おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第二八話:秘密

公開日時: 2022年4月29日(金) 09:00
更新日時: 2023年1月4日(水) 12:05
文字数:10,000

二〇一二年十一月一日 木曜日

 秘密、という言葉がある。

 秘め事であり、密かにしておきたいこと。ということだろう。以前、もはや公然の秘密となってしまった夜のフィル・インは、男にとってはやはり秘密にしておきたいところであり、くだらなさの大小、事の重さなどは別として、恐らく、誰にでも他人に知られたくない秘密の一つや二つ、持っているものだ。

 そしてそれを聞き出そうというのは、無理がある。

 下らないことならば良いが、例えば一也かずやの病のことなどは俺が勝手に他人に吹聴して良い事柄ではない。そしてその相手が親しければ親しい程、無理には聞き出せないし、相手が本心から話したいと思わなければ聞き出すことは不可能だ。


『あっ、せ、せぇ関谷せきたに、です!』

 俺から電話が来ることなど想定もしていなかったのだろうことが容易に想像できた声だった。

新崎しんざきだ。今大丈夫か?」

『う、うん、大丈夫。ど、どうしたの?』

 想定外のことが起きると吃音がきつくなるのも今では関谷らしい、と思えてしまう。

「いや、少し声が聞きたくなってな。コレといった用事がなくて済まない」

 思い切って言ってみた。少し心拍数が上がった。

『そ、そ、そんなことないよ!わ、わた、わたしの声なんかで良かったらい、いくらでも!』

「おちつけ」

 俺は関谷の反応に苦笑しつつ言った。こういう関谷を愛おしいと思える。関谷のあの笑顔が俺だけに向けられるのだとしたら、どれだけ幸せな事だろう。

『で、でも珍しいね、し、新崎君が電話くれるなんて』

「ま、まぁそうだが、関谷だって俺に連絡くれたことはないだろう」

『ご、ごめんね』

 声が聞きたかったという言葉でどこまで俺の気持ちが伝わったかは判らない。それで全てを伝えようとも思ってはいない。これはいわゆるジャブというやつだ。前哨戦、と言い換えても良い。しかしそれでも、少しは特別な気持ちが籠っているということくらいは……。いやそれは贅沢というものか。

「いや怒ってる訳じゃない。お互い様、ということだ」

『あ、そ、そうだね。……あの、新崎君』

「ん?」

 特にネタもなく電話をしてしまったせいで話が続かない、と思った矢先に関谷が訊ねてきた。

『その、こ、これって、あの、わ、わたしと話、したかった、とか……』

「あ、あぁ」

 最後の方は殆ど消え入りそうな声音で関谷は言う。まぁ声が聞きたかった、など確かに俺のキャラクターでは似合わない言葉だったかもしれない。

『い、今、外?』

「あぁ。中央公園をな」

 歩きながら話していることは関谷にも判ったのだろう。俺は正直に答える。

『あ、じゃ、じゃあわたし、行く!』

「え?」

 ともすれば関谷がそう言い出すことを期待していたが、そんな思惑通りに事が運ぶとは思わなかった。それにどこか、関谷の言葉にはどういう訳か使命感めいたものを感じる。

『噴水のところ、ま、前に新崎君と話したとこ!』

「あ、いや、大丈夫なのか?」

 期待していたとはいえ、関谷には関谷の都合というものもあるはずだ。何の使命感があるのかは全くの謎だが、そんな時に無理を押してまで中央公園に来てしまうのは関谷の性格だ。

『え、と、新崎君、晩御飯まだでしょ?』

「あ、あぁ」

 俺の問いに別の問いで関谷は答えた。つまりは自分のことを優先的に考えられない今の関谷にはもはや何を言っても無駄なのかもしれない。いや、それともこれは自分の使命感を優先した、自分優先の行為なのだろうか。

涼子りょうこさんのとこ行こ。わたし、奢るから』

「唐突だな」

 なるほど、使命感の正体はそういうことか。確かに一度俺に奢るという約束はあった。しかし今それを果たしてもらわなくても良い。俺は逃げも隠れもしない。

『で、でも今度はわたしが奢るって言ったよね。約束』

「あぁ、じゃあ待ってる」

 俺は今日、中央公園から出られるのだろうか。などと一瞬どうでも良いことを考えた。

『うん!すぐ行くね!』




 走ってくる足音が聞こえてきたので、すぐに関谷だと判った。

「あ、あの、待った?」

「とりあえず座って息を整えたらどうだ?」

 何も本当にダッシュで来ることなどないのだ。だが現れた関谷の姿を見て、俺の心拍数が上がった。トレードマークとも言える眼鏡がなかったし、きちんと私服に着替えていたからだ。

「眼鏡、忘れたのか?」

「あ、ううん、コ、コンタクト……」

 言った途端に下を向いてしまった。自分に自信が持てないのは相変わらずか。俺のように急激な環境変化があった訳ではない。関谷が急激に自分に自信を持つのは無理がある。

「なるほど」

「へ、変かな」

 俯いたまま、消え入りそうな声で関谷は言う。

「いや、似合ってる」

「え!あ、ありがと……。りょ、涼子さんのとこ、行こ!」

 ぱ、と俺に視線を向け関谷は笑顔になった。良い笑顔だ。

「あぁ」




 涼子さんの視線が痛い。気がする。

「あらあら、あらあらあらあらあきら君、香織かおりちゃん、いらっしゃい」

 客は俺たちの他にはいなかった。僥倖と言えば僥倖だったが、このことを考えればやはり俺の疑問は大きく膨らむばかりだ。

「涼子さんこんばんは」

 涼子さんは俺のことを少しからかっている。悪意は全くないだろうが、俺は少々恥ずかしいし、やはり涼子さんの視線がチクチクと刺さる気がする。

「じゃあ奥のテーブル席がいいわね」

「ありがとうございます」

 先ほどまで吃音がきつかった関谷の口調が元に戻っている。関谷がリラックスしているという証だ。

「今日は香織ちゃんの奢りなの?」

「あ、はい」

「この間約束してたものね」

「えぇ、まぁ」

 涼子さんの空気が変わった。今はからかっている感じがしない。最初は明らかにからかっていたはずだったが、本来のたおやかな空気感を醸し出している。

(これはつまり)

「あの、新崎君、遠慮とかはナシにしてね」

 とは言うものの、俺が遠慮なしで注文をしたら流石に関谷も退くだろう。ある程度の遠慮はさせて頂く。

「しかし関谷も独り暮らしだろう。バイトもしていないようだし」

 関谷もそうなのだろうが、俺も仕送りは受けている。仕送りだけで生きて行くのは恥ずかしいことではないのかもしれないが、アルバイトをしている人間の前では何とも肩身が狭いし、身に詰まされるような思いにもなる。文化祭が終わったら真剣に考えよう。

「それなら新崎君も同じだよ。でもわたしに何度も奢ってくれた」

「ま、まぁそれはそうだが」

 それは親の仕送りが多いせいもあるのだろう。我が親ながら中々に甘く、俺もそこに甘んじている甘ったれ、ということだ。これはいかん。

「貯金ならあるから大丈夫だよ」

「いや貯金を崩してまで奢らせるというのはだな……」

 俺も貯金ならあるにはある。だが態々貯金を崩してまで関谷に奢った覚えはないし、普段はそれとなく無駄遣いを避けていることもある。そういった一人暮らしの涙ぐましい努力があって、時折誰かに奢るということができるのだが、それを関谷に押し付けては何とも申し開きが立たない。

「わたしに約束守らせてくれないの?」

「そういう訳ではないんだが」

 いつになく関谷は強気だ。あまり自分の意志を押し通すことを好まない性格だとは思うのだが、芯は強い性格だ。こうと決めたらなかなか曲げない所もあるのだろう。新たな発見だ。

「じゃあ今日はわたしが」

「じゃあありがたく……」

「うん」

 我を通して満足そうに頷く関谷もまた良いものだ、と納得しておくとしよう。


 結局腹がいっぱいになるまで食わされた。そんなものじゃ足りないでしょ、だとか、いつもならもっと食べてるでしょ、だとか言われて今の俺は満腹だ。食後のコーヒーを待っている時に、不意に関谷が口を開いた。

「この間、少し気になることがあったんだけど……」

「何だ?」

 また何か野島のじまがやらかしたのか。あそこまできっぱり振られてしまってはもうどうしようもない気がするのだが、世の中にはそれですら照れ隠しなんだろ、と勘違いする恐ろしいほどのプラス思考の人間がいるのだ。それをプラスと捉えて良いのかどうかは別として。

「野島君が今いるバンドって、前に新崎君がいたバンドなんだよね」

「あぁ、そうだ」

 そのことか。野島の名前は出たが、恐らく主軸はferseedaフェルシーダの話だろう。考えてみればこの話は伊関先輩にしかきちんと話していなかった。関谷にはきちんと話しておかなければならない。関谷の中での俺のイメージが下がってしまうとしても、だ。

「そっか……」

「いつだったか、喧嘩別れと言ったことは覚えているか」

「うん」

 掻い摘んではぐらかした答え方だったが、当時の関谷はそこで引き下がってくれてた。

「原因は喧嘩だが、結果的に俺は切られたんだ」

「切られた、って外されたってこと?」

「そうだな」

「……」

 しゅんとして関谷が俯いた。訊かなければ良かった、と顔に書いてある。

「そう正直な顔をするな。今更の話だ。隠すつもりはないさ」

「で、でも」

「いや、聴いてほしいんだ」

 髪奈かみなさんの話ほど俺の人生に根ざした話でもないのだが、当時関谷からの勧誘を断った説明はしっかりしておきたい。それに俺が自分を自己正当化したままなのが嫌だということもある。

「あ、は、はいっ」

「俺はあのバンドのギターと文字通り、殺人的に仲が悪かった」

「さ、さつ……」

 当然実際に殺し合いをしていた訳ではないが、それでも時折は言葉の端々に殺意くらいは籠っていたこともあったかもしれない。

「何度か取っ組み合いの喧嘩もした。それが大本の原因だったんだ。そもそも作曲でもアレンジでも良く意見がぶつかっていた」

 関谷は俺の言葉を聞き逃さないよう、注意深く聞いているように見える。どちらかと言えば良い話でもないので、あまり聞き入られても何だか肩身が狭くなる思いだ。それでも俺は関谷がきちんと聞いてくれているのであろうことを確認してから話を続けた。

「意見が合わないことでギターは俺をヘタクソと罵った。そのたびに喧嘩もしてきた訳だが、最終的に、バンドとしてギタリストが変わるのとベーシストが変わるのとどちらが良いか、という話にまで及んだんだ」

「……そっか」

 そこまで話すと関谷にも事の顛末が予想できたようだった。

「ベーシストの弱い所だな。俺はあのバンドを支えている自負はあった。自惚れはしないが、天狗になるほどの技量もなかったから練習はした」

 練習をしたところで、その成果が出なければ意味がないし、成果を自分で感じられたとしてもメンバーに伝わらなければ意味がない。結果度外視で努力したというプロセスだけを認め、褒めてもらえるのはせいぜい小学生までだ。厳しい言い方になるが、自分以外に努力の結果が認められなければ、それは単に無駄な努力でしかない。

「結果的にヘタクソなベーシストが抜ければ、バンドの音は今とさほど変わらないだろうということになった。明確に言葉で言われた訳ではなかったが、そんな雰囲気の中でベースを弾く事が出来なくなった」

 今も思い起こせば言葉に表し難い感情が胸の奥底で蜷局を巻く。あんな思いはもう沢山だと思い、バンド活動から自分自身を切り離した。

「それでなんだ……」

「だがそれだけではない」

 このままではただの美談にしか捕えられないかも知れない。話の本筋はむしろここからと言って良い。

「さっき、何度か取っ組み合いの喧嘩をした、と言ったろう」

「うん」

「本当に殴り合いの喧嘩だ。何の自慢にもならないが俺は腕っぷしにはそこそこの自信があって、そのギタリストは本当に喧嘩が弱かった。結果どうなるか判るか?」

 自慢話をしたい訳ではない。女性相手に腕っぷしの強さなど何の自慢にもならないことは学習済みだ。

「喧嘩、っていう所だけで考えればそのギタリストの人が負ける、ってことだよね」

「そういうことだ」

 俺はゆっくり、自分でも再確認しながら頷き、続けた。

「つい最近気付いたことなんだが、どんなに正当性があったとしても、いくら向こうが先に殴り掛かってきたとしても、同じバンドに年上をばかすか殴る奴がいたらどう思う?」

「で、でも……」

 関谷は俺の事情が判っているから即答はしない。謂れのない中傷とバンドから切られたという事実。俺側からの側面でしか話を聞いていないから、どうしても俺に与する気持ちになってしまうのは判る。しかし、だ。

「軽音楽部の一年生に俺がばかすかとぶん殴られていたら、どんなに正当な理由があったとしてもその一年は敬遠されるはずだ。少なくとも俺はそいつとは組みたいとは思わない。俺はそこに気付けなかった。だから俺自身にも切られて当然、という理由はあったんだ」

「……そっか」

 相手がどれだけ気に食わない人間でも、どれだけの悪人でも、盗人にも何とやらかもしれないが、それは俺の主観でしかない。大嫌いな太田おおたの主観で言えばきっと太田にも正義があり、俺が単なる悪であったのだろうことをやっと理解できるようになった。

「あぁ。それに気付けずに俺は酷い切られ方をした自分、というものに少し酔っていたんだろうな。声を掛けてくれる人間がいることにいい気になっていたんだろう。今思えば全く恥ずかしい話だ」

 本当に連中には感謝しかない。こんな俺のくだらない見栄やプライドを笑って壊してくれた。

「そんなことないよ。野島君に酷いことされた時、新崎君は何もやり返さなかったよ」

 そう言ってくれるのは本当に有難いが、暴力に訴えなかったのは、単純に関谷の前だったことと、自身の過ちにも気付いた後だったからだ。

「あの時はもう、自分の非に気付いていたからな。暴力に暴力では応じないと決めていたんだ。そういうことをな、関谷や慧太けいたしん、一也、伊関いぜき先輩や瀬野口せのぐち先輩達が気付かせてくれたんだ」

「え、わ、わたしは何も……」

 直接何か言われた訳ではない。しかし、その存在自体が俺を戒めてくれた。俺の中でみんなの存在が大きくなっていた証だ。

「だろうな。恐らく皆も俺に何かをしてくれたという意識はないんだろう。それでも俺は皆が様々なことに気付かせてくれたことに感謝してるんだ」

「それなら、わたしも同じだよ」

「同じ?」

 確かに思い当たる節はある。俺は何度か関谷に小言めいたことを言ってしまったことがある。

「中学生の頃に虐められて、一人でこの高校に来て、皆がわたしを認めてくれて、新崎君は自信を持てって言ってくれて。新崎君が皆と関わるようになってから、毎日が凄く楽しくなったよ」

「それは俺も同じだな」

 以前関谷にはもう少し自分に自信を持って良い、と言った。それは関谷の中で、何かを気付かせる言葉だったのかもしれない。俺が皆の言動から学んだことと同じように。

「一人で生きてる気になってもそのまま過ごすことはできるだろうけれど、皆がいて自分がいるって判った方が楽しいわよね」

 涼子さんが食後のコーヒーを運んできてくれて、やんわりと言葉を差し込んでくる。涼子さんのような大人の女性にそう言ってもらえると俺のような若輩者の言葉でも、あながち的外れではないように思える。

「そうですね」

 誰も彼もが影響し合って、時に反響し合って生きている。そんなことにようやく気付けたのかもしれない。俺は以前のままで一也の病にすら気付けずに、楽器を再び持つこともなくいじけ続けていたかもしれないのだ。そう思えば最初に慧太に出会ったのは運命的、と言っても言い過ぎではないのかもしれない。本人を前にしては絶対に言えない言葉だろうが。

「でもね、苦しいって遠ざけたことも間違ってる訳じゃないのよ、聡君」

「そうですかね」

 俺自身は以前の俺のままでなくて良かった、と心底思っているが。

「その当時の聡君の葛藤や心の痛みは私達には推し量ることはできないわ。だから私はそう思うけれど、聡君自身が間違ってたって思うなら、間違ってたと気付いたことだって勿論正解だと思う」

 結局のところ。

「自分次第ってことですね」

「そうね」

 自分の感じ方、心の持ち方ひとつ。それだけで世界は変わる。大げさな言い方かもしれないが、俺が体験してきたことだ。

「一也のこともそうか」

 言ってコーヒーを一口飲む。程良い苦みが少し気持ちを落ち着かせてくれる。

「そうね」

「やっぱり、辛いですね」

 冷静を装ってはいるが。

「うん、辛いね……」

「でも、最後まで『いつも通り』で送ってあげないとね」

 寂しそうな笑顔で涼子さんは言った。


「……さて、つい話し込んでしまったな。関谷、今日はご馳走様。家まで送ろう」

「あ、う、うん。どういたしまして」

 しばらく些細な話をすると、食後のコーヒーはなくなっていた。俺の言葉に関谷はにっこりと笑顔を返してくれたが、また少し吃音が混じってしまっている。単に緊張感だけが問題ではないのかもしれない。それでも関谷が笑顔を返してくれたことに俺は満足した。ただ奢ってもらって旨いものを食べるだけでも人に笑顔をもたらすことができる。そんなことすら俺は今まで意識したことがなかったのかもしれない。

「涼子さん、ご馳走様でした。また、来ます」

「はぁい、まいどあり。今日は月が綺麗だから遠回りして帰ることをお勧めしまぁす」

 く、最後に涼子さんの遊び心が出たか。




「まぁ、そのまま鵜呑みにするのもあれなんだが、少し公園をぶらぶらするか」

 喫茶店を出て中央公園に差し掛かると携帯電話を取り出して時間を確認する。二一時四五分。連れまわすには少し遅い時間か。しかし涼子さんの言う通り、今日は確かに月が綺麗だ。俺はあまり情景に心象が左右される方ではないが、関谷と二人きりともなると、やはり月が綺麗な方が良いことくらいは理解できた。

「う、うん」

「や、少し遅いな」

 やや緊張した面持ちだったのか、関谷は少し俯き加減でそう言ったので、俺は自分の言葉を撤回した。

「大丈夫だよ」

「あぁ、そ、そうか」

 にっこりと俺に笑顔を返す。

「……」

 いかん。何も言葉が出てこない。歩くのは一向に構わないが俺は話題豊富でもないし、どちらかと言えばかなり口下手で、しかも何人かの言葉を借りれば仏頂面で不愛想でつまらない男だ。こういう時に実感してしまう自分自身の無力。朔美が奪われた時も、自分の無力さと無価値さを言い訳にした。それでも気の利いたこと一つ言えない自分にやはり無力感を感じてしまう。

「きょ、今日は、あ、ありがとう」

「あ、いや、礼を言うのは俺の方だと思うが」

 つい考えに耽ってしまった。先に関谷に喋らせてしまったことに若干の焦りを感じる。

「わたし、ずっと新崎君に奢ってもらってばかりだったの、気になってたから……。あ、でも今日の一回で全部返したなんて思って」

「回数の話じゃないよ、関谷」

 俺は関谷の言葉を遮って言った。

「え?」

「何回奢ったとか奢られたとか、貸し借りなんてつまらないことだ。要は気持ちの問題で、俺は関谷が俺にそうした気持ちを持ってくれているだけで本当に嬉しいと思っているんだ」

 少し歩いて河川に出る。公園に水場を作るために引いた河川らしいが、遊歩道が設えられていて歩きやすい。今はもう寒くなってしまったが、夏場は中々涼しげな散歩コースだ。

「あ、あの……」

「?」

 俺の少し後ろをついてくるように歩いていた関谷が口を開いた。俺の言葉はあまり関谷には伝わっていないか。

「わ、わたし、ま、前に、し、し、新崎君にか、隠してること、あ、あ、あるって……」

 吃音が酷い。俺があまり声をかけられていないことで余計な緊張を与えてしまったのか。益々判らない。関谷は俺と二人でいることに、緊張感を感じている時もあれば、リラックスしている時もある。関谷自身の精神状態にも深く関係はしているのだろうが、大体は緊張しているように思える。しかしその緊張が悪いものではないことは何となく判る。でなければこうして俺に奢り返してくれることなどもなかった。恐らく異性と二人きり、という状況に緊張をしているということは大いに有り得そうな話だが、となれば俺と一緒にいてリラックスしていると時があるということは、異性として意識されていないということもあるのかもしれない。謎は深まるばかりだ。

「あ、あぁ、だがそれを無理に聞き出そうとは思わない。誰にだって他人に漏らしたくない秘密の一つや二つ、持ってるだろう。気に病むな」

 できるだけ優しく言って聞かせる。もう一つ、思う所もあるからだ。

「で、で、で、でも……」

 秘密は有るけどれそれは言えない、ということを言ってしまったから、俺が気にしていると思ったのか。確かに気になるといえば気にはなる。他でもない、関谷のことだ。しかしそれを知らなくても俺と関谷の間柄は何も変わっていないように思えた。だから気にしなくても良いことだと思っていたし、無理には聞き出そうとは思えなかった。

「じゃあ関谷、訊くが以前部室で猥談していた時のDVDの話でも俺から聞き出すか?」

 少しでも緊張が解れれば、と俺はわざと意地悪い質問を返した。あれは流石に恥ずかしかったが、関谷は非難の色を示していた水沢みずさわと違い、少し興味津々というような顔をしていた。

「あ、あ、あれは……!ちょっとは興味ある、けど……」

「あるのか!」

 やはりそうか。水沢は恐らく経験済みだろうから、ある意味でああいったものが男性が楽しむために創られていることも知ってたのだろう。しかし関谷はまだそう言ったことを何も知らないのだろうから、多少なりとも興味があるのは頷ける。

「え、ち、ちがっ」

「まぁあれは殆どの男が隠し持っている秘密だ。あの場はある意味で公然と化してしまったが、レアケースだぞ」

 そもそも女性がいる場であんな話やあんなものを展開するなど、デリカシーの欠片もない男の行動だ。混ざっていた俺ももちろん同罪だが、元はと言えば一也と尭也さんが悪い。

「か、看ご」

「みなまで言うな」

 覚えていたとは驚きだ。ともかく俺の性的欲求を満たすものの趣向などどうでも良いことだ。というか、関谷には是非とも忘れていただきたいことなのだが。

「う……」

「水沢だって谷崎たにざきがああいうものを持っていることだけは知っているだろう。だが、どんなものを持っているかまでは知らなかったようだ。関谷はなんだ、その、俺がどういったものを好んで見ているか、知りたいのか?」

「そそそ、そういうことじゃ……」

 人が隠そうとしている秘密を無理に聞き出してどうする、ということを言いたかったのだが、喩えが悪かったようだ。

「……話がずれた。まぁ今の話はくだらない秘密だが、関谷のそれが俺の話と同等だとは思えないし、無理に聞き出すことに意味はないだろう、と俺は思っていた」

「わ、わたしが話したい、って思っても?」

「いや、それならば良いが」

 本当に話したいと思っているのならそれで良いのだが。

「え、えと、その、エッチなDVDの話は別として、あの、さ、さっきの、前にいたバンドの話とか、し、新崎君もしてくれたでしょ?」

「まぁ、そうか」

 それは関谷に訊いてもらいたいと思ったから話したことだ。結果的には自己正当化を強めただけなのかもしれないが、全てのことで俺以外の周りが悪い、等とは思っていないことだけは話しておきたかった。

「だから、わたしも話さなきゃ、って……。瀬野口君とのことで勘違いさせちゃったのもあるし」

 なるほど。そのことで責任を感じていたのか。

「それは関谷のせいじゃない。俺の訊き方とミスリードが原因だ。その責任を感じてのことなら無理に話すことはない」

 もう一つの思う所。つまり俺の態度も相まって、のことかもしれない。俺は自分が不遜な態度であることを自覚している。恐らく関谷にも無用な圧力をかけていたこともあったのかもしれない。それにあの時は逼迫していたし、俺自身、余裕の欠片すらもなかった。

「で、でも」

「あのな、これは怒っている訳ではないから誤解しないで聞いて欲しいんだが、お前は緊張感を感じると、少し吃音がきつくなる」

「う、うん……」

 自覚はあるようだ。しかしそれが悪いという話ではない。緊張してしまったときに出てしまうものなど人それぞれだ。尿意を催す人間もいればしゃっくりが出てしまう人間もいれば、足が攣ってしまう人間もいる。

「つまり、俺から何某かの強迫観念を感じて緊迫している、と俺は思っているんだ」

 新崎聡という傲岸不遜な人間の態度が、物静かで大人しい関谷に対して、圧迫感や緊張感を与えてしまっているのではないか、と。

「そ、そんなことないよ!」

「……」

 本当にそうなのか、今の関谷の態度からは疑わしい。俺は物腰が柔らかい訳ではない。人当たりが良い訳でもない。殊更に意識しなければ優しさの欠片もないような冷徹な人間だ。

「わ、わたしは、わたしが、は、話したいとお、思った、からっ!」

「そうか。それなら聞かせてもらう」

 それでも、それほどの吃音でも強情にそう言い張るのならば、俺には聞く義務があるのだろう。いや、義務だと思ってしまうあたりやはり俺は冷徹なのだろうな。

「う、うん……」

「すまない。少し休むか」

 俺は表情をできるだけ和らげて遊歩道にあるベンチを指さした。

第二八話:秘密 終り

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