二〇一二年十月二十八日 日曜日
後悔、という言葉がある。
文字通り後になって悔やむ、と言うことで、後悔先に立たずという有名な諺もある。
確かに悔やむことなど先にはできはしない。先に悔やんでおけば後は大丈夫、などという事象はこの世の中には存在しないだろう。
確かに後悔先に立たずという言葉は理に叶っている。後になって悔やむくらいならやらない方が良かった、などという言葉も耳にすることがあるが、それでは学びも何もない。
これは俺の持論でしかないが、数々の後悔こそが人の礎を作るのではないだろうか。
「その必要はない。今電話で話せば良いだろう」
味も素っ気もなく俺は言い放つ。メールの返信をしたことを俺は後悔し始めていた。こいつは半年前まで俺と交際していた、平たく言えば『元カノ』ということになる。フルネームは藤井朔美。俺の一つ年上、七本槍高等学校三年生だ。俺はどうやら間男のように扱われ、要らなくなったらポイ捨てされたということになった。女性全てがそうではないと判ってはいるが、大して好きでもない男と付き合ったり、肉体関係を持ったりできる女というのは実在する。そして女性を擁護する訳ではないが、そんな男だって勿論存在する。つまり藤井朔美とはそういう女だった。
『……相変わらずだね、聡は』
「女に捨てられて殊勝な性格になるとでも思ったか?優しい言葉が欲しいなら他を当ってくれ」
何の感情もなく、ばらりずんと一刀両断だ。
『他を当れないから連絡したんだよ』
悪びれもせずに朔美は言う。つまりは朔美も俺がどういう人間かなどもう判り切ってしまっているのだ。反撃させてもらうのならば、僅か一年ほど付き合った程度で俺を判った気になるなと言いたいところだが、自身が奥の深い人間などではないことを俺は熟知している。
「つまり優しい言葉も気遣いも要らんということで良いんだな」
『ま、そうだね』
掴み所がないのは相変わらずか。そんな掴み所のない性格のせいで、付き合っていた当初、俺は朔美に嫌われたくない一心で様々なことを試みたし、色々と気遣いもした。結果的にそれはやり過ぎだったのだろうと今では判ることだが、今では朔美に対し一欠片の恋慕の情もないから判ることだった。とどのつまり、今の俺は朔美の言葉や行動で揺れ動くことなど何一つない、ということだ。
『今、彼女いるの?』
「余計なお世話だ」
『もう少しソフトになった方が良いよ。老婆心だけどさ』
「……」
確かに無暗矢鱈に攻撃的になっているような気がした。それはつまり、少なからず今でも朔美を良く思っていない、つまりは失恋の尾を引いているということになるのではないか。
(冗談じゃない)
それに朔美もこんな下らない話をしたい訳ではあるまい。朔美は空気を読まない女ではないが、読めないことはざらにある。さて、優しい言葉など必要としない、という裏はなんだ。どう出る。
『ちゃんとね、謝ってなかったな、と思って』
「何の謝罪だ」
『私が聡に不義理したこと。今更、なんだけどさ』
結果的に俺が不遇となる別れ方をしたのは確かだ。だが、俺も朔美もお互いの正義を持って、その正義がそぐわなかったために発生した別れだ。謝ることなど、いや、謝られたところで何が変わる訳でもない。朔美の行動は明らかに建設的ではない。
「そうだな。忘れていたことを無理矢理引っ張り出されて謝罪されたところで誰の気が済むんだ」
いかんな、まだ攻撃的な言葉が口を突いて出る。認めたくはないが、やはり俺はいまだにどこか、捨てられたということを根に持ってしまっているのだ。
(矮小な男だ、俺も)
これは認めざるを得ない。
『勿論私の自己満足だけど』
「それはそうだろうな。別に曇っている訳ではないが、俺の気も当然晴れない」
『曇ってないなら何より』
多少の強がりもあるが、今は確かに朔美に構っている場合ではないし、気持ちが残っている訳でもない。
「お前のおかげで雲行きは怪しくなりそうだが」
『大丈夫だよ。相変わらずな聡のおかげで私は晴れ晴れ』
ま、体の良い自己満足と来れば、俺が考え付くのはただ一つ。とどのつまり。
「いい迷惑だ。つまりあれだな、失恋したんだろう」
『あら、優しい』
「優しくはしていない。状況からの推測だ」
やはりそうか。責めたい気持ちがないではないが、今となっては責める気も起きない俺が(いや、少々責めてしまったが)、再び彼女を責める気持ちが湧き上がってきたのだとしたら、それはまたしても思っていた女にこっぴどくやられた時だろう、と思ったからだ。とどのつまり、同じ目に遭えばきっと昔を思い起こすだろう、という単純な話だ。
『振られてみて初めて聡の気持ちがほんの少しでも、判ったつもりにでもなれたのかな、って。猛烈にね、聡に謝りたくなっちゃったんだ』
なるほど。俺に悪いことをしたのだと判ったのならそれで良い。それで俺の気も晴れると言うものだ。謝罪などなくしても。
「終わったことだ。今更俺は何とも思わんが好きなだけ謝れば良い」
『うん、ごめんね、聡』
俺も心のどこかで長くは続かない、と思いながら付き合っていた結果なのだ。これが。俺は俺という人間の正当性を前面に押し出して被害者面をしているが、朔美は朔美できっと正当性があることを無視していた。俺も本気で、本当に朔美をどうにかできると思っていれば、もう少し俺の行動も変わっていたのかもしれない。そういう思いが俺の中で燻っていたことは確かだ。
「今だから言うが……」
『何?』
だが、それを言ったところで何の意味も持たない。朔美は俺とは関係のない人生を選び、今の俺もまた、朔美とは関係のない人間を、そう、関谷香織に思いを寄せている。
「いや、やめとく。何も生まない言葉だ」
『聡らしいね』
そう朔美は言って軽く笑ったようだった。だが、どうだろうな。俺の俺らしさとは本来何だろうか。ここ数か月の出来事で俺はどうやら自分を正しく見積もってはいない気がしている。慧太や水沢、関谷が俺は面白い人間だと言う。俺程面白味のない人間などいないと思っていた俺の価値基準が一気に瓦解してしまったのだ。ならば本当の俺とは一体どんな人間なのだろう。
「いや、やはり一つだけ言って置こう」
朔美は自分のした事に気付いて謝った。それが過ちだったと、気付いて俺に謝罪をした。それならば俺も返さなければならない。
『うん』
「ごめんな」
『……何でだかは判らないけど、うん』
やはり判ってはもらえなかったか。だが、それも仕方のないことだ。俺はあの当時はできることはやったと思い込んでいた。だが、今思い返せばそれは当たり前のことでしかなかったかもしれないし、過ぎたることばかりをしていたようにも思う。当時の俺に朔美が何も返してくれなかったことは確かだが、俺は見返りを求めていて、見返りがなかったことに憤りを感じていただけだ。
「そっちも相変わらずだな」
朔美の掴み所のない性格は変わっていない。俺も心底から朔美を憎むことはできなかったようだ。それが判ると何だかあきらめに似たような、それでも少し晴れやかなような気持になった。
『聡も、と思ったけど聡はちょっと変わったね』
朔美でも感じるか。やはり俺は自分の見積もりをもう一度改める必要があるのだろう。軽音楽部の連中と関わり始めてからこっち、俺は急激に友達も増えた。自分では人に好かれるような性格ではないと自覚していた。だから友達という存在を餌に軽音楽部に入部させようとしているのではないか、と連中のことも疑った。それは全くの杞憂だったし、俺自身が創り上げていた新崎聡像がどうやらめっきの偶像だったようだ。
「かもしれん。色々と刺激の強い経験が立て続けにあったからな」
『なるほどね。でもそれが今の聡を創ってるんだとしたら、良い経験だったんだろうね』
「ま、そうかもしれないけどな」
だからといって友達の死に直面することが良い経験だなどとはとても言い難い。確かに様々なことを考えなければならないし、迂闊な浅慮がどんな混乱を招くか判ったものではない。俺は自分が思慮深い人間だとは思わないが、それでも迂闊な行動はとるべからず、という考え方はここ最近で特に重要だと思っている。だから、朔美が変わったと言うのは恐らく間違いではない。
『とりあえずゴハンまだなら、今日一緒にどうかな。奢るよ。ずっと奢ってもらってばっかりだったから、ちょっとくらい恩返しさせて』
そうだ。以前のままの俺ならば、きっと俺は軽音楽部に入ることはなかった。慧太のことはうるさい奴だと思ったかもしれないし、慎に至っては鬱陶しいとしか思わなかっただろう。そして一也とはずっと同じ中学だったが話したことはなかった、という存在でお終いだったはずだ。慧太と知り合わなければvultureに行くこともなかったし、水沢とは何の関わりもない人生だった。そして何より、関谷香織の持つ数多の魅力に何一つ気付くこともなかった、ということなのだ。俺の中に無意識の内に人に対する自分の考えを改める、という考え方が芽生えていたのだ。
「元彼のグチなら聞かんぞ」
『なにそれ。それを言うなら聡だって元彼なんだけど』
「そうだったな……」
俺としては振られたばかりの彼氏のことを言ったつもりだったのだが、俺と付き合っていた頃の愚痴は聞かない、という意味にも取られてしまうな。いや、今の朔美ならば少々の諧謔は判りそうな気がしたので、無用な心配なのだろうが。
『ありがとね、急なメールと電話だったのに』
「いや。面倒ごとは先延ばしにせずさっさと片付けた方が良いと感じただけだ」
俺は本心を素直に述べた。冷たい言いようになってしまうかもしれないが、この先俺の人生には余り接点がないであろう人間と、けりをつけておかなければならないことにけりをつけるチャンスだっただけだ。
『オブラート……』
「苦い薬が飲めないほどの子供でもないだろう」
かといって酸いも甘いも噛み分けられるほど大人でもない。時には逃げ道も必要なのだ。それは俺も判っている。だからこそ朔美の申し出を受けようと考えた。
『それはそうだけどさ。……北口でいい?』
どことなく楽しげに朔美は言った。もしかしたら、辛い恋愛だったのかもしれない。寂しさの方が勿論大きいのだろう。悲しみの方が勿論大きいのだろう。だけれど、どこかで開放感に浸っているような気がしないでもないのだ。それはつまり、いつからかは判らないが、最後には辛い恋愛になってしまったということなのだろう。
「……あぁ。時間は」
北口ならば顔見知りに見られる危険性は少ない。楽器店兼、リハーサルスタジオEDITIONもvultureも南口側だ。慧太や水沢は勿論のことだが、関谷には絶対に見られたくない。勿論誤解をされぬように説明をすれば良いことだが、言い訳がましい上に見苦しい。そして何より面倒でならない。それに状況的に話せれば良いが、遠くから見かけただけ、となるとあらぬ噂が立ってしまうかもしれない。自意識過剰かとは思うが、そういったことを慧太や慎ならば大いに楽しみそうではないか。
『んー、七時半で』
「了解した」
半年振りに顔を見た。派手に色を抜いていた髪は本来の色に近付きつつある。恐らくは受験だの面接だので色を戻しているのだろう。そのせいなのか以前よりもおとなしそうな印象を受けたが、それは失恋のショックもあるのかもしれなかった。
「おい、俺は不良学生になるつもりはないぞ」
朔美の後ろについて行く形でたどり着いた店は、存在は知っていたが入ったことのない店だった。
「私も不良の道に引きずり込もうだなんて思っていないわ」
つまるところ朔美が俺を連れてきた店は、ライブバーRo.Bi.Goだった。この店の存在は知っていたし、未成年のバンドでもライブ出演をさせてくれることから、いつか、一度はステージに立ってみたいとは思っていた場所だ。勿論建前上、未成年にアルコールはご法度だが、どこのライブハウスもある意味では治外法権と言わんばかりに未成年者が喫煙やアルコール摂取をしている。かく言うこの俺もライブハウスでの喫煙と飲酒は常習犯だ。だが俺は、ライブでもないのにバーに酒を呑みに来るほど不良学生ではない。
「だが酒を呑む店だろう」
「食べ物も美味しいの。知り合いのお店でもあるからさ」
言いながら朔美は店の扉を開き、地下に伸びる階段を軽快に下りて行く。朔美も元はバンドつながりで知り合った女だ。勿論ライブハウスでの飲酒はこいつも常習犯だった。階段を降り切ると防音扉が現れる。それを開くと、ホールというか、手狭なちょっとした体育館のような造りの店内が目に飛び込んできた。なるほど、中はこういった具合なのか。天井から壁から、遮音シートで埋め尽くされ、音の反響は極力少なくなるようにしてあるようだ。入り口から縦長に広がった店内の一番奥がステージで、入り口から三メートルほど進んだ左手がカウンター席になっていた。厨房はその奥になるのだろう。ライブハウスと違い、きちんと料理を作るスペースが確保されている。
「知り合いがいるのか」
朔美は入り口で立ち止まり、店内をきょろきょろと見回した。
「そ。店長さんの娘さん。二四歳だったかな。聡の先輩でもあるんだよ」
「瀬能学園出身か」
だとするならば六歳から七歳も年が離れていることになる。先輩であれなんであれ、クラスメートの顔ですら満足に覚えない俺がその人物を知る由もなかった。
「うん。あ、いた。こんばんは、穂美さん」
そう手を振った朔美に女が一人、近付いてきた。やはり見たことのない顔だ。美人ではあるが、随分と気の強そうな印象を受ける。
「おぉ朔美、来たね。席取っといたよ。何、彼氏?」
ニヤニヤしながらその穂美嬢は俺を見た。全く、女と言う生き物はこういった類の話が好きなのだな。
「元、です」
「ほほぅ。中々良い男じゃないの」
苦笑しつつ言った朔美に穂美嬢ははっきりと俺に聞こえる声で朔美に耳打ちした。初対面の人間に対し……いや、どうも朔美との会話のせいで説教臭くなってしまっているのか、失礼な振る舞いはむしろ俺がいつもしてしまっていることだ。これは改めねばなるまい。
「ども」
穂美嬢の社交辞令にどう反応して良いか判らず、俺は中途半端な会釈をするにとどまった。どう反応すれば良いのか戸惑ってしまった。
「今日はバンドじゃないけどいいの?」
「だから今日にしたんです」
どうやら予約してあったのだろう席に着くと俺と朔美は椅子に座った。そして穂美嬢の言葉は朔美の行動が突発的なものではなく、計画的なものであったという裏付けになった。
「……」
「偶然よ。たまたま」
俺は無言で朔美を見る。別に睨んだ訳ではないが、朔美は苦笑と共にそんなことを言った。
「で、バンドじゃないとはどういうことだ?」
ライブバーに来たからにはライブを見ながら食事を摂るということだったのだろうが、その出演者がバンドではないということなのは何となく判った。だとするならば、だ。
「あ、今日の出演者のこと。今日はアコースティックデーなんだって。……なんかさ、バンドでわっと騒ぐ気にもなれないしないし、アコースティクなら丁度いいかな、って」
「そういうことか」
俺を食事に誘うことが突発的であったか計画的であったかは別として、今日のこの店の出演者がバンド、それも派手な盛り上がりを見せるようなバンドではないということが、朔美の言う『たまたま』だったということか。
「んじゃ決まったら呼んで」
俺の納得を待っていた訳でもないだろうが、丁度良いタイミングで穂美嬢は言うと俺たちに背を向けた。
「はい。有難うございます」
「ありがとね、突然だったのに」
料理の注文も終えてひと段落着いたところで朔美は言った。その表情は自嘲に満ちている。この半年で、いや、男と別れたことで何か朔美の中で心境の変化があったのだろうことは先ほどから感じ取れていた。
「さっきも言ったが面倒ごとはさっさと片付けるに限る」
冗談と取れるように俺は再び言った。さすがにここまで殊勝な姿勢を見せられては俺も茶化す訳にはいかない。朔美に対する考えは改まったとはいえ、文句の一つや二つ、と思っていたのだが、どうやら朔美への怒りは俺の中でも薄れて消えてしまったらしい。
「はいはい。物足りなかったらじゃんじゃん追加してね」
「随分と羽振りが良いじゃないか」
高校三年生ともなれば受験を控え、アルバイトなどやっている暇もないはずなのだが。
「ま、ちょっと臨時収入があったからさ」
「それならば遠慮なく」
正直に言えば朔美の収入源など知ったことではない。付き合っていた頃は何かあれば半分以上は俺が払っていたのだから。我ながら矮小なことだとは思うが、取り返せるものならば少しくらいは取り返しても良いではないか。
「付き合ってた頃は結構出してくれてたもんね」
「覚えていたとは驚きだ」
だから返せ、と言う訳ではない。世の中には女と別れた際に女に慰謝料を請求する男もいるそうだ。多少、気持ちは判らないでもないのだが、だからと言って実際に金をむしり取ろうという行為に踏み出す人間の気持ちは俺には判らない。そこまでの目に遭っていないからだと言われればそれまでだが、本気で愛し合っていた女から金をむしり取ろうとするからには相当な仕打ちを受けたのだろうことくらいしか想像はできない。
「覚えてるよ。あの時は返せなかったけれどね」
「その言葉を聞けただけでも来た価値があったかもしれないな」
一度奢られるくらい、慰謝料に比べれば可愛いものではないか。それで朔美の気が済むのならば喜んで奢られよう。
「まぁ、今もさして変わらないけれどあの時の私はホントに酷かったな、って最近になってようやく思えてきたのかも」
「後悔先に立たずだ」
言いながら俺の口も良く減らないものだと呆れてしまう。可愛げがない、の一言では済まされないレベルだが、朔美も俺がどういった人間かを判っていると思うからこそ、甘えてしまう。これは甘えだ。いや、甘えというには少し厳しいのかもしれないが、人によってはそれが甘えになることも充分に有り得る。
「全くね」
「でもま、先には立たないがこれからの礎にはなるだろう。後悔そのものが一概に悪いとは言い切れん」
これは俺の持論でもある。『後悔先に立たず』とはよく言ったものだが、それだけでは後悔は全てが悪になってしまう。失敗や後悔から学ぶものはあるし、後悔したことの無い人間などいない。ならば前向きに、これは前進に必要な失敗だと割り切ってしまう方が建設的だろうということだ。
「でも聡を傷つけたことには変わりないし、それをなかったことにはしちゃいけないなって、今は思ってる」
「随分と殊勝じゃないか」
実際に朔美は当時よりも考え方に厚みが増していると思える。俺のおかげだなどと言うつもりは毛頭もないが、やはり後悔から学ぶことは大きいということだ。
「だから本当に悪いと思ってるんだってば。信じてもらえないかもだけど」
「信じるさ。いや、ちゃんと奢ってもらってからにするか」
何となく付き合っていた頃のような雰囲気に戻って俺は言った。
「奢るわよ、心配しなくたって」
「冗談だ」
「さっきも言ったけど、聡は少し変わったね」
そうさ。俺だって後悔を礎にして成長している。それは俺自身が気付いているほどだ。僅かとはいえ、身も心も一つになったことがある相手であれば、その変化は尚の事如実に表れているのだろう。
「そういう朔美もな」
後悔を礎にして成長することができるのが人間だ。朔美も変われば俺も変わる。その逆もまた然り。失敗し、後悔し、結果はどうあれそれを再び繰り返さないように心配りができないのは単なるばか者だ。
「好きな人でもできた?」
唐突、と言えば唐突な朔美からの問いだ。そうはっきりと訊かれてしまえば、もう自分にも嘘をつくことはできない。半ば開き直って俺は頷いた。
「……まぁ有体に言えば」
「ほほぅ?」
興味深そうに朔美がおどける。
「言っておくがお前とは似ても似つかない」
「それは何より」
俺は恐らく理想の女性像というものはない。いや、有るには有るのかもしれないが、特にこうでなくてはいけない、などということはない。勿論常識の範囲内ではあるが。
「ま、それだけじゃないんだがな」
好きな女ができて変わったのかといえば、それはもちろんあるのだろうが、その前から俺は自身の変化に気付いている。
「え?」
「俺は言われるまでもなく、半年前とは変わったという自覚がある」
「自覚あるんだ」
意外、というよりは関心の方が強い様な返答だ。
「でなきゃここには来てないと思うが」
慧太と出会い、涼子さん、水沢、関谷、慎、一也と次々に知り合い、良くしてもらった。俺は彼、彼女たちに応えられるだけの振る舞いをし、我が身を正そうと考えた。
それまでの新崎聡というくだらない人間が、彼、彼女らからの恩恵を無視してまで通すべき我はどこにもなかった。
「そうかな。聡が優しいのは変わらないよ」
「……優しい?」
とんでもない勘違いだ。あれは、あの時の朔美への言動はあるいは優しさもあったのかもしれないが、純粋な優しさなどではなかった。
「うん」
「俺が優しかったのは裏があってのことだと判っていただろう」
「好きな人に優しくするのが裏だなんて思うのは聡だけだよ、きっとね」
そこを突かれると俺も自分が面倒な思考をしていると思わざるを得ないのだが、とは言え無視できる問題でもないと俺は思っている。
「……下心があってもか」
「下心があるから好きな女には優しくできない、っていう方が異常じゃない?」
異常、か。つまり下心とは好きという感情について回る厄介なものだ。そしてついて回る物ならば、それを一括りにして認めてしまうしかない、ということなのだろう。確かに下心と優しさを、好きな相手に分けて考えるとなれば、これは本当に面倒でならない。
「まぁ、そうかもしれんが、それでも後ろめたさはある」
そう。だからと言って考えない訳にはいかない。自分で言うのも癪だが新崎聡は面倒臭くて気難しい奴なんだ。
「優しくされた方はそんなこと思わないけれどね。ま、その優しさにつけ込んでるなら、聡が言うところの下心とどっこい、ってこと……にはならないね」
自分がしてきたことを思い返したのか、朔美は自重したように言った。
「今はどっこいだろう」
そうだ。今はどっこいだ。俺も結局は傷心だった朔美に付け込んだ。そして朔美も俺の下心ありきの優しさにつけ込んだ。だとするならば、これはイーブンだ。今となっては。
「ま、過去の事か」
「そういうことだ」
俺はそう言うとぐい、と一口水を飲んだ。
「どうだった?」
食べ終えてほぼ空になった食器を引き上げに来た穂美嬢が声を掛けてきた。
「美味しかったです。有難うございました」
特に声に出して言うのもわざとらしさが付きまとうと思ったので、俺は相槌ともとれる会釈を見せた。確かに出てきたものは全て美味しかったし、ライブの雰囲気もアコースティックのアーティストばかりだったためか、なるほど、こうした話をするのにはお誂え向きだった。中にはじゃかじゃかと喧しいアーティストもいたが、そこはそれ、落ち着いた話をする店ではないのだから文句は言えない。むしろライブバーという店で出てくる食事としてはかなりレベルの高いものなのではないだろうか。
「礼を言うのはこっちよ、今日の朔美はお客様なんだから」
「そうですね。でも美味しいものをご馳走になってるんですから、これは感謝です」
「……あんたなんか変わったわね」
別れた原因ばかりを思い出せば、確かに過去の朔美は俺にとっては駄目な人間であったが、過去のマイナス要因だけで人間を判断してはいけない。俺と付き合う前や付き合っていた頃でも、別に礼節を欠く人間ではなかったし、掴み所はなくとも、良くも悪くも素直だったはずだ。
「かもしれないですね」
苦笑する朔美を見ると、朔美自身も自身の変化には気付いているのかもしれない。いや気付いたのだろう。だからこそ俺に謝罪をし、こうして食事にまで誘ってきたのだ。それに穂美嬢も朔美を変わった、と評した。つまりは俺以外の人間から見ても、朔美は一皮むけた人間になったということなのだろう。やはり後悔は人を成長させるものなのだ。
「もうちょっとだけ時間ある?」
穂美嬢は笑顔でそう言ってきた。ライブ自体はまだ終わってはいないようだったが、何かあるのだろうか。
「私は大丈夫ですけど、聡は?」
「あぁ、俺も大丈夫ですが……」
俺の返答を聞くと、穂美嬢はうんうん、と頷いた。
「今日のトリ、私の友達なんだけどさ、凄くいいから聴いてから帰って」
「なるほど。判りました」
アコースティックのアーティストは好きだ。ライブバーの店長の娘がそうまで言うからには中々の人物がトリに控えているということなのだろう。これは楽しみだ。
第二四話:後悔 終り
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