二〇一二年十一月十日 土曜日
追悼、という言葉がある。
読んで字のごとく、追って悼む。後から追って故人を悼むということだ。
良く有名人などが亡くなった場合には追悼のテレビ番組が放映されたりもするが、悼むとは生前の頃を忍び、死後を哀しむ、といった意味だろう。そういった気持ちを込めてそういう番組は放映される。
つまりは逝ってしまった者を忘れないためにも必要な、ある種の儀式のようなものなのだろう。
結局一也の意識はあれから一度も戻らなかった。
あのまま病院に搬送され、病院で息を引き取った。
通夜、葬式と立て続けに出席し、慌ただしい一週間があっという間に過ぎてしまった。
一也がいなくなってしまったという実感だけが、妙に、鮮明に残ったままだ。良く心に穴が開いたようだ、という表現があるが、正しくその通りだと、そんなことを考えるのが関の山だった。
そして後に残ったのは、後悔の念ばかりだ。
俺達にはどうしようもなかったこととはいえ、俺達にもできることはあったはずだった。できたはずだった。そういう念ばかりが後から後から出てきてしまう。それは俺だけではなく、慧太も慎も尭也さんも、同じ様だった。俺達だけではない。香織も、水沢も、殊更に瀬野口先輩と伊関先輩はそれが顕著だった。
逝って仕舞う者と、遺された者。
念は遺された者の方が今は、強い。だけれど、俺は死に逝く者の念の強さも、自分なりには実感していた。
最後のライブ。あの文化祭のステージでの出来事は俺の勝手な妄想だったのかもしれない。だけれど俺はそれを妄想の一言では片付けられない、と強く感じていた。
「うし、今日もまぁまぁやったな」
「ですね」
EDITIONでの練習。文化祭を境に尭也さんが軽音楽部を引退した。部室は部員のものだ、と尭也さんは頑として部室での練習を拒んだため、俺達の軽音楽部の中で固定されたバンドは、こうしてEDITIONで練習をすることとなった。
確かに一年生の為を思えば尭也さんの心意気も判る。だが俺達は高校生だ。揃いも揃って貧乏学生だ。せこい話ではあるが、ただで練習できる場を態々放棄するのも勿体ないと思うのである。しかし、俺も軽音楽部の中では二年生だ。三年生が引退した今では最上級生ということになる。やはり一年生に機材を使わせてあげたい気持ちは勿論あったので、当然そんなことなどは口には出さないことにしている。
「それにしても、この形でも慣れちゃうんですね、こうやって」
慎が言って嘆息する。
一也が生きていた頃からこの形態でも練習はしていた。バンドとしては大分まとまってきた。しかし慎が言っているのは音のことだけではないのだろう。
遅かれ早かれそういうことになって行く。厳しいが、それが現実なのだろう。だがそれは俺達が一也の存在を軽んじていたり、忘れていくということとは決定的に違う。
「まぁな」
「でもさ、それになんなくちゃいけないんじゃないのか?俺達はさ」
意外と意志の強い口調で慧太が言った。やはり一也の死で一番応えていたのは慧太だったと思う。良く一週間でまたバンドで歌えるようになったものだ、と驚くほどに。その慧太がここまでの意志の強さを見せるというのは、一也に対しての意地なのか。
「というと?」
「前に聡と話した時に出た話題なんだけどさ」
「新崎君と?」
俺と?そんな話、したような覚えはないが。
「あぁ。一也が死んだとき、ショックを受けないのと受けるの、どっちがいいって話になった」
そのことか。僅かにひと月ほど前のことだったのだが、妙に懐かしく感じてしまう。それはとりもなおさず、俺達が濃密な時間を過ごせたことの証になるのだが。
「そりゃあさ、ショックを受けない程度の付き合いなんてしてこなかったよね」
慎はやはり聡明なのだろう。そのことに慧太よりも早く気付いていたのかもしれないが、慎のことだ。そんなことなど考えもせずに、自然にそうしていた可能性も充分に有り得る。
「だろ。だからさ、この形に慣れるってことも、寂しい気はするけどさ、寂しくて良いんじゃねぇか、って……」
辛くて当たり前で何が悪い、と。ある意味では居直っているようにも捉えられる。しかし当たり前なのだ。それが。一也がいなくなって、寂しい思いをして、少しずつでもそれに慣れて行く。それが自然だ。
「聡にしては随分まともなことを言うじゃねぇか」
「まぁ俺だってたまにはそんなことも言いますよ。慧太が半べそ描いて泣きついてきた日には」
あまりに真面目腐った話も気分が下向いてしまうだけだ。一也がいた頃のように馬鹿話で盛り上がるにはまだ早いかもしれないが、俺達だって立ち止まってはいられない。慧太には悪いが少々ネタにさせてもらうことにした。
「は、半べそなんか描いてねぇだろ!」
「そうだったか?」
俺が記憶している限り、慧太は二度ほど俺に泣きついてきたことがあったはずだ。その時その時で気分は重かったし、冗談にして笑い飛ばせるような話ではなかった。だが、あんなことでも、少しずつでも笑えるようにならなければならないのだ。
「それは別ん時だ!」
しっかりと覚えていたか。あの時は一也と殴り合いにまで発展しそうになったことも覚えているのだろうか。いや忘れるはずはないな。この俺が覚えているほどだ。
「でもべそは描いたんだね」
幸か不幸か、その二度とも慎は立ち会ってはいなかった。慎は慎で様々なことを考えていたのだろうことは判っていた。それに恐らく、二ヶ月経ってやっと判ってきたが、慎は一番話の判る男だ。いや、一番は尭也さんだが、尭也さんには俺達よりも一年長く生きているというアドバンテージがある。中年以降になってはその一年は大したアドバンテージではないが、一七年と一八年では今はまだ大きな開きがあると俺は個人的に思っている。なので、同い年の中では、という限定はつくが、慎はなかなかどうして話の判る男なのだ。出会った当初はこれほどの馬鹿者がいるものか、と思ったほどだったが、人は変わるものだ。
「ち、ちがう!描いてねぇ!」
「ま、でも聡の言う通りだな。やっぱ一也の馬鹿がいねぇと寂しいけどよ。オレァお前らがいればま、楽しいぜ」
喚く慧太を他所に尭也さんが言う。そうだ。一也がいないのは確かに寂しいが、俺にはまだ慧太も慎も尭也さんもいる。三か月前の俺であれば考えもしなかったことだ。馬鹿で考えなしで、自分独りだけで考えて、考えすぎて、一匹狼を気取っていた俺はもう、どこにもいない。気取っているつもりはなかったが、そう思われても、そう見られていても仕方のないことだったと思えるようになった。
「それはそうですね」
「結局それも瀬野口君の『いつも通り』なんだろうね」
慎が言う。一也のいたいつも通りも、一也のいないいつも通りも、一也が望んだことだ。
「ま、奴の望んだことだし。そんくらいは叶えてやんねぇとな」
「ですね」
それが死者に引きずられる、呪いであったとしても。一也を呪詛にしないために、俺達は俺達で、遺された者達で、出来ることをやって行かなければならないのだ。僅かでも、後悔をしないよう生きて行くために。
「あのぉ、さ」
慧太がおずおずと口を開く。歯切れが悪いのは気のせいではない。俺も含めてだが、やはり一也がいた頃のように馬鹿話をして、馬鹿笑い出来るような状況ではない。
「どうした?」
「いや、その……」
「何だよらしくねぇな」
言いたいことがあるのならばはっきり言えば良いのだが、恐らくは一也に関することなのだろう。でなければ慧太がこんなに口籠るはずがない。
「おれ、あのライブの時、なんかイッてたのかな、とか……」
「文化祭か」
普通ならば、ライブ中にテンションが上がりすぎてハイになりすぎただけだ、と言って流すところだが、俺にとっては思い当たる節がありまくりの話だ。尭也さんがすぐに切り返してきたということは、尭也さんにも何か思い当たる節があるということなのだろうか。
「はい。なんか、最後の曲やる前の、一也との最期の曲の時、一也の声が頭の中に響いたような気がしたんすよ」
「……」
やはり、俺だけではなかったのか。
あの時、事後ではあったが、慧太も慎も尭也さんも、どこか我を忘れたような、惚けた顔をしていた。恐らくは俺も。
「やっぱおれがおかしかったんすかね……」
この中で一番一也との付き合いが長いのは慧太だ。そんな間柄だからこそ、慧太自身の思いが、念が強過ぎた故に聞こえた幻聴だったのでは。そんな風に考えたのかもしれない。
「いや、俺も同じような体験をした」
俺はそんな慧太を肯定するように言った。俺と慧太だけの思い込みなのかもしれない。だが、俺もあの時、確かに一也の声を聞いた。あれは思い込みではない。そう信じたかった。
「聡もか」
すると、尭也さんが驚愕の眼差しを向けて俺にそう言ってきた。
「てことは尭也さんも、ですか」
そして慎もそう言う。その目はやはり驚愕に見開かれていた。
となると結局、ここにいる全員が一也の声を聴いたことになる。しかし言ってしまえばあれは超常現象であり、現実には有り得ない現象だ。何一つ科学的に証明などできないし、確証もない。
「オレが勝手に妄想したんじゃねぇかって思ってたんだけどな……」
珍しく自信無さそうに尭也さんが言う。尭也さんにしては珍しい姿だが、そこをからかう気にはなれなかった。それは俺も慧太も慎も、同じ気持ちだったからだ。
しかし、現実かどうかは別としても、結局みんなが同じ体験をしていた。あまりにも超常すぎて、おいそれとは口に出せなかったのだろう。俺も含め、この場にいる誰も。
「俺も何だか訳が判らなくなってました。あの時の、演奏の記憶が殆どないんです……」
気付いたら最後の音だったような、そんな曖昧な記憶しか残されていない。ふわふわと地に足が着いていなかったような浮遊感と、どうしようもない焦燥感。無我夢中で一也の声に応えていたような気がする。
「俺もだよ、新崎君。自分がどうやって曲弾いてたのか、全然覚えていないんだ」
恐らく皆同じ体験をしたということは、そういう感覚的なものですらも慧太も尭也さんも同じように感じていたということなのかもしれない。
「あの時、本望だって、あいつそう言ったんですよ、おれに」
話の内容まで同じだったのか?それは一也が俺達に伝えたかった思いが余りにも強くてそうさせた、ということなのだろうか。
「俺も聴いたよ」
「オレもだ」
「俺も……」
本当に、あれは本当だったのか。あの時、あの一也の声にそう問うた。だが、あの時の一也の声はさぁな、と笑っただけだった。……ような気がした。
今思えばあの反応は随分と一也らしい反応だったように思える。
「白昼夢にしちゃ出来過ぎだ」
額を押さえて尭也さんが言う。その気持ちは判らないでもない。こんなこと、俺達で共有する以外、他の誰にも言えないではないか。
「音楽ってこんなことができる、って、そう言ってたんだ」
俺にはそう言っていた。一也が他の三人に何を伝えたのかまでは判らない。だが、俺にはそう言っていた。
「伝える、ってことなのかな」
「恐らくはな」
ということは話の内容も皆同じような内容だったのか。
人の気持ちを、意思を、音楽は伝えることができる。一也が起こした奇跡など無くとも、音楽にはそういう力がある。それは、規模の大小はあるにせよ音楽をやる者全員が知っていることだ。俺達が全員で最後に演奏したあの曲には、少なくともそれ以上の伝える力が働いていた、ということなのだろうか。
「この形に慣れるのは確かに寂しいことかも判らない。だが奴はそれが自然だと言っていた」
そしてそうでなくてはならない。今どれだけ寂しい思いをしていても、だ。
「そうなんだけどさ、まだ一週間だよ」
「慣れ始めてるだけだ。別にあいつを忘れた訳じゃない」
慎の言いたいことは判る。しかしそれとこれとは話が違う。一也がいないという状態に慣れることと、一也を忘れてしまうことは同義ではない。そして逆に言えば、俺達はこのバンドを続ける限り、一也を忘れることなどありはしない。
「それは、そうなんだけどさ」
「俺はちょっと憤慨しているんだ」
憤慨とは少々大袈裟だが、憤っているのは本当だ。それもこれも正直なところ、一也にとっては八つ当たり以外の何物でもないのだが。
「憤慨?何でだよ」
目を丸くして慧太が喰らいついてきた。
「あいつはもしかしてあれで本望だったのかもしれないけどな、俺はまだまだ本望だなんて言えないんだ。まだまだ足りなかった。まだまだあいつと楽しみたかった。それは皆だって一緒だろう」
一言でまとめてしまうのならば、勝手に逝きやがって、というのが正直なところだ。
「そんなの当たり前だろ」
「だからな、この形になっても、あいつと関わった俺達が本望だって思うまで、やり続けたらいいんじゃないのか、ってな」
やり切るという事はもしかしたら難しいのかもしれない。しかしそれは今考えることではない。今俺達にはまだやる気が漲っている。先のことなど誰にも判らない。この先、誰かの心が変わらない限り、俺達は出来る限りの努力をしてこのバンドを続けて行くはずだ。少なくともそれまでは、という意味では続けて行けることに確信は持てる。
「それは確かに一理ある……」
神妙に慎が頷く。
「憤りを都合良い方へ持ってく、って訳か。便利な性格だよな、お前って」
尭也さんの言う通り、憤りという感情をパワーに変えて、などという極短絡的な思考であることは認める。しかしそれほど便利な思考回路をしている訳ではない。
「ま、尭也さんの短絡さが悪影響を及ぼしてるってだけの話なんですが」
冗談めかして俺は言う。だが、慧太や尭也さんの楽天さは俺を気安くさせる傾向にあることは事実だ。
「そこで責任転嫁すんじゃねぇよ」
はは、と尭也さんは楽しそうに笑った。
「何言ってんだかさっぱり判んねぇよ」
ぷぅ、と頬を膨らませて慧太は唸った。まぁ確かに慧太に対しては言い方が回りくどかったかもしれない。
「瀬野口君がいなくなった分、瀬野口君の分までこのバンドでやり切ってみようじゃないか、って話だよね」
「そういうこった」
慎が通訳をし、尭也さんも頷く。ストレートに言うには滑稽で恥ずかしい科白だ。だからという訳ではないが、つい遠回しな言い方になってしまったのは許して欲しいところだ。新崎聡はへそ曲がりで偏屈野郎なんだ。
「それなら言われるまでもねぇさ」
く、と拳を握って慧太も応える。しかしその声にもいつもの慧太の覇気はなかった。実際にまだ一也がいなくなって一週間だ。無理もない。
「それにしても、不思議なこともあるもんだよね」
神妙に慎は言う。それは確かに慎の言う通りだったので特に反駁はしない。
「聡なんか真っ先に否定しそうな話だけどな」
「俺は理屈屁理屈は並べるけど、推論が立たない非科学的なことが嫌いって訳じゃないんですよ」
とはいえ当然理屈が通らないことが好きという訳ではない。頭から超常現象を否定するのはどうかと思っているだけだ。超常現象というには語弊があるかもしれないが、それを言ってしまうと世界中の宗教や神事などにもケチをつけなければならない。俺はそういったことにはてんで疎いが、流石にそんな世界を敵に回すような趣味はない。
「まぁ好き嫌いの問題でもねぇわな」
「それは確かに。でも他人に吹聴できる話じゃないですね」
軽音楽部の連中であれば信じてくれる可能性はあるだろう。特に香織や水沢は。だが俺は軽音楽部に所属する部員全員の人となりまでは知らない。先ほど俺が述べたように宗教や神事に興味を持たなかったり、反駁するような人間だっているかもしれない。そうおいそれと口にして良い話ではないことは確かだ。
「俺達の秘密だね」
「キショいこと言うな慎」
全く持って尭也さんに同意しながら俺は相槌を打つ。
「キショくないでしょ!別に!」
「そういうのはな、彼女とやれ」
いや男四人で共通の秘密など気色悪いことこの上ない。恐らく一也だってそう思うはずだ。そうなっては一也も浮かばれないというものだな。
「俺達の絆みたいなものじゃないか!」
「まぁそう言えば言えるんだが……。お前、根がちょっと乙女だよな」
そう、確かに俺達に共通する、一也という掛け替えのない仲間の遺した奇跡は、俺達の絆にもなろうものだ。慎の言うことは実際に気色悪いことは確かだが、真っ向から否定する気にもなれない。
「そ、そんなことないです!」
か、っと顔を赤くして慎が声を高くする。思い当たる節でもあるのだろう。慎と桜木の間で何があったかなど実際の所あまり興味は沸かないが。
「やってるな、藤崎」
そんな話をしているところに現れたのは瀬野口早香だった。フォーマルではないが、私服にしては折り目正しい、ジャケットとロングスカート姿だ。パリッとした印象の服装は瀬野口早香に良く似合っていた。
「早香……。もういいのか?」
俺も同じことを言いたかった。
「あぁ。少し落ち着いたところだよ。色々とありがとう。姉として礼を言わせてくれ」
ぺこりと頭を下げるが、瀬野口先輩に頭を下げられる筋合いは俺達にはない。いや筋立てとして、瀬野口先輩がそうしなければならない気持ちは判らなくもない。だが、本当にそんなことをされる筋合いは俺達にはないのだ。
「そんな筋合いはねぇよ。オレらは自分の意思で一也に関わってたんだぜ。ただの一度でもお前が俺達に懇願したことがあったか?」
そうだ。俺に対しても、弟が死の病を抱えているなどとはおくびにも出さず、あくまでも一也の提唱していた『いつも通り』に準えた勧誘しかしてこなかった。
「それもそうだな。ただ、愚弟の姉としては良い奴らに恵まれた、という感謝の気持ちがあるのは本当のところだよ」
少し寂しそうに笑ってそう瀬野口先輩は告げた。少しやつれたような印象を受ける。肉親を喪った者として、こうも当たり前に、平然と振舞えるものなのか。個人的には瀬野口早香という人物は瞠目に値する。
「こそばゆいな」
尭也さんも悪乗りすることなく、瀬野口先輩の言葉を受け止めた。
「私も藤崎も引退だ。軽音楽部のことは頼むぞ、慧太、慎、聡」
そうだ。このバンドは尭也さんが軽音楽部を引退しても続く。しかし軽音楽部にはもう尭也さんも瀬野口先輩も伊関先輩もいないのだ。俺達には残念ながら瀬野口先輩や尭也さんのような威厳や凄み、いや、良く言えば人望を誰一人として持ち合わせてはいない。なので、今までと同じやり方は恐らく無理だろう。
だが軽音楽部の部員は何も頼りない男達だけではない。面倒見の良い香織と水沢がいる。彼女達の包容力や魅力は、軽音楽部をまとめても余りあるほどだ。だから何の心配も要らないだろう。
「ま、そこも言われるまでもないっすよ」
慧太も性格なのか後輩には好かれている。俺は嫌われないように気を回すのが精一杯だが、慧太や慎がいれば男達も大丈夫だろう。
「私個人的には聡を部長に推薦したい所なんだが……」
「願い下げです」
冗談ではない。俺が瀬野口先輩の目に留まるほどの動きができたのは、伊関先輩や瀬野口先輩、そして尭也さんがいてくれたからに他ならない。そもそも俺が文化祭で現場を取りまとめたのは、それが部長の仕事ではなかったからだ。
「だろうな。では至春の推薦と普通に考えての最善案だ。慎、頼めるか」
伊関先輩の推薦でもあるのか。自身では部長には向いていないと言っていた伊関先輩の推薦としては至極順当だ。慎は頭も良いし、慧太ほど突っ走り型では……突っ走り型だが、それは余計な突っ込みが有った時だけだと信じたい。俺がからかい半分に茶々を入れさえしなければ大丈夫だろう。
「お、俺ですか?」
「言わせてもらうが、慧太は馬鹿だし、聡はへそ曲がりの変人だ。そう考えると慎が一番適任だと思うが……」
酷い言われようだが返す言葉もないのが現実だ。とはいえ馬鹿は酷いな、と俺は慧太を盗み見て忍び笑いを漏らす。
「ま、それはそうだな」
「ちょ、新崎君!」
「おれもガラじゃねぇし。何より馬鹿には務まんねぇ」
ははは、と慧太は開き直る。とはいえ慧太は基本属性が正義の味方だ。困っている人間を見捨てはしないだろうし、それが慎ならば尚のこと。部長という役職につかなくとも、気付けば自然と慎を支えているに違いない。
「ま、慎でいんじゃねぇか?ヒスさえ起こさなきゃ」
「ヒスじゃないです!」
じゃあ何なのだ、とは突っ込まずにおこう。こういうのが余計な茶々なのだ。恐らく。
「慧太も聡も、慎を支えてやってくれ」
「やぶさかではありません」
部長という大それた役どころでさえなければ俺はそれで満足だ。それに慎は比較的常識的だ。多分。俺も非常識ではないとは思うが、へそ曲がりの偏屈者なのは自他共に認めるところだ。総合的に考えればやはり慎が適任だろう。
「ふん、部長ということは俺が一番偉いということだからな、新崎君!」
だが永慎という男はこういう馬鹿なことを平気で言い出す男だ。そういったところはこの俺が直々にフォローをしてやらなければならないだろう。
「あのな、慎、部長というのは偉い偉くないという秤にはかけられん。部員をきっちりまとめ、部活動をつつがなく活動させているからこそ、尊敬され、あるいは一目置かれ、あの人は偉い人だ、と思われるんだ。まずはきっちり部長職をこなしてからでなければ、偉ぶっているばかりの無能な部長、と罵られること請け合いだぞ」
至極尤もなことを言ってやる。慎としても下級生の信頼を得られないのは嫌だろう。大体俺に何度かやられているからといって、その仕返しとばかりに部長権限を振りかざして俺に挑んでくる慎が悪いのだ。
「ぐぅ……」
「ま、まぁともかく頼むぞ、慎」
少しだけ、いつもの調子を取り戻したせいか、苦笑しつつ瀬野口先輩は言った。
「わ、判りましたぁ」
「あれ早香、お前それだけ言いに来たのか?」
そう言えばそうだ。恐らくやっと取れたであろう休日に、態々それだけを言いにスタジオに来たとは思えない。
「まさか。これはついでだ。散々世話になった涼子さんや夕香さんにご挨拶をな……」
確かに言われてみれば俺達に話した内容など、学校でも充分に話せることだ。引退したとはいえ、尭也さんも伊関先輩も部室には顔を出している。
「ま、そうだろうな。ってことはあんま時間ねんだろ、オレたちのことはいいから行けよ」
生前、一也が世話になったところへ挨拶に回っているのだろう。せっかくの休日も休めないとは大変だとは思ったが、これは恐らく瀬野口先輩の個人の意思だろう。そうしたいからそうしている。そんな風に感じる。
「済まない。そうさせてもらう」
そう言って瀬野先輩は踵を返す。そして一度振り返った。
「ん?」
「できればこのバンド、私もずっと見ていたいと思ってな。出来る限り続けて行ってくれると嬉しい」
一也を忘れることなど一生ないだろう。それは俺達がこのバンドを辞めたとしても同じことだ。肉親を亡くしたこと、友達を、親友を亡くしたことは一生涯忘れることはない。だが、一也が俺を引き入れて、連中が俺を迎え入れてくれたバンド。そして俺達で一つずつ考えていったバンドだ。一也を忘れないために続けて欲しい訳ではなく、一也と共に過ごした大切な時間を共有している俺達がやっているバンドとして、瀬野口早香はそれを続けて欲しいと言っているのだろう。
「こりゃ思わぬ褒め言葉だ」
俺は一人呟くように言う。これほど嬉しい言葉はない、と俺は思ったのだ。
「お前も、辞めんなよな」
「勿論だ」
そう笑って瀬野口先輩はEDITIONから立ち去って行った。
「強ぇ女だな……」
「ですね」
全くだ。肉親を、たった一人の弟を亡くして僅か一週間の人間の態度とは思えない。それが無理をしている姿であっても、無理にでもその姿勢を取れるというのはやはり瞠目に値すると思うのだ。
「しょげてらんねっすね!」
少し慧太がいつもの元気を取り戻したように言う。
「そうだね。瀬野口先輩がああも気丈に振舞ってるのを見て、俺達だけ落ち込んでるなんてみっともないよ」
うん、と頷く。多少自分の言葉に酔っているような素振りが見えてしまった俺はつい余計な茶々を入れてしまった。
「慎にしてはまともなことを言うな」
「一言多いんだよ新崎君は!」
済まん。だがこれは永慎という人間に対しての俺の癖とも言うべき行動だ。他意はないので直しようもないのが困ったところだ。
「まぁオレも慎にしてはまともなこと言ったと思うぜ」
「ちょ、尭也さんまで!」
とは言うものの、意外と慎は俺達の中ではまともな感覚を持っている。ちなみにそれは、永慎がまともな人間かどうかというのとは全く別の話だ。
「あぁ、おれも慎にしちゃ」
「しつこい!」
更に言い募ろうとする慧太に慎がぴしゃりと言い放った。
少しだけ、一也がいた頃のような雰囲気を取り戻して俺は自然と笑顔になっていた。
第三六話:追悼 終り
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