おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第十五話:やおい

公開日時: 2022年3月21日(月) 09:00
更新日時: 2022年10月31日(月) 14:19
文字数:10,000

二〇一二年十月十一日 木曜日

 やおい、という言葉がある。

 やおい、ヤオイ、八〇一と表現されたり、色々だ。つまりはホモセクシャルな描写をした漫画や小説などを指すらしい。そもそもの語源は『マなし』『チなし』『ミなし』の頭文字を取った、と言われているが、これも諸説有りだ。

 登場人物に男が数多く出演する部活動や集団をメインに据えた漫画や小説などから二次創作した同人誌、商用誌もで見られることが多いらしく、それをこよなく愛する女性は腐女子、汚女、などと称されているという。

 しかしこれはあくまでも広義的な意味であるらしく、それだけが腐女子ではない、と叱咤される場合もあるらしいから恐ろしい。


「よーっすぅ」

「おぉ、一也かずや

 授業が終わり、第二音楽室で自作した譜割表を眺めていたのだが、一也が能天気な声とともに入ってきたので俺は手を挙げた。相変わらず軽いノリだ。

「一年、ちょっと席外してもらっていいか?」

 入ってくるなり一也は教団に立つと、一年生にそう声をかけた。何か大事な話があるのだろう。一也の身体のことで。

「え、何ですか?どしたんですか?」

 川口かわぐちが言い、他の一年生たちもざわめきだしたが、それを手で制して一也は続けた。

「ちょっと大事な話。行く行くはお前らにもすっから、今日はちと外してくれ。終わったら呼びに行くから、そうだな、屋上にいてくれないか」

「うーっす。判りましたぁ」

 事態を飲み込んだのか、川口は言って立ち上がった。それに続いて一年生全員が立ち上がると、教室を出て行く。とりあえずは文化祭出演に際しての連絡事項だとか、そういったことだとでも思ってくれていれば良いのだが。

「ちょっとおれから提案あんだけどさ」

「提案?」

 すぐに思い当たる。昨日瀬野口せのぐち姉弟は部活に出ていなかった。恐らく瀬野口先輩が一也にパート入れ変えのことを話してくれたのかもしれない。

「や、おれ、もうすぐ死ぬだろ?正直、文化祭まで持つかも判んねぇじゃん」

「一也!」

 あまりにもあっけらかんとした一也の話し方は、事情を知らない人間が聞けば悪趣味な冗談を言っているようにしか聞こえない。気持ちは判らないでもないが、俺は一也を叱咤する意味で一也の名を呼んだ。

「あ、や、悪ぃ、これでもマジな話」

「……」

 判っているのならばそれで充分だ。俺は口を噤んだ。

「でな、おれの代わりにもう一人、ドラム、何とかなんねぇかな、って思ったんすけど」

「保険ってことか?」

 言いながら尭矢たかやさんに視線を投げ、尭矢さんが返した。ある程度は事情を飲み込んでいるのだろう。もう一也が叩けなくなってしまうかもしれないということを想定して動き出していることも判っているような口ぶりだ。

「まぁ平たく言やそっすね。もし出らんなくなって、あきらまで巻き込んどいてさ、文化祭ライブそのものをキャンセル、なんてことんなったらおれ、死んでも死にきれねぇって思ったんすよ。そらおれが死んだときのために保険、なんて正直冗談じゃねぇとも思うんすけど、でもおれ、聡に声かけてくれたみんなと、聡に悔しい思い、させたくねんすよ」

 決意表明、という訳か。ならば俺たちとしては一也の話に乗ってやるしかない。

「なるほどな。判った。ドラムならオレがやる。オレは一応ドラムでもライブ経験もあるからな」

 尭矢さんのドラムはまだ聴いたことはないが、一也たちのバンドの曲はそう簡単に叩けるような曲ではないことも確かだ。それでも尭矢さん自身がやると言うのならば、やれる自信もあるのだろう。

「ギターはどうすんすか」

「スタイルを変えよう。慧太けいたにギタボをやらせて、しんが完全に一人のリードにすれば、何とかなる」

 バンドとしての音はかなり変わる。リードを弾ける二人のギターが、バッキングとリードギターに変わるのだ。ギターソロは慧太では弾けないだろうから、今までにあったギターソロのハモりや掛け合いなどはできなくなる。慎は弾き方も、必要によってはメロディも変えなければならなくなる。その分かかってくる責任は重くなる。

「え、お前弾き語りとかできたっけ?」

 恐らく一也は慧太がギターを弾いている姿をあまり見たことがないのかもしれない。俺もまだ一度も見たことがないし、聞いたことがないので、取りあえずは尭矢さんの情報と、自己申告の腕前だということくらいしか判らない。

「やるしかねぇだろ。おれはお前にも悔しい思いなんかさせねぇよ」

 そういうことなら渡樫わたがし慧太はやる、としか言わないだろう。お節介のお人好し。直情型の熱血漢とくれば、ここでギターボーカルを投げ出すことは、己のアイデンティティを投げ出すことに等しい。そして俺も含め、渡樫慧太と付き合いのある人間は、少なからず慧太のそういったところを認めているからこそ、付き合っているはずだ。

「やれんのか、慧太」

「当然っす」

 もう既に一度練習には入っているが、一也のこの決意表明は俺たち全員の、覚悟の再確認ということでも良い意味で働いたのかもしれない。

「よっし、じゃあ慧太君の心意気に免じて、私がコーチしちゃおっかな」

「ま、まじすか!」

 まるでできレースのようで少々目を逸らしたくもなるが、こればかりは仕方がない。これはある意味での確認作業でもある。

「だって他にギターボーカルいないでしょ?聡君できるんだっけ?」

「まぁ歌本見て、知ってるコードだけの曲なら。ちなみに拾えるのはマイナーまでです」

 セブンスまでは拾えるが、ここで無用にできるアピールをしたところで無意味だ。

「それじゃ話んなんないよね。慎君」

「はい」

「男子の曲って簡単なコードばっかり?」

 俺よりも恐らくは伊関先輩の方が曲は聞いているはずだ。それでも敢てそれを訊くということは、自分がやらなければならないというアピールなのだろう。それは恐らく、他の誰でもなく、一也に対しての。

「や、セブンス、ナインスとか使いますよ。そんなしょっちゅうは使いませんけど」

「だよね。私が聞いてる限りじゃシックスとかアドナインスもあるんじゃない?」

 俺もそんな気はする。専門外の楽器のことはさっぱり判らないが、ギターならば少しは判る。ドラムにしても基礎のエイトビートを叩く程度ならば問題はないが、その程度ではライブには出られない。

「俺では無理ですね」

至春しはる先輩、お、お願いします!」

「おっけ」

 明るく笑って伊関いぜき先輩は言った。全く掴み所のない人だ。もしもこれで一也への気持ちを抑えているのだとしたら、とてつもなく強い心を持っている。瞠目に値するほどに。

「じゃあ一也、お前はオレのコーチ頼む」

 そうか。ことがオープンになれば、尭矢さんは大手を振って一也にドラムを教わることができる。これは大きなプラス要素だ。尭矢さんのドラムの腕がどの程度かはまだ判らないが、実際に叩いている一也にコーチしてもらえるのならば、やはり上達速度は上がるはずだ。

「尭也さんに教えられるほど巧かねっすよ」

「んなこたぁねぇよ。オレぁオレ以下のドラムとなんか組まねぇしな」

 にやり、と尭矢さんが殺し文句を吐く。確かに尭矢さんは自分の楽器には相当な自信を持っているように思う。持っているからこそ、自分の演奏を殺すようなドラマーとは長くは組まないだろうことは俺にも判った。

「うわ、きったねぇ!そこでそれ言うんすか!」

「いつも思ってんぞ」

 更ににやり。全く狡猾な男だ。ばかだが頭は悪くない。その上人の気持ちを汲むことにも長けている。尭矢さんがいなければ巧くことを運ぶことはできないかもしれない。

「嘘だぁ!」

 大げさに一也は言う。恐らく尭矢さんのことだ。俺の時と同じように、心の中では認めていても一切口には出していなかったのだろう。

「嘘じゃねぇって!」

 恐らく尭矢さんも一也も本当の気持ちなのだ。褒め方が下手な人間は、いつ褒めても信用などしてもらえないものだ。逆に褒められ慣れていない人間もまた、不意に褒められても信用はできないものだ。なので、こんなやり取りをしていたところで何の解決にもならないし、全く話が進まない。だから俺は二人に割って入ることにした。

「まぁまぁ煩い黙れ。なら尭也さんの練習には俺も付き合います。ベースとセットでリズム隊として動いた方が良いでしょう」

「んだな」

 一也と尭矢さんは元々俺のベースを認めてくれていた。だから、何度か一也と演奏した時は俺もしっくりくる感じだった。となれば尭矢さんとも早い内から組んでいた方が良いだろう。リズム隊の安定はフロント隊の安定にも繋がる。

「え、ちょ、お、俺は?」

「今オレに黙れっつったか?お前……。つーか慎はそんな変わんねぇだろ。一人でも充分じゃねぇか」

 しっかり俺の茶々を聞いていた尭矢さんが突っ込んでから慎に言う。一々細かい男だ。

「か、変わりますぅ!ちょ、し、新崎しんざき君……」

「何で俺なんだよ。ベースだよ」

 どれだけ寂しがりなんだ。大体俺が入ったところで慎の練習が進むとは思えない。ただでさえ慎は中々の腕を持っているのだ。俺が慎にギターを教えることなど不可能だ。

「俺がベースをやる!」

 どれだけパニックなんだ。

「ばかを言うな。ギタリストが弾くベースほどみっともないものはない。お前はリードの練習だ。尭也さんとハモってたところを主旋律に直すだけだろう。どうということはないな」

 ごく個人的な感情ではあるが、ギタリストが考えるベースラインというものが俺はどうにも苦手だ。それは俺が提唱するところの、フロントマンの目立ちたいという性根が本来縁の下の力持ちでなければならないベースを、フロントマンの楽器にしてしまう、ということなのだが、ともかくギタリスト上がりのベーシストのベースラインは煩くて適わない。

「何で俺だけ一人なんだよ……」

 そこかよ。個人練習なんて僅かな間だ。どうせ少し練習できれば部室でも合わせて練習できるようになるのだから、態々個人練習に入らなくても良いだろう。そもそもギターなど個人練習ならばスタジオに入る必要もないはずだ。

桜木八重さくらぎやえにでも付き添ってもらうと良い」

「……」

 彼女と二人で入れば寂しくもなかろう。態々男の俺と個人練習になど入る必要も全くないし、俺は俺でまだ全曲アレンジが終わっていない。はっきり言って時間の無駄だ。

「それでな、香織かおり、みふゆ」

「は、はい」

「そんなんで、時々だとは思けどな、一年を放っちまうことがある。そういう時は、一年のとりまとめ、お前らに任せたいんだけど、いいか」

 伊関先輩が抜ければ女子バンドもバンドとしては機能しなくなる。関谷せきたに水沢みずさわに全てを任せなくても、瀬野口先輩がいるのだ。不安はないだろう。

「わ、判りました」

 尭矢さんも関谷の性格を見越して言ったのかもしれない。関谷は自分だけ真実を知らされていなかったことが、何か、自分に落ち度があったせいだと思っているような感じもするのだ。だから、何かあれば協力したいと強く思っている。そんな関谷の気持ちを慮ってそう言ったのかもしれなかった。言いたくはないが流石だ。

「俺も尭也さんの練習につきっきりという訳ではない。もちろん手伝える時は手伝う」

「ちょぉ、俺は!」

 まだ拘っていたのか。全く煩い奴め。そもそも慎はこの間尭矢さんと個人練習に入っているはずだ。そしてギタリスト同士なのだから、その一度で充分だったはずだ。

「あのな、残念だが俺はギターを教えられん。慎は知らなかったのかもしれないが俺はベーシストなんだ」

「知ってるよ!」

 軽く小ばかにして言ってやる。俺は俺でやることがあるのだ。慎の練習にどうしてもベーシストの技能が必要なのだとすれば俺も考えるが、今の時点では全く必要がない。新曲ならばベースラインとの競合も考えなければいけないことだが、既にギターが決まっている曲ならば、俺がそれに合わせれば良いだけの話だ。

「ならば桜木八重で充分だろう。二人で個人練習に入っていちゃいちゃしていろ」

「じゃあ私は慧太君といちゃいちゃしよーっと」

 くぅ、と歯噛みするような表情の慎を他所に、伊関先輩が能天気にそんなことを言った。

「おーしろしろ。おれは尭也さんといちゃいちゃすんぜ」

 にやり、と一也が笑顔になる。その辺の話はデリケートな扱いなのではないのだろうか。それとも一也の望む『いつも通り』の一環なのだろうか。その辺りは全く読めない。

「ちょ、それ観察させて!」

「よせ伊関!オレはノン気だ!」

 らんらんと輝く瞳で伊関先輩がはしゃぎ出すが、尭矢さんが腕でばってん印を作った。い、いやそんなことよりも。

「え、伊関先輩って腐有なんですか……」

 世の中には実は腐女子が蔓延しているという話をどこかで聞いたことがある。まさかこんな身近にいるとは思いも寄らない。

「断然有りよぉ。ね、早香はやか!」

「ま、待て至春!」

「えぇー!」

 柄にもなく頓狂な声を上げてしまった。伊関至春のみならず、まさか瀬野口早香までもが腐女子だったとは。全校生徒の一体何人がこの事実を知っているのだ。

「我が校の生徒会長が!生徒会長から腐臭が!」

「や、やめんか人聞きの悪い!私は至ってノーマルだ!」

 ノーマルとは一体どういう意味だ。つまりはやおいなどは好かないということなのか。もはや意味が判らない。

「そ。男が好きよね。でも男同士も好きよね」

 そういうことか。つまり瀬野口早香とは、実際には百合でもなんでもなく、創作物を読む趣として薔薇が好きと、そういう訳なのか。それはつまり、対象は身近であればあるほど燃える、と。い、いや、萌える、ということなのか。

「至春!」

 喚き出す生徒会長を他所に、俺は関谷に恐怖の質問をしてみることにした。聞けばそんな趣の女性は珍しくもなんともないという。実際に伊関至春と瀬野口早香がそうなのであれば、関谷も水沢もそういった趣を持っていても不思議ではないのかもしれない。

「関谷」

「え?」

 皆のやり取りに圧倒されていた関谷が俺の方を向いた。上気しているのか、やはり頬が赤い。

「訊くが、お前も腐臭を隠しているのか」

「わ、わたしは完全にノン気です……」

 関谷の言葉に思わずほっとする。別に関谷がどんな趣味を持っていても良いと思っていたのだが、そういった趣味を持っていなくて、どうしてか俺は安堵してしまった。やはりあまりそういった趣味には肯定的にはなれないということなのだろうな。

「そ、そうか。まぁしかしそんなものは個人の自由だからな」

 そう、だからといって別に俺は伊関先輩や瀬野口先輩を否定する気などこれっぽっちもないのだ。

「そ、そうだね」

「と、ともかく!二年三年は忙しくなるから、そのつもりで!」

 おほん、とわざとらしく咳払いをして、瀬野口先輩が声を高くした。

「あいーす」

 慧太の声に合わせて皆が手を上げたり声を上げたりした。確かに一也の命の保険という意味では俺も冗談ではないという気持ちだが、やはりもしものことはどうしたって考えてしまう。その場その場の行き当たりばったりでは、一也にも悔しい思いをさせてしまいかねない。避けられぬ道程ならば何が起きても対処できるようにしておいた方が、きっと全員のためだ。

「皆ありがとな」

 照れくさそうに一也は笑うが、恐らくは心中穏やかではないはずだ。どこかで一也のフォローもできれば良いのだが、それも難しいだろう。

「おー、気にすんな」

「新崎君……」

 話がついたと思ったら、慎がまたしても神妙な顔で俺に近付いてきた。

「だからギターは……」

 一体何度言えば判るのだ。確か慎はばかだが成績は良かったはずだ。

「違う」

「では何だ」

 違うだと?では他に何があるというのだ。

とは何だ?」

「ググレカス」

 思わず即答してしまった。なるほど、まぁあまり蔓延している言葉ではないのかもしれない。ネットスラングなど日常的にネットをやっている人間でも知らない言葉があるものだ。

「何だって?」

「いや、何でもない。俺が教えるよりもネットで調べた方が良い。婦女子、という言葉は判るな?」

「当然だ。ばかにするな」

 やかましいばか者めが。

「ならばその婦女子の婦、貴婦人の婦の字を腐る、という字に替えて検索するんだ。いいな」

「あ、あぁ、ありがとう」

 いやに素直だな。今後慎が伊関先輩や瀬野口先輩の見る目を変えなければ良いが、これは説明してやった方が親切かもしれないな。だがまずは基礎知識からだ。学ぶのは苦ではないのだろうから、自ら学べ。話はそれからだ。

「良し、じゃあ俺は一年生を呼んでくる」

 俺はそう言うと立ち上がった。一応この中では一番のペーペーだ。やるべきことはやっておこうと思ったところで、水沢も立ち上がった。

「あ、じゃあ私も。行こ、香織ちゃん」

「あ、う、うん」

 そして何故か関谷まで席を立った。




 第二音楽室は三階の一番奥にある。我が瀬能学園高等部の校舎は鳥瞰図で言えば、カタカナのコの字のような造りになっている。屋上は四階の更に上にあり、その屋上へと続く階段はコの字の角にあるので、少々歩くことになる。途中、美術室、実験室、と通り越し、階段に着いたときに、水沢が口を開いた。

「ね、新崎君」

「何だ?」

「瀬野口君と伊関先輩が付き合ってたのは、知ってるんだよね?」

 唐突だな。だがしかし、これで水沢が俺についてきた理由が判った。関谷を同席させた理由は今ひとつ判らないが。

「あぁ、この間関谷に教えてもらった」

「あの二人ね、喧嘩別れでも何でもなくて、別れたの」

「ほう。今でもお互いを想い合っているということなのか?」

 やはりそういうことなのか。だとすれば誰もが辛い思いをすることになる。そして俺たちにはそれを未然に防げる手段が何一つない。

「判らないんだ。それが」

「まぁ俺も今日見た限りでは全く判らん」

 ほんの一瞬の会話から、一也と伊関先輩が親しい間柄だということはすぐに判った。しかしあの状態が、お互いに判り合って、腹を決めて取っている態度なのか、冗談でやっているのか、全く判らなかった。

「だよね……。あのね、別れた時、お店だったの」

「ほう」

 つまり、vultureヴォルチャーで別れ話をしたということだ。

「私もお母さんもいる前で……」

「そ、そうなんだ」

「うん」

 今まで黙っていた関谷が相槌を打つ。なるほど。水沢や涼子りょうこさんに聞かれても良い場所でその話をしたということは、その話が広まっても良いということだったのだろう。

「おれの、これ以上ない未来に付き合う必要なんてない、至春は至春の未来のために生きて欲しい、って」

 あいつらしい。矛盾している行動だが、それでも相手が好きになった女ならば、それも致し方がないというものだろう。

「伊関先輩は何て答えたんだ」

「それが一也の気持ちなら判った、って」

「……」

 なるほどな。それも伊関先輩らしい答えかもしれない。

「それ、知ってるのは水沢と涼子さんだけなのか」

「うん、多分。でも早香先輩は知ってると思う」

 いくらvultureでその話をしても、涼子さんはそれを吹聴するような真似はしなかった。だから水沢は俺に態々聞かせてくれたのだろう。そして一也の姉であり、伊関先輩の親友でもある瀬野口早香がそれを知らない訳はないだろう。

「だな。……慧太はどうだろう」

 一也が慧太の気持ちをその頃から知っていたとしたら、話すかもしれない。ただ一也も慧太もプライドはある。おれはもう別れたからお前至春に行けよ、などということは言っていないはずだ。言っていれば恐らく慧太は一也を殴るだろう。……いや、それはもう起きてしまったこと、という可能性もある。

「渡樫君は、聞いてなくても、気付いてるような気がするんだ、私」

「わたしもそう思う……」

 軽音楽部の中でも特に機微に敏感な二人がそう言うのだ。それは恐らく間違いではないのだろう。そして先日の慧太の態度からして、俺も間違いではないと思う。

「渡樫君ね、瀬野口君と物凄く仲良しだから、もしかしたら、瀬野口君が教えてるかもしれない」

「だとすると、酷だな……」

「だよね」

 一也がどういう情報を、どういう話し方で慧太にしたかにも依るかもしれないが、結果的に慧太が不遇だという事実は何も変わらない。

「でも早香先輩が、至春先輩と渡樫君の個人練習、組んだんでしょ?」

「あぁ」

 先日俺が関谷に明かした情報だ。

「そうなの!」

「あぁ。それは俺が直接瀬野口先輩から聞いた」

「……どういうつもりなのかな」

 それが判れば苦労はない。だから俺はない頭を絞って推論を立てることしかできないのだ。

「考えたくはないが、喪ってしまう者同士をくっつける、という考えなのかもしれない」

「でもそんな簡単にはいかないはずだよ。そんなこと、早香先輩だって判ってると思う」

 だろうな。誰にだって考え付くことだ。俺も一度はそう考えた。

「だとしても、だよ」

「え?」

「伊関先輩だって、簡単に一也への思いを断ち切れたら苦労はない。だが、この先いなくなると判って、覚悟している人間にそんなことを言われても尚、縋る訳には、いかないんじゃないのか」

 伊関至春という女性の立場からしてみれば、だ。一也の気持ちの計算はそこには入らない。恐らく、伊関先輩もその時点で、何が本当の一也の気持ちなのか、判らなくなってしまっていただろうから。

「……でも、渡樫君だって至春先輩のこと好きなのに、そんなんじゃ告白したって無駄だって判っちゃってるんじゃないのかな」

「可哀想だよね……」

「そうかもな」

 俺は嘆息と共にそう言った。そうだ。色々と考えて、推論を立てて、策を講じようと思ったところで、無駄なのだ。どうしたって、どうにもできない。俺にはそんな力はないし、人の気持ちを止めてしまえるほどの権限もない。

「新崎君」

 少しだけ、叱責したような声音で水沢が俺の名を呼ぶ。そんな声を出すこともあるのだな。

「でも俺は、可哀想でもいいと言うと意地が悪いが、それはそれで仕方がないと思っている」

 結局、そこに辿り着く。頭が良かろうが悪かろうが、推論を立てようが立てまいが。

「それは、全て丸く収まることなんてないと思うけれど……」

 誰かが傷付くだとか、慧太や伊関先輩の心の在り処が無くなってしまうだとか、挙げ始めれば枚挙に暇がない。だから、観点を元に戻す。原点回帰という訳ではないが、そもそも、何故そんな話になってしまったのかを考えない訳にはいかない。

「そうじゃない」

「あ……」

 関谷は気付いてくれたようだった。

「そうさ。一番可哀想なのは、伊関至春でも渡樫慧太でもない」

「そっか……。瀬野口君」

「あぁ」

 何も悪くないのに、死を運命付けられてしまった、瀬野口一也だ。あっけらかんと何事もなかったかのように毎日を振舞っているせいで、皆そのことを忘れがちになる。いや、無理矢理にでも、瀬野口一也の死を頭の隅に追いやろうとしている。

「そして、俺たちには何もできない」

「そう、だね」

 水沢も納得してくれたのか、頷いた。

「でも……」

「だが丸っきり何もできないという訳ではない」

 関谷がやはり何かを言いたげだったので、俺はやはり、原点の言葉を用意した。

「え?」

「誰かが巧くいかなかった時に支えてやれれば、それでいいだろう」

 瀬野口一也の死で、周囲が見えなくなってしまっている。誰かが死ぬという事態に関わろうと関わっていなかろうと、親しい人間が失敗すれば、力を貸してやりたくなるのが当たり前だ。今は誰もが一也の死に捕らわれ過ぎてしまっているのだ。

「……そっか。そうだね」

「それしかできない、かな」

 言っている俺自身、視野が広い訳ではない。だが、同じく視野を狭くして悩んでいる人間を見れば、自分の視野が狭かったことに気付かせてもらえる。

「だな。逆に言えばそうすることが俺たちの役割だと思う。いや、役目だと信じよう」

 でなければ誰も彼もが圧し潰されてしまう。一也の死や、慧太、伊関先輩のやりどころのない気持ちに。

「新崎君、入ってくれて良かったね、香織ちゃん」

「は?」

 俺が軽音楽部に入って、関谷や水沢にはメリットなど何一つないはずだが。

「一見冷たいようだけど、冷静に、凄く良く考えてくれてるもんね」

「う、うん」

 だからそれを何故関谷に言う必要がある。確かに慧太や慎などは冷静に物事を考えることは苦手だろうが、瀬野口先輩や伊関先輩、それに尭矢さんだっている。うだうだと物事を考える割にはそれを殆ど口には出さず、そのくせ態度はでかくて口も悪い俺でも、そんなことを言ってもらえるものなのか。俺は関谷とは違い、自分自身を正しく見積もっていると思っていたのだが、それも思い違いなのかもしれない。

「煽てても何もでないぞ」

 一応それだけは言っておく。確かに冷静、という部分では、俺は連中よりもどこか冷めている所がある。熱くなりやすい慧太や尭矢さんよりもある意味では確かに冷静なのだろう。

「もっと煽ってあげるから、うちでコーヒー、飲んで行ってね」

「しっかりしていらっしゃる」

 流石に水沢涼子の娘だ。と思ったら俺の心を読んだかのように水沢は言った。

「水沢涼子の娘ですから、これでも」

「そうだった」

第十五話:やおい

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