二〇一二年十月三十日 火曜日
終わり良ければ全て良し、という言葉がある。
言葉の通り、紆余曲折あったとしても、結果的に丸く収まれば万事オーケーということだろう。平たく言えば結果オーライだ。
全ての事柄に対してそんなお気楽に物事を考えられればどれほど楽だろうか。
しかし結果を良しとするためにはそこに至るまでのプロセスも大切にして行かなければ、結果がすべて良し、という訳にはいかないということを、俺はこれから学ぶことになるのだ。
今日は音楽室が使えないということで、各々帰って個人練習に終始するということになった。恐らく伊関先輩と慧太、尭也さんと慎はスタジオに入っているはずだが、俺は早々に部屋に戻って時間まで個人練習をしようと決めていた。
そう、今日は時間制限がある。一九時から髪奈夕衣と会うのだ。
『初めまして、髪奈夕衣です。この間はライブ見てくれてありがとう。わたしと話をしてみたいっていうことを穂美ちゃんから聞いたのでメールします。三〇日の一九時以降なら空いてるけど、新崎君はどうですか?』
そんなメールが昨日届いた。俺はすぐさま返事を返して約束を取り付けた。髪奈夕衣はvultureの常連らしいのでそこで会うことにしたのだ。関谷に見られる可能性もあるが、そこは涼子さんがいれば誤解は生まれないだろうという計算もあってのことだ。
ここ数日で曲は全て頭に入ったし、アレンジも安定してきた。欲を言えばまだ変えたいところもあるが、バンド全体で合わせてみなければ判らない所もあるし、ギターやボーカルとの兼ね合いもある。今の時点で勝手には変えられないことも多い。
ともかく時間まで反復練習を繰り返した。
「いらっしゃい、聡君」
「ども」
時間にして一〇分前だったが、既に髪奈夕衣はvultureに来ていた。手前側のテーブル席に座り、紅茶だろうか、それを飲んでいる様はそれだけで絵になるような気がする。
「こんばんは、新崎君」
にっこりと屈託のない笑顔で髪奈さんは言った。こうして見ると、同い年か下手をすれば年下にさえ見えてしまう、可愛らしい笑顔だ。
「すみません、お呼び立てしてしまって」
「場所を決めたのはわたしだよ」
その笑顔のままくい、と小首を傾げながら髪奈さんは続ける。好印象、というのはこういうことだ。実に素晴らしい。俺にはとても真似できない。
「それでも話を聞きたいのは俺です。態々ありがとうございます」
「聡君随分礼儀正しいわね。何にする?」
涼子さんもにっこりと言ったが、どことなくからかっている気がするのは俺の気のせいだろうか。
「RBSを」
気のせいだと信じて俺は短く注文だけをした。妙な誤解はされないだろうが、涼子さんのことだ、藪をつついてキングドラゴンが出てくることがあるかもしれない。
「ご飯は食べたの?」
「あ、いや。髪奈さんは?」
正直に言えば飯でも食いながら、とは思っていたのだが、いざこの場に立って見て、飯は諦めようと思った矢先だ。しかし腹の虫はそろそろ鳴き出す頃かもしれない。
「わたしもまだだから食べよ」
「了解です」
俺は髪奈さんの有りがたい申し出を受けることにした。いかんな、たかだか四歳ほどの年の差だと言うのに、どうも萎縮している気がする。いつもの不遜な新崎聡が正しいとは言わないが、もう少しいつも通りにしなければ聞きたい話を訊けない可能性もある。故に髪奈さんからの申し出はとても有りがたかった。
「夕衣姉ちゃん久しぶり。新崎君こんばんは」
奥の居住スペースから水沢が顔を出した。なるほど馴染みと言う訳か。だとするならば水沢もディーヴァ絡みの話は全て知っているのかもしれない。特にこちらの話に首を突っ込んでくることもないだろう。水沢母娘はそういうところにはとても良く気が付いてくれる。俺はそんな水沢にひょいと片手を挙げて挨拶の替りとした。
「みふゆちゃん久しぶり。ピアノどぉ?」
「文化祭、キーボードで出るよ」
「そうなんだ、見に行くね!」
く、とサムズアップ。見た目が可愛らしい水沢がそれをやると滑稽だが妙に絵になる。見目麗しい人間がやるときっと何でも絵になるのだ。
「知り合いか」
「常連さんだしね。新崎君は何で知り合ったの?」
「この間野暮用でRo.Bi.Goに行ったんだ」
言及はしないでくれ。話せば長い上に面白味など欠片もない。いや、世の女子達はいわゆる恋バナというものが好きらしいから、こんなに面白味の欠片も無い話でもどこに興味を持たれるか判ったものではない。
「そうなんだ」
す、と会話を切り上げてくれる。ありがたい。この辺りはさすがに涼子さんの娘だ。
「新崎君、話、ご飯食べてからでも良い?」
「あ、勿論です」
水沢との会話が終わったのを見るや、髪奈さんがそう言った。髪奈さんも中々に空気の読める人らしい。俺が頷いた途端に喧しい声が店内に割って入ってきた。
「ちぇいっすーぅ!」
「いらっしゃい莉徒」
りず。知らない名だ。だが涼子さんの反応を見るに、どうやら常連客のようだ。明るく色を抜いた髪は後ろでまとめ上げられて、大きなバレッタで大雑把に留められている。顔は目鼻立ちがくっきりとしていて可愛らしい印象を受ける。
「ばんわ、涼子さん。お、みふゆもいるじゃん!」
「莉徒姉ちゃん久しぶり」
「よーっすみふゆ!ピアノ上達した?」
「今度文化祭でライブするよ」
「お、じゃあ見に行かないと!」
髪奈嬢と全く同じ会話の流れの後に、莉徒嬢はこちらを向く。
「で、このオトコマエは?」
「あ、新崎聡です」
つまるところ髪奈夕衣の友達という事だな。
「私は柚机莉徒。夕衣とバンドしてるの」
「あ、えーとあの読めないバンド」
確か綴りはMedb……。
「メイヴね」
あれでメイヴと読むとは。英語なのか何語なのかさえも判らない。勉強する気までは起きないが、少し興味を惹かれる名だ。
「何夕衣、浮気?」
「たまにはね」
にやりと言った柚机莉徒に対し、髪奈さんはにこりと返す。
「え!」
「あ、じょ、冗談よ」
どうやら髪奈夕衣の彼氏はかなりのイケメンらしい。彼氏がイケメンだから相手が浮気しないとは限らないが、それ以前に髪奈さんの発言はどう考えても冗談でしかないことくらいは俺でも判る。
「言ってなかったけど同席良いかな、新崎君」
そう言って髪奈さんは手振りで柚机莉徒を促した。
「あ、構わないですよ」
髪奈さんと二人だと中々緊張が解れないかもしれない。柚机嬢のような姦しさは普段ならば遠慮願いたいところだが、今この場ではその屈託の無さは少々有りがたい。
「状況を一番良く知る人物、ってことで」
「柚机莉徒。宜しくね」
一番良く知る。つまり髪奈夕衣のGoddesses Wingいや、Ishtar Featherの今までの経緯等を髪奈夕衣と共に経験してきた人間ということになるのだろうか。
「新崎聡です。そういうことならこちらこそ、宜しくお願いします」
柚机莉徒がもう一度名乗った後、俺も会釈した。
食事を済ませた後、髪奈さんの前にはミルクレープが運ばれてきた。髪奈さんはそれをフォークでつつきながらおもむろに話し始めた。
「……わたしにはね、凄く仲良しの従姉がいたの。裕江って言ってね、裕江姉って慕ってたんだけど」
いた。過去形だ。それはつまるところ。
「そ、死んじゃったの」
俺の表情を読み取ってか、微妙な間を読んだのか、髪奈さんはそう言って少しだけ寂しそうに笑った。
「病気、ですか」
訊き辛いことだったが、今の一也と重ねて尋ねてみた。
「ううん、自殺」
「じ……」
想像以上の返答だった。病死とは訳が違う。どちらが重いという訳ではなく、どちらが大変だという事でもない。しかし、生きたいと思っているのに死ななければならない者と、自ら命を絶った者の間には大きな隔たりがある。一也と重ねることは難しい。
「この街でIshtar Featherが広まるきっかけになったのはその裕江姉のおかげでもあるの。友達に聞かせるために、どこかのアップローダーにアップしてたみたいで」
今のご時世、一曲分のデータならばメールでもネット上のファイル送信サイトからでも楽に送れる。しかし態々アップローダーにアップロードをしなければならなかったとなると、かなり前の話なのかもしれない。
「多分それがきっかけで、今ディーヴァって言われてるヤツがIshtar Featherをアレンジして、公開したっぽい」
「なるほど……」
当時のネット事情に明るい訳ではないが、曲や動画などの大容量のデータのやり取りができるようになったのはここ数年だ。少なくとも十年近くも前になると、今ほどデータ通信のやり取りが容易ではなかった、ということくらいしか俺には判らない。
「裕江姉が何で自殺をしたのかは判らないの。遺書は残ってたけど、死因となるようなものは何も残ってなくて……」
「ちょっと待ってください、髪奈さん」
これは、髪奈夕衣という人間の人格形成と言ってしまうと言い過ぎかもしれないが、彼女本人の根幹に根差す、とても深く、大きな問題なのではないだろうか。
「え?」
「い、いや、その話、俺が聞いても良いんですか?」
俺と髪奈さんは殆ど見ず知らずに近い他人だ。ついこの間、朔美との縁でたまたま知り合った。話を聞かせてほしいと言ったのは俺の方だが、人の死に関わるほど深く、大きな問題だったとは思いも依らなかった。
「そのために今日、来たんだよ」
大きな瞳でしっかりと俺を見ると、髪奈さんは心なしかゆっくりと言葉を紡ぎだすように言った。
「し、しかし……」
こんな重大な話を、誰にでも、それこそほぼ赤の他人の俺に吹聴して良い訳がない。
「新崎聡」
狼狽える俺に、柚机さんが声を掛けた。
「は、はい」
「私はあんた達の事情は良く知らないけど、一応今の生徒会長は私たちの後輩で結構な仲良し」
「……なるほど」
一也の姉、つまり瀬野口先輩の事か。となると、一也の事は全て知っているということなのだろう。だからこそ、親しい人の死に関わった髪奈さんが話をしてくれる気になった。そういうことなのだろうか。
「済みません。では最後まで聞かせて下さい」
俺は二人に頭を下げると、佇まいを正した。
「裕江姉は別にIshtar Featherをネットにばら撒いた訳ではないんだけど、わたしが作った曲を友達には良く聞かせてたみたいなのね」
「その友達の誰かも、アップローダー使ったりして広まったんだろうね」
髪奈さんの言葉の後に柚机さんが補足を入れる。呼吸はぴったりだ。
「裕江姉の本当の意図は判らなかったけど、一つだけ確実だと思えるのは、わたしの曲を本当に気に入ってくれて、みんなに聞いてもらいたくてっていう気持ち」
「Ishtar Featherが愛唱歌のようになれば、と?」
最近の訳の解らない音楽シーンの事情はさておき、昭和の時代には良くあったと親に聞かされたことがあった。様々な時代の様々なアーティストが歌い継いできた歌がある、ということを。そこまで全国区ではないにしろ、一部の人たちにだけでも、この素晴らしい曲を聞いてもらいたいという気持ちは判らないでもない。かくいう俺も初めてGoddesses Wingを聞いた時には、こんな素晴らしい曲が無名のインディーズですらなかったことに随分と驚いたものだった。
「まぁ掻い摘んだ上に端折るとそういうこと。初めてこの街に来て、ディーヴァのGoddesses Wingを聞いた時は腹も立ったし、どうして良いか判らなくなったけど、でもディーヴァが私の曲を聞いて、自分ならこんな風にアレンジするな、とかこんな風にしたら素敵だな、と思ってGoddesses Wingを創ったんだとしたら、それはやっぱり素敵なことなのかな、って思えるようになって」
どうしてそこに思い至ったのだろうか。話の核心はそこだ。
「新崎聡もない?凄く好きな曲をコピる時さ、自分なりにアレンジしてるとか」
「あります」
「それはさ、こうしたら簡単、とかもあるかもしれないけど、大体はオレ流のがカッコイイぜ、って気持ちでやるでしょ」
それはある意味では手抜きということもある。最初からオリジナル曲に関わっていればその限りではないが、誰かのコピーであったり、今回の俺のように誰かの後任であったり、といった場合には確かにオレ流は多用する。
「まぁ、そうですね」
「平たく言えばそういうことかな」
「何で、そういう風に思えるようになったんですか?」
全てにオレ流を認めることはできない。認めてもらうこともできない。音楽の好みなど多種多様だ。難しいことをやることが格好良いと思っている人間もいれば、簡単に楽しく誰でもできる音楽の方が楽しいと思う人間もいる。俺はバンド音楽に関しては後者に近いが、簡単なら何でも良いという訳ではない。
「んー、自分でも実は良くは判ってないんだけど、誰も彼もみんな利己的に生きてる訳じゃないって思えるようになったのかな。恥ずかしい話だけど、わたしはね、裕江姉の死も受け入れられないで、裏切られたと思ったままこの街に来て、友達も恋人だって、結果的に裏切られるんだったらそういうの全部いらないって塞いでたの」
「あの時の夕衣はトゲあったね」
こんなに温厚で理解があるように見える人物でもそういうことはある。俺だってついこの間まで友達もろくにいなかったし、折角誘いをかけてくれた慧太や一也を疑ってかかっていた。つまり、自分を高く見積もる気は毛頭もないが、俺ごときでもあることならば、同年代の人間ならば誰にでも当たり前にあることなのかもしれない。飄々としている一也でも、毅然にふるまっている瀬野口先輩でも、自分がぐらつくことなど当たり前にあるということだ。
「お恥ずかしい限りです。……でもね、莉徒とか彼氏も勿論そうだけど、みんなが体当たりでわたしの壁を壊してくれたの。そんな壁必要ないだろ、って判らせてくれたの」
つまりそれは俺たちが果たすべき役割だ。少し判ってきた気がする。
「それで、壁に意味がないのかもって気付き始めたら、どんどん友達ができて、みんなが凄く支えてくれて……。ううん、そんな言い方は傲慢だね。みんなが一緒にいてくれて、いっつも笑顔で、それがわたしの支えになってたのね」
誰も彼も利己的ではない。その言葉自体には疑問が残らない訳でもない。だがそれでも、髪奈さんの恋人や柚机さん、髪奈さんと親しい人たちは、恐らく尽力した訳ではない。結果的に髪奈さんの力にはなっていたのかもしれない。けれど、髪奈さんの恋人は髪奈さんと付き合いたくて必死に行動をしたのだろうし、柚机さんも髪奈さんと友達になりたくて行動していた結果だったのだろう、と俺は思う。それはつまり、利己的な行動の結果だ。冷たい言い種かもしれないがこれだって見方一つでまるで違う見え方になる。
「Ishtar Featherが盗まれた、って思った時も莉徒なんかは犯人見つけ出してやる、って息巻いてて、わたしも最初は色々思い当るところは調べてみたりしたんだ。だけど、じゃあ仮に犯人を見つけたとして、これはわたしの曲なのでもう二度と演奏しないで下さいって、たかだか学生のギター弾きが何を言ってるんだろって。それにどれだけの価値があるんだろうって少しずつ考えるようになって」
「今じゃ色んな人がアレンジしてるらしいですしね」
出回っている曲の殆どはGoddesses Wingというタイトルだが、その根底には当然、Ishtar Featherがある。
「うん。それって凄いことだよね。そのきっかけがディーヴァのGoddesses Wingなんだとしても、その元になったのはわたしの曲だもん。それだけで凄いことだな、って思うんだ」
「聞いてるかもしれませんけど瀬能の軽音楽部ではバンドアレンジした曲が女子部での課題曲になってるんですよ」
ここの常連客であれば既に水沢に聞いているかもしれないが。
「多分それ、私らがやったやつだよ。早香が随分前に言ってた」
水沢からは聞いていなかったのか。ならば恐らく、バンドアレンジしたIshtar Featherを課題曲にしたのは、瀬野口先輩なのかもしれない。
「あ、言ってたねそういえば。……ね、新崎君、あの時犯人を見つけて、ディーヴァの正体を暴いて、こいつはわたしの曲を盗んだ泥棒だ!なんてやってたら、こんな素敵なことにはなってないんだよ」
満足げに髪奈さんは笑う。彼女はIshtar Featherでメジャーデビューして金儲けをしたい訳ではないことは良く判った。音楽をやる人間としてそれは一つのゴール地点だとも思うのだが、社会人バンド等を目にしていると、それを目的とした音楽をやる人はさほど多くない。しかしそれでも髪奈さんの言葉は、髪奈さんが体よく理解した結果論でしかない。
「け……」
俺はそれを口に出そうとしたが、柚机さんに遮られた。
「結果論かもしれないけどね。結局結果が全てでしょ。でも勿論プロセスだって大切にしなくちゃいけないと思うのよ。特にあんたの場合はさ」
「俺の場合?」
「私らも夕衣も、テキトーに過ごしてこの結果になった訳じゃないよ。色々苦悩して、チャレンジもして、丁寧に丁寧にやってきたからこの結果があったんだ、って思えるんだよ」
終わり良ければ全て良し、という言葉がある通り、様々な紆余曲折、失敗、トラブルなどがあっても、結果的に丸く収まれば万々歳、ということだ。
「実は私はまだ気に入らないんだけどねー」
しかし全て良し、という訳でもない人物も勿論いる。しかしこれは髪奈さんの事だ。髪奈さんが全て良しとしているのならば、柚机さんはこれ以上何もできないということなのだろう。俺の場合、仮定してみると、結果とは一也の死だ。一也がこの世からいなくなった時、それでも一也と過ごした時間は良い時間だった、と思えるようにならなければならない。そのためにプロセスも丁寧にやりなさい、と柚机さんは言っているのだ。
「まぁまぁ。新崎君がどんな悩みを抱えてるのかは判らないけど、わたしは仲間が支えてくれたから、きっと良い結果も思考も導き出せたんだと思うの。だから、新崎君も支えたい仲間がいるんだったら、全力で支えてあげたら良いんじゃないかな、って、想像だけどそう思う」
「……本人の意図が判らなくても?」
少し言い淀んだが、ここで言葉を引っ込めることに意味はない。一也はただ、本気で言ったことが、死にたくない、だった。しかしそれは一也本人にも勿論俺たちにもどうすることもできない問題なのは判っていて言った言葉だ。だとするならば……。
「それは聞き出さないとね。私はさ、あんな良い曲を作った人間が、自分の曲ですって言えない状況にふざけんなって思ってたから、ある時から夕衣の思惑とは食い違っちゃったけどさ、やっぱりIshtar Featherは夕衣の曲だし、夕衣がどうしたいかを大事にしなきゃ、って思うようになったのよ」
それは、今訊き出さなくても判っている。気付いてしまった。
一也がどうしたいか、俺はもうすでに聞いていたのだ。
「裕江姉がね、最期に、夕衣は間違えちゃだめだよ、って言ってくれたの」
「最後?」
彼女の死に目には遭っていないような口ぶりだったが。
「うん、最期。ビデオレターが残ってて、本当の意味は判らないけれど、そう一言だけ残されてたの」
「間違えちゃだめ、って……」
遺言、か。
「難しいよね。多分それから、わたしは何回も間違えたと思う。でもきっと最後の最後で死を選んだ裕江姉の間違いを、なぞっちゃいけないって意味なんだと思って、小さな間違いを恐れないで生きようって、えと、勿論そんなことできてないんだけど、でも心構えっていうのかな、そういうのだけは持っていよう、って今では思ってる」
「……最期の間違い」
最後ではなく最期。そこだけは一也も同じだ。そうだ。俺たちは間違えてはいけない。一也がどうしたいのかを、きちんと拾い上げてやらなければならない。
「それだけしなければきっと大丈夫。これが本当に最後の問いかけなのか、っていうところもきっと間違えちゃだめなんだって思う」
今まで生きてきて、そこまで追い詰められたことはない。おそらく、俺だけではなく誰もに平等に訪れるであろう、最期の問いかけ。これで本当に最期なのか、これで本当にどうしようもなく終わりなのか。そこを間違えてはいけない。そういうことだ。
「ある程度、俺の事情は知ってる、ってことですよね」
「まぁ、一応早香ちゃんから話は聞いてるから」
「一也とはちゃんと面識もあるしね」
なるほど。とんだ偶然があったものだ。朔美は俺の事情など一つも知らなかった。それは間違いない。しかし偶然朔美と出かけた先で俺たちの事情を知っている人物と出会えたのは僥倖以外の何物でもない。
「何もかもが仕組まれているような気がしてきました」
判ってはいたものの、そう呟いてしまった。あまりにもできすぎている。
「でも朔美ちゃんは何も知らないでしょ?わたしだって昨日初対面だもの」
確かに髪奈さんの言う通りだ。朔美と髪奈さんは初対面だったし、初対面ではなかったとしても、朔美は俺の事情など知らなかった。
「新崎聡が真剣に考えて行動している証しなのよ、これが。何もかもが散り散りに感じるかもしれないけど、きっとどこかで何かが拾ってくれる」
「善行は積んどいて損はない、ってことですか」
俺の行動が善行だったかはまた別問題だが。冷たい言い方になってしまうが、俺の行動も利己に過ぎない。それが誰かのためであったとしても、行動原理はどう考えても利己だ。
「そ。情けは人のためならず、ってね」
それも利己的な話だが、誰かに情けをかける行動一つ一つを、利己として起こしている訳ではない。あの時『ここで軽音楽部の連中と友達になっておけばきっと俺に利益が出るぞ、しめしめ』などとはいちいち考えない。結局これも結果的な話でしかないのだが、その結果を導き出す為のプロセスが大切なのだ、という教訓だろう。
「元不良少女の言葉とは思えないけれど」
「私のこと?不良じゃないし!」
なるほど。確かに柚机女史は不良少女の面影が見える。とは言え今はその冗談に乗っかっている場合ではない。
「なら一也の行動もきっとどこかで何かが拾ってくれるってことか……」
「ばかねぇ、あんたらが拾ってんじゃないのよ」
「……そういうことか」
俺の行動も慧太の行動も、全てとは言わないまでも一也の気持ちを汲んでのものだ。それはもはや軽音楽部の二年生、三年生全体にまで広がっている。そこに一也が気付いているのかはまた別の話だが。
「きついかもしれないけど、あんたら次第でどうにでもなっちゃうのよ」
いやきっと気付いてはいる。それが全てではないだけで。だから一也はあの時もう少し付き合ってくれ、と俺たちに言ったのだ。
「それにね、受け入れられない現実ほど受け入れなきゃいけないし、受け入れた後でもきっと何とかなる、って思えるの」
きっとその辛い現実を受け入れたのであろう髪奈さんが言った。受け入れられた人間だからこそ言える言葉だろう、とは言えない。それはあまりに他人事に過ぎる。
「他人事でモノ言ってると思ってるでしょ」
「いや、それはさすがに」
そこまでは思ってはいないが、それをまだ受け入れる準備すらできていない俺が、完全に同意することもできないのは事実だ。それを判って柚机さんは言っているのだろう。
「でも冷たい言いようかもしれないけれど、他人事は他人事だよ。わたしたちは新崎君ほど一也君と親しい訳じゃないし」
そこは俺も判っている。確かに髪奈さんの言う通り、髪奈さんや柚机さんは俺たちほど一也と親しい訳ではないし、そんな間柄の人間が首を突っ込んで良い話でもない。俺たちだって、瀬野口家の家族内の話には口出しなどできないのだから。
「でもね、早香ちゃんとは割と親しいの。その時が来ちゃったら、わたしたちも早香ちゃんにしてあげられるだけのことはもちろんするつもり」
それは、そうなんだろうな。そうしてこの席を設けてくれたことも、瀬野口先輩に対して、してあげられることの一つ。
「大切な人を亡くしてしまって、それを受け入れて乗り越えた髪奈さんの言葉です。俺は信じさせてもらいます」
傲慢に俺たちの立場に立って全て解る、という態度をおくびにも出さない。それどころか、あえて他人事だと言いつつも、自分の重大な秘密であろうことを、他人の俺に明かしてくれた髪奈さんの心意気をなじる訳にはいかない。
「やん、ちょっとオトコマエじゃないの」
「駄目よ莉徒、聡君にはとーっても好きな子がいるんだから」
ここでまさかの涼子さんからの横槍だ。一連の会話の流れが終わったことは俺も認めよう。だがしかし、横槍でそんなプライベートまで暴露されるとは夢にも思わない。
「……」
そして不覚にも返す言葉を失う。そこにずい、と柚机嬢が身を乗り出して。
「年下にキョーミなーし!」
さいですか。
第二六話:終わり良ければ全て良し 終り
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