二〇一二年九月二十七日 木曜日
自家薬籠中の物、という言葉がある。
正確には諺だが、いつでも自分の思う通りに動かせる物や、技術、果ては人のことまでを指す言葉だという。物や技術に関しては良い言葉だと思うが、人に当てはめた場合、あまり良い言葉には感じない。
つまり、俺にとってはベースという楽器や、そのベースを弾く技術が自家薬籠中の物であれば理想なのだが、人は別にいらない。俺の思う通りに動く人なんぞいたところで、今の俺には無用の長物だ。
だが、瀬野口早香とは、人を意のままに操る才能があるのではないかと感じることがある。恐らく伊関先輩や慧太、慎などは、瀬野口早香の自家薬籠中の物なのであろう。
「悪ぃな、今日から忙しくなるってタイミングでよ」
部活動が終わり、俺は尭也さんと飯を食ってから帰るという名目の元、尭也さんと二人きりで七本槍中央公園、中央噴水広場に来ていた。態々噴水を正面にしたベンチに二人して腰かけて、時期になれば鬱陶しいほどカップルで賑わう場に男二人というのはどうにも不毛だったが、恐らく話の内容はそんな浮ついた話ではないことは想像できた。
「いえ。長い話ならできればvultureで聞きたいところでしたが」
「あの店だと一也も瀬野口も来る可能性がある」
だろうな。だが聞かせたくない話ならば聞かせないでけでことは済む。
「でも俺たち二人ならすぐに会話を……。あ、そうか」
そこまで言って思い至った。
「そうだ。あそこには涼子さんもみふゆもいる。あの二人にも今はまだ聞かれたくねぇ話なんだ」
「……なるほど」
今はまだ、か。やはり尭也さんの話とは、俺が杞憂であれば良いと危惧していることなのだろう。
「でも、俺が思うにその話、慎にも慧太にも聞かせるべきじゃないんですか」
「まぁそうなんだがよ。つぅか判ってんのかお前。オレが言いてぇこと」
やはりそういうことか。杞憂であってほしいが、保険はかけておくべきだ。捕え方によっては冷たい話になるが、冷静に考えれば冷たくはないと俺は思う。
「まぁ、それと同じことかは判りませんが、危惧していることはあります。杞憂であって欲しいとは思いますが」
「……多分同じことだ。話せ」
なるほど。やはりこの人には一年長く生きている分、一日の長があるようだ。二年生の中では一也が比較的冷静で、話も判る男だと思うが、ことは一也本人に関わる話だ。
「一也の病のことを知ったのは、昨日です」
「らしいな。オレもそう聞いてる」
恐らく一也本人からだろう。俺の勧誘に関わった人間には全て、昨日の内に連絡が行っていたはずだ。
「その時、一也はあと二、三ヶ月で死ぬ、と言っていました」
「あぁ」
前振りはここまでだ。俺は話を勿体つける癖はない。すぐに本題に入る。
「文化祭まではあと二ヶ月。もしも、一也が持たなかったとしたら」
くい、と尭也さんの目を見る。
「……当たりだ」
やはりそうか。俺たちは恐らく一也本人に、病状の進行状態などを逐一聞き出すことはできない。それは「お前はいつ死ぬんだ?」という質問となんら変わりがないからだ。
「冷てぇのかもしれねぇけどな」
尭也さんもそう思っているのか。口は悪いし態度はでかいこの男は不思議と機微に敏感だ。だから下の連中も付いてくるのだろう。俺もそういう意味では尭也さんには一目置いている。
「俺はそうは思いません。もしも命は繋いだとしましょう。でもドラムを叩けるほどではないとしたら、あいつは出演できなくなる。だけれど、それで軽音楽部が文化祭出演を辞退するとなれば、あいつは自分を呪うでしょう。尭也さんなら判っているとは思いますが、あいつは恐らくそういう男ですよ」
フォローをする訳ではない。これは一歩退いた目線で物事を判断できているということだ。恐らく視野の狭い慧太辺りは激昂して反論してくるかもしれない。だから尭也さんはまず俺に話してくれたのだろう。
「……お前は、そう言ってくれるか」
「きっと一也もそう言うと思います」
あいつも冷静な男だ。それが装ったものだとしても、今はまだ冷静に物事を判断できている。だから、これは早い内に一也にも聞かせておいた方が良い話だ。辛いことではあるが。
「だといいがな」
苦笑、いや自嘲するように尭也さんは言った。俺も同じ気持ちではある。
「尭矢さん」
「あ?」
「これは、貴方がもし一也の立場なら、と置き換えて考えたんじゃないんですか」
「まぁ、そうだけど」
だから俺は尭也さんの気持ちが痛いほど判る。
「俺も同じですよ。だから、早い内に慧太と慎に言いましょう。……一也にも」
「……だな」
尭也さん一人に辛いことを任せる気はない。俺は尭也さんの後輩だが、一也の友達だ。まずは慧太と慎に話して、それから一也に話そう。
「でも、どうするんですか」
パートだ。俺はドラムなど遊びで叩いたことがある程度で、ライブの経験はない。そして俺がベーシストとして入部したということは、恐らく詠も渡樫もベースはあまり弾けないのだろう。つまり俺のベースというポジションは不動のものだ。だとすると、ドラマーを新たに入れるか、誰かが代わりに叩かなければならなくなる。
「オレが叩く」
「……叩けるんですか」
尭也さんの楽器遍歴は知らないが、ドラムが叩けるとは知らなかった。それもライブで叩けるのならば、そこそこのレベルだということだ。
「まぁ一応はな。一也のが断然巧ぇけど」
それでも基礎は抑えているということだろう。だとすれば文化祭では通用するかもしれない。それにまだ二ヶ月ある。練習に打ち込めば上達する期間だ。しかし、問題はそれだけではない。
「でも音源を聞く限りじゃ、ギターは慎だけじゃ駄目でしょう」
尭也さんと慎のツインギターは息もぴったりと合っている。いわゆるギターボーカルとリードギターがいるバンドのサウンドではなく、きちんとリードギターが二人いるバンドとしての音だ。なので尭也さんがギターを弾かなくなるというのは大きな痛手になる。
「リードは全部慎にやらせて、コードギターは慧太に覚えさせる」
なるほど。ギターボーカルとリードギターのバンドサウンドに変更する訳か。それは二ヶ月で間に合うだろうか。
「……慧太の経験は?」
「簡単な弾き語り程度なら、ってところだな」
「いけなくもない、か」
だが判断するには難しい。実際に演奏している姿を見てみなければ何とも言えない。
「あぁ。ただまぁ下手クソだ。空ピッキングができねぇから歌に釣られる」
「基礎がなってないのか……」
だとすると厳しいか。ギターボーカルの絶対条件は、歌にギターが、演奏が釣られないことだ。難しいフレーズならばそれも止む無きことではあると思うのだが、単純な休符が入っただけで手元が狂うとなると、正直、弾けるとは言ってはいけないレベルだ。
「難しいところだが、やるしかねぇだろ」
「……ですね」
だが、背に腹は代えられない。自分たちのためにも、一也のためにも、やり遂げなければならない。もちろん理想は一也がずっと元気で文化祭を迎え、俺たちの練習など無駄に終わる事が一番だ。だが一也の命の保証など誰もしてくれない。となればやれることをやるしかない。
「お前はギターは弾けんのか?」
「尭矢さんの話じゃ慧太よりは」
休符でピッキングが狂うなどはまずない。この半年間、全く触れてはいなかったが、一応部屋にはギターもあるので時折弾いていた。恐らく慧太よりはいくらかましだろう。
「弾き語りなら歌本見ていけるか」
「知ってるコードだけの曲なら、という条件付きで」
デミニッシュやアドナインスなどが入ってくるともうお手上げだ。せいぜいがマイナー、セブンスで手一杯だ。そもそもロックバンドにおいて、ベースのコードにはマイナーもセブンスもない。ベース・ノートだけを拾っていれば良い。それがベースの役割でもあるし、マイナーコードを使った時の、少し切ないような音色や、セブンスやシックススを使った時のような、少しお洒落に感じるような音色を体現するのがギタリストの仕事だ。
「なるほどな。じゃあ慧太はお前に任せる。俺は慎に色々教えるわ」
その方が確かに効率は良さそうだ。
「判りました。練習は別で入りますか」
「だな。毎週は無理だろうけど、合間見てちょくちょく入った方がいいな」
二人ならば個人練習の金額で入れる。二時間入って千円くらいならばそう痛手でもない。毎週となると確かにきついが、月に数回ならばなんとかなりそうだ。
「そうですね。でもバンドでも合わせないときついでしょう」
「あぁ。でもま、慧太も慎もしばらくは個人練させるしかねぇよ」
「ですね」
基礎がなっていなければバンドで演奏したところでまとまりなど出る訳がない。まずはとことん練習しかないという訳だ。
「悪ぃな、色々苦労かけちまってよ」
今度は苦笑して尭也さんは言う。軽音楽部の都合で振り回して、という意味合いも含んでいるのだろうが、そこに俺は反応はしない。なのでせいぜい悪態をついてやる。
「気持ち悪いですよ」
「お前な」
何かを言おうとした尭也さんを制して俺は続けた。
「聞いてませんか。俺は一也の病気のことなんか知ったことじゃないんです」
「……」
聞く体制になってくれた尭也さんに俺はそのまま続けた。
「俺が、あんたたちのバンドに入りたいから入れてくれ、とお願いしたんですよ。全部判った上で」
だから軽音楽部の連中が俺に後ろめたい気持ちを持つ必要などないのだ。
「お前らしいな。へそ曲がり」
へ、と笑って尭也さんは言った。俺も尭也さんも、慧太も慎も、みんな同じ気持ちなのだろう。表面上だとか、表向きだとかはどうあれ。
「うるさいですよ」
俺も笑顔を返し、そう言う。
「じゃ、慧太頼むわ」
そう言って尭也さんは立ち上がった。
「了解しました。で、尭矢さん」
「何だ」
いつだったかの逆襲だ。それにこうなった以上、尭也さんともコミュニケーションはもっととっておくべきだ。
「まさか呼び出しておいてそのまま帰る訳じゃないですよね」
「あ?」
「腹が減りました」
に、と笑って俺は腹をさする。
「あぁ?てめ、ざけんなよ」
「飯を食わせろとまでは言いません。vultureのコーヒーでどうです?」
何と口の悪い男だ。先輩として後輩に奢るくらいの気概はないのか。
「かっわいくねぇな」
「可愛くなくて結構。じゃあ行きましょうか」
俺は言って立ち上がった。
「へーへー」
「新崎君」
二日目の部活を終え、さて晩飯はどうするか、などと暢気に考えていたところで声がかかった。我が瀬能学園高等部、生徒会長の瀬野口早香先輩だ。
「聡でいいですよ」
確かこの人も後輩は名前で呼んでいた。俺だけ苗字で、君までつけられると流石に座りが悪い。これは慧太の悪影響かもしれないな。
「そうか。変わったな」
「ま、そうですね。軽音楽部の連中のせい、というよりはおかげ、と言っておきます」
「そうか。少し話がある。付き合ってくれないか」
俺の冗談に付き合って、そう瀬野口先輩は笑った。思い当たることといえば一也の病気のこと、それと昨日の尭矢さんの話か。
「構いませんが」
「涼子さんの所でいいか?」
そう来たか。ならば先手を打たせてもらおう。
「えぇ。ただし、今日は俺が持ちます」
「そうは行かないよ。相談を持ちかけるのは私だ」
なるほど。話ではなく相談か。だとするならば昨日尭矢さんと話したことかもしれない。俺たちでも思い付くことだ。肉親ならば尚のことだろう。
「俺に奢らせないならその相談は受けられませんね」
俺は更に意地悪くそう言うと、瀬野口先輩に背を向けた。
「……判ったよ。じゃあ行こう」
vultureには客はいなかった。いつも誰かしらいるのだが、珍しいこともあるものだ。
「いらっしゃい、早香ちゃん、聡君」
「ども」
いつもながら涼子さんの笑顔は気持ちを和ませてくれる。これはきっと水沢涼子という心優しい魔法使いが持つ魔法の力なのだろう。
「こんにちは、涼子さん」
瀬野口先輩は折り目正しく会釈をしてそう涼子さんに挨拶を返す。俺が恥ずかしくなってしまう。是正しなければいけないところだな。
「あ、早香先輩、新崎君」
カウンターテーブルの内側には水沢もいた。今日は部活に出ていなかったようだから、予想はできていた。まめに店の手伝いもしているのだろう。涼子さん曰く、水沢みふゆもただの高校生だという話だが、俺のようなへそ曲がりからしてみれば、雲心月性、雲中白鶴、温厚篤実、まるで美徳の塊のように見える。
「おう」
「あぁ」
入り口から一番離れた奥のテーブル席に着くと、俺は早速先輩を促した。
「先輩は何にします?」
「そうだな、ブルーマウンテン、それとモンブランを」
メニューを手渡したが、それを開かずにそう言った。大体いつも頼むものを決めているということなのだろう。すぐに俺たちのテーブルにお冷を運んできてくれた水沢が伝票にメモを取る。
「うす。俺はRBSⅢとチーズケーキで」
「はぁいかしこまり。お母さん、ブルーマウンテンとモンブラン、それとRBSⅢとチーズケーキね」
「かしこまり」
まったく爽やかを絵に描いたような母娘だ。この母娘の夫であり、父親でもある人間が-P.S.Y-のベーシスト、水沢貴之だとは聊か信じ難い。
「全部、聞いたそうだな」
俺が手渡したメニューをテーブルの脇にあるメニュー立てに戻して先輩は言った。
「えぇ。まぁ俺に隠していたことがこんな大きなことだとは思いませんでしたが」
「そうだな。済まない」
自嘲しているのか、先輩はどことなく悲しげな表情でそう言った。俺はそんな表情をさせるために軽音楽部に入った訳ではない。
「謝ることはないですよ。一也本人にも言いましたがね、俺は一也の余命がどうとかで軽音楽部に入ったんじゃないんです」
「と言うと?」
一也が話したのであれば、俺の建前など伝わってはいないだろう。ならば瀬野口先輩にも聞かせなければならない。
「あいつらの音源を聞いて、俺がやりたいと思ったんですよ。だから俺から入れてくれと頼んだんです」
これが事実だ。一面の、であっても。だが実際は違う。違うとは言えないが、俺が奴らの音を聞いて、再びバンドをしたいと思ったのは本当のことだ。だからその自分の気持ちに、一也への同情など便乗させたくなかった。これがきっと俺の本意だ。
「そうか。ありがとう」
「だから違いますって」
苦笑して俺は言う。俺の気持ちは判ってくれているはずだ。それでも俺の気持ちを汲まないつもりなのか。
「いや、軽音楽部の三年としてだ」
「なるほど。ならどういたしまして」
やはり話の判る人だ。尭矢さんといい、瀬野口先輩といい、伊関先輩といい、三年生は話の判る人間が多くて助かる。
「てっきりみふゆか香織狙いかと思っていたがな」
ふ、と力を抜いて先輩は笑った。冗談にしては意地が悪い。俺がバンドをしたいからだと言ったばかりだというのに。
「そんなに勤勉じゃありませんよ。それに水沢には谷崎がいるでしょう」
できすぎた女にできすぎた男。誰もが羨む瀬能学園ベストカップルだ。いや、それは言いすぎか。
「そうだな。だが香織はフリーみたいだぞ」
「やめてください。関谷に悪い」
水沢のような、言ってみれば聖人君子のような人間ではないにしても、関谷もとても可愛いし、心の優しい女性だ。俺のようなへそ曲がりが相手では関谷が気の毒だ。
「そうか?」
「そうです」
俺が何か言われる分には構わないが、関谷にあらぬ噂が立つのは宜しくない。おまけにあの性格だ。それが原因で関谷に避けられたとしたら、流石に俺もショックを隠せない。
「ならば辞めよう。で、本題だが……」
一口、お冷を口にしてから先輩は言った。
「パートチェンジのことですか」
「あぁ。判ってくれていたか」
やはりそのことか。弟の性格を熟知しているからこその心配なのだろう。
「昨日、尭矢さんと相談はしました。慧太と慎にはまだ言ってませんが」
「そうか。考えていてくれたのだな」
どこか安堵したように、嘆息交じりに先輩は笑った。やはり一也の話ともなればこんな表情にさせてしまうのか。思い上がりも甚だしいが、俺にもう少し力があれば、と思ってしまった。俺にどんな力があったとして、この表情をさせずに済むのかは何も判らないまま。
「俺の入部の動機とは別問題です。だから、入ったからにはやれることはやるつもりです」
できるだけ瀬野口姉弟にはいつも通り、という毎日を過ごしてもらいたいと思ってはいるが、難しいものだな。いくら言葉を重ねても、根っこにある問題が重過ぎる。
「そうか。どんな話を?」
「尭矢さんがドラム。慧太にギタボをやらせて、慎はリードオンリーです」
昨日尭矢さんが想定していた布陣だ。俺もそれが一番良いと思った。
「なるほどな。慧太のギターボーカルの練習はどうする?」
「一応は俺が」
バンドのギターボーカルでコードギターを弾くだけならば俺でも何とかできるはずだ。
「そうか。……至春にやらせてみたいんだが」
「伊関先輩に?いいんですか?」
そういえば伊関先輩はギターボーカルだった。まだ演奏をしている姿は見たことがないが、いわゆる本業ならば、俺が教えるよりもよほど早く上達するだろう。
「あぁ。本人にも了解は得ている」
「なるほど。じゃあ任せてもいいんですね」
それならば俺の負担はずっと軽くなる。任せられるものならば任せたい。俺はまだ自分が担当するバンドの曲を覚えきってはいないのだ。
「あぁ。君は一から一也たちのバンドの曲を覚えなければならないし、一年生のこともある。今までは香織一人に任せてしまっていたからな。香織に協力してやってくれるとありがたい」
「判りました」
そうだった。関谷の手伝いもあった。まだ昨日今日では一年生のバンドは手伝っていない。第二音楽室にはドラムセットもアンプも一バンド分しかない。ドラムセットが一セット、ギターアンプが二台、キーボード用モニタが一台、ベースアンプが一台だ。ギターアンプはMarshallとJazz Chorusを揃えてあるのはありがたいが、やはりどうしたって上級生が優先的に使用しているので、一年生はまだアンプは使えない。殆どの部活動は夏が終われば三年生は引退となるが、公式戦のような大会がない文化系部活動は、文化祭で実質的な引退になるのだろう。恐らくは文化祭が終わるまで、一年生はアンプを使えないままだ。
「なら私の話は終わりだ。済まないな、妙なことに付き合わせて」
「いえ。このことは一也には言わないんですか?」
行く行くは一也にもばれる話だ。それならば隠しておく意味はあまりない。
「言うさ。折を見てな」
納得しない場合もある、ということか。一也は俺たちの前ではいつも落ち着いているが、家族の前や一人になった時など、きっと恐怖に押し潰されそうになっているということも充分ありえる話ではないか。そんな時にこの話をしたら最悪の勘違いをする可能性もある、ということなのだろう。
「……慧太と慎には?」
「藤崎に任せようかと思っていたが」
「じゃあ俺が言います」
「そうか」
そこまで瀬野口先輩と尭矢さんに面倒をかけては悪い。俺も軽音楽部の一員で、あいつらの友達だ。俺にも果たすべき責任は、ある。
「話は着いた?おまちどうさま」
「あ、どもです」
今度は涼子さんがコーヒーを運んできてくれた。コーヒーが冷めない程度に間を置いて、話に区切りが付いたとこで運んできてくれたのだろう。
「じゃあ済まない、聡。頂くよ」
「えぇ」
笑顔になって先輩はモングランにフォークを入れた。
「一也のことな、言われていると思うが、あいつの思う通りにさせてやって欲しい」
「そのつもりです。その、俺は何も知らないんですが、突然発作が出たりとかは……」
それが怖い。俺には医学知識などまるでない。もしも部活中や遊んでいる時に、突然そんな状態に陥ったとしたら、逆に俺たちがパニックに陥る可能性が高い。
「それはないはずだ。私も色々な文献を漁ってはいるんだがな。医者でも判らないことを一介の高校生が調べてもお手上げだ」
確かに先輩の言う通りなのだろう。俺など恐らく病名を訊いてもちんぷんかんぷんだ。
「……発症例が少ないんですか」
「あぁ。今のところ、それと診断されるまでの生活と何ら変わりなく過ごせているが……」
「何時判ったんですか」
安直だが、そういった死に至る病ともなれば、余命三年だとか、そういうイメージがあった。
「フィッシャー症候群という病気でな。難病指定されているギラン・バレー症候群の亜型と言われている。と言っても判らないだろう」
「さっぱりです」
やはり聞いたこともない病名だ。どんな症状を引き起こすのか、想像も付かない。
「発症して約二年で死に至るとされている。そしてそれを宣告されたのは、一年と九ヶ月前、だ」
「な、じゃ、じゃあ中学の時に既に……」
俺は中学時代、一也とは殆ど接触がなかった。もしかしたら一也は度重なる通院や入院生活であまり学校に来ていなかったのかもしれない。
「そういうことになるな」
「……なるほど」
一也が落ち着いているのも、もう一年以上こんな状況が続き、希望をなくしてしまったからなのかもしれない。ふとそんなことを思った。
「ギラン・バレー症候群は四肢の筋力低下を伴うらしいのだが、フィッシャー症候群は筋力低下は伴わないらしい。他にも併発する病はあるらしいんだが、抗生物質を貰うだけでもう殆ど通院もしていなくてな。正直一也の病状がどんな状態なのか、もう判らないんだ」
「そ、そうですか」
残りの人生を好きに送らせてやる、などテレビの中の世界だけかと思っていた。しかしこういった現実もあるのだ。俺も近い内に友達を一人、亡くしてしまう現実に直面する。そう思うと、一也と知り合わなければ、軽音楽部になど関わらなければ良かったと思う日が来るのかもしれない。
「私や親が病院に行くこともあるんだが、もうどうにもならなくて、好きにさせてやるのが一番だ、という結論にたどり着いた」
「……」
家族も現実を受け入れている。恐らくは慧太も慎も、受け入れている。ならば俺もたった一つの現実を受け入れなければならない。
「今後、色々気付くこともあるかもしれないが、自然に対応してくれれば嬉しい」
「……判りました」
考えすぎて何が自然なのか、それも判らなくなることがあるかもしれない。だが、一也がそれを望むのなら、常に冷静でい続けなければならないということだ。どこまでできるかは判らないが。
「済まないな、こんな話まで聞いてもらって」
「いえ、聞けて良かったです。見当違いかもしれませんが、恐らくそれなりの心構えはできると思うんです」
覚悟を決める、とはそういうことなのだろう。軽音楽部に関われば関わるほど、一也と一緒に演奏する時間が増えれば増えるほど、一也がいなくなったときのショックはでかい。何かの本で読んだことはあるが、それは絶望をする準備だ。生きるということは絶望するための準備をしているのだ、と。だけれど、その絶望を一つずつ克服して、乗り越えて、強くなって行けるのが人間だ。しかし自分が強くなるために一也がいなくなるという現実を糧にすることなど今はまだ考えたくはない。
「そうか。ありがとう」
だから、きっちり、俺ができるだけのことをして、今は一也と一緒に何事も楽しむ気持ちでいたい。
「いえ。いや……」
一つ、引っかかることがあった。聡明な瀬野口早香のことだ。何も考えずに言ったとは考え難い。
(色々気付くこともあるかもしれないが?)
「何か?」
「先輩、俺に隠していることはもうないんですか」
一也に関してか、軽音楽部に関してか。色々気付くこと、と言うのならば、あえて俺に隠しているとは考え難いか。
「広義だな。色々な含みを込めれば、まぁあるにはあるが」
「そうですか」
確かに訊き方が雑だったかもしれない。しかしそれでも、何かを俺に隠している、もしくは何か事情があって言えないということなのか。だとしたらそれは何だ。もしかしたら俺が一番考えたくないことか。
「だが聡、君は、例えば私に好きな男がいたとしよう。その詳細を君にすべて話せ、と言うつもりなのか?」
「……まぁそういうことなら訊くつもりはないです」
瀬野口先輩の言葉があえて、意識的にヒントをくれたのだとしたら、それは俺が一番考えたくないことだ。俺は今のところ何も気付いていることはないが、その内に、そんなことに気付いても、一也を特別扱いせずに、普通にして欲しいと言うことなのだろう。
「そういうこと以外なら、流石にもうないよ」
なるほど。何にしてもすべて、一也の病気のせいになどしてはいけない、ということだ。これは難しいかもしれないな。一也に同情など決してしてはならないが、状況が判っているだけに、意思とは無関係に同情する様な言動が出てしまうかもしれない。これは肝に銘じておかなければならないことだ。
「了解です」
瀬野口先輩に俺はそう、しっかりと応えた。
第十二話:自家薬籠中の物 終り
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