二〇一二年十一月三日 土曜日
尊厳死という言葉がある。
調べればインフォームド・コンセント、蘇生措置拒否という言葉も出てくるのだが、つまりは人としての尊厳を守り、死に臨むということだ。病状が末期症状でこの先回復の見込みがないと判明した場合、患者本人が無作為だと感じた生命維持や延命処置などをせずに、人としての生命力を、人としての力のみで全うしたい、という倫理観にも触れる事柄だ。
一切の延命のための薬剤や、機械等を使用せずに死と向かい合うという事であり、これには意識はないがまだ生きている人を人として扱っていない、などの反対派も多く、日本国内でも法的に認められたものではない。混同されがちな安楽死とは全く質の違うものだ。
このことについて誰と話した訳でもないのだが、それでも一也はきっとこの道を選ぶのだろう、とこの言葉を知った時に思った。
文化祭当日。
俺達の出番は夕方からだ。勿論早朝から学校には来ているが、軽音楽部としてはやることがない。とりあえず校舎の外で色々と催しているものを見て回りもしたが、午前中の時間を潰すのがやっとだった。昼食時になり、校舎の外に出ていた屋台で買った色々を昼飯代わりにしようと一旦部室に戻ったが、誰もいなかった。慧太と慎は朝からはしゃいでいた。飽きることなくあちこちと回っている最中だ。尭也さんも以前彼女が来る、と言っていたので別行動をしているはずだ。俺は屋台で買ったたこ焼き、イカ焼き、ホットドッグを机の上に置くと無言で食べ始めた。
香織も五反田と見て回ると言っていた。五反田は香織に俺と回れと言ったらしいが前々からの約束だったらしいので俺は香織の意見を尊重した。ま、文化祭を見て回るのは来年でもできる。それに出来る事ならばあまり一也の傍を離れたくないという気持ちも強い。それは香織も判ってくれているので、お互いに好都合といったところだった。
しかし肝心の一也が部室にいない。まさかの行動は取らないとは思うが、それでも心配の種は尽きないものだ。部室からは屋上が見える。そこに一也の姿はないように思うが油断はできない。ちらちらと屋上を気にしながら食べていたらあっという間に食べ終えてしまった。
「よぅ聡。見て回ったか?」
何というタイミングか。持参したペットボトルのお茶を一口飲んだ所に一也が現れた。元気そうではあるが、やはり顔色は優れないままだ。とはいえ、今日のライブは無事にやれそうなのは安心だ。
「まだ校舎の外しか見ていない。そもそも騒がしいのは好かんからな。殆ど歩いて回ったに過ぎないが」
「はは、聡らしいな」
少し、訊いてみるか。
「……どうだ、調子は」
「ここんとこはまぁ調子いいな。顔色は悪ぃまんまだけど」
ぺん、と自分の額を軽く平手で叩いて一也は笑った。確かに元気そうには見える。俺達の前で発作が起きるだとか、急激に容態が変化するといったことも今まではなかった。これからもないとは言い切れないが、今までの例に倣うのであれば、一応は安心できる。
「そうか。今日が終わったらさっさと次のライブを組むぞ」
「マジか」
と言う割には嬉しそうな顔をする。以前尭也さんに言ったことだが、正直体育館の音響設備はお世辞にも良いとは言えない。モニタースピーカーもないので中音も出音も関係ない。おまけに真正面は防音処置も何もされていない壁なので、ドラムの音など時間差で跳ね返ってくる。見ている生徒が多ければその反響もいくらかは抑えられるが、やはりPAが色々とやってくれるライブハウスの環境とは訳が違う。
「折角良いバンドなんだ。ライブハウスでやらないとな」
「だな」
く、と軽く拳を握って一也は嬉しそうに頷いた。バンドをやっている以上、ライブというのは一つの答えだ。勿論CDを出したい、メジャーデビューをしたい、等とバンドや個人によって答えは様々だが、ライブをしたくないバンドなどただの一つもないはずだ。
「それにしても聡」
「ん?」
「関谷の事、ソッコーだったな」
何を言い出すのかと思えば、だ。ウィンカーも出さずに車線変更してきやがった。
「別にユイゴンとやらを守った訳じゃあないさ」
「可愛くねーの」
俺に可愛げがあってもな、と自分にだけ言って聞かせておく。一也の言う『いつも通り』とは外れてしまうが、一也の一押しがあったからこそ導き出せた結果であることは間違いない。
「でもま、礼は言っておく」
「らしくねーの」
くく、と忍び笑いをもらしつつ一也は言う。
「お前な……」
一体どっちなんだ。俺と話す時は一也の『いつも通り』の線引きがいつも曖昧になっている気がしてならない。それは一也にとって俺が特別な存在、『いつも通り』を逸脱した話ができる存在だということなのかもしれないが、それが良いことなのかどうかは判断しかねる。
「はは、冗談だって。まぁあのまま放っておくのは関谷が可哀想だったしな」
「一也も香織の気持ちは判ってたってことか」
尭也さんもそうだった。気配りができる人間というのはやはり俺とはどこかデキが違うのだろう。俺には誰かの気持ちを、言われずとも汲んで行動するなど、逆立ちしたってできそうにない。
「あんなスキスキオーラ出してんのに気付かない方がどうかしてんだよ」
尭也さんにも慧太にも似たようなことを言われたな。だが尭也さんが珍しく素晴らしいフォローをしてくれたのは覚えているぞ。
「俺にとってはあの関谷が普通だったんだ。俺と出会う前の関谷の様子など知る訳もないんだから仕方なかろう」
「それにしてもなぁ、鈍感にも程が有るってもんだ」
ぐうの音も出ない、とはこのことか。確かに俺は人の機微には鈍感だ。だから孤立していたのだろうし、それが間違ったことだとも思っていなかったように思う。それに関谷に、いや女性に自分が好かれるということもどこか心の中でまさか、と思っていた。
「まぁ、そこは確かに認める部分でもあるんだが」
「まぁ結果オーライだったけどよ。割と関谷狙ってる奴だって多かったと思うぜ。野島なんかもそうだろ」
「まぁ、そうだな。あんな人間に惹かれる女はいないとは思うが、香織を良いと思っているのは俺や野島だけではないだろうしな」
男としては野島のような男に負けなくて良かった、という思いはあるが、きっと香織を想う男の誰もが何故あんな男と、と思っていることだろう。誇らしい気持ちもあるが、なんというか後ろめたい部分も極僅かではあるが、有るには有る。
「そゆこと。まぁ今時やっかみで報復なんてこたないだろうけど」
「あったらたまらんな」
どこかに潜んでいる関谷香織親衛隊に囲まれて袋叩きにされるなど願い下げだ。
「ま、色々おれのことも含めて大変だろうけど関谷の事、一番に考えてやれよな」
また逸脱しているな。ま、それも仕方がないことなのかもしれない。俺としてもこの方がやりやすいこともある。特に言及することでもないだろう。
「ま、友達だって、彼女だって、簡単じゃない事の方が多いのは当たり前だろう。へこたれることもあるかも知れんからな。その時は宜しく頼むぞ」
「泣き言言う聡も見てみたいけどま、任せとけ」
笑顔になって一也は笑う。俺のこれからの話でもそうして笑って答えられるのは、やはり一也の強さなのだろうな。俺には出来そうもない芸当だ。
「んー、別に仕返しする訳じゃあないんだが」
「ん?」
俺の話もひと段落ついたところで、俺も一つウィンカーなしの車線変更とやらをしてやろうか。
「伊関先輩な、昨日少し話したんだが……」
「あぁ」
やはり興味はあるのか。もはや俺には判らないが、無関係だと切り離す訳にもいかない。『いつも通り』を貫き通すのならば本来ならば要らぬ世話なのかもしれないのだが、後顧の憂いは何とやら、だ。
「お前の望む『いつも通り』で言えば、少し前向きになりつつある」
「そか。そら良かった」
実に屈託のない笑顔を見せるじゃないか。この件に至っては本当に一也の本心が見えない。本当に心の底から慧太と伊関先輩の事を応援できているのか。
(いや……)
俺が、伊関至春に心残りがある一也を見たいだけなのか。もしもそうだとするならば随分と浅ましい考えだ。一旦この気持ちを頭の外へ追いやろう。下手なことを口走ってしまいかねない。それは一也の決意をへし折ってしまうことにだってなりかねないのだ。
「なぁ聡」
「何だ」
「俺は自分の死に悟りを開いてるように見えるか?」
突然の問いに一瞬言葉を失った。これは逸脱のレベルではない。だがそれを今、ルール違反だ、と言うのは違う気がした。
「……まぁ、な。あくまでも俺の目にお前が見せているお前、という限定は付くが」
このことに関してすらも心底一也の本音なのかどうかは判らない、ということを俺は暗に告げる。
「ち、叶わねぇな」
「当たり前だそんなもの」
そこに乗っかってやるべきなのか、反対するべきなのか、その判断は勿論俺自身がしなければならないとしても。
「……だけどな、俺はそうしたいと思ったことをするべきだと思ったんだよ」
今までの一也を見て、一也を取り巻く人間を見てきて、俺が導き出した結論の一つ。
「そうしたい?」
「それが本心なのか虚言なのか、それは大した問題じゃない気がしてな」
ここ数日で一番しっくりくる考え方が俺の中には生まれた。それはあくまでも俺の中での考え方であって、一也がそれに賛同するかどうかは判らない。俺が一人で考えて、一人で導き出した考えだ。誰かにとっては合っていることかもしれないし、誰かにとってはとんでもない間違いかもしれない。だが、俺はそれを話すことにした。
「少し、『いつも通り』から逸脱するが、聞いてくれ」
「あぁ」
「俺はお前じゃない。いつ来るか判らないけれど確実に近付く死を、無責任な想像でしか考えられない。お前が前に言った通り、それは確かに順番で、行く行くは俺にも必ず訪れる。だからな、自分の事として考えた。俺はどうするだろう、と」
「ふむ」
興味はありそうな顔だ。
「俺は恐らく、恐ろしくてパニックを起こすだろうな。そして何日も何日もパニくって、ふとした時に疲れて、落ち着いて、きっと思う。避けられない事実なのだとしたら、無様なのは御免だ、と」
瀬野口一也という男は誇り高い男だ。俺は自分ならばと考えたが、ここに至っては一也も同じなのではないかと思う。
「一から十まで全て打ち明けて、一緒に悩んでくれる、なんてことが最高の友情じゃない。友達の前に、親友の前に、俺自身は男だ。少なくとも腹に決めたことくらいは、有る」
これは俺が一也と知り合ってから、一也の行動から学んだことでもあり、そこから導き出した考えでもある。
「それを貫き通すから親友は親友であって、甘え甘やかされる関係じゃあない。だから俺は、よほどのことがない限りは、騒ぎ立てることなく、かける迷惑も最小限にして死にたい。そう考えた」
一也は笑顔のままだがその真意は図れない。今探っても判らないことだ。だから俺は構わず話を続ける。
「お前、尊厳死って、知っているか?」
「勿論」
だろうな。自分の死が確定した時、恐らく一也は一番にそのことを考えたに違いない。
「誰かが死ぬってことは、このご時世、誰かに迷惑がかかる。野垂死んだ死体が自然に還る時代じゃないからな。だから多少誰かに迷惑をかけるのは免れない。仕方のないことだと割り切るのは中々難しいが、その後も通夜だ告別式だ葬式だと、この世に存在しないものに金をかける。それの是非は今話す事じゃないが、そんなことを迷惑だと思わない、と家族ならば言うかもしれない。だが俺は意識も戻らない末期症状から延命処置をして、ただ肺に空気が出たり入ったりしているだけの状態で入院費用だ薬代だを悪戯に消費していくのが良しとは思えない」
これに関しては世界中で論議されていることだ。何が正しくて何が間違っているかなど、それこそ人の数だけの答えがあるはずだ。だから、俗世間的な一般論は無視して、俺ならばどうしたいかだけを優先して考えた。
「外野がうるさくてもか?」
わざと俗世間的一般論を盾にとってくるか。だが勿論俺なりの答えは、有る。
「死を迎えるのは本人だろう。その時になったら何も言えない、意思表示もできないだろうから、延命処置なんてのは他人のエゴに俺は思えてしまう。それでもどうされるかなんて判らない。リビングウィルがあったとしても、法的に認められたもんじゃない」
「だな」
リビングウィルとは日本尊厳死協会が発行している書類だ。自の命が不治及び末期であれば延命措置を施さない、という意思を記しておくためのもので、生前意思とも呼ばれている。だがこれは法的に認められたものではない。死に至る末期症状の身体だとしても、医師自らがその患者の死を手助けすることは出来ない。場合によっては法的に殺人、とされてしまう場合もあるくらいだ。どれほどの効果があるかは判らない。しかし意識を失えばリビングウィルがあるにせよ、本人の意向を無視して延命処置を施される場合もあるだろう。
「自分の意思は示すけれど、最終的に自分の意志とは別のところで、死に方なんか選べやしないんだ。だから、その時まで、その時が来るまで、本心かどうか判らないことでも、そうしたいと思ったことなら貫くべきなんじゃないか、ってな」
そう。結果的にリビングウィルの通りに処置がなされなかったとしても、意志は残る。親族が患者を想うことは勿論だろう。だが、患者も遺された親族や友達を想う権利は当たり前に存在する。その権利を奪われたのだとしても、そうして残された者達への意志を遺せるのであれば、俺はそうするべきだ、と思うようになったのだ。
「なるほどな」
「……済まないな。ただの想像でしかない」
実感値はまるで伴わない話だ。一也の言う、遅いか早いかだけ、という言葉を俺は額面通りには受け取れない。だが、結果的にそんな話になってしまうことも致し方がないことだ。そこは一也も判ってくれてはいるだろう。
「いや、それはお前の将来設計っちゃ随分末期だけど、ソレでもあんじゃねぇの」
「ま、そうとも言えるか」
俺がもしも一也と同じ立場になれば、そう考える。今の一也ほど落ち着いていられるかどうかは判らないが。
「俺もリビングウィルは用意してある」
「……だろうな」
俺でもそこに辿り着けるくらいだ。一也ならばすでに用意しているであろうことは容易に想像がついた。
「でもリビングウィルだって、選択肢がいくつかあって、マークシートみてぇに埋めてくんだぜ。A4の紙っぺら一枚でさ、本当にこうしたい、とかは書けねんだ」
「本当に?」
意味を掴み損ねて俺は一也に問う。
「まぁこれは俺が実際に書いたことじゃねぇけど、例えば、好きな女に膝枕されて最期を迎えたいだとか、お前らのライブでお前らの演奏聴きながら死にたい、とか、さ」
「……」
なるほど、合点がいった。
「お前、そんな様な話を先輩や家族に言ったことがあるだろう……」
「良く判るな」
苦笑しつつ一也が言う。
「一時期先輩がやきもきしてたことがあったんだよ」
「どうせ死ぬんなら派手にバーッとってか」
「あぁ」
そこまで判っているのか。しかしそれを性質が悪いとは言い切ってしまうことはできない。
「ま、考えないでもなかったけど、実際家族の事考えたらできねぇよな」
「……それもそうか」
尊厳死のことまで考えた一也だ。家族に迷惑をかける死後など逆にまっぴらだろう。
「いなくなる奴がイキッてバタついてもな。立つ鳥跡を濁さず、だ」
「お前な……」
へへ、と言ったが、それは流石にいつも通りを逸脱しすぎだ。冗談にも程が有る。
「いつも通りを逸脱しだしたのは聡だぞ」
「しかしだな……」
更に言い募ろうとする俺を制して一也は続ける。
「でもま、聡の言う通りだよ。俺は俺の思った風な死に方を、って思うようになった。死期が判ったころにはな、正直やっぱパニくった。俺も家族も」
逸脱は逸脱として、今は必要ということか。俺は腹を決めて一也の話に付き合うことにした。
「でも家族がパニくってあわあわすればするほど、俺の方が冷静になってくっつーか。ライブのあれと一緒だよな。俺も緊張してるけど慧太とかガッチガチの奴見てるとコッチは落ち着いてくるとか。まぁ言葉は悪ぃけど、どうしようもねぇことをウジウジ考えてんのが馬鹿らしくなるっつーかよ」
「まぁ、判らんでもない」
俺の場合はあくまでもライブでの話に限られるが。しかし馬鹿らしくなるというのは恐らく強がりも含まれているのだろう。誰も彼もそう簡単に自分の死を受け入れられるものではないのだ、と一也本人が言外に語っている。
「死にたくねぇってモガいても死ぬもんは死ぬ。俺はそれをみっともないとは思わねぇけど、もがいたところで何も変わりゃしねんだ。聡の言う通り、死ぬってことは誰かに何かを、自分のためにしてもらわなくちゃいけないってことだ。なら俺は少なくとも、抑えられるはずの我儘だけでも押さえつけて、そういう連中に迷惑を掛けないようにしたい、と思ったんだよ」
「一也……」
考えていることは同じか。俺は一也ほど誇り高い男ではないし、プライドも持ち合わせていない。だが、最低限、自分と親しくしてくれた人間には迷惑だけはかけたくはない。いや、これは一也や俺だけではないだろう。恐らく誰しもが普通に思うことだ。
「最近は死ぬこと自体は怖くなくなった。いや怖くないつったら御幣はあるけどさ、不思議なもんだな。死期が近付くにつれて精神もそれに倣って耐性が付くのかね」
「じゃあ、何が怖い」
完全に悟りを開いている男の言い分ではないことくらいは充分に判っている。
「……忘れられること、かな」
なにをばかな、と言いかけて辞めた。俺の一存で決められることではない。これは一也の気持ちの話だ。いくら安心できる言葉を並べ立てたとしても、一也が納得しなければ意味はない。
「お前の、望む形ではないかもしれん。だが俺は生涯忘れないぞ」
「んなこたぁ判ってんだよ。そんで、俺が間違ってんのもな」
「間違ってる、だと?」
やはり俺の答えの上を行くか。俺程度の頭で考えたことなど所詮その程度だ。だから俺は一也と同じ立場には立てない。立てないにしても同じ考えを持つことくらいはできるのかもしれない。その努力が俺には足りていないのだ。所詮他人事、と言われてしまえば俺はたちどころに返す言葉を失ってしまう。
「あぁ。俺はな、アタマでは判ってる。俺が消えた後もお前や慧太や至春達が生きて行くってこと。最初は悲しみ続けるだろうな。慎と慧太なんかは結構大変だろうよ。でもそれもいつかは薄れる。薄れなきゃいけないし、でもたまに思い出すこともあんだろ」
「……言いたいことは判った。だが全部聞かせてくれ」
間違っている。だけれど、どうしても望んでしまうこと。痛いくらいにそれが判ってしまった。
「聡も慧太も慎も尭也さんも至春も関谷も水沢も谷崎も、みんな俺の事はきっと一生覚えててくれるだろ。そんくらいは自惚れてんだぜ俺だって。だけど、俺がいなくても毎日学校はあるし、バイトだってしなくちゃなんねぇ。俺がいなくたって時計は回る。俺がいなくたって腹は減るし、飯は食う。当たり前の事なのに、そこに俺がいなくても普通ってのは普通に回るんだ」
「いなくなったお前のために食卓にはお前の飯も並べろ、という意味じゃないことくらいは俺にも判る」
そこに一也がいない時間が普通になってしまうこと。きっと一也の事は誰もが忘れない。だけれど、それに、一也がいない寂しさに狎れて行ってしまう。それは本当に一也を忘れない、ということになるのか。
「はは。お前にしか言えねぇから言ってんのも判るか」
「ま、慧太も慎もなかなか理解はしてくれないだろうな」
それは奴らが馬鹿だからではない。奴らの気持ちが強い故だ。俺は奴らほど一也と近い訳ではない。勿論一也を友達だと思う気持ちは負けてはいないが、それでも俺は連中よりも少し離れた位置にいる。その分少しだけ冷静に物事をとらえることができる。そういうことだ。
「これは単なる愚痴だよ。多分、少し聞きたかっただろ」
「……まぁな」
まったく食えない男だ。だが今一也の愚痴が聞けたのは本当に良かったと思う。心底の本心かどうかは判らない。だが、一也の覚悟というものが、俺の中で辻褄が合うように感じられた。
「まぁそんな訳で、俺も全部を悟ってる訳でもねんだ。でもな、なんでかな、死期が近付くってハラが決まるのか、長く生きてきた爺さんが死にきちんと向き合ってるみたいな、そんな感覚はちょっと判る気もするんだ。怖くないつったらそれは嘘だけどよ」
「判る、とは言い切れんが」
だが、判らない訳でもない。
「悪い。他意はねんだ」
「判ってるさ」
恐らく、この場にいたなら慧太も慎も納得できたかもしれない。だが、俺も一也がいたとしても恐らく噴出するであろう慧太や慎の激情を止めることができるかは判らない。一旦は俺が受け止めるということが必要だと、一也は判断したのだろう。
「でもま、ホント、聡には感謝してる。みんなも同じだけどさ」
きっといくら言っても言い足りないこともある。それはきっと俺ではなく、慧太や慎、尭也さんや伊関至春に対して。
「それは俺も同じさ。お前が俺と組みたいって思ってくれなかったらこうはなってなかった」
一也という親友を失う悲しみに晒されることにはなる。だがそれだけではない。その手前で一也、慧太、慎と親友になり、香織という彼女もできた。きちんと付き合ってみれば尭也さんは立派な男だし、水沢にも伊関先輩にも瀬野口先輩にも多くのことを学ばせてもらった。
「知らねぇままのが良かった、とか思わねぇのかよ」
「見くびるなよ」
ほんの少し、声に怒気を孕ませて俺は言う。ばかにしないでもらおうか。新崎聡は情に厚く義理堅いんだ。お前がいなくなれば号泣する自信くらいはある。口には出さないが。
「はは、そら済まねぇ。ま、そんなんでこの話は終わりだ。サンキューな、付き合ってくれて」
「こちらこそだ」
ますます一也という男が喪われるという事実が惜しい。一也の言う通り、知らなければ、聴かなければ良かったという気持ちも有るには有る。だが、やはりそれ以上にこうして腹を割って話せば話すほど、一也という男がどんな人間なのかを知ることができて良かったと思える。となればやはり付き合いの長い慧太や慎に嫉妬を禁じ得ないな。中学の時からきちんと話せていればこんな気持ちになることもなかったのかもしれない。
「ま、今日の所は本番を待つばっかりだ。一也はどこか回ったりしたのか?」
「あぁ、途中までは尭也さんと一緒だったんだけどな。彼女が来たってんで俺はここに来たって訳だ」
「なるほどな。なんか面白い物でもあったか?」
冷や水をぶっかける訳ではないのだが、文化祭など所詮は高校生の遊びだ。興味を惹かれるものは少ないだろう。それこそ俺たち以外のバンドが出演するのならば楽しみも増えようが、バンドとしての参加は俺達軽音楽部のみだ。それに自己防衛ではないが、楽しみ方など人それぞれだ。
「水沢がメイドカフェやってたぜ、すげぇ人気だった」
「ほほう。それは見てみたいな」
単純に眼福、という意味でしかない。俺にはどうやらメイド属性はないらしく、どれほど可愛らしい女の子が俺に向かって「お帰りなさいませご主人様」とかいがいしく言ってきても、どこか芝居じみたそれに興醒めしてしまうのだ。損な性格だと自分でも思っている。
「行ってこいよ」
「そうするか」
とは言うものの、一人で行くのも少々気が引ける。こんな時に慧太と慎がいれば奴らのお守りとして堂々とついて行けるのだが。
「おま……」
「あぁ、俺はもうアチコチ回ってきたあとなんだ。ちょっと休憩。足パンパンでベードラ踏めねぇとか洒落んなんねぇだろ」
俺の言葉を遮って一也は言った。
「……ゆっくり休め」
俺はそれだけを何とか返す。歩くだけではそうはならないだろう。どこか体調が優れないのか。元々顔色があまり良くないので顔色から窺い知ることはできない。だとするならば俺は一也の傍を離れるべきではない。
「心配すんな。他意はねぇよ。それこそお前、俺の心配してお前の自由を奪ったら『いつも通り』じゃねぇぜ」
んなこと言わせんなよ、と一也は笑った。しかしそうは言うが、だとするならばもしこの先容態が急変することが判ったとしても『いつも通り』でいろというのは流石に無理がある。
「……判った」
俺は渋々頷き、教室を後にした。すぐに携帯電話を取り出して今一也が部室で一人きりだ、とメールを入れる。相手は慧太と慎だ。尭也さんは彼女と一緒らしいので控える……。いや、万が一にももしものことがあれば、報告を怠った俺が後悔することになる。彼女と二人で楽しんでいるところを申し訳ないが、尭也さんにも連絡は入れておくことにした。
第三三話:尊厳死 終り
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