二〇一二年十一月二日 金曜日
脚下照顧という言葉がある。
元々禅の言葉らしいのだが、中々開けない悟りを外に求める前にまず自分の足元、つまりは自身の本性を良く見定めよ、といった意味らしい。転じて外野に理屈屁理屈をなすりつけて責任転嫁をする前に、自分自身の足元を良く見て自身を顧みよ、と言った意味になる。
まさに少し前の俺にはぴったりの言葉だが、それは今の俺も勿論忘れてはいけない言葉だと考えさせられる。
他人のそういった姿は目につくし、見ていて快い物ではない。しかし他人をとやかく言う前に、自分自身はどうなのか。それを怠ってはならないということなのだろう。先人は尊い言葉を残したものだ。
ともかく色々と片付けて、皆の飲み物の買い出しに、どういう訳か水沢みふゆと二人で行くことになってしまった。
「新崎君ごめんね、強引に」
「いや。でも珍しいな」
水沢もどちらかと言えば控えめな性格のはずだ。余り我は強くないような印象を受ける。あくまでも俺の個人的な心象であり、あくまでも外面、という意味でしかないのだが。そんな水沢が昨日付き合い始めて、まだ俺と一緒にいたがっている香織を制してまで、俺と二人になってまで話を訊きたがるとは。何事も外面で見えている部分だけでは測れないということだ。
「下世話かな、って思うんだけど……」
「香織との事か」
香織から直接報告を受けたのではないのだろうか。恐らく水沢は香織の友達の中でも一、二を争う程の親しい友達のはずだ。報連相は当然しているだろう。
「え?あ、そ、そう!」
「……違うな。伊関先輩の事だろう」
香織との話も全く違う訳ではなさそうだが、主軸となるのは伊関先輩の話なのだろう。つまりは水沢も俺と伊関先輩が屋上に向かうところを目撃していたということだ。
「う、うん。で、でも香織ちゃんの事も、ものすごぉく聞きたい、な……」
「呆れるほどの惚気話でもか?」
様々な事情や都合、経緯があるにせよ、結果的に本人達以外には惚気話にしか聞こえない。他人の恋愛事情などそんなものだ。男はそれに辟易し、女はそれに楽しみを見出す。そんなところかもしれないな。
「むろしそれがいい……。たまには砂吐きしたいこともあるのよ」
「お前って結構面白い奴だよな、水沢」
ちょっとしたユーモアも持っていて諧謔も判る。真面目一辺倒ではないし、とはいえ不真面目ではない。口数はさほど多くはないし、かといって無口な訳でもない。とにかく存在が煩くない。異性で一緒にいて疲れないというのは中々貴重な存在だ。
「え、そ、そうかな」
「あぁ。もっと生真面目で朴念仁かと思っていた。少しだけ前の印象だがな」
それこそまともに話す前までの印象でしかない。水沢みふゆという学園のアイドルみたいな女生徒がいる、程度にしか認識していなかった頃だ。わずかに数ヶ月前の話でもあるのだが。
「あはは、良く言われる。ついこの間衣里ちゃんにも言われたんだよね」
「五反田か。最近仲良くなったそうだな」
つい先ほど聞いたばかりだが、五反田のように歯に布着せぬ物言いをするような人間は裏表がないし、水沢のように冷静に人を見られる人間が無下に人を嫌うはずもなく、きちんと知り合ってみればウマが合った、ということなのだろう。
「うん。新崎君のおかげ、かな」
「もうよせ。俺はこの件に関しては全く関与していないに等しい」
五反田にも似たようなことを言われたばかりだ。俺が何か二人の橋渡しでもしたのならば納得もするが、事実俺は何もしていないのだ。これ以上無関係なことに功績を立てようとしないでほしい。
「それは確かにそうかもね」
「俺は自分で自分にめっきを施しているつもりは微塵もない」
そうして外野が勝手に騒ぎ立てて、いざ本当の俺が露見した時に新崎聡のめっきも剥がれてきたな、などと謂れもない中傷を浴びせられるのは本意ではない。
「それがめっきかどうかは新崎君じゃなくて他の人が決めるんじゃない?」
「それはそうかもしれないが、態々周りからめっきをぶっかけてくるのを避けるのも大変なんだ」
新崎聡は大した奴だ、というのは本気で辞めてもらいたい。実際にはそこまではっきりとは言われていないが、新崎聡のおかげだとか、そういったことも結局のところ大同小異でしかない。俺という面白みの欠片も、何の力もない男の地金などせいぜい鉛程度でしかない。金銀プラチナのような希少価値も無ければアルミニウムや鉄ほど安価で汎用性に富んでいる訳でもない。鉛はめっきになることはないし、磨いたところで所詮鉛だ。
「それがめっきかどうかも、決めるのは新崎君じゃないんじゃない?」
「そうか?それがめっきだというのは冷静なる自己分析の賜物だと思うが」
そうだ。実のところ鉛でも全くの役立たずという訳ではない。だから真っ向から自分を全否定している訳ではないのだ。例えば鉛は俺達が多用している楽器のシールドケーブルやスピーカーに使用されているし、ガラス工芸では加工性やガラスの透明度を上げているのも鉛の役割だ。少々人体に害があるのはご愛嬌。使う方の人間が間違えなけりゃあ鉛は決して悪さはしねぇもんさ……。
「そういう変わったところを好きになったのかなぁ、香織ちゃん……」
まぁ誰が言ったかは知らないが、毒がある物ほど旨い、と先人は良い言葉を遺している。……話がずれまくっている。矯正をかけるとしよう。
「は、そうだ。それは判らんが念のために後でフォローしておいてくれよ、香織に」
「それは勿論、ね」
ぴんと人差し指を立ててウィンクをする。涼子スマイル娘版だ。娘でもこれを見られれば良いことがあるのだろうか。
「で、本題だが、それも含め香織にフォローを頼みたいんだが」
「まぁこれは私の我儘ですからね」
「我儘?」
ともかく、香織が水沢に嫉妬するはずはないが、何をどう勘違いされるか判ったものではない。言いだしっぺの水沢には是非とも親切丁寧な説明を頼みたい。
「至春先輩の事は訊きたいけれど、香織ちゃんとのことも訊きたいし、だとすると香織ちゃんがいないところでじゃないと新崎君が答え難いこともあるだろうし、っていう私の我儘」
好奇心が旺盛で、その好奇心を抑えることができない性質なのだろうか。水沢の意外な一面を知ったかもしれない。
「……なるほどな。じゃその辺のフォローは頼む」
「かしこまり」
それでは本題に入るとしよう。誰にとってもあまり楽しくはない話題だ。結果だけをさっさと報告した方が良いかもしれない。
「まぁ、俺からは特に何もないが、伊関先輩から少し聞かされた。言うまでもないかもしれないが水沢、口は堅いな」
「うん」
誰にでも吹聴して良い話ではないことくらい、水沢は百も承知だろう。
「そういえば水沢の目の前で別れ話をしたんだったな。聞く義務もあるか」
「義務はないよ。でも責任、かな」
このまま、知らないままではいられないという責任か。誰かに何かを訊かれた時に、誰も傷つかず誰にも無責任な噂を立てずに済ませるにはどうしたら良いのか。まずは真相を知らなければならないのは絶対条件だろう。
「なら話そう」
コンビニエンスストアで飲み物を買い、店を出てから委細を話して聞かせた。
「そっか……。なんか、少し安心した、かな」
「実は俺も同じことを思った」
遺された者達の気持ちとして。逝ってしまうとはいえまだしっかりと生きている一也の気持ちをどこか余所に追いやってしまうような気がしてしまう、嫌気の差す話でもある。
「それがもしも至春先輩の精一杯の強がりなんだとしても、それが言えるっていうことにちょっと安心したかも」
「だな。だが何故その話を俺にしたのかだけは解せん」
俺は確かに自分のあまり吹聴したくなかった過去を、伊関至春に話したことがある。水沢にも涼子さんにも、慧太にも一也にも話していないことを。それを判っていたのだろうことは本人の口から聞いたが、それだけでは納得ができない。
「それは新崎君がみんなの精神的な支えになってるからだよ」
「水沢、お前は面白い奴だが虚言癖だけは頂けないな。めっきを施すなと言ったばかりだろう」
この俺が誰かの精神的支えになっているだと?御冗談を。いや香織に対しては確かにそうかもしれないが、俺はむしろ連中にいつも助けられている。連中の立ち振る舞いや、恐らくではあるが無意識的な覚悟を見て、感じ取って、俺も自分を奮い立たせていることが確かにある。そんな俺が連中の支えになっているなど信じられるはずもない。
「新崎君もいい加減自分の事を自覚しないと。その内周囲から反感買うことになるかもしれないよ」
「水沢は難しいことを言うなぁ」
俺は充分、自分を自覚しているつもりだ。それが完璧なものではないにしても、致命的な間違いがあるほどではないはずだ。
「私はね、自惚れも多少あるように聞こえるかもだけど、軽音部ではムードメーカーの一人でもあると思ってる」
それは確かにそうだな。部室に水沢がいない時は少し寂しいような感じ、つまり、何だ、今日は水沢はいないのか、という感じはしていた。生まれながらにして人気者という素質を持っている人間なのだろうことも良く判る。
「そりゃあ学園のアイドルだものなぁ」
「毒……」
形の良い眉根に皺を寄せて水沢は言ったが、俺はそれを華麗にスルーして続けた。
「いや、男たちの間では一面の事実でもあろう。瀬能学園の男たちは誰でも一度は水沢みふゆに恋をする、なんて噂だってあるくらいだ。ホテルアドリアーナの麗人もかくや、という訳だな。こうして二人きりで歩いていたら闇討ちなど喰らわんだろうか。心配になってきたぞ」
冗談めかして俺は笑った。言っていて本当に冗談なのだろうか、と怖くなってきてしまった。いくら可愛らしい外見で、つつましやかで明るい性格でも、水沢みふゆは一介の女子高校生だ。そんな女子高校生にファンというものは本当にいるのだろうか。実際に水沢を取り巻くファン、というものを目にしたことがないが、もしかしたらそこかしこに隠れている可能性だって、無い訳ではないのだ。
「言葉の毒……」
「それを言うなら言葉の棘だろう」
「棘なんて可愛い物じゃないから毒って言ってるの」
水沢みふゆもむくれることがあるのだな。これはこれで随分と可愛らしいではないか。中々こんな水沢を見ることもないので貴重な経験だ。ファンが本当にいるのならば垂涎ものなのだろうか。
「で?ムードメーカーがどうしたと?」
あまりからかっても良くないな。話を戻すとしよう。
「……不本意ながら、不承不承話を続けることにしよう」
ぶすーっと顔をしかめて水沢は低く呻いた。本当に面白い奴だな。
「態々重ねて言わなくても良いだろう」
「重ねて言わないと伝わらないかと思って」
けろり、と表情を変えて水沢は笑顔になった。別に本気で怒るほどの事でもないのだろうし、こんなことなど慣れっこなのだろう。
「で?」
「んー、それこそ今新崎君が言ったようにね、男の人にちやほやされていい気になってるように見えるのかもしれないけど、見た目を利用してる、って言われるのかもしれないけど、それでも私は、そんなくだらないめっきだけでも、誰かが明るくなれるんだったら、それでいいんじゃないかなって思ってる」
「猛毒……」
幾ら何でもそこまでは言っていない。
「でも結局アイドルなんて偶像でしかないと思うけどね。私が実は下衆い女でも、恋人がいても、CGだったとしても、男の娘だったとしても、それが好きな人には好き、っていう真ん中以外の事はどうでもいいんだと思う」
「ま、判らんでもないかな」
ファン心理、というものは俺には実は良く判らない。しかし好きなものが好きというのは音楽やバンドにも通じるものがある。例えば俺は-P.S.Y-というバンドがずっと好きだが、その実水沢の父親でもあるベーシスト、水沢貴之が悪人だろうと善人だろうと、-P.S.Y-というバンドが奏でる音楽というものが好きなことに揺らぎはない。いや、これは人それぞれかもしれない。仮に悪人だったとして、そんな悪人がやっている音楽など聴く価値もない、と言う人もいるだろう。喩え聞こえてくる音楽が同じものであったとしても、感じ方や捉え方など人それぞれだ。
「誰かは知らないけれど、私を好きって思ってくれる人がそれで幸せだったり明るくなれたりするんなら、それは勝手にやってればいいんじゃないかな、って思うし」
「随分突き放したな」
だがそれも判らない話ではない。今の例えで行くならば、水沢貴之にしてみれば、会ったこともない俺が-P.S.Y-を好きだろうが嫌っていようが関係のないことだ。
「ん、でも正直、私には関係のない世界でしょ。私に告白して付き合おうとかそういう気概の話じゃないんだったら。私っていう人間を知ろうとしないで勝手にアイドルだなんだって偶像化してもて囃してるだけの人達の世界と私の世界は繋がってないし、結局飽きれば水沢みふゆもめっきが剥がれてきたなぁ、なんて勝手なこと言うんだし」
そこまでの話になるとバンドの話とはつながらないな。少なくとも俺達-P.S.Y-のファンがいるからこそ、-P.S.Y-はバンドとして成り立っている。そこは一介の女子高校生とプロのバンドでは違うところだ。何でも自分の狭い了見で理解しようとしてはいけないということだな。いかんいかん。
「あぁ、そうだな。涼子さんも言っていた。ただの高校生じゃないか、って」
「でしょ。態々自分からアイドルやってまーすっていう子なら違うのかもしれないけど」
対個人の話であれば、確かに水沢の言う通りなのだろう。どこの誰が水沢を想っていても、水沢に気持ちを伝えるつもりがないのならば、伝えなくても幸せでいられるのならば、飽きるまでずっとそうしていれば良いだけの話だ。
「でも、私には愁君がいて、バンドしてて、喫茶店のお仕事も大好きで、そういうことを知っていて、それでもどうしようもなくて気持ちを伝えてくる人はまた別だよ」
「ふむ」
まぁそこまで関わっている人間であればそうなのだろう。どこの誰かも判らない人間と混同することはできない。
「その気持ちに応えることはできないけれど、それは私がアイドル視されてるからだとかもて囃されてるから断るんじゃなくて。ずっと前から私が一番大切だって思える人と付き合えたから、他の人の気持ちには応えられない、っていう極当たり前の気持ちだもん」
「それは、確かにそうだな」
一番好きな人間と付き合えているから、他の人の気持ちには応えられない。一夫多妻制の国ならば是非もない話だが、ここは日本で俺たちは日本人だ。心に決めた一人と付き合って添い遂げるのが当り前だ。そうではない人間もいるにはいるが、少なくとも俺の知る限り、水沢はそういった類の人間ではない。
「だから私は、水沢みふゆっていう人間をある程度は正しく見積もってるつもり。勉強は頑張ってる。スポーツも好き。でも遊んだりゲームするのも大好き。バンドするのもお母さんのお手伝いもみんな大好き。男にちやほやされてる。それはもしかしたら悪いことじゃないのかもしれないけれど、でもだからって別にいい気にはなってないし、そこに胡坐だってかいてるつもりはない。色んな外野からの気持ちの処理の仕方に困る時だってある。時には声だって荒げるし、愁君に近寄ってくる女の子に嫉妬だってする。それが私。水沢みふゆ」
素晴らしいまとめの言葉だ。確かに水沢は子供の頃から学園のアイドルなどと持て囃されて、周囲からのやっかみもあったのだろうし、無用なトラブルも多かったのだろう。そんな水沢だからこそ、幾度も自分を見詰め直してきたのかもしれない。周りが悪いと思う前に、自分に不足はないか。そうしたことを常に考えてきたのだろう。
「……俺もそう思ってたんだがな」
それこそ俺はここ最近の話だが、急に友達ができたのも何かの間違いだと思い込んでいた。それはつまり、正しく自分を見積もれていなかったということの裏付けだ。
「新崎君は私より経験点が少ないんだよ。エェクスペェリメェンツ!」
妙にネイティブに寄せた発音で、妙に嬉しそうに言う。
「……なんか腹の立つ言い方だな」
「私はことあるごとに自分を見詰め直してきたけど、新崎君は今までそれをしてこなかったでしょ」
俺の小言など完全に無視して水沢は笑う。
「何故判る」
「私の方がレベルが高いから」
一体どれ程のレベルの差があるのだろうか。確かに子供の頃からそうした視線に晒されてきた人間と俺とでは経験点もレベルも大きな開きがあるのだろうことは理解できる。
「ま、まぁそう言われればその通りなんだろうが……」
「新崎聡は情に厚く義理堅い。それは確かにそうなんだけどね」
「それは俺の矜持だ。そうありたいと常に思っているだけで実際にできているかは判らん」
そうありたいと思ってはいるが、完全にそれができているかと問われれば、応えはノーだ。実際慎に対してはかなり薄情な気もしないでもない。
「できてるよ。少なくとも私が知る範疇では」
「……そういうものか」
それは有り難いな。特に水沢のような人間にそう評価してもらえるのは。
「そ。だからみんな新崎君の事が好きなんだよ」
「好き、とはこそばゆいな」
そういうところは照れ臭いぞ。
「でも本当の事だよ。前みたいに俺なんかが友達なんて、なんて今言ったらだめだよ」
「ま、まぁ流石に今はもう言わんが……」
そこを突かれると俺も辛い。あれから僅か数か月だが、あれこそ若気の至りの最たるものだ。恥ずかしくて敵わない。
「私も今の新崎君の事は好きだよ」
「や、やめんか。友達として、と判ってはいても滅茶苦茶恥ずかしいぞ、水沢」
「みんなが言葉に出さないから私が代りに言っただけ。……でも私もちょっと恥ずかしい、かな」
てへ、とでも言いたげに照れ笑いする水沢を見て妙に納得する。確かに水沢みふゆは可愛い。今までの俺はどことなく水沢の言う通り、偶像としての可愛い女の子、としてしか水沢を見ていなかったように思う。
「いやぁ、世の男どもが騒ぐ訳だ……」
それもそのはずで、こうしてしっかりと水沢とは話したことがなかった。偶像としての水沢みふゆ。それは可愛らしくて愛らしい存在として確かに存在するのだろう。それが他の誰かが無責任にぶっかけためっきなのだとしても。
「もう、やめてってば」
「是非とも褒め言葉と受け取ってほしい」
最初に五反田が言っていたように、いい子ちゃん過ぎて気に入らない。そんな言葉も頷ける程度にしか水沢を認識していなかった。しかしこうして親しくなって行くにつれて、次第に水沢の魅力に気付いて行く。水沢を知れば知るほどその人柄に惹かれてしまうのは今、実感値として感じていることだ。
「でも新崎君はそうは思ってないでしょ。香織ちゃんと付き合ったんだから」
ま、それは当然。それとこれとは別問題だ。
「じゃあ言わせてもらうが、確かに恋慕の情という訳ではないが、可愛いとは思っているぞ。そして恋慕の情という訳ではないとは言ったが、もしも香織とは巧くいかず、その上でお前に告白されたらOKしそうなくらいには可愛いと思っている」
「……聞かなかったことにします」
確かにこれは言い過ぎた。昨日彼女ができたばかりだというのに、失言だったな。
「そうして頂けると非常にありがたい。完全に蛇足だ。まぁともかく俺もちやほやする訳ではないが、きちんと可愛い女子だという認識は持っている。まぁそれはお前に限らず伊関先輩や瀬野口先輩もそうだがな」
ついでに言うならば五反田衣里もだ。
「莉徒姉ちゃんと夕衣姉ちゃんも可愛かったでしょ」
「あぁ、確かにそうだな」
涼子さんと言い、小材穂美と言い、魅力的な女性が多いのは確かだ。
「でも一番可愛いのは香織ちゃん……」
「それは勿論、な」
ともかく、この会話は早く終わらせたいところだ。いつの間にかまた香織との話にすり替わってしまっている。俺の最も苦手とする話題だ。というよりも世の男子高校生など、殆どが女子の恋バナなど付き合いたくないと思っているはずだ。
「いいなぁ……」
「や、お前、谷崎がいるだろう」
何が良いものか。俺は早くお前たちのように経年劣化しない、安定した関係を作りたいぞ。
「私と愁君って意外にもう三年も付き合ってるんだよ」
「ちゅ、中学からか!」
高校生からではなかったのか。三年ともなると俺たちの年代から言えば中々長い付き合いだ。事実慧太はまだ童貞だし、俺だって以前付き合った朔美とは半年の付き合いだった。
「ませてるでしょ」
「ませてるとは思わんが早いな。そして良く続いてるな」
聞けば学生時代から交際を始めて、生涯添い遂げるというカップルは稀だという。おまけに水沢と谷崎は幼い頃から仲も良く、いわゆる幼馴染というやつだ。こんな稀有なケースもあるのだな。
「お互いガツガツしてないからなのかな……」
「ま、波長が合うんだろうな」
俺はそれほどやりたい盛りという訳ではない。勿論男だから、好きな女と付き合えたからには当たり前にセックスをしたい気持ちはある。だが香織はまだ未経験だし、大切にしたいと思っている。セックスが嫌なものではないと教える責任もあるし、俺のやりたいと思う気持ちだけを優先させる訳にはいかないことも重々判っている。対して水沢と谷崎は水沢からセックスしたがるようには到底思えないし、谷崎に至ってはまるで草食男子のようにすら感じる。そうした穏やかな波長が二人の中で綺麗に共鳴しているのだろう。
「一言でまとめられた!」
「何事も判り易く、が一番だろう」
だから何人たりともつけ入る隙がないのだろうし、二人がベストカップルだなどとも噂されるのかもしれない。
「どっちから告白したの?」
「いきなりだな。香織から報告は行っていないのか?」
昨日の夜には既に報告は行っているものだと思っていた。
「聞いたよ。でも細かい所まではまた今度ゆっくり、ってなったから」
「なるほどな。しかし言っておくが水沢、花の女子高生とは違い、灰色の男子高校生は恋バナなどに興味はないんだ」
ましてやそれが自分の話ともなれば、俺は恥ずかしいばかりで何の得もない。代わりに水沢と谷崎の馴れ初めでも訊いたら良いのだろうが、それで俺の恥ずかしさが和らぐかと言えば、当然そんなことは微塵もない。
「灰色な訳ないでしょ。彼女出来たばっかりなのに」
それもそうだな。それは確かに浅慮だった。ならば。
「バラ色の色ボケ高校生にならんよう自重しているところさ」
「で?どっちが……?」
俺の言葉などまるで無視して水沢は目を輝かせている。だが、楽しい時間なんてあっという間に過ぎて行くもんさ。それが俺にとっての、ではなく水沢にとっての、ということだが。
「水沢、もう学校に着く。続きは香織に訊いてくれ」
「あ、狡い!」
「何も狡いことなど無い。単純に時間が足りなかったというだけだろう」
いや実際に伊関先輩の話と水沢の話で時間が潰れたのは僥倖だった。いかに明晰な水沢と言えどそこまでの時間計算はできなかったということだ。
「でも新崎君、変わったね、ホントに」
「お前らのせいだ」
今は敢えてその言葉を使わせて頂く。
「男子高校生は恋バナに興味はないんだろうけれど、花の女子高生は他人事ともなれば恋バナに興味津々なのよ。それにお母さんに報告だってしなくちゃでしょ」
「う、そんな難関があったことをすっかり失念していた」
一番の難関か、それとも普通に喜んでくれて終わりか。いや香織に対しては普通に一緒に喜んでくれるのだろうが、俺に対しても同じスタンスで来るだろうか。とてもそうは思えない。何というか、これは自慢でも何でもなくただの有難迷惑な話なのだが、俺はどこかで涼子さんのおもちゃのようにされてしまっているのではないだろうか。最近少し、そんなことを思うようになった。
「今晩の夕食は是非喫茶店vultureで!」
「一人でなら」
く、瞬時に計算し直したな。流石は明晰、いや涼子さんの愛娘だ。実に抜け目がない。水沢と親しくなる前までは考えも及ばなかったことだが、実は谷崎も結構大変な目に遭っているのではないだろうか。今度飯にでも誘ってみるか。
「それを香織ちゃんが許すならどうぞ」
「ちっ」
「今の舌打ち、本気のヤツでしょ……」
しまった。バレた。
「う、そ、そんなことはない」
不本意ながら面倒だとついつい思ってしまったのは本当だった。しかし涼子さんにはどんな形であれ、結果的に散々っぱら世話になっているので、このままだんまりという訳には勿論いかない。新崎聡は情に厚く義理堅いんだ。
「でもま、私が言うのもアレだけど、面倒は一気に片付けるが吉、だと思うな」
「ま、それもそうか……」
苦笑しつつ水沢が言うのが少し可笑しくて俺もつい笑顔になった。
「じゃあ愁君も呼ぶね!」
「もう好きにしてくれ……」
おっと危ない。危うくまた舌打ちするところだった。
第三二話:脚下照顧 終り
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