二〇一二年十月二十八日 日曜日
月夜も十五日、闇夜も十五日、という言葉がある。
人生良いこともあれば悪いこともある。水戸黄門のような謳い文句ではあるが、捨てる神あれば拾う神あり、という言葉との類似でもある。
一也にしてみれば、本当に月夜も闇夜も十五日なのか、と考えてしまうが、月夜を十五日にも二十日にもしてやらなければならない。それは俺たちでどうにかできる問題ではないのかもしれないし、俺たちにしかできないことのような気もする。つまりは、やれるもんならやってみろ、やってやれないことはない、ということなのかもしれない。
「……もうこんな時間か」
相席していた瀬野口先輩がそんな言葉を漏らした。俺も少々遅い昼食を取り、涼子さんの旨いコーヒーを堪能しつつ、一息ついたところだった。
「何か用事でも?」
野暮かとも思ったが、つい訊いてしまった。
「あぁ、少し、な。」
もしや俺と関谷に妙な気遣いをしたのではないだろうかという疑いもあったが、瀬野口先輩の表情を見て、そうではないことはすぐに判った。恐らくは一也に関連している何か、なのだろう。
「ともかく、可能性の話ではありますけど、先ほどの話は皆に話しておきます」
「済まないな」
「わたしも、皆に話しておきます」
「あぁ、宜しく頼む」
もしも何かあった時、いやこの推論が現実のものとなってしまった時、抑止力となるのは俺たち以外には有り得ない。張れる予防線が有るのなら張っておくに越したことはないだろう。
「それと、払いは割り勘で」
「そうはいかないよ」
妙な話を持ち出したのは私だ、と瀬野口先輩は席を立った。持ちつ持たれつという関係は嫌いではない。だが、今日この場は平等であるべきだと俺は考える。
「ならば俺が払います」
窓際の瀬野口先輩を差し置いて、俺は早々に席を立つと財布を取り出しつつ、レジに向かう。
「ま、待て聡」
「待てと言われて待つばかはいません」
何かが違うな、と思いつつも、追われる身で待てと言われて待つ人間はいまい。俺はそそくさと財布から金を取り出す。
「どこぞの悪党のような台詞だな。負けたよ。私は私の分の払いだけで」
「ならいんです。涼子さん、聞いていただけましたか」
勝った。瀬野口早香から一本取ったぞ。これは快挙と言っても過言ではなかろう。いや、瀬野口先輩の分を奢ってこそ真の勝利だな。まだまだ真の勝利までの道のりは長い。
「えぇ、ばっちり。聡君の奢りね」
「ま、まぁそれならそれで良し、です」
そ、そうきたか。しかしそれでは真の勝利とは言えない。勿論金がない訳ではない。だが俺は先ほど想定外の買い物をしてしまったばかりだ。関谷一人分ならば目を瞑ろうとは思っていたが、瀬野口先輩の分ともなれば少々痛手なのは確かだ。我ながらせこい話だとは思うのだが、やはりここはアルバイトを探さなければならないということだな。いっぱしの高校生がアルバイトもせずに親の仕送りだけで生活していては格好も付かないし、羽振りも悪くなる。文化祭が終わったら真剣に考えよう。
「冗談よ。じゃあ早香ちゃんは九八〇円ね」
「ご馳走様でした」
俺に追いつきレジにまで来た瀬野口先輩が千円札を涼子さんに手渡した。
「うん。また来てね」
「勿論です」
「一也君も」
「えぇ」
涼子さんにも勿論話は聞こえていたはずだ。そして涼子さんも勿論一也の身を案じてくれている。だからこそ、こうして涼子さんのできる範囲での手助けをしてくれている。頭が下がる思いだ。
「……では」
「あぁ、また明日な」
にこ、と笑顔になって瀬野口先輩はドアに手をかける。涼やかなカウベルの音が鳴ったと同時に関谷も頭を下げた。
「お疲れ様です」
その途端、くるりと振り返り、本当に楽しそうな笑顔でとんでもない一言を吐き出した。
「避妊はしろよ」
そう言って瀬野口先輩は颯爽と去って行ってしまった。
「ひっ、ひ、ひぃ!」
「冗談だ、真に受けるな」
俺は冷静を装って関谷に言う。とは言えなんと性質の悪い冗談だ。俺から一本取られたことがそんなに悔しい事だったか、瀬野口早香。
「早香ちゃんも意地悪ねぇ」
あなたが言いますか、と突っ込みたいところではあるが、俺としてもこの話題は引きずりたくない。不本意ながら黙っておくことにした。
「さて、腹も膨れたところだし、俺も帰るとします。関谷はどうするんだ?」
「あ、わ、わたしも帰る……」
そうか。
「ならば送って行こう。せっかくの休みだ。野島に会ったら台無しだからな」
一人にして野島の誘いを断りきれずにまたここへとんぼ返り、など、まぁここに来るのは良いことだが、相手が野島では関谷も楽しくなかろう。
「だ、大丈夫」
「だが通り道だ。本当に嫌なら無理強いはしないが」
特に遠回りするでもなく、寄り道でもない。送らないという選択肢でも結局二人で同じ方面に歩いて行くことには何の変りもないのだ。だが、野島の例と同じく、関谷も俺の誘いを断れないのだとしたら、やはり無理強いすべきではない。
「い、嫌じゃないよ!」
「お、おぅ、そうか。では涼子さん、払いを」
時折関谷は頓狂な声を出すので都度驚いてしまう。ただそういう時は恐らく本心を言ってくれているのだろうと最近は何となく判ってきた。
「かしこまり。えぇと聡君は一三二〇円、香織ちゃんは八七〇円ね」
「了解です」
「早香ちゃんには奢らなかったのに香織ちゃんには奢ってあげるのね。イーッヒッヒ」
い、いや、涼子さんは無言だ。俺の妄想、空耳だ。涼子さんは無言で、それでいて笑顔で、ただじっと俺の目を見ているだけだ。だから言っていない。言っていないことでも心に伝わる、ということがこの世には実はあるのだ。どこぞの誰かが涼子さんは商店街の魔法使いだ、と言っていたことがあるらしいが、なるほどその噂は今の俺には充分に真実だと思えるほど、涼子さんの笑顔から様々な情報が流れ込んでくるようだった。
「あ、し、新崎君」
関谷はやはり申し訳なさそうに財布を出していたが、関谷と行動を共にする時点で俺の腹は決まっていたのだ。痛手には違いないが、見栄を張りたい時もある。
「何、この位気にするな。どうしても気になるなら今度俺に奢ってくれ」
「あ、う、うん、絶対!」
これが関谷に対しては最も効果的な手法だ。次回には俺が奢られなければいけない側になるが、そこはそれ、またなにがしかの手段で誤魔化せば良いだけのことだ。
「よし、それで手打ちだ。では涼子さん、ご馳走様でした」
「こうして巧い事香織ちゃんと次回のデートを取付けた新崎聡であった」
い、いや言っていない。涼子さんは無言で笑顔のままだ。何も言っていない。周囲に水沢みふゆがいるのかとも思ったが、水沢みふゆはEDITIONで仕事を手伝っている。これは俺の空耳だ。完全なる妄想だ。
「ご馳走様でした」
「うん、また来てね」
関谷にそう答えて、にっこりと笑顔になる。俺に対する笑顔と何かが違う気がする。いや絶対に違う気がする。必ず、誓って、多分。関谷に笑顔を向けた後、涼子さんは再び俺に笑顔を向けてくれた。
「ふたりっきりでね」
いや、言っていない。涼子さんの唇は一ミリたりとも開いていない。そして関谷も無反応だ。そろそろ俺も精神科医にかかった方が良いかもしれない……。
「ところで関谷はエリクサー、使ったことはあるのか?」
関谷の部屋まで送るのは構わないが、俺は話題性に乏しい男で、女子高生の喜びそうな話題も持ち合わせていない男だ。共通するベーシストという点でのみ、何とか関谷とは会話ができるが、恐らく勤勉な男どもはそういったリサーチなどを事欠かないのだろう。
「ううん、初めて」
「そうか、俺もだ」
それもそうだろう。高校生でしかもアルバイトもしていないような人間が簡単に手を出せる代物ではない。先ほども思ったことだが、本気でアルバイトを探さなければならないな。
「手触りが全然違うんだね。わたし、手が荒れやすいからこういう方が良いかも」
「確かに手触りは良かったな。だがそのせいでグリスがぶれるかもしれん」
弦の手触りなどを変えるためのスプレーなどもある。スライドやグリッサンドをしやすくするための物だが、そういうアイテムに慣れていない者が使うといつもの感覚と違い、演奏でミスをする可能性もある。
「あ、確かにグリッサンドとかスライドは気を付けないと行きすぎちゃうかも」
「だな。まぁ一週間あるし、慣れるだろう」
「そうだね」
要するに弾き込めば何の問題もないレベルの話だ。
「よぅ関谷、新崎」
中央公園に差し掛かろうとしたところで不意に声がかかった。今日は声を掛けられることが多い日だな。
「野島か」
しかも今回はあまり会いたいとは思っていない奴の登場だ。特に関谷といる時には。
「の、野島君」
「なぁ、聞いたんだけどよ、お前、前いたバンドクビんなったって?」
にひひ、と厭らしい笑みで野島は俺に言ってきた。
「……まぁそうだが、俺も、いや、そうだな」
喧嘩別れというか、俺が一方的にクビになった訳ではないと話そうかとも思ったのだが、そこまで聞かせてやる義理はなかった。
「言い訳はしねんだな」
そう、言い訳にしか聞こえない。事細かな話は伊関至春にしかしたことがないし、伊関先輩のように話が判る人間であれば話そうという気にもなる。だが、野島相手ではそんな気も起きない。
「まぁしたところで無意味だろう。それよりどこから聞いた。軽音楽部の連中か?」
しかし慧太や一也、慎が悪し様に俺のことを話す訳がない。相手は軽音楽部では快く思われていない野島だ。
「いんや、ウチのギター」
あまり聞きたくない言葉が野島の口を突いて出る。
「……まさかとは思うが、お前今ferseedaにいるのか」
「まぁな」
(なんてこった)
まさかベーシスト交換になろうとは。だがあの野島の訳の判らない運指が多いベースは確かに太田好みのベースラインなのかもしれない、と今納得しかけた。
「捨てる神あれば拾う神あり、か」
野島がどういった経緯でferseedaに加入したのかは知らないが、俺は一也に見初められて軽音楽部に入部した。どちらも元いた場所から見放されて、今いるところに拾われたということに変わりはない。
「お前さー、散々っぱら俺に説教しといて自分もクビんなってんじゃん」
野島の言いたいことは判った。だからこそクビにならないようにどうしたら良いか、という話をしたつもりだったのだが、そこはやはり全く通じていなかった上に、恐らくは太田の茶々が入ったのだろう。なので即座に対応する。面倒は御免だ。
「ま、そうだな。だとするならば俺の言ったことは綺麗さっぱり忘れてくれ。俺はその考え方でferseedaをクビになった。お前までクビになってしまっては申し訳が立たない」
「そうさせてもらうけどよぉ」
所詮はその程度の男だという訳だな、野島某。ならば後腐れは無しだ。面倒事は一気に済ませるに限る。
「済まなかった。この通りだ」
ぺこりを頭を下げる。プライドも何も傷ついてはいない謝罪だが、形式だけでもやっておけばそれで済むことは山ほどにある。
「ま、いっか。で、関谷、今暇か?」
なるほどな。俺がそう思っているように、野島も俺のことを自分の人生とは関係のない人間にしたのだろう。野島の中での俺の格付けがどの位置だったのかは知らないし、知る必要性もないことだが、これはその中でもさらに格下げになったということだ。
「う、ううん。こ、これから帰って色々やることがあるから」
「やることって何よ。買い物?なら付き合うぜ」
この間よりも誘い方が強引だ。俺など眼中にないという態度は理解したが、だからと言って野島が自分で自分を格上げでもしたというのか。
「関谷のプライベートに干渉するな」
「お前は黙ってろって」
そう言うだろうな。予想の範疇だ。だが、それとこれとは話が違う。
「ベースの件やバンドのことについては幾らでも謝る。だが関谷のことは別問題だ。いい加減気付け」
「るせぇっつぅの」
人の話は理解する方なのかもしれないと思っていたのだが、飛んだ勘違いだったようだ。我が道を往くのは結構なことだが、周囲の反応を確認できなければそれは見捨てられるだけの行動だ。
「関谷は断っているだろう。好きならなぜ気遣ってやれない。お前の気持ちを押し通すことが関谷の幸せに繋がると思えるのか、この状況で」
俺は逆に考えすぎて行動を起こせないことがある。だが考えないで行動を起こすよりもよほどましだと思っている。
「嫌なら嫌だってはっきり言うだろ、普通」
「言えない人間もいる。何でもかんでも自分の色眼鏡だけで物事を見るな」
そもそも人の気持ちに対して『普通』という線引きをすること自体が傲慢な間違いだ。俺ですら関谷が嫌なことをはっきり嫌、と言えない性格だということは判る。そんなことすらも判らずして、関谷のどこが好きなのか理解に苦しむ。
「お前もそういう人間だろうが」
野島はぎろり、と俺を睨みつけてそう返してきた。確かに一理ある。一面の事実であることは認める。誰しも色眼鏡で物事を語ることはある。そこを聞き入れられるかどうかは聞き手側の裁量にもよる。つまり。俺はほんの僅かでも野島がそう言ったことを聞き入れられる人間だと、思い違いをしてしまった。
「そうか、ならば俺も俺の意志を押し通す。関谷、行くぞ」
時には強硬な手段も取らなければならない。特にこういった人の話を聞き入れない人間に対しては。
「う、うん」
「お前は黙ってろ、っつってんだよ」
ぐい、と野島は俺の胸倉を掴む。一気に楽な展開になってくれた。俺はあまり思慮深い方ではないが、俺以上に野島は浅慮なのだろう。
「……」
俺も黙って野島を睨み返す。
「や、やめて、わ、わたし新崎君と行くから!」
良く言った関谷。流石にここまでくれば関谷も野島に対して少々の嫌悪感を抱くだろう。自らを貶めるなど愚行でしかないが、野島はそれに気付かぬほど浅慮な男だ。
「という訳だ。判ったら放せ。それとも憤りに任せて殴るか?抵抗はしないぞ。但し、覚悟はしろ」
俺はもう無用な暴力は二度と振るわない。しかも関谷の前だ。絶対に暴力には訴えない。
「ちっ」
「半端な男だ」
俺の胸倉を掴んでいる野島の手を払いのけると、ぎろりと野島を睨みつけた。何もかもが半端だ。こんなくだらない奴が関谷と付き合ったとして、関谷を幸せにできる訳がない。
「んだと!」
「見知ったこと、人から聞いた情報だけで自分がぐらつきっぱなしだから図星を突かれた時に腹が立つ。くだらない奴め。自分の意志はどこにある。お前は一体関谷をどうしたいんだ」
言ってやる義理もないことを言ってしまった。が、結局は無駄だろう。野島の中で新崎聡という男は既に眼中にない存在にしたいのだろうから。
「てめぇに言う筋合いはねぇよ!」
「確かにそうだな。ならばもう用はないだろう。関谷、行くぞ」
「……うん」
俺は少々強引に関谷の二の腕を掴むと歩き出した。関谷も一瞬遅れて俺に続く。
「関谷、こいつは暴力を振るう男だぞ、そんな奴と一緒にいんじゃねぇよ」
太田とのことか。そこを言われれば確かにその通りではあるが、それは以前の話だし、今はその愚かさを痛感している。ただ俺も聖人君子ではない。このまま野島が殴りかかってくるのだとしたら応戦はする。徹底的に。だが野島のような半端な男にはそれすらもできないだろう。だから俺は暴力には絶対に訴えないで済むという訳だ。
「わたしは見てない。今暴力的だったのはどっち?」
「……」
やはり女子という生き物は暴力が大嫌いなのだな。例えば女性の気を惹きたい時には、喧嘩が強いことなどなんのアドバンテージにもならないということだ。
「他人の言う事ばかりに耳を傾けているからそうなる。確証を得ないことならば軽々しく口にしない方が良いこともあるぞ」
「ちっ」
太田に対し一方的な暴力を振るったというのは確かに事実ではある。だがそこには俺なりの正当性はあったし、事実、事情を知る伊関至春は俺を軽蔑したりはしなかった。
「俺はお前に対し、俺の正当性を話す気にはなれん。誤解は上等だが、誤解だと気付かずに人を見下し続ければその内それが自分に返ってくる。俺がそうだったようにな」
今の野島に言って聞かせても全ては言い訳にしか聞こえないだろう。言っている俺自身、言い訳がましくなってしまう。だから話さないし、野島が俺をどう見ようが知ったことではない。俺は慎とは違い誰も彼もと仲良くしようだなどとは思わない。まぁ、その慎ですら野島とは距離を置いていた訳だが。
「俺の評価は勝手にすればいい。だが、関谷のことは別だ。別に聞く耳を持てとは言わんが関谷を想うのなら、何が関谷に一番なのか良く考えた方がいい」
無言を返す野島に更に俺は畳み掛けた。今後一切話すことはないだろうから、今言っておくべきことは全て吐き出しておいた方が俺自身のためだし、恐らくは関谷のためにもなるはずだ。そう思った一瞬後、関谷が俺の予想を超えた言葉を口にした。
「あ、あの、わたし、その、野島君とはお付き合いできない、です」
しっかりと、野島の目を見て関谷は言った。こんなきっちりとしたけじめのつけ方もできるのだな、関谷は。これが初めてのことかもしれない。今までにはなかったことなのかもしれない。だが、俺の目の前で、関谷は自分の責任をきっちりと果たしたのだ。
「……そうかよ」
しばしの無言の後、野島は関谷に背を向けた。多少は気の毒にも思うが、こればかりは仕方がないことだ。野島はそのまま歩き出し、離れて行ってしまう。関谷はその野島の背をじっと見つめていた。どんな思いが錯綜しているのかは俺には判らない。ただ、野島を傷つけたことは関谷自身も判っていることなのだろう。
しばらくして、俺は関谷に声を掛けた。
「……言ったな」
「う、うん」
言った関谷の顔はやはり晴れやかではない。一人の人間の好意を断ち切ったのだ。断ち切る方も、断ち切られた方も、決して穏やかではいられないだろう。だから俺はあえて能天気な態度を取った。
「ま、これでとりあえずは一件落着だろう。今後も何かあるようならすぐに連絡をくれ」
流石にこれ以上は何もないだろうが、世の中にはストーカー行為に及ぶ輩もいる。野島はそこまで話が判らない人間ではないはずだから、これで手打ちになるだろう。
「あ、で、でもわたし、新崎君の連絡先、し、知らない……よ」
「そう言えばそうだったか。良い機会だ。教えておこう。用がある時には使ってくれ」
流石にだから関谷の番号も教えてくれとは言えなかった。あまりにも便乗しすぎだと思ったからだ。
「用がないと使っちゃダメ?」
「用がなければ連絡などしないだろう」
おかしなことを言う奴だ。まぁそもそも関谷は俺の中ではかなり規格外の存在だ。そんなこともあるのだろう。だからこそ面白いと思ってしまうのだが。
「え、あ、う、うん、そ、そうだね」
吃音を交えながら関谷は自分の携帯電話を操作した。電話番号の登録の操作が終わるのを待ち、俺は関谷に声を掛ける。
「よし、行くとするか」
「うん。ありがとうね、色々味方になってくれて」
関谷はそう言って笑顔になる。その笑顔が見たいからだ、と言うには時期尚早だろう。時期が来たとしても、俺の口からは到底言えない言葉でもあるのだが。
「礼を言われるほどのことではないが今度、奢ってくれるんだろう?」
「うん!」
涼子さんの言う通り、いや、あれは俺の妄想だ。だからこれはつまり、俺の望み通りに、次回のデートをほぼ取り付けた、ということなのだろう。
「それで手打ちだ」
「へへ。遠慮はなしだからね!」
「そうだな。もう死ぬかもしれん、というくらい腹いっぱい食わせてもらうとするか」
冗談めかして俺は言う。当然俺は関谷とvultureへ出かけるのだとすればそれなりに腹は満たしてから行く。本気食いをしたら優に関谷の三倍は食えてしまうだろうから。
「え、ちょ、ちょっとそれは……。で、でも今まで新崎君に奢って貰った回数からしたら当たり前、だよね……」
「冗談だ」
あらゆる冗談を真に受けてしまうのは関谷の悪い所でもあるが美徳でもある。まず疑うことをしない、というのは人としても大きな美徳だ。
「で、でもコーヒーとケーキだけ、とかだったらノーカンだよ」
「そうきたか」
関谷も少しずつではあるが俺の性格を把握してきているのだろう。単なるメッキが剥がれ、関谷の色眼鏡も曇りが無くなってきたということだ。俺としてはその方が喜ばしい。新崎聡は大した奴じゃない、と関谷が理解した時に、それでも関谷は俺に笑顔を向けてくれるだろうか。
「うん。ちゃ、ちゃんと、ご飯食べよ」
「了解だ」
気付けば関谷の部屋はすぐそこだった。
関谷を送った後、自分の部屋へと戻る。
見るでもないテレビをつけ、座椅子に腰かけたところで携帯電話が震えた。
「……」
見慣れないアドレスからのメールだったが、タイトルに関谷です、と書いてあった。メールを開くと、私のも登録しておいてください、との一文と関谷の連絡先が記されてあった。律儀な奴だ。だが俺はこれで関谷の連絡先を知ることになった。登録作業を手早く済ませると、また携帯電話が震えた。
「……」
今の俺には見たくもないと思ってしまう相手からのメールだった。過去に俺の携帯電話には登録されていた人間のアドレスだ。登録を抹消していたから、アドレスだけが表示されていたが、そのメールアドレスには見覚えがあったのだ。開くかどうか迷った。メールのタイトルは無題だ。そいつからのメールはいつもそうだった。
(どうする……)
正直に言ってしまえばもう関わりたくない相手だ。きっと内容もろくな内容ではないはずだ。だが、それでもこのままにしておく訳にもいかない。俺は意を決してメールを開いた。
『久しぶり。朔美です。今度少し時間貰えないかな。話したいことがあります。時間ある時に返事ください。待ってます』
絵文字も顔文字も無く、淡々と書かれていた。本来はもう少し明るく、煩さ過ぎない程度に絵文字も顔字も使う人間だったが、真剣な内容だという気持ちの表れなのだろう。そこでまず思い浮かんだのは、今の男と巧く行かずに俺と寄りを戻したい、という考えだ。もしもそうならば俺はそれに応えることはできないし、どんな返答であれ、応える必要性も義理もない。好きな女にはできる範囲の中では尽くしたいと思うのが俺のやり方だが、巧く利用されるのは二度と御免だ。だが、見方によってはそんな自惚れにも見えてしまう考え方からの予想ではなく、色恋沙汰も何もない相談なのかもしれない。もしそうであれば話は別だ。本来俺が受けた仕打ちのことを思えば義理も何もあったものではないのだが。
いや、それよりもまず関谷に返信をした方が良い。
『ありがとう。文化祭が終わったら飯に行こう』
俺の文章も飾り気一つない無愛想な文章だがこれは性分だ。致し方がない。関谷も判ってくれるだろう。さて、関谷に返信はしてしまった。先送りにした問題がすぐに当面の問題になってしまった。もう面倒だ。さっさと片付けてしまおう。
電話番号は抹消してしまったから俺からの電話はできない。なので朔美のメールに返信をする。
『今なら多少は時間がある。電話でなら聞くだけは聞く』
むにむにと携帯電話を操作し、俺は携帯電話をテーブルに置いて煙草に手を伸ばした。手早く火を点け、一息つくとすぐに携帯電話が震えた。電話番号は見た覚えのある番号だ。嫌な別れ方をした女の電話番号が自分の携帯電話に残っていることが嫌で、着信拒否を設定する前に登録抹消を選んでしまったのがそもそもの間違いだった。だがしかし。
「新崎聡は情に厚く義理堅いんだ」
態々口に出して自分に言い聞かせ、俺は通話ボタンを押した。
『もしもし、朔美です』
「あぁ、久しぶり」
愛想もそっけもない返答。もっと明るく対応しても良さそうなものだが、面白くないものは面白くないのだ。それほど俺は大人になれない。
『今何してるの?」
ある意味では気遣いはできる人間だった。俺のそっけない態度は恐らく面喰っているかもしれない。別れ際に絶望した時ほんの少し見せただけだったから。
「とりあえず晩飯までは暇だから時間潰しだな」
『そうなんだ。晩御飯は?一人?』
『まぁそうなるな』
この結果になったことは判る。いや判ろうと努力して納得はした。突き付けられた現実はどう努力しても変えようがなかったことだ。そこに至ったまでの過程も判る。だが、遺された現実は、その間の過程など何の説得力も説明力もない、何の救いにもならない些末事でしかないことに気付かない。
『久しぶりに会えないかな』
往々にして自らの過ちを正そうとする人間の言葉など、何の説得力もないものだ。自分が吐いた言葉を帳消しにできるとでも思っているのか。その言葉で傷ついた俺の心の傷までもなかったことにしようとでも思っているのか。
(冗談じゃない)
第二三話:月夜も十五日、闇夜も十五日 終り
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