、好きな人がいるから、貴方とは付き合えない、と。例えその好きな人に振られたばかりだとしても。
「俺もな、付き合ったら一番になるって思い込んでた。ちゃんと俺と一緒にいて、楽しい、って思わせたかった。できてると思ってた。でもな、一緒にいて楽しいことも、キスもセックスも、それは二番目の男でもできるんだよ」
楽しいと言ってくれたことが、もしも世辞だったとしたら、いくら俺でも多少は判る。セックスの時だって演技ではなかったことくらいは判っていた。だから俺は彼女を喜ばせることも、悦ばせることも、できていると思っていた。いやその考え自体は間違いではなかった。彼女は楽しんでいたし、喜んでくれていた。それが一番好きな相手とだったら尚良かった、というだけの話で。
「そ、そんなこと、ないよ」
「関谷はそうかもしれない。俺も女が皆そうだとは思っちゃいない。でもそいつはそれができる女だった」
男でもそういう男はいるだろう。それは性別に左右されることではなく、人間としての本質の一つだ。だが俺は男で相手は女だ。男として女にされたこととして、俺の心には焼き付いてしまっている。それを実体験もなくして是正し、塗り替えることは到底不可能だ。
「そういう割り切りができるってのは、確かにその女にとっては有益なことかもしれないが、やられた方は堪ったもんじゃない」
「……うん」
俺がどんな思いをしたか、あいつは知らない。腹の中が焼け付くようにじりじりして、何日も眠れなくなって。そんな思いをするのはもう沢山だ。
「関谷にはちゃんと一番好きな男がいるんだろう?そいつを一番だって思えてるんだったら、その男はきっと幸せだろう。大げさかもしれないけどな」
きっと関谷ならそんなことはしないだろうし、自分が駄目ならその駄目さを受け入れるような気がする。良くも悪くも、関谷は真摯だ。関谷が思いを寄せている男がもしもきちんと関谷の想いを受け入れてくれたのなら、きっと関谷は幸せだろうな。
「え、あの、それって……」
か、と赤面して関谷は下を向いた。別に責めている訳ではないのだからそういう仕草は極力やめて欲しいものだ。
「この間一也が言ってただろう」
一也は関谷の好きな男を言っているような口振りだったが、違うのだろうか。
「あ、あれは違うと思う……」
「違う?」
「瀬野口君、私の好きな人とか、知らないよ」
「あぁ、言葉の文か」
なるほど。あの状況では確かに一也も何かを例えにするしかなかったという訳か。俺になどかまけていないで、お前はお前の好きな人、もしくは恋に生きろ、と。
「うん。で、でもわたしなんて、好きな人がいてもきっと相手にされないよ」
関谷のこれはそう簡単には直りそうもないな。それこそ、俺や五反田相手にでさえそうなのだから、恋愛関係ともなればもっと不安になるだろう。
「そんなことはないさ。そういうの辞めろよ。自信満々になれとは言わんが、自信がなくていつもしょげている人間は誰の目にも魅力的には映らないぞ。俺も人のことは言えた義理ではないが」
女と別れ、バンドからも切られ、何もかもが嫌になって目を背けた。折角の誘いもくだらない疑いをかけて断ろうとした。ベースは弾かないだの、バンドは二度とやらないだのと、できもしないことに意地を張っていたのは俺も同じだった。本当は関谷に偉そうなことを言って聞かせる立場でも何でもない。だが、時には自分を棚に上げることも必要だ。
「新崎君から見ても?」
「そうだな。楽器を弾いたり一緒にゲームしてる時、まぁ、関谷が楽しんでるな、と判る時はそうではないがな」
「ホント?」
ぱ、と顔を輝かせて関谷は言った。こういう表情をする時はとても可愛らしい。表情豊かなのは良いことだが、関谷はもう少し自分の魅力や良いところを自分で認めてやっても良いはずだ。
「あぁ。五反田も言っていた。もう少し自信を持った方が良いと。過去に何があったかは判らないが、関谷はもう少し周りに目を向けて、胸を張っても良いと思う」
それができない理由が、簡単には人には言えない理由が、何かあるのかもしれないが、俺にはそれを巧く聞き出す手段がない。
「わたし、小学校、中学校って虐められてたから……」
「小学校、中学校はこの辺じゃないのか、もしかして」
なるほど。そういう過去か。俺は虐められた経験はないが、女の虐めは男のそれよりも陰鬱だと聞いたことがある。関谷が自分に自信を無くしてしまった原因がその虐めなのだとしたら、相当酷い目に遭っていたのだろう。
「う、うん。わたし地元は東京じゃないから……」
「それで離れた学校に、一人暮らしをしてまで通ってるってことなのか」
「うん……」
一也たちはそれを知っていたのだろう。だから関谷の一人暮らしの理由には触れなかったのかもしれない。こんな話など、誰かに吹聴して良いことではない。
「ならば尚のこと、昔の悪いところなど捨てないと駄目だろう」
「う、うん……」
冷たい言い方かもしれないが、虐めとは理由や原因など殆どが意味のない後付けだ。嫌われているということだけが原因ではない。虐めなど、周りがやっていれば何とも思っていなくても便乗してやるものだ。そうなのだとしたら、関谷は新しい環境で新しい生活をスタートさせたのだから、重苦しい過去とは決別しなければいけない。
「別に五反田のように明るく振舞えと言っている訳ではない。関谷は関谷のやり方で良いだろう」
「うん……」
誰かを模倣しろと言ってもそう簡単にできる訳ではない。関谷は関谷で良い所をたくさんを持っているのだから、そこを伸ばして行けば良いのだ。
「ま、焦ることはないけどな」
「う、うん……」
少し笑顔になって関谷は小さく頷いた。
「今虐められている訳じゃないんだ。一大決心して新生活を始めたなら、変わらないとな」
俺だって何かあれば関谷の力にはなってやりたい。折角知り合えて、こんな俺とも仲良くしてくれているのだ。その気持ちには応えたい。
「そうだね。ありがと、新崎君」
く、と顔を上げて俺に笑顔で関谷は言った。こんなにも嬉しそうな笑顔をする時は、水沢みふゆですらも超越する可愛さがあるのではなかろうか。いや、そんなことを思うのは俺だけかもしれないが。
「いや……」
それでもやはりこの笑顔をなくしてしまうのは勿体ないな。
第十四話:暗中模索 終り
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