おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第二五話:苦悩

公開日時: 2022年4月20日(水) 09:00
更新日時: 2023年1月4日(水) 10:51
文字数:10,000

二〇一二年十月二十八日 日曜日

 苦悩、という言葉がある。

 苦しく悩む、もしくは苦い悩み、とでも言い表せば良いのか、ともかくただの悩み事ではないことだけは字面からでも良く判る。つまりは今の、一也に関わっている人間全てに言えることである、ということだけは間違いはないだろう。

 そして死という事象に、直接的にでも間接的にでも関与している者たち以外でも、苦悩している人間はいるものだ。

 自分だけが苦悩しているなんて甘ったれの言葉だ、と言ってしまうには少し配慮が足りないかとも思うが、そこに甘んじてしまってはいけないことだけは、自覚していないといけないのだろう。そういう自覚ができない人間の口から『気楽でいいな』だとか『悩みなさそうだな』などと言う傲慢な言葉が出てくるのだ。


 トリまで残って見るというだけで、ワンドリンクをサービスしてもらった。

 余談だが、さしあたっての面倒を避けるため、今日はソフトドリンクにしておいた。

 ステージには小柄な女性が立っている。相当背が小さいのか、持っているセミアコースティックギターが大きく見える。あれはEpiphoneエピフォンCASINOカジノだろう。CASINOはセミアコの中でも割と大きいギターで、小柄な女性が持てばアンバランスになること請け合いだ。

「今晩は。夕衣ゆいといいます。今日は皆さん、最後までお付き合いくださって有難うございます。えーと、こちらのお店にはですね、凄くお世話になっていてですね、もう五年ほどのお付き合いになります」

 夕衣嬢の歌声は、ありていに言うならば美しい歌声だった。それもかなり好みの声だ。透明感があり、伸びやかな声で、ロングトーンにブレがない。ビブラートは緩やかでソフトにかかり、全く煩さを感じさせない。

「ほう。またここにくれば聴けるってことか」

「かもしれないね」

 一目惚れならぬ一耳惚れと言ったところか。ギターも相当弾き慣れているのだろう。コードチェンジでも、エフェクターの踏み替えでも殆どネックを見ずに演奏していた。

「今日は弾き語りになりますが、バンドでもお世話になっているので、またご縁があれば遊びに来てください」

 バンドでも演奏しているのか。独断で言わせてもらえば、バンドでガチャガチャした演奏をバックに歌うよりも、彼女の声はアコースティックでこそ映える気がしたが、バンド者としてはそのバンドも一度見てみたいという思いに駆られる。

「では最後に二曲、聴いていただきます。今日は最後まで本当に有難うございました。ではFatumファートゥム


――今まで出会ってきた人 今まであったできごと

『あたりまえ』に埋もれさせてはだめ

今まで過ぎた時間 今まで素通りしたもの

『あたりまえ』と流れて行ってしまった


瑣末ごと、と誰かは言うかもしれないけれど

ひとつひとつの全てが 私にとって特別な想い


だから私は忘れない 嬉しかったこと 楽しかったこと

貴方たちに貰った全部 ありがとうの気持ちを込めて

だから私も与えたい 素敵な歌を 素敵な時間を

貴方たちにあげたい全部 ありがとうの気持ちを込めて――


 彼女の優しい声にぴったりの歌だ。自分の声質をきちんと理解して曲を創っていることが良く判る。最後のアルペジオが減衰しきると、彼女は会釈して佇まいを正した。

「ありがとうございます。最後に、Ishtarイシュター Featherフェザー……」

 ゆっくりと鳴るコードに俺も耳を傾ける。聞き覚えのあるコード展開だが、良くあると言ってしまえばそれまでだ。

 しかし――


 彼女が最後の曲を歌いきって、俺はしばらく惚けていた。いつの間にか歩み寄っていた穂美ほのみ嬢に朔美さくみが声を掛けたので俺も我に返った。

「凄く良かったです。最後のあれってGoddessesガッデセス Wingウィングですよね」

 そう。聞いたことのあるコード展開ではなくて、聞いたことのある曲だったのだ。Goddesses Wingは確かバンドアレンジされた音源が残っていて、それが軽音楽部の女子部員の間では課題曲のようになっている、と関谷せきたにが言っていたことを思い出した。

 そしてその曲にはアコースティックアレンジがあり、そちらこそがオリジナルバージョンであるという情報も知っていた。更に曲のタイトルこそ違うが、和訳すればどちらも『女神の羽根』という意味になるということも。俺は神話や女神に詳しい訳ではないが、Ishtarがイシターやイシュタルという名で日本のゲームなどに多く登場することから、メソポタミア神話の女神だということは知っていた。

「ま、そうなんだけど、あれがオリジだから」

「え?」

 穂美嬢の言葉が一瞬理解できずに聞き返してしまった。いや、本当は判っていた。

 つまりは。

「本物のっていうか、オリジナルのディーヴァ」

 そういうことなのだ。

 夕衣嬢はIshtarとイシュターという発音にしていたが、Ishtar Featherとはイシュターの羽根、そしてGoddesses Wingは女神の翼、つまりどちらも訳しようによっては女神の羽根ということになる。

 そして恐らく、誰も正体を知らないGoddesses Wingを歌ったアーティストがディーヴァと呼ばれているのに対し、Ishtar Featherを歌った夕衣嬢がオリジナルのディーヴァということになるのだろう。

「驚いたでしょ」

 驚くも何も、いつかはオリジナルを聞いてみたいと思っていたところにまさかの生演奏だ。驚かない訳がない。

「もしかしてあの人、瀬能せのう学園のOGですか?」

 そういえばうちの高校の卒業生だという噂も聞いたことがあった。

「そ。良く知ってるわね」

「いや、ディーヴァがうちの卒業生だったって噂があったんで」

「噂じゃなくて事実よ」

「これは驚いた。まさかオリジナルを生で聴けるなんて思いもしなかった」

 これは自慢できることかもしれないが、元彼女と二人で飯を食いに行った先で、という話は連中にはできない。そして俺が一人でRoロー.Biビー.Goゴーにふらふらと出かける訳もなく、たまたま見かけたなどという嘘も使えそうにない。つまり、これは口外出来ないということだ。何たる無念か。

「何か曲名が違うんですね」

 何故曲名が違うのかは俺も気になるところだ。

「まぁ色々あるんだけど、あの子が創ったのがオリジナルで元々Ishtar Featherって曲名だったんだけど、ネットで広まったのがあれをアレンジしたGoddesses Wingだったってのが有力説」

 説?自分で作った曲の顛末を夕衣嬢本人は知らないということなのか。

「本人に聴けば判ることなんじゃ」

「訊いても判らないのよ」

「何でです?」

 質問が口を突いて出てしまったが、ここは穂美嬢の説明を聞いた方が良いだろう。

「あの子、四、五年前にこの街に越してきたんだけどね、その時に既にこの街ではGoddesses Wingが有名になってたらしいの」

「つまりは誰かが……この場合はいわゆる、名前が広まっている方のディーヴァということになりますが、そのディーヴァが勝手に盗作して、改題したってことですか」

 それを一時期流行った音楽用のSNSなどで公開し、一部の人間に広まったということだろうか。もしも盗作したのならば許せるものではないはずだ。

「まぁ盗作かどうかは判らないけれど、そんな感じだったみたいね。でもディーヴァが誰かっていうのも特定できなかったみたいだし、ディーヴァにオリジナルがいる、Goddesses Wingにオリジナルがある、っていう噂もずっとあったから」

 それが四、五年前の話だったとしたら、その噂は今も生き続けて俺たちの耳に入ってきているということだ。ちょっとした都市伝説のようなものになってしまっているのが凄い。

「なるほど……。でもそれだとIshtar FeatherがGoddesses Wingのコピーだって思われるんじゃないですか?」

 先に広まって、極一部とはいえ市民権を得ているのはGoddesses Wingの方だ。後から夕衣という無名のアーティストがGoddesses WingをIshtar Featherとして、自分の曲です、と歌っても説得力がないどころか、確証が無ければディーヴァの名を騙る盗作アーティストというレッテルを張られてしまう可能性もある。

「ま、そうなんだけどあの子はこの曲が自分のオリジナルです、なんて主張する気はないのよ」

「ない?」

 折角自分が創った、しかもあんなにも素晴らしい歌なのに、それを自身のオリジナルだと主張する気が無いとはどういう神経の持ち主だ。それを言葉にしてしまうことによって、疑り深い人間などはやはりIshtar FeatherはGoddesses Wingの盗作なのではないのか、だから胸を張ってオリジナルだと言えないのではないか、と勘繰ってしまう可能性だってあるはずだ。

「どこの誰が歌っても、どこの誰が聴いても素敵だな、って思ってもらえたらそれが一番なんだって」

 一瞬、自分の耳を疑うほどの言葉だった。つまりは愛唱歌のようにしたい、もしくはなって欲しいという願いなのだろうか。

「それにね、ディーヴァがIshtar Featherをもの凄く好きになって自分風にアレンジしてみたんだとしたら、それはやっぱり素敵なことなんじゃないか、って思えるんだって」

「何か、凄いですね」

 どれだけ広い心の持ち主なのだろうか。プロの音楽の世界、というよりはビジネスとしての音楽の世界ではまず有り得ない事象だ。

「ま、色々悩んだこともあったみたいだけれど、あの子は凄い子よ。コレとはまた別でバンドもやってるからまた見に気なよ」

「是非とも」

 なるほど、バンドアレンジされたGoddesses Wing、基、Ishtar Featherはそっちで訊ける可能性があるということだ。これは是非とも見に行かなくてはならない。できる事ならば朔美ではなく、関谷を連れて。

「んじゃもう少し待ってて」

 穂美嬢はそういうと、もう誰もいないステージ側へと駆けて行った。




 程なくして穂美嬢は小柄な女性の手を引いて現れた。

髪奈かみな夕衣です。今日は来てくれてありがとう」

 夕衣嬢だった。ステージ上と印象がまるで違う。恐らく一五〇センチ足らずの身長で、頭一つ分小さい。ただ、とても愛らしい表情をしている。これだけの歌唱力を持っていてこれほどの可愛さであれば、男どもが黙っていないのではなかろうか。

「こちらこそありがとうございました」

 朔美は屈託なくぺこりと会釈する。俺と言えば彼女の可愛さやその可愛さとはそぐわない人物背景等を想像してか、少し緊張してしまっていた。

「あ、新崎聡しんざきあきらです。こちらこそ良い音楽を聞かせて頂きました」

 少々吃音交じりになってしまったが、見ろ、俺にもできたぞ。折り目正しい挨拶が。人間日々成長するものだ。

「私らの後輩だって」

 そんな俺の心情など伺い知る訳もなく、穂美嬢はそんなことを言った。

「あ、瀬能学園なの?」

「はい。軽音楽部です」

 そう、後輩です。俺は本物のディーヴァの後輩だったのだ。

「そうなんだ。楽器は何してるの?」

 俺の顔を見上げて髪奈夕衣嬢は首をかしげた。まるで年下の女の子と話をしているような気になってくる。

「俺はベースを……」

「じゃバンドなんだ」

「えぇ」

 まぁベースで弾き語りをする人間はそういまい。髪奈夕衣の推論はもっともだ。

「もうすぐ文化祭だよね?見に行っても良い?」

「あ、や、是非」

 なんと、ディーヴァが見に来るとは。皆に問い正されたとしたらどう説明した物か。

「新崎君、わたし有名人とかじゃなくてただの大学生だよ。それも瀬能大だよ」

 少し苦笑して髪奈夕衣嬢は柔らかくそんなことを言った。なるほど、これは意地悪ではない時の涼子さんに少し雰囲気が似ているのだ。何というか、イメージとして涼子さんが出てきてしまう時点で、きっと俺はこの人に、本能的な敗北感を感じてしまっているのだ。情けない話ではあるが、古今東西、男が女に勝った試しなど一つとして無いのだ。

 ……いや、有るか。

「で、でもディーヴァ、ですよね」

「誰かがそう言っているだけでわたしは自分で名乗らないってば」

 それもそうか。いや。

「とはいえ、年上です」

 太田おおたや野島のような輩に尽くす礼節はないが、髪奈夕衣は瞠目に値する。

「駄目よ新崎君、コイツの彼氏、超イケメンだから」

「や、そういうんじゃないですけど……」

 すぐに色恋に繋げたがるのが女性の悪い所だ。俺はこれでも好きな女がいる。穂美嬢がそれを知る由もないのだが。

「でも頭は良いけど、口は悪いしばかだから」

藤崎尭也ふじさきたかやですか?」

 しまった。頭は良いが口の悪いばかと言えば藤崎尭也しかいない。つい俺は頭は良いが口の悪いばか者の名を口に出してしまった。髪奈夕衣嬢が知る由もないと言うのに。

「あ、尭也君知ってるの?」

「なんと、尭也さんの彼女は美人だと噂だったけど……」

 まさかこんな出会い方をするとは。藤崎尭也め、俺には会わせないなどと豪語していたくせに、ざまを見ろと言うものだ。

「あ、わたしじゃないよ」

「そうか、年齢が合わない」

 確か伊関いぜき先輩たちと同い年、つまり俺よりも一つ年上のはずで、確か名を美織みおりと言ったはずだった。我ながら早とちりにもほどが有る。いや、それよりも髪奈夕衣と藤崎尭也が知り合いだったとはこれも驚きだ。さてはあの頭は良いが口の悪いばか者は、ディーヴァ関連の話を全て知っていたな。恐らく俺が訊かなかったから話さなかっただけで、藤崎尭也に全く非はないのだが、何だか無性に腹が立つ。いや待てよ、もしも髪奈夕衣嬢が我が学園の文化祭に訪れたとしても、藤崎尭也をスケープゴートにすれば俺は髪奈夕衣と知り合っていたなどと言うことがばれずに済むかもしれない。たまには使い物にもなるではないか、藤崎尭也。心の中でだけ、褒めて遣わす。

「と、ともかくまたライブ来ます」

 髪奈夕衣のソロでも髪奈夕衣のバンドでも、どちらでも見たい。

「あ、じゃあコレ」

 小さなカードのようなものを手渡される。いやこれは。

「名刺?」

「えと、ブログやってるから、そこでライブのスケジュールとか確認できるよ」

 なるほど、自身の名前と『Medb』という名称。これがバンド名だろうか。というか、なんと読むのだろうか。それと恐らくはブログのものであろうURLが書いてあった。ペパーミントグリーンを基調とした、女性らしく可愛らしいデザインの名刺だ。

「おぉ、ありがとうございます」

 卒業証書でも受け取るかのように俺は恭しくそれを受け取った。

「またあたしらのライブも来なさいよね、朔美」

 ライブバーの店長の娘もバンド者か。納得がいく。穂美嬢も中々良い声をしているが、なるほど、穂美嬢のバンドもまた興味がある。

「了解です。それじゃ今日はこれで失礼しますね」

 とりあえず朔美の贖罪はこれで済んだのだろうか。俺としては得るものが大きすぎたくらいで逆に感謝しなければならないな。

 俺は朔美に合わせて会釈するとRo.Bi.Goを後にした。




「じゃあここで解散ね」

 店を出て階段を上がると朔美は言った。

「駅までは送るが」

「聡、好きな人できたんでしょ?見られでもしたらどうするの?」

 意外な気遣いだ。しかもその言い方は、俺の想い人がこの界隈で暮らしている、ということを予想したような言い方だ。

「まぁそうだが、何故判る」

「だって聡だもん。地元以外で精力的に何かをして、そこで誰かを好きになる、とか想像しにくいだけ」

「なるほどなぁ」

 感心する。結局は、ということなのかもしれない。

「何?」

「いや、変わったとは言え、変わらない所は変わらないもんだな、と思ってな」

「それはそうでしょ。そう簡単に人格とか根っこの部分まで変われないと私は思うな」

 確かに朔美の言う通りだ。俺は変わったのかもしれない。だが新崎聡という芯は変わっていないのだろう。その新崎聡という芯に肉付けされた様々なものが、以前の新崎聡と今の新崎聡の形を少しだけ変えているだけなのかもしれない。

「そうだな」

 半分は冗談のつもりだが、新崎聡は情に厚く義理堅い。この言葉はいつも俺が念頭に置いていることだ。こういう根っこというか、自分自身のとして持っているものはそう簡単には変わらないし、変えることもできないのだろう。

「今付き合えば少し違うかもね」

「不毛だな」

 恐らく朔美にも、そして俺は当然その気はない。ただこんな気持ちで当時付き合えていたのなら、確かに今も関係は続いていたかもしれない。僅か数か月前の話ではあるが、あの時の俺たちは今よりももっと稚拙だった。

「だね」

「まぁいい男がいたら紹介してやる。……そうだな、ちょうど余ってる男が」

 言いかけておいて何だが、俺は言葉を切った。慧太の顔が真っ先に浮かんだが、今のあいつはそんな精神状態ではない。全てに決着がついて、それでいて尚、慧太と朔美が独り身ならば改めてその時に考えるべきことだ。

「いるの?」

「……いや、そいつにも好きな女がいる」

 状況からの推測で言うのであれば、恐らく慧太の恋は惨敗だ。今のところは。ただ、人の心など何がきっかけで変わるか判ったものではない。ないのだが、今はまだ結論は出ない。

「なぁんだ。ま、ゆっくり探すよ。今回駄目だったからすぐ次!っていう気分でもないし」

「それもそうだな」

「……図々しい言い方になっちゃったね」

 当時のことを思い出したのだろう。朔美は自嘲気味にそう言った。

「今と昔は別だ」

「やっぱり優しくなったね、聡」

「どうだかなぁ」

 他人の考えを尊重するという点では、俺は昔よりも重きを置いているのかもしれない。そのことに関しては自覚も有る。それが優しさになるのかどうかは、恐らく受け取り手の感じ方なのではないだろうか。俺には特に朔美に優しくしよう、と感情はなかった。

「ま、状況が許されるようならまたごはん、付き合ってよ」

「今度は割り勘だな」

 こんな会話をするだけの時間ならば別に良いかもしれない。正直に言えば今の朔美は付き合っていた頃よりも一緒にいて疲れない。

「まだ私は奢り足りないけど」

「それなら図々しい返しさせてもらおうか。朔美に余裕があるならそれで頼む」

 それも冗談だが。俺は奢った分をきっちり返せなどと言うつもりは毛頭もない。

「了解。じゃ、今日はありがとうね」

 少しくらいは気晴らしになったのだろうか。だとするならば、俺如きでも時間を共にした甲斐はあった。そして礼を言うのは朔美だけではない。

「いや、礼を言うのは俺もだ。偶然とはいえなかなかできない経験をさせてもらった」

「まさか本物のディーヴァに会えるんだもんねぇ」

 全くだ。世の中不思議なこともあるものだ。これを偶然と言わずして何を偶然と言うのか。

「だな。じゃあ気を付けろよ」

 あまり長話をしていて誰かに見られては折角の朔美の気遣いも台無しだ。俺は会話を切り上げて手も挙げた。

「うん、聡もね」

「あぁ」




 朔美が歩き去ってから三分は経っただろうか。俺も別のルートを使って歩き出す。

 髪奈夕衣との出会いは衝撃的だった。見た目が可愛らしいだとか、歌が上手いだとかギターが巧いだとか、声が美しいだとか、そういったことは勿論感動した。だがそれはある意味ではサイン的なものだ。髪奈夕衣と言う人間を極簡単に表せる記号のようなものだ。

 それらだけでは何故彼女がGoddesses Wingを、いやIshtar Featherを歌うのかまでは判らない。誰にも何も言われなければ、彼女がディーヴァだと気付く者もいない。小材こざい穂美があの場にいなければ、彼女が本物のディーヴァであることも、Ishtar Featherの作曲者であったことも、真実は何も知らされないまま、あぁ、彼女もまたネットで広まったディーヴァのGoddesses Wingが好きなアーティストなのだな、と思うだけだった。

 そして彼女はそれを良しとしているいる。

 いやむしろ、敢えてそうしている。

 彼女自身も悩んだことがあると言っていた。彼女が悩んだ末に出した答えがこれなのだ。その答え自体には経緯など問題ではない。彼女自身の問題を彼女が悩み苦しみ、解決した形だ。他人がとやかく言うことではない。

 だとするならば、一也かずやの出した答えにも、誰にも何も口出しすることは許されないのではないのか。

 犯罪を犯そうというのならば話は別だが、恐らくそうではない。そして何かをしでかす可能性も、あるのかないのか全く判らない。例えば関谷が可能性として口にした、みんなの前でわざと命を絶つなどという行為が、もしも本当に一也が覚悟をして出した答えなのだとしたら、俺は口を出すべきではないのだろうか。

 判らない。

 できる限り一也には長く生きてほしい。そう思うこと自体が正しいのかも俺にはもう判らなくなっていた。

 髪奈夕衣は自身が懸命に作り上げた傑作を、自分の物とは言えない現実を受け入れた。

 結果的にIshtar Featherいや、Goddesses Wingは極狭い範囲とはいえ愛唱歌のようになった。それでも本来ならば彼女が作った歌であることには変わらないのに、それを主張できない現実から、主張する必要が無いと思えるようになるまで、どれだけの苦悩や苦心があったかは俺には判らない。だけれど彼女はその現実を受け入れて、笑顔でいる。

 音楽を、曲を創り出さない者には判らない苦悩だ。

 これを生死の狭間で生きているような一也と同じように扱うことなどできはしないと判ってはいるが、それでも理不尽な現実を受け入れたという一点では僅かながらでも繋がりはあるように思える。

(少し、話してみたいものだが……)

 髪奈夕衣にとっては見ず知らずの人間である俺が、友人の死を勝手に語ることはできないし、語ったところで理解はできないだろう。しかし俺から一也の話をしなくても良い。髪奈夕衣の気持ちを、心の話を聞いてみたいのだ。答えに対する経緯は問題ではないが、それは結果的な話だ。俺はむしろ経緯に興味がある。

 俺は踵を返すと、もう一度Ro.Bi.Goへと向かった。




「いらっしゃい……ってさっきの?」

 店に入るなり、小材穂美が俺を迎えてくれた。朔美がいないことを訝しんでか、首をかしげつつそう言った。

「あぁ、新崎聡と言います」

「聡君ね。どしたの?」

「あの、髪奈夕衣さんと少し、話がしたくて……」

 捉え方によっては妙な勘違いをされそうではあるが、先ほど髪奈夕衣には恋人がいることは確認済みだ。妙な勘違いはされまい。

「何?惚れちゃった?駄目よ、さっきも言ったけど彼氏」

 ま、まぁそんなこともあろう。

「あぁいえ、違います。そういうんじゃなくてですね、ちょっと個人的心象な部分で訊いてみたいことが……」

「もしかしてIshtar Featherのこと?」

 こんな伝え方をすれば判るだろう。穂美嬢はすぐに察してくれてそう言った。

「まぁ、そんなところです」

「んー、まぁ一応さっきも話したけど、デリケートな部分ではあるのよね」

 それも小材穂美が直接関与している訳でもない話だ。彼女の独断では決められないだろうし、もしも本当に辛い思いをしたのであれば、やはりそれは他人に近い俺のような人間には簡単には話せない事柄だろう。

「そうですか。俺も無理に聞き出そうという気はないので、じゃあ」

 それならば仕方がない。無理に食い下がってまで、という気にはなれない。俺がもしも一也のことを訊かれればやはり、他人に近いような人間に話す気にはなれない。

「あ、でも聡君のことはちゃんと伝えとくよ」

 それだけでも有り難い。貴重な話を聞く機会はあるかもしれない。

「一応自己弁護ですが、今俺には好きな人がいます。決して髪奈さんに変な気持ちを抱いている訳ではないことは伝えてください」

「真面目か」

 なんというか、表現しがたい呆れ顔とでも言えば良いのか、ともかく、そんな表情で小材穂美は言った。

「クソ真面目ではないですが、ちゃらんぽらんでもないです。それじゃあ、お願いします」

 俺も苦笑を返しつつ軽く会釈をすると踵を返す。話せるかどうかは定かではない。髪奈夕衣にとってもデリケートな話であることは、小材穂美から言われるまでもなく判っている。いや、薄々は感付いてはいた。だから食い下がってまで話を聞こうとは思わない。しかし、もしも話してくれるというのであれば、是非とも聞いてみたい。

「ちょおっと待てぇい」

 ぐい、と肩を掴まれた。

「は?」

「あんたの連絡先教えなさいよ。いちいち元カノ介して連絡なんてダルいでしょうが」

「それもそうですね」

 仰る通り、効率の悪いことこの上ない。小材穂美も今日会ったばかりでどういう人間かは判らないが、とにかく気風の良い人物なのだろう。携帯電話を取り出して自分のメールアドレスを小材穂美に見せた。

「おけ、じゃあ夕衣には話しとくから」

 手早く自分の携帯電話に俺のメールアドレスを登録して、小材穂美は笑顔になった。髪奈夕衣に気を取られていたが、小材穂美も中々の美人だ。

(いや、不謹慎だな)

「お願いします」

 俺は心の中でひっそりと謝罪もしつつ、もう一度会釈した。

第二五話:苦悩 終り

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