おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第十一話:意地

公開日時: 2022年3月9日(水) 09:00
更新日時: 2022年10月31日(月) 13:10
文字数:10,000

二〇一二年九月二十六日 水曜日

 意地、という言葉がある。

 心根や気立てのことを指すが、主に強情な気持ちを持つことで意地を張る、などと言われる。意地っ張りは意固地だが、何かをやるべきときには意地を張らねば完遂できないこともある。だから、俺は意地を張る。相手の気遣いに甘えてばかりでは立つ瀬がない。俺は俺の意地で俺の行動を決める。


「ベース降ろせ。俺が背負う」

 谷崎たにざきとの通話を終えるなり、俺は関谷せきたにのベースのソフトケースに手をかけた。メーカーはどこの物だか判らないが、エレキベースという楽器に共通して言えることは、とにかく重いということだ。

「え、だ、だいじょぶ」

 強がりだ。同年代の女生徒にエレキベースを背負う体力がないと言っている訳ではない。しかし今の関谷は精神的に大きなダメージを負っているし、元々が華奢な体躯だ。何かに蹴っ躓きでもすればそのまま転倒、下手をすれば怪我だってしかねない。

「だめだ。足元が覚束ないだろう。転んで怪我でもして、ベースまで壊れたら大変だぞ」

 少しだけ力を入れて、肩にかかるベルトを引く。そこからは素直に楽器を肩から降ろし、俺に手渡してくれた。

「……あ、ありがと」

「いや。関谷の家はどの変だ?」

「公園出てすぐのところ……」

 ぴ、と胸の高さあたりまで手を挙げて、関谷の部屋があるだろう方向を指差す。なるほど公園を突っ切って行くなら俺と同じ方向だ。

「じゃあ通り道だ。お前がここでいいというところまでは行こう」

 そう言って俺は歩き出す。ベースのソフトケースは俺の物よりも少し軽い気がする。ショートスケールのベースなのだろう。

「……あの、新崎しんざき君」

「何だ」

 少し歩いてところで関谷が後ろから声をかけてきた。俺は振り返らずに短く答える。

「やっぱり訊いちゃだめ、かな」

瀬野口せのぐちのことか」

 関谷が立ち止ったようなので、俺も立ち止まり、振り返った。

「うん……」

「構わないが、知っていることなんかお前と変わらんと思うぞ」

 むしろ俺の方が知っていることなど少ないだろう。店を出る際に少々気が重いと思っていたのはこのことだ。関谷は必ず、それが俺ではなくとも、一也かずやのことを訊いてくると判っていた。

「それでも」

「まぁそれで良いなら話すが……。少し座るか」

「うん」

 手近なベンチに寄ると先に関谷を座らせた。その脇に一旦ベースのケースを降ろし、すぐ隣にある自動販売機で缶コーヒーを買った。関谷の好みは判らなかったが、とにかく甘そうなものであれば大丈夫だろう。飲み物であればミルクたっぷりの何か。食べ物であればチーズ某、というのが、俺の女子に対するテンプレートになっている感じはある。

「ほら、奢りだ。次はちゃんと涼子りょうこさんのとこで奢る」

「あ、ありがと」

 今日は無理に連れ回してしまった。涼子さんの店に行ったにもかかわらず、何も飲ませずにいたことに今更ながらに気付く。自分の鈍感さに少し嫌気がさした。俺は関谷がカフェオレを受け取ったのを確認してからベンチに座った。

「で、何をどう訊きたいんだ」

「せ、瀬野口君、病気?なのかな」

 両手でカフェオレを包むようにして持ったまま、関谷はそう言った。

「まぁ怪我ではないだろうからな。そう考えるのが普通だ」

 怪我が長引いて余命宣告されるなど俺は聞いたことがない。いや絶対安静が必要とされる怪我ならばそれもあるのかもしれないが、一也は普段から通常生活を送っているように見える。そんな状況では怪我などではないだろう、という推測だが、恐らく間違ってはいないはずだ。

「で、でも、ぜんぜんそんな風に見えなかった」

 確かに、どこかに重大な病を患っているようにはまったく見えなかった。そんな事実に、長い時間を共にしていたのに気付けなかったことにもショックを受けているのかもしれない。

「俺は今でも信じられんが」

「……だよね」

「だが全部話した以上、これが一也の悪戯だとは思えん」

 悪戯だとしたら一発くらい殴って済む話なのだが、そうはならないだろう。一也の態度は実にあっけらかんとしていたものだったが、渡樫わたがしながみ、そして涼子さんの醸し出す雰囲気が、嘘ではないと如実に物語っていた。

「……新崎君はいつ気付いたの?」

「今日お前に遇う少し前だ」

 今となっては太田おおたがこのことを俺に、例えどんな悪意が奴にあったとしても、聞かされて良かった、と思っている。

「俺が前にいたバンドのギタリストが一也の担当医の息子だった。俺は奴が医者の倅だと知ってはいたが、親が中央病院の医師だったことまでは知らなかった」

「そう、なんだ」

 奇妙な縁もあったものだが、今はその縁があって良かったのだろう。俺が一也のバンドを手伝ってそれを終えた時、俺自身が満足できていればきっとferseedaフェルシーダを辞めたことも無駄ではなかったと思える日が来るかもしれない。

「何日か前にな、伊関至春いぜきしはるが俺のところに勧誘に来た。涼子さんの店だったんだが偶然そこにその医者の息子がいた。奴は伊関や瀬野口姉と同じ中学で、俺と伊関に絡んできた。だから、伊関が俺をバンドのことで勧誘していたことを奴は知っていた」

「……」

 手に持ったままのカフェオレを開けようともせず、関谷はじっとそのカフェオレを見ている。俺は関谷が話を聞いているものと判断し、話し続けた。

「でな、ついさっき、お前に遇う少し前に偶然そいつと会って聞かされた。伊関がお前を勧誘しているバンドに瀬野口は絡んでいるのか、と。瀬野口の弟の命があと幾許もないのを知っているのか、と」

 太田には完全に悪意があったが、今はそれを言う必要もないだろう。奴への怒りは俺一人が抱えていればそれで充分だ。

「奴と俺は犬猿の仲だったが、面白がってくだらない嘘をつくタイプではない。だが信じたくなかった。奴に合う前に涼子さんの店に皆でいたから、戻ろうと思った。そこでお前と会った」

「そっか。だから新崎君はわたしも知ってる、って思ってたんだ……」

 その時はまだ迷ってはいた。

「あぁ。隠していることがある、と俺に言っただろう」

「……うん」

 その一言を俺はミスリードした。関谷はことの顛末を知っている、と勝手に判断してしまった。だとしたら、関谷が俺に言えないこととは何だったのか。

「瀬野口のことではなかったな。じゃあ何のことだ」

「え……」

 ぴくり、と体を小さく震わせて、関谷はそう漏らした。

「あ、いや、言うつもりがないならいいんだ。俺は人に好かれるような性格ではないことを自覚しているからな。是正しようにも性格だ。中々治らなくてな」

 苦笑しつつ俺は言う。俺はこんな話し方だし、普通に接していても他人に嫌な思いをさせることもある。特に関谷には迷惑をかけてはいないつもりだったが、それは俺の勝手な判断だ。口調が気に入らないだけでも人を嫌う充分な理由になる。

「え、ちがうよ。新崎君の悪口とかそういうことじゃ、全然ないよ」

 ふるふる、と首を横に振りながら関谷はそう言った。

「そうか。なら尚更言わないでいい。少し安心した。関谷みたいな奴に嫌われると流石にショックだからな」

「嫌ってなんてない、よ……」

 思い切って言ってみたが、そういうことではないらしい。関谷に嫌われていないのならばそれで良い。

「ありがとうな。じゃ、また喰らいに行ってくれるか」

「うん!」

 少しだけ元気を取り戻したのか、関谷はそう笑顔で答えてくれた。

「一也のこと、な。考えれば色々と思い当たる節はあったんだ。お前が俺を勧誘しようとした他に、な」

「他に?」

「渡樫も詠も瀬野口早香はやかも伊関も、何か俺に隠しているような気はしていた」

 もっと早くに気付いて、いや、何となく感付いてはいたのだから、もっと厳しく追及するべきだった、と今ならば思える。しかしその時の俺は全くバンドなどやる気がなかったので、追求する気も起きはしなかった。今は矛盾に苛立っても仕方がないので忘れることにする。

「あ、早香先輩と話してた時?」

「あぁ。俺は違和感があることに気付いた、と瀬野口に言った。しかし彼女はそれも判っている感じだった」

「そうだったね、確か」

 関谷がそこまで覚えてくれていたことに、少しだけ感動を覚えた。俺も人の話はできるだけ聞くようにしているが、関谷もそれは同じだったらしい。

「……そこにきて太田の言葉だ」

「医者の息子の人?」

「そう。信じたくはなかったが、思い当たる節がありまくりだった」

 だから、関谷にも確認を取ってみた。それは俺のミスリードとなったが、結果的には瀬野口早香が隠していたこと、そして太田が言ったことが繋がってしまった。真実だ、と判ってしまった。

「……やだな」

 すん、と少し鼻を鳴らしたように聞こえた。

「せっかく新崎君が軽音部に入ってくれるのに、瀬野口君がいなくなっちゃうなんて、寂しすぎるよ……」

 できることならば、俺も卒業までずっとみんなと過ごしたい。今ならばそう思えるし、それが何よりの望みだ。しかしその望みはもう叶わない。だとするならば。

「そうだな。きっと、あっと言う間だし、あっと言う間にしなくちゃいけない」

「……え?」

 谷崎はまだまだ先のことだと言っていた。しかしそれでは駄目なのだ。

「楽しい時間はあっと言う間に過ぎるだろ。退屈な時ほど長く感じるだろ」

「……そっか」

 退屈で退屈で仕方ない時間を、俺たちが作ってはいけないということだ。先ほどの渡樫と詠を見ていて良く判った。あれはあいつらなりの友情の顕れだ。

「一也がそれを望んでいる以上、あっと言う間の時間にしてやんなくちゃな」

「……うん」

 今度はぐす、と鼻を鳴らす。関谷の顔を覗き込むと、大粒の涙が目から溢れ出したところだった。

「お、おい泣くな」

「でも、だって」

 完全に涙声になってしまって、関谷は応えた。

「……訊くべきじゃないかも知れないが、お前、一也が好きなのか?」

「……そういう、好き、っていうのじゃ、ない、けど」

 途切れ途切れだが、そう関谷は言った。その言葉に少し俺は安心した。好きな男が死に瀕しているとなれば、それは確かに耐え難いことだ。あまり考えたくは無い話だが、それは一也にも言えることなのだろう。もしも一也に好きな女がいたとしたら。考えるだけで嫌になる。

「好きなのは友達として、ということか。ま、それでもきついのは変わらないな」

 俺だって、いや、俺以上に渡樫も詠もきついのだ。きっと関谷のそれは奴らに近いものがあるのだろう。それに渡樫や詠はすでに事実を知って、幾許かの時間が経っている。しかし関谷は今日知ったばかりだ。関谷の心の弱さを慮ってのことなのかもしれないが、これは連中のミステイクだと思わざるを得ない。現にこうして関谷は泣いている。

「だね……。でも、がんばる。最期の、瀬野口君の、三ヶ月は、わたしたち、みんなの笑顔しか、残らないように、しないと」

「じゃあその涙は止めないとな」

 気丈に言う関谷の頭に軽く手を載せて俺は少し柔らかい口調でそう言った。少し気安い行動だとは思ったが、それでも今は関谷が俺にすがりたいのだろうという気持ちが判ってしまったから。この場にいるのが俺ではなくても、きっとそれは同じことだっただろうから。

「うん。……でも、もう少しだけ、涙止まるまで、待って」

 ぐす、と涙交じりの声で関谷は俺の肩に頭を寄せてきた。一瞬にして心拍数が跳ね上がった。だがここで俺が照れてはいけない。関谷の頭に手を乗せたまま、俺は精一杯強がって、一言、口にする。

「あぁ。止まるまでは付き合おう」

「……やっぱり、新崎君は優しんだね」

 一瞬だけ、ほんの少しだけ、関谷を抱きしめたい衝動に駆られた。しかし関谷はそこまで望んでいないし、この行動は今の関谷の精神状態が不安定だからこその行動だ。そこに漬け込むのは絶対にしてはいけないことだ。

「買いかぶりだ」

 それだけ何とか言って、俺は関谷の頭から手を放した。




「ほほぅ」

「ほほぅ、とか言わんでください」

 翌日、第二音楽室へと向かう途中で尭矢たかやさんと会った。恐らく一也から連絡は入っていたのだろう、俺を見るその目は嫌にニヤニヤしている。

「いやぁお前がねぇ……」

「うるさい」

 視線を合わせずに俺は言った。

「うるさくはねぇ。ま、色々知ったんだろ。宜しく頼む。あとな、部活終わってからでいいから少し付き合え」

 嫌に殊勝な言い方だったので、俺は尭也さんの顔を見た。その表情は茶化している感じはかけらも見受けられず、むしろ真剣だった。

「何ですか」

 恐らく穏やかな話ではないのだろう。

「瀬野口姉弟がいる前じゃ言えねぇことだ」

「……了解しました」

 何となく、想像はつく。俺が危惧していることと同じことかもしれない。結局それも杞憂であってほしいことではあるのだが、やり遂げるためには恐らく必要なことなのだろう。

 俺は尭也さんに短く答えると、第二音楽室のドアを開けた。

「お、来たか。……みんな聞いてくれ」

 すぐに俺を見た瀬野口早香がぱんぱん、と手を叩いた。ついで伊関至春が胸を張る。

「えー、今日から軽音楽部に入ることになったぁ、はい自己紹介!」

 第二音楽室の教壇の辺りにまで歩み寄った俺の肩を、伊関はばん、と叩いた。

「え、と、二年の新崎あきらです。宜しく」

 ぺこり、と頭を下げる、情報では三年生は尭也さん、瀬野口早香、伊関至春の三人だけだ。二年は女子部に関谷、水沢、男子部に渡樫、詠、一也。一年は全く判らないが、結構な人数がいた。

「いえー!聡ぁー!」

「な、よ、よせ」

 ばかに騒ぐ渡樫を制する。俺はこういう歓迎ムードが大の苦手だ。どうにも居心地が悪くて仕方がない。教室の一番奥、俺に拍手をしてくれていた一年生の集団であろう一団に目を向ける。ドラムスティックを持っている女子と男子が一人ずつ。ギターを持っているのが女子が一人に男子が二人だ。そして何も持っていない女子が一人。なるほど、確かにベーシストらしき人間はいないのだろう。

「差し当たっては文化祭に向けてのバンド編成で動きます。一年生はパート足りてないんだっけ?」

 伊関が一度ぱん、と手を叩いて言う。中々どうして、見事な部長っぷりではないか。瀬野口早香が言っていた、向いていない、というのは的外れのような気がした。

「足りてないっすー」

「とりあえず足りないのはベーシストだな。入って早々だが、新崎君、それと香織には引き続き掛け持ってもらうことになるが、宜しく頼む」

「はい!」

 な、何だそれは。そんな話など全く聞いていない。俺はてっきり男子部員で構成されるバンドのベーシストをやれば良いだけだと思っていたのだが、まさかこんな展開になるとは思いも寄らなかった。

「え、あ、はい……」

 しかし、考えてみれば俺は一也のバンドを手伝うヘルパーではない。朝一番に出した入部届もしっかり受理された、列記とした軽音楽部員だ。部長、生徒会長の指示を無視する訳にもいかない。

「新崎君、入ってくれてありがと。これから宜しくね」

 横から水沢みずさわみふゆが声をかけてきた。相変わらず嘘みたいに爽やかで可愛らしい。なるほど、良く知りもしない五反田ごたんだが水沢に対し反感を覚えるのも、少々判る気がした。何もかもができすぎているような気がするのだ。恐らくそんなものはこちらの勝手な妄想でしかない。水沢みふゆだって人間だ。つまらないことで凹みもすれば、些細なことで怒りもするだろう。それを俺は知らないだけだ。

「あ、あぁ……」

「何だよ冴えねぇな」

 更に一也が声をかけてくる。

「いきなり掛け持ちとか……」

 一年生はどういった編成なのかまでは判らない。だが、結局は曲を覚えなくてはならないことは変わらない。一バンドと二バンドではかなり労力も変わってくるだろう。

「関谷が今まで男バンドと一年の面倒も見てくれてたんだぜ。少しくらい力になってやれって」

 なるほど。関谷は実質三バンド、いや四バンドの面倒を見ていたことになるのか。それは確かに大変なことだ。関谷の助けになるのならばやぶさかではない。俺は昨日覚悟を決めたのだ。どんな状況になろうとそれをできる限り完遂するように努力するだけだ。

「そうだぞ新崎君。尭矢さんの言う通りだ」

 喧しい。一言多いんだ。詠は。

「やぁ、一也の面倒見るだけでも大変そうじゃないか」

 にやりとして言ってやる。ベーシストとして、一也のドラムはかなり興味がある。昨日音源を聞いた限りでは、中々巧いドラマーだということはすぐに判った。

「けっ、そらこっちの台詞だっての!」

 一也もにやりとしてそう返してきた。一也は一也で、やはり俺と組みたいと思ってくれていたせいか、やる気はかなり漲っているようだった。

「一年のバンドはまだコピーばかりだ。覚える面倒はあるが、覚えてしまえばそれまでだ。済まないが頼むよ」

 瀬野口早香は苦笑しつつ、俺の肩を叩いた。瀬野口早香もとてつもなく強い人間なのだろうな。だが瀬野口早香も人間だ。もちろん脆さは内包しているはずだ。実の弟が死に晒されて、それを逃れる術は無い。いつかくずおれることもあるだろうが、今こうして毅然とした態度でいられるというのは、是非とも見習うべき姿勢だ。

「了解しました」

 俺も苦笑を返す。生徒会長に軽音楽部の実働にも関わり、弟が死の病を患っている。俺も少しでもこの人の力になれれば良いとは思うのだが、それは恐らく思い上がりだろう。俺は俺のやるべきことをやるだけだ。そこをはき違えれば、一也にも恩着せがましい態度を取ってしまうことになりかねない。

「それとな、本当に、ありがとう……」

 小さな声で、そう言い足してきた。素直に嬉しいと思えた言葉だったが、俺にも意地はある。この入部は一也に同情したからではない。俺が一也や渡樫たちとバンドをしたいと思ったから、俺は軽音楽部に入部した。だから、俺は瀬野口姉弟には一切の情けなど掛けていないし、感謝される筋合いもないのだ。

「よしてください。礼を言うのは俺の方ですよ」

 俺はその言葉を、自信満々に、笑顔で言ってやった。瀬野口早香は一度だけ頷くと、やはり笑顔を返してくれた。恐らく、俺の気持ちは判ってくれているのだろう。だからこその礼だったのだ。

「あ、あのっ、し、新崎君、き、昨日はありがとね」

 俺に目の前に登場するなりそう言った関谷の顔は、やはり赤面している。い、いや俺も昨日は危うく、とんでもなく恥ずかしいことをしでかすところだった。俺の理性万歳。

「なんだなんだぁ?何かしたのかよ聡!」

 渡樫は何故俺のことをそんなに気にかけるのだ。俺の別れた彼女のことといい、関谷のことといい。そんなに俺が女性関係を持っていることが不服なのか。それが色恋沙汰ではないとしても。

「あぁ。俺と香織の二人だけの秘密にしておく。という訳だ、慧太けいた。悪く思うなよ」

 という訳で少々悪乗りをする。あまり諧謔を理解できない関谷には悪い気もしたが、許してくれと心の中で謝っておく。

「んな!」

 あの字に口を開けたまま、渡樫は言葉を失ったようだった。ばかめが。こんなことも冗談だと判らないから俺にからかわれるのだ。

「な、し、新崎君!」

 おっと、こちらのフォローはしておかなければならないな。あまりからかい過ぎては何時の日か、関谷の顔面から本当に火が噴き出してしまうかもしれない。

「や、悪い。関谷の件は冗談だ。悪乗りをした。昨日は無事に送り届けたさ」

「じゃあ何がマジなんだよ……」

 てっきり送り狼をした、とでも思っていたのか。全く心外だ。なのでここはすぐさま変激してやる。本当は恥ずかしさを紛らわせるためでもあるのだが。

「俺がお前を慧太と呼んだことについてだ。嫌なら辞める」

 これでも今朝からずっとそう呼ぼうと決心して学校に来たのだ。男の名前呼びで緊張するなど気持ち悪いにもほどがあるが、こればかりは慣れるまで仕方がない。

「や、ヤダなんて言ってねぇだろうが!」

 ならば素直に納得するんだ。余り騒ぎ立てられて誰かに突っ込まれれば恥ずかしいのは俺だ。

「し、新崎君!」

「何だ詠」

 今度は詠か。全く騒がしいったらないな。

「何で俺は苗字なんだよ……」

 やはりそう来たか。想定はしていたが、確率は低いと思っていた。何故なら詠は俺と同じく、ずっと他の連中を苗字呼びしていたからだ。まさか自分が改めず、俺にそれを要求してくるとは。……まぁ、想定はしていた訳だが。

「お前……。お前は一也も慧太も、俺も苗字呼びだよな。何故お前がそれを求める」

「でも瀬野口君も渡樫君も尭矢さんも俺のことはしんって呼ぶじゃん」

 自分は他人を名前で呼ばないのに、呼ばれる時は名前で呼ばれたいとはなんと贅沢な奴め。

「ほほう。だから俺も倣えと。なるほどな。ならばまず貴様が慧太や一也を倣え」

「う、そ、それはそうなんだけど」

 まぁ言うだけは言ってやった。だからこれで許してやるとしよう。

「ま、それも冗談だ。慎」

「え、いいの!」

 ぱ、と顔を輝かせる。全く変わった奴だ。慧太も一也も体外変わった奴だと思っていたが、やはりこいつが一番変わっている。訳が判らない。まぁそこが面白味と言えば、確かにそうなのだろうが、それにしても掴み所が判りにくい男だ。

「こんなことで喜ぶな。キモいぞ」

「ひどい!」

 いや酷くはない。本当のことだ。

「あ、わ、わたしも香織かおりでい、いいよ!」

 関谷までとんでもないことを言い出す始末だ。明るく振舞おうと一生懸命なのが判ってしまうし、それはそれで健気だとは思うのだが、流石にそれには応じられない。

「や、待て関谷。それはいくらなんでも無理だ。男子部員は誰もお前のことを名前では呼ばんだろう」

 確かに関谷を苗字で呼ぶ女子はいないような記憶があるが、慎はもちろんのこと、慧太も一也も、関谷のことは苗字で呼んでいたはずだ。

「そんなことねぇよなぁ、香織」

「はい!」

「あんたは先輩でしょうが」

 尭矢さんが茶々を入れる。それは尭矢さんと同い年の伊関や、基、伊関先輩や瀬野口先輩がそう呼んでいるのだから、それはそうもなろう。だが俺は同い年で、関谷と知り合ってからまだ日も浅い。馴れ馴れしいにもほどがある。例え本人がそう望んでいたとしてもだ。

「先輩だが男子部員だぞ」

 ふん、と胸を張った後ににやりとする。いつでもどこでも憎たらしい男だ。

「ほら藤崎ふじさき君、部員が増えて嬉しいのは判るけど、ベーシストを拘束しないの!」

 おっと、ここで伊関先輩からの助け舟だ。確かにパートで言えばベーシストが一番忙しい役回りになりそうだ。あまり雑談にかまけている場合ではない。

「何でオレだけ!」

美織みおりに言いつけるわよ」

「な、なんで!」

 ふふん、と笑った伊関先輩の言葉に何故か尭矢さんは焦りだした。

「誰だ?」

 その美織という人物に頭が上がらないのだろうか。

「昨日言ったじゃん。尭矢さんの彼女」

 横で聞いていた一也がそう教えてくれた。なるほどな。尻に敷かれているという訳か。これは機会があればその美織さんとやらと仲良くなった方が良いかもしれないな。

「おぉ、あの超可愛いと評判のか」

「会わせねぇぞ」

 会ったところで横恋慕などしないが。まぁそういう訳でもないのだろう。自慢の彼女を自慢しないというのは中々好感が持てる。それが藤崎尭矢であっても。だから俺はこう、短く返してやるのだ。

「別に」

「かわいくねー……」

 だろうさ。慧太あたりなら何でですか!と言いそうなところだが、生憎そんな可愛らしさは持ち合わせていない。それにライブともなればその内顔を合わせることにだってなるに決まっているのだ。何も焦ることなどない。

「可愛くなくて結構。とりあえず今日は半分は見学ってことでいいすか」

 俺のメインの仕事はやはり一也や慧太のバンドでベースを弾くことだ。音源は今日慎にCDを貰ったばかりなので、練習は明日以降の参加になるだろう。一年生のバンドがコピーバンドだというのならば、今練習している曲の譜面を貰えれば問題はない。そう難しいバンドのコピーをやっている訳でもないだろう。

「ま、そうだな。本題は部活が終わった後だしな」

「そすか。それはそれで了解です。でもその前にちゃんと顔合わせもお願いしますよ」

 男子と女子で分けられているのならば、男子の方の取りまとめは恐らく尭矢さんがしているのだろうから。

「何でオレに言うんだよ」

「三年……」

 何だ。人を引き入れようとしておいてそれか。尭矢さんはそれこそ自分のバンドで俺がベースを弾けば良いだけだと思っていたのだろうか。そうならば俺もいくらか気持ちは楽だったのだが。

「部長も生徒会長もいんだろうが」

「だから尭矢さんは何もしないって訳じゃないんでしょう?」

 怠けようとしたって駄目だ。慧太や慎、一也も尭矢さんにはどうやら一目置いているような感じだったが、俺はそれには騙されない。確かに一つ年上の先輩で、ギターの腕もかなりのものだ。だがそれだけだ。俺は連中がやれなかった、とことん可愛くない後輩という部分をしっかりとやってやろうじゃないか。

「……わぁったよ」

 尭矢さんは口惜しそうな目で俺を見ていたが、すぐに観念したのかそう声を上げた。

第十一話:意地 終り

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