おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第二二話:夏草や兵どもが夢の跡

公開日時: 2022年4月11日(月) 09:00
更新日時: 2023年1月4日(水) 01:12
文字数:10,000

二〇一二年十月二十八日 日曜日

 夏草や兵どもが夢の跡、という句がある。

 言うまでもなく有名な、松尾芭蕉まつおばしょう、おくのほそ道の中に登場する一句だ。意味というか、何を言い表しているのか等は諸説ある。一時の夢のように時の流れに消え去った兵達の儚さだとか、現実とは思えないほどに変わり果ててしまった戦場跡の無残さだとか。

 ともかく、栄華を誇ったもののなれの果て、その侘しさ、というニュアンスが強い一句だろう。

 俺もいつかはこの充実した高校生活をそんな風に思う日が来るのだろうか。


 一也かずやには秘密にしている楽曲の出来は順調だった。今週末の本番までには充分に間に合うだろう。今日は日曜で俺は一人きりだ。さぁ、どう有意義にこの時間を無駄に過ごしてやろうかと考え、とりあえず昼食を摂取しに外へ出た。

 喫茶店vultureヴォルチャーは完全にフェイバリットになってしまった。なってしまったというと語弊が生まれるので、なった、と言い換えよう。コーヒーは勿論のこと、軽食も店の雰囲気もスタッフも俺好みだ。あれを嫌う人間とは仲良くやって行く自信がない。そんな訳で俺は七本槍南商店街へと足を向けた。




 vultureは南商店街の外れにあるので少々歩くことになるが、七本槍中央公園の中を歩き、七本槍商店街を歩けば退屈にはならない。世話になっているリハーサルスタジオ兼、楽器店のEDITIONエディションの前も通る。軽音楽部に所属してからはEDITIONにもまた足を運ぶようになった。ferseedaフェルシーダの連中と(言うよりは太田と)顔は合わせたくないが、楽器を眺めるのは好きだし、巧かろうが下手であろうが誰かが試奏しているのを聞くのも好きだ。そのEDITIONの前を通りかかった時、店の中に見覚えのある人影が立っていた。

谷崎たにざき、と水沢みずさわかな)

 瀬能学園ベストカップルとの呼び声も高いかもしれないが、個人的には聞いたことがない二人だ。日曜に二人でいたとして何の疑問が有ろうか。

「だが俺は野暮天ではない」

 態々カップルに割って入ることはしない。一人者がカップルの空気に中てられるほど辛いことはないと知らぬ水沢と谷崎だ。見つかればたちまちに声を掛けられてしまう。一緒に遊ぼう、などと言い出す可能性だってある。冗談ではない。二人には悪いが店には入らずvultureへ向かう。

「あ、し、新崎しんざき君」

 気付かれたか。

「しまった、遅かった」

 思わず口に出てしまった。だがしかし、店の中の二人は俺の方を振り向いていない。俺には気付いていないはずだ。

「し、新崎、くん?」

 なるほど、この吃音交じりの口調は関谷香織せきたにかおりだな。俺はそう理解すると振り返る。

「こ、こんにちは」

 関谷は意外と近い所、いや目の前にいた。以前から節々で感じていたのだが、どうも関谷香織という人物は人との距離の取り方が巧くない。

不快に思ったことなど勿論ないのだが、何というか、どぎまぎしてしまう。

「よう関谷。今日は一人か」

「う、うん」

 野島に付きまとわれていないのなら何よりだ。今日の関谷は厚手の紺色のカーディガンと白いワンピースだ。関谷に良く似合う、可愛らしい格好だった。

「何か用事か?」

「あ、もう文化祭近いし、新しい弦を買おうかな、って」

「なるほど。タイミング的にはそろそろか。俺も買っておくかな」

 俺は基本的にはライブ一週間前に弦を張り替える。ベース弦に限ったことではないが、弦は初期伸びを起こす。張り替えたばかりの時はすぐにチューニングが狂ってしまうのだ。一週間というのは張り替えてから馴染むまでを考えての期間だ。

「あ、香織ちゃん、新崎君」

「よう谷崎。今度は本当に見つかってしまったな」

「え?」

 おっとまた口に出てしまった。だが悪意はおろか他意もない。むしろ善意の言葉だと受け取って頂きたいものだ。

「いや、独り言だ。どうした、こんなところで」

「や、うちのお店だけど」

「そうだったな」

 挨拶のテンプレート、もしくはボキャブラリーが乏しい人間だと思われてしまうな。勿論冗談のつもりだったのだが、俺が冗談を言うのはキャラクターとはそぐわないかもしれない。

「こんにちは、谷崎君」

「こんにちは」

 関谷の挨拶はいつでも折り目正しく、それでいて堅苦しくない。俺も常々見習わねば、と思いつつも中々見習うことができない。

「あ、新崎君、香織ちゃん」

 谷崎がこちらに向いていたからだろう、水沢もすぐに俺と関谷に気付いたようだ。

「よう水沢。どうしたこんなところで」

「今日はこっちのお手伝いなんだ」

「精が出ますねー」

 半ば呆れつつも俺は言う。どこまで勤勉なのだ。水沢みふゆという女は。聞いた話に依ればどうやら水沢と谷崎の幼馴染という関係は、親同士が昔から、それこそ学生時代から仲が良かったことに起因してるらしい。なので昔から家族ぐるみでの付き合いがあるのだろうし、両家族公認のカップルなのだろうから、こういったことも理解できない訳ではない。だがやはり俺とは住んでいる世界が違う人間なのだな、と思ってしまう。

「新崎君とかおりちゃんは?デー」

「今たまたまそこで会っただけだ。偶然な」

 水沢がわざと嬉しそうに言うので、水沢がすべてを言い終えないうちに遮った。水沢みふゆは確かに誠実であり、勤勉であり、慎ましい女性だとは思うが、何しろあの水沢涼子の愛娘だ。決して聖女ではないのだ。

「うん。わたしは弦、買いに来たの」

「じゃあお客さんだ。いらっしゃいませ」

 ぺこり、と谷崎が頭を下げた。

「新崎君は?」

「俺はvultureへ向かう途中だったが、見知った後ろ姿が見えたんでな。足を止めたところで関谷と遭遇した。だから客ではない」

 水沢の問いに俺は正確な状況を伝えた。こういうところが可愛げのない所なのかもしれないと自覚はしつつ。だが水沢や関谷、谷崎に可愛げのある人間だと思われたところで何になる。

「でもうちのお客さんだね」

 にっこりにこにこ。世の男の何人が水沢の笑顔に引き込まれ、そして地獄に突き落とされたのだろうか。アーメンの一言でも唱えてやりたいところだが、俺の周りには水沢に当って砕け散った奴がいない。

「まったくもってその通りだな」

「新崎君、vulture行くの?」

「あぁ。つい先ほど起きたばかりでな。何も食べてない」

 腹をさすると、ぐぅと腹の虫が鳴いた。

「わたしも後で行っても良い?」

「vultureは俺の私物ではないぞ。関谷が来たい時に来て、旨いものを堪能したら良い」

「一言多いなぁ、新崎君は」

「やかましい」

 これでも自覚はしている。

「いや待て、関谷、早く弦を買え」

「え?」

 ふと思い至った。恐らく俺は関谷に対し、思わせぶりな行動をとるべきではない。だが、クラスメートであり、同じ軽音楽部の部員であり、ご近所様ともなれば放っておく訳にも行くまい。

「野島と遭遇するかもしれん。例え俺でもいた方が厄払いくらいにはなる」

「え?」

 ここでまた野島が関谷を発見してしつこく誘ったら、恐らく関谷ははっきりとは断れないはずだ。どちらとも取れない反応は野島にとってはイエスに近い。

「厄介払い、じゃないかな」

「そうとも言う」

「え?」

 まだ状況を掴めていないか、関谷香織。

「香織ちゃんと一緒にvulture行きたいって」

「曲解だ」

 誰もそんなことは言っていない。野島ではあるまいし。だが一人で行くよりも関谷と一緒の方が楽しかろうことは俺も薄々感付いている。つまり、だ。

「そうかなぁ」

 水沢の言うことは正直に言えば的外れではない。だが俺は野島のようになるつもりもない。関谷の自由にさせたいだけだ。俺のボディーガードも関谷は嫌だとしても断らないだろう。だがどのみちvultureへ足を運ぶのであれば、俺は効率が良い方を選ぶ。自分に好都合であったとしてもだ。いや、この言い方は汚いな。自分に好都合であれば尚のことだ。

「あ、あの……」

「いや、俺もそろそろ替え時だと思っていたところだ。俺も買って行こう」

 関谷の言葉は待たない。多くの場合、関谷はこうして誰かが引っ張った方が良い気がする。自分で決める意思がないだとか、意志が弱いとは言わない。だが、こうした方が気持ち的に楽な場合もあるだろう。

「ベース弦ならエリクサーがお勧めだよ、新崎君」

「あんな高級なもの、買える訳がなかろう」

 俺が使用しているベース弦は懐に優しい二〇〇〇円。安い時ならば一九八〇円だ。だが、今谷崎が勧めてきた弦は、一セットで五〇〇〇円近くする、高級なことで有名な弦だ。安い時でも四七〇〇円程度だ。一介の高校生が購入するには少々気合のいる金額だ。

「男は黙ってダダリオだ」

「わたしはアーニーボール」

 関谷が言ったベース弦も俺が使用しているものと同等の有名なメーカーであり、リーズナブルな弦だ。恐らく裕福ではない高校生バンド者の殆どはこのどちらかを使用しているだろう。もちろんそれ以下のあまり耳にしたことがない、もっと安いメーカーの弦もあるが、安かろう悪かろうが殆どだ。これは俺の経験に基づく結果論だが、恐らく間違ってはいないはずだ。

「まぁベースを始めて僅か数年の若輩者に、正直弦で変わる音の違いなど判るはずもない」

 現に俺はダダリオとアーニーボールの違いなどほぼ判らない。

「でもエリクサーは違うよ。アンプラグドでも音が違うって判るし、何より手触りが違うから」

 そんなものか。だが、実際に手にしてみないことには実感として違いは判らない。そのために五〇〇〇円を払うのも勇気の要る話だ。

「だがお高いものだな?」

「お求め易いお値段で提供しております」

 やかましいわ。

「エリクサー一セットでダダリオ二セットとおつりがくるだろう」

 だとするならばやはりダダリオを二セット買った方がお得だと思うのだが。

「でもダダリオ二セットより長持ちするよ。音も良いしね」

 でも使い方にも寄るけどね、と谷崎は言い足して苦笑した。ふむ、そういうものか。高い弦は耐久度も高く、音も良い。頷けない話ではない。

「わ、わたし、それにしてみようかな……」

「なんと」

 関谷がそんなことを言い出した。止めておけ、とは言えない。だが関谷がエリクサーを購入するならば俺も購入しなければならないだろう。一応、何というか、同じべーシストでもある訳だし、男としても見栄を張らなければならない場面もある。

「試演してみる?」

 谷崎の言葉は少し意外だった。

「試奏の楽器にエリクサーを張っているのか」

 だとしたらなんという店なのだ。いや、この店はある意味では儲けを度外視しているような節もある。何しろ夜、中央公園でストリートライブをする際、無償でどこの馬の骨とも知れぬバンド者達に協賛しているというのだから。

「張ってあるものもあるよ。弦もピンキリだし、個人差、好みがあるから、高ければ良いという訳でもないし」

 それは確かにそうだ。楽器でも言えることでもある。それに弦のメーカーからもモニターを頼まれているなどということもありそうな話だ。

「なるほど。……じゃあ一丁弾かせてもらおうか」

 弾かせてもらえるというのであれば、実感できる。実際に買うかどうかは試演した後に決めれば良いことだ。

「了解。準備するね」

 成り行きを見守っていた水沢がにっこりと笑顔を返してきた。本当に働くのが好きなのだなぁ。俺には考えられん。




「こんにちは」

「ども」

 結局四五〇〇円という高額な買い物をして、俺は関谷と共にvultureに到着した。

「あら香織ちゃん、あきらくん。ねぇ、聡君」

 と思ったらいきなり涼子りょうこさんの洗礼を浴びた。今日も相変わらずお美しい涼子さんは俺をからかう時ばかりは冗談がきつい。

「何故二回呼んだんですか」

「あらあら、何故かしら」

 そうだ。これは完全に関谷と二人でここを訪れた俺をからかっているのだ。新崎聡は関谷香織に惚れている説をどこかで押し通そうとしている。俺に全くその気がないのであれば断固反対するのだが、全くその気がない訳ではない。関谷は可愛らしいし、優しい。自分を低く見積もるのは玉に傷だが、それだってある意味では控えめで奥ゆかしいということだ。もはや関谷のことを何も知らない訳ではない。桜木八重さくらぎやえの時とは状況が異なるのだ。

「と、ともかく腹が減り過ぎました。オムライスとRBSを!」

 そうさ。起床したのが午前十時四八分。今は十三時二十分。vultureで昼食を取ろうと考え出してから実に二時間以上もの時間が過ぎている。ほうら良く聞け。俺の腹の虫はまるで地獄の底から呻いているような低い声で鳴いている。涼子さんのきつい冗談に付き合っている暇などないのだ。

「かしこまり。香織ちゃんは?」

「えと、ミルクレープと、ミルクティーで」

 ミルク、ミルクか。やはり俺の女子に対する飲食テンプレートはどうやら間違ってはいないらしい。関谷にだけ当て嵌まるというものでもないのだろうが。

「かしこまりっ」

「やぁ、香織、聡」

 涼子さんがそう答えた直後に、テーブル席から声がかかった。この声は我が瀬能学園生徒会長、瀬野口早香せのぐちはやか先輩だ。

「瀬野口先輩。ども」

「こんにちは、早香先輩」

「あぁ。良かったら一緒にどうだ?」

 瀬野口先輩がついているテーブル席は四人がけで、今は瀬野口先輩しか座っていない。待ち合わせではなく、一人でここを訪れていたのだろう。

「じゃあ、お邪魔でなければ」

「一人で物思いに耽るのも飽きてきたところだよ」

「では遠慮なく」

 俺は伊関いぜき先輩や尭也たかやさん達と話している瀬野口先輩の方がイメージが強いのだが、本来こうした人間は一人を好み、悪い意味ではなく孤独を愛する人間のような気がしないでもない。かくいう俺も孤独を愛する人間ではあるが、それは友達がいなかったせいだ、と言えばそれまでの話だ。瀬野口先輩とは少し事情が異なる。

「香織と聡に訊くのはどうかと思うのだが、君らは何か、でかいことをやらかしてやろう、と考える事はあるか?」

 席について一息ついたところで瀬野口先輩が口を開いた。しかしその言葉の意味を理解し損ねる。質問の仕方が少し広義的過ぎやしないか。

「……質問の意味が良く判りませんが」

 俺はそのまま言う。もう少し詳しく、という意味でだ。

「そうだな、例えば、高校生活の中で、良い事でも悪い事でも何でも良い。目立って、学校一有名になってやるだとか、そういうことを考えたことはあるか?」

 なるほど。

「あぁ、もしかして毎年成人式で出てくるばか者のような輩のことですか」

 テレビ中継があるからと何かと無理をしてはっちゃけて事件を起こすようなばか者のことは毎年のように耳にする。つまり俺たちに、何か訳の判らない、意味のない行動を起こして、学校という極狭い関係の中で一躍有名人になりたいのかどうか、と問うている訳だ。

「悪い例で言えばそうだな」

「ばかばかしい……。俺は限りある生命力を無駄にするつもりはありません」

「だろうな」

 いや、これには語弊があるな。瀬野口先輩は生徒会長だ。彼女は勿論目立ってやろうと生徒会長に立候補した訳ではないはずだが、校内では知らない者はいないという点では有名人だ。だからこれは真面目に矢面に立つことができる人間を貶めている言葉ではない。

「わ、わたしは目立ちたくない、です……」

「だろうな」

 確かに、俺と関谷ではミスキャストだ。だがそれでも俺たちに話したい何かがあるからこそ、俺たちに話したのだろう。

「何故そんな話を?」

「いや、一也が何か企んでいそうな気がしてな」

 やはり一也の話か。だがあいつも勉強はできないがばか者ではない。いやばか者だが頭は悪くない。いや、頭は悪いが、そう、くだらない人間ではないのだ。遺される人間がいると判っている以上、早々ばかなことはやらかさないはずだ。

「死ぬ前にどかんと、ということですか」

「勘でしかないが」

 確証は何もなし、か。だとするならば杞憂である、と言ってしまえれば楽だろう。しかし相手は一也だ。一笑に付す訳にはいかない。ばかなことをしでかす、という以外にも選択肢は考えられるのだから。

「判らなくもない、かな、とも言いきれませんがね」

「歯切れが悪いな」

「俺は死に直面したことがないんで軽々しくは言えない、という意味で」

 無責任な言い方だが、一也の気持ちを俺が本当に理解できると思ってはいけない。その辺の意味も汲んで欲しいものだが、俺の発信の仕方ではそれも難しいかもしれない。

「なるほど」

「まぁただ、どうですかね。ライブ自体がそうだとも思えますし。そこに俺を入れたというのも、一也的には野望だったんではないか、と」

「確かにな」

 死ぬ前に一花咲かせたい。その思いは確実にあるだろう。だから元ベーシスト、野島が抜けた状態で、これ幸いと俺に声を掛けてきたのだろうから。

「何か良からぬ予感はしているということですか?」

 俺たちには見えない、家族にしか判らないようなところでの一也の行動から、何かを読み取ったのか。

「というよりは結果、だな」

「結果?」

 まだ何もしていない上に、するかも判らない状態で結果だというのはどういうことだ。途端に話が判らなくなってきた。俺は瀬野口先輩の言葉を待つ。

「勿論起こす行動にも寄るが、概してそういうものは首謀者として覚えられないものだ。やったところで無意味かもしれん、と」

「……ん?」

 やはり判らない。

「やったところで、無意味?ですか?」

 関谷が言葉尻だけを鸚鵡返しする。やはり関谷も良く判ってはいないようだ。

「あぁ、済まない。例え話だが……。マーク・チャップマンという名を聞いたことがあるか?」

「……いえ」

 知らない名だ。若くしてこの世を去ったミュージシャンだろうか。

「ジョン・ウィルクス・ブースは?」

「いえ」

 会話の流れが判らない。例え話らしいが、人物の名前が判らなければ例えにもならないのではないだろうか。

「リー・ハーヴェイ・オズワルドはどうだ?」

「知りませんね。野球選手か誰かですか?」

 落ち着いて聞き入れることができていない。俺はつい回答を求めるようなことを言ってしまった。そんな俺の気持ちを理解してか、ふぅ、と一息、コーヒーを飲んでから、瀬野口先輩はもう一度口を開いた。

「……マーク・チャップマンはジョン・レノンを殺した男だ。ジョン・ウィルクス・ブースはリンカーン、リー・ハーヴェイ・オズワルドはケネディを。どれもこれも世界的に報じられた歴史的大ニュースだが、犯人の名を知る者は少ない」

「……なるほど」

 事件の大枠は確かに知っているが、詳細までは判らない。犯人がどんな思いで行動を起こしたのかなど、知る人間は確かに少ないのだろう。

「彼らは三人が三人とも、『ライ麦畑で捕まえて』という小説を愛読していた。その内容は救われないほど落ちこぼれの自分が社会や大人に対し悲観的になり、絶望し、ならば自分がその世界や社会を救う側になりたい、と願う少年が主人公の話だ。これには諸説付きまとうが、その時々の時代や社会の象徴であったヒーローを彼ら個人の、勝手な、強い思い込みで救ってやった、ということなかもしれない、とどこかで読んだことがある」

 どこぞの都市伝説で紹介されそうな話ではある。

「それはつまるところ、一也が誰かを救いたい、つまり殺したいと思っているということですか」

 言いながら流石にそれはないだろうと俺は考えた。

「いや済まない、話が飛躍しすぎたな。そこまでではなく、死ぬ前に何かやらかしてやろうと考えているのではないか、という所までだ」

 なるほど。行動を起こすには充分な理由や思いが一也にはある。だからこその憂鬱なのだろう。

「確かに一也は救われな……済みません」

 口が滑ったとはこのことだ。だが本当のことだからこそ、口を突いて出てしまった。たかだか十七年ばかりを生きただけで、何も悪くないのに死ななければならない。これほど救われないことはない。

「いや、構わないよ。確かに一也は救われない子だ。だからと言って救う側になど回れる訳もない。今このご時世で一世を風靡するようなスターも、ヒーローもいない。ましてや学園の中という狭い世界でそんな人物を見つけて救ったところでどうにもならない」

 だから、誰かを救う訳ではなく、何か行動を起こしたいという方を選ぶかもしれない、と。判らなくもない。

「こう言ってしまうと何なんですが、本当の救い、なんてあるとは思えませんね、確かに」

「あぁ。だから、ただ単に何かでかいことをやって、みんなの記憶に残りたいだとか、そういったことは考えているかもしれない、と思ったんだ」

 なるほど。確かに杞憂の一言では片付けられないような気もする。死に直面すれば何を考え始めるか、など当人にしか判らないことだ。気に入った奴らと最後にライブをする、だけでは物足りなく感じてしまうのかもしれない。全ては机上の空論だが、こと一也の気持ちに関して言えば、有り得ないと言う考えこそが有り得ない。

「み、みんなの目の前で……」

「ん?」

 口を開いた関谷を見ると、完全に顔から血の気が引いていた。

「どうした香織」

「関谷、顔色が悪いぞ」

 何か良からぬことでも思いついたのか。

「言いたいことがあるならきちんと言った方が良い。というよりは言ってくれた方が助かる」

 俺と同じ気持ちなのか、瀬野口先輩がそう言った。

「あ、あの、み、みんなの目の前で、その、わざとし、死んじゃう、と、か……」

「!」

 関谷の一言は、実に有り得そうな言葉で、思わず二の句を告げられなかった。

「……あり得なくもない、な」

「ですね。……文化祭当時は、奴とは常に誰かが一緒にいるようにします」

 自殺。皆の目の前で。ライブが終わった直後に、いや始まる前に、かもしれない。一也のメンバーチェンジの提案が今になってこのために考えたのか、とも思わせるほどに、関谷の考え付いたことには説得力があるような気がした。

「そうしてもらえると助かる」

 ただし、机上の空論であることには変わらない。そして今はこの場の雰囲気に呑まれてしまっていることも認めなければならない。つまり俺も関谷も、瀬野口早香でさえも冷静ではないのだ。

「普通なら考えられないことですが、普通ではないですからね。誰も彼も」

 ふぅ、と一息ついてテーブルに視線を落とした。

 しかし瀬野口先輩の言葉を借りれば、そんなものも夢の跡、となってしまうのだろう。ジョン・レノンを殺した男も、リンカーンを殺した男も、ケネディを殺した男も、今となっては覚えている人間は減る一方で、音楽や歴史に触れなければ時間に埋もれ、埃をかぶって行ってしまう。俺たちが今危惧していることなど、本当に夢と消えてしまうような儚い行動だ。つまり、どんな大きなことをしたとして、いつかは忘れられてしまうという意味での結果、か。

「だな。済まない、湿っぽい話になってしまって」

「いえ」

 だとするならば、可能性は潰さなければならない。あらゆる可能性はある。その一つ一つを注意深く見定めて、最悪の結果だけは出さないようにしなければならない。

 瀬野口先輩は短く詫びると笑顔になった。場の雰囲気を和らげるには充分な仕草だった。こんな気遣いというか、空気を変えることもできる人間なのだな。瀬野口先輩は。

「だが折角のデー」

 またそこか!

「EDITIONの前でたまたま関谷に会っただけですがね!」

 ばん、と音が出そうな勢いで俺は瀬野口早香の言葉を遮った。畜生め。前言撤回だ。

「そ、そうか」

 俺の勢いがそれほどだったのか、一瞬だけ退いて瀬野口先輩は苦笑した。まったく。俺は構わないが、関谷に悪い。

「で、でも野島君から守ってくれてます」

 関谷が申し訳なさそうに言う。その言葉は素直に嬉しい。だが、俺は守ってやっている訳ではない。俺がそうしたいからしているだけの話だ。俺は聖人君子でも何でもない。妙なめっきは迷惑なだけだ。

「あぁ、奴はまだお前に付きまとっているのか?」

「あ、さ、最近は大丈夫です」

 それならば良かった。世の中には嘘だろ、と言いたくなるようなとんでもない思い違いをする輩もいる。野島がその類ではないことを祈るばかりだ。

「一度俺が追っ払いました」

「なるほど。香織は良いボディガードを手に入れたな」

 冗談めかして瀬野口先輩は笑った。こと人を使う、ということに関してはやはり瀬野口生徒会長に一日の長がある。関谷にそのつもりはなかったとしても。

「そ、そんな、物みたいに……」

 冗談だと判っていたから気にも留めなかったが、関谷はそこが気になったようだ。関谷の性格なら判らないでもないが、ある意味では使えるものはふんだんに使う、という非情さも関谷には少しばかり必要なのかもしれない。

「あぁ済まない、私もそんなつもりはないよ。だが野島は思い込みが激しい男だ。聡、今後とも香織のことを宜しく頼む」

 生徒会長公認という訳か。一度話した時、野島は幾らかでも話の判る人間だと思っていたのだが、今後とも注意は払っておこう。

「ま、露払いはします」

 それが今の俺にできるせいぜいのことだろう。

「それを言うなら厄介払いだ」

「さいですか」

第二二話:夏草や兵どもが夢の跡

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