おやすみ、ララバイ

REFRAIN SERIES EPISODE VI
yui-yui
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第九話:杞憂

公開日時: 2022年3月3日(木) 09:00
更新日時: 2022年10月31日(月) 12:27
文字数:10,000

二〇一二年九月二十六日 水曜日

 杞憂きゆう、という言葉がある。

 昔々の中国にあった、杞という国の人間が「天は落ちてこないのか」と憂いたという。

 それと言うのも、昔の中国では、世界のどこかに天を支えている柱があると信じられていて、いつかその柱が瓦解し、天が落ちてくるのではないかと杞の国の人間が憂いたことが語源になったらしい。

 つまりは起こりそうもないことを心配したり、取り越し苦労であったりする、ということだ。

 そして殆どの心配事は、杞憂であった方が良い。


 軽快なブルースロックが俺の耳朶に触れる。ジャンル的にはどストライクと言っても良いジャンルだ。

 ドラムは巧い。少々の斑っ気はあるものの、基本的には安定感があるし、遊び心もある。ギターは流石に藤崎尭也ふじさきたかやだ。巧いな。いや、これはながみか?どちらにしても二本鳴っているギターはどちらも良い感じだ。渡樫わたがしの声もやはり俺の思った通り、ロック向きの良い声をしている。ただ、瀬野口せのぐちが言うように確かにベースは頂け無かった。下手ではないと思うのだが、巧くはない。というよりも邪魔な音が多く、煩い。好みが分かれる所だろうが、極個人的に、ただ聞く者としては好みではなかった。

「ど、どうだ?新崎しんざき君」

 詠はそう俺に訊いてきた。俺は天才的プレイヤーでもなければ、凄いバンドにいた訳でもない。俺の言葉で何が左右される訳ではないのだ。そう畏まられると俺も困る。

「曲自体はもの凄く好きだな」

「おぉー!」

 ぐ、とガッツポーズを取る渡樫を、ついからかいたくなってしまった。

「しかしボーカルが酷いな。だめだこれは。俺はやる気が失せた」

 ふぅ、と嘆息しながら俺は言う。

「えっマジで、なんでそれ」

 おっと繊細なところなのか。何でだよ!と大きな声で反論してくるものだとばかり思っていたので、俺は慌てて自分の言葉を訂正した。

「や、嘘だ。気にするな」

「えー」

 すぐには信じられないか。判らないでもない。渡樫は良い声だが、言うなれば音楽の授業で百点を取れる歌い方ではない。それに昔から息の長いビジュアル系に観られるような歌い方もしない。大きな特徴といえば、誰にも似ていないのだ。渡樫は声も歌い方も、オリジナリティが確立されている。それはつまり、万人受けしないということになる。しかし俺はオリジナル曲を演奏するロックバンドであればそういうボーカリストが好きだ。

あきら慧太けいたの声、気に入ってるみたいだからな。照れ隠しだ」

「ほ、ほんとかよー」

 今まであまり好意的には受け取られなかったのだろうか。これは本人の自覚にも依るが、俺はどんなに歌が巧くても、誰かに似ていたらそれだけで魅力が半減してしまうと思っている。その似ている誰かのコピーバンドをするのならば、それはとても良いボーカルなのだろうが、オリジナル曲をやるのであれば、誰かに似ているという部分をオリジナリティーに昇華する努力をするべきだ。

「本当だ。正直ここまでとは思わなかった。瀬野口、ferseedaフェルシーダではなくとも充分なバンドじゃないか」

 てっきりどうしようもないバンドなのだとばかり思っていた。

「ベースがいりゃあな」

「……」

 そういえば瀬野口は俺に殺し文句を言ってきたのだった。そういう可能性も考えて然るべきだったな。

「墓穴」

「やかましい」

 詠の言葉にそう返し、ポータブルメディアプレイヤーも返す。満足げな詠がどうにも気に入らないが、今は反撃の糸口が見つからない。これは中々に口惜しい。

「他に音源はないのか」

 他にも好きな曲はありそうだ。言葉は悪いが、まさかこいつらがこんなに良いロックをやっているとは思いも寄らなかった。正直に言えばかなりこいつらを見直した。

「あるよ。明日CDに焼いて持ってくる」

「あぁ、あるなら頼む。すまん」

「謝ることじゃないよ」

 にこ、と詠は言う。普段は面倒な性格をしているくせに、時折ずっこけるくらいに素直になることがある。きっとこれは詠の美徳なのだろうが、俺は反則技だと思っている。今風に言えばいわゆるギャップ萌えになるのだろうか。

「だな」

 なので特に反応はせずに、俺も素直に返すことにした。俺は断じて詠のギャップに萌えている訳ではない。

「はぁい、お待ちどうさま」

 会話が途切れたところでコーヒーの良い香りとともに、涼子りょうこさんが声をかけてくれた。なんと素晴らしきタイミングだろうか。

「頂きます」

 コーヒーの隣に小さめのケーキの小皿も置いてくれた。モニターとはいえやはりただで頂くのだ。俺は頭を下げつつ涼子さんにそう言った。

「はい、どうぞ召し上がれ」

 まるで女神のような笑顔で涼子さんはそう言ってくれた。




 喫茶店からの帰り道は七本槍中央公園を突っ切って行くのが早い。俺は今日、初めてvultureヴォルチャーでコーヒーの代金を支払った。公園の緑や涼しい夜風も手伝ってか、気分が良かった。試作のケーキはただで頂いてしまったが、やっと涼子さんにきちんとした代価を支払えたので俺は非常に満足していた。

「おい」

 そんな俺の良い気分をぶち壊しにする不快な声がかかった。こんなことならばまだ喫茶店に残っていれば良かった。詠の恋人である桜木さくらぎがそろそろ来るというので席を外したのだが、太田おおたと顔を突き合せるくらいならば、桜木と顔を合わせていた方が良かった。

「別にいいけどよ。お前、伊関いぜきに声かけられてんのって瀬野口も関わってんのか」

 無視しようと思ったのだが、瀬野口の名前が挙がったので俺は足を止めてしまっていた。

「図星か」

 考えてみれば瀬野口姉と伊関は仲が良さそうではあった。恐らく同じ中学だったという可能性は高い。ならば、瀬野口早香はやかは太田とも同じ中学だ。瀬野口の名を知っていても不思議ではない。

「一々挑発するような言い方しかできないのか」

 振り返り、俺は太田の目を見た。太田との距離は約四メートルというところだ。いつ殴りかかってきても充分に裁くことができる。

「相手がてめえじゃなけりゃまともに話すさ」

 俺の足元、そして目へと忙しく視線を巡らせながら太田は言った。それを見ているだけでも苛立つ。

「俺が嫌いならそれで良い。俺もお前が大嫌いだ。だがもう弱い者苛めは卒業した。殴りかかってきても反撃はしないから、安心して喋れ」

 同じ轍は踏まない。少し考えれば判ったことなのだが、女性は暴力沙汰が大嫌いだ。恐らく伊関も、伊関と俺の会話を聞いていた涼子さんも、俺に呆れていたに違いない。俺もその点ではferseedaから切られたのは納得しかけている。

「てめえマジむっかつくわ」

 同じことをそっくり返そうかとも思ったが、一刻も早くこいつから離れるためには、今それをするべきではない。

「本題を話せ、と言っている。勿体つけるなら帰る。貴様の声なんぞ一秒たりとも聞きたくないからな」

「それぁこっちだって同じだっつの」

 本当に話す気があるのか。俺は無言で非難の目を太田に向ける。

「……あいつの弟、瀬野口の弟な。あと二、三ヶ月くらいで死ぬらしいぜ」

 観念したのか、ようやく本題を切り出した太田の言葉を、一瞬理解し損ねた。

「……くだらない」

 瀬野口が死ぬ?今日のあいつは死の病に冒されているようになど見えなかった。いや、あいつと出会ってから一度だってそんなことなど感じなかった。確かに今日、俺は奴が病院から出てくるところを見かけたが、奴は事故の後遺症、もしくはリハビリか何かで病院に行っていただけで、もうすぐ通院も終わると言っていた。ばかなことを口走るにもほどがある。

「俺の親父が医者だって、知ってんだろ。中央病院の医者だぜ」

「……」

 太田はニヤニヤとしている。からかっているのか?だが、もしも本当だったなら、そんな顔ができるものか。自分には殆ど関係のない人間の死でも、人の死は辛いものだ。普通の感覚を持っていれば。こいつはそこまで腐っているということなのか。

 いや、信憑性の話で言えば全くの嘘ではないのかもしれない、と俺は心のどこかで思ってしまっている。

「それが本当だとして、何故それを俺に言う必要がある」

「バンドクビんなって、新しいバンドもメンバーが死んじまってざまぁ、って思っただけ」

 それが本心ならば心底下衆な男だ。死ぬのならばこういう奴が死ねば良い。俺は恐らく、こいつならば死んで万歳三唱をするかもしれない、と今思った。

「もしその話が本当ならいくらでも俺を嘲笑えばいい。弱い者苛めはもう卒業したが、もしも嘘だったら容赦なく潰しに行く。覚えとけ」

 そうだ。思い当たる節などいくらでもある。しかしこいつの言葉など欠片も信じる気はない。ないが、どうしても疑念が浮かび上がってくる。

「クッソ生意気な野郎だ」

 もし。

 もしもだ。

「お前も殺したいほど嫌な奴だ。結果がどっちにしろ、二度と俺に話しかけるな」

 もしも、俺が詠と初めて話した時に、詠が言っていたことが瀬野口の例え話だったとしたら。

 もしも、瀬野口早香や伊関至春しはるの隠していることが、瀬野口一かずやの死だったとしたら。

「け!わぁったよ!クソがっ!」

(新崎君、例えば俺がそのライブを最後にギターが弾けなくなるとしたらどうだ)

 だとしたら、詠はこのことを知っていたのか。捨て台詞を吐いて歩き出す太田になど目もくれずに、俺は今来た道を戻りながら考えを巡らせた。

(君は、あの時俺がベースを弾いてやっていれば、あいつは最後にやりたいことやれて満足できただろうに、って一生苦悩することになるんだぞ)

 詠はこうも言っていた。確かに、もしも瀬野口の死が真実なのだとしたら、俺は恐らく生涯後悔することになる。

(やらねんなら知らない方がいい。ま、やるんでも知らない方がいいと思うけどな)

 実に軽い口調で瀬野口はそう言っていた。あれは、死を覚悟した人間の言葉だったのか?

(必死に勧誘説得して入ったはいいけど全部嘘でしたー、なんてやられたらどうするよ)

 嘘?瀬野口一也の死が演出されたものだったとして、それを餌に同情で俺を釣って、実意は嘘だった、と?

 いや、これは不自然だ。そこまでの大仰な嘘ならば僅かな時間でばれる。そしてばれたとしたら当然俺は部を辞めるだろう。そんな危険な賭けをする意味が全く判らない。

(お前に感付かれるような例え話は言わねぇよ。教えねぇつってんだから)

 そうだ。違うと言っていた。それに俺に感付かれるような例えはしない、と。しかし俺は太田の言葉がなければ、瀬野口の死などというところまで発想は及ばない。つまりこれは瀬野口の死の裏付けなのか。

(入ってくれたとして、結果騙して入れた、みてぇになっちゃうのが気に食わないだけだ)

 自分の命を餌にするのが嫌だ、と。そういうことなのか。お冷で薬を飲んでいた瀬野口の姿がふと脳裏をよぎった。

「……くそ!」




「あ!新崎君!」

 vultureへ急ぐ俺に声をかけてきたのはベースのソフトケースを背負った関谷香織せきたにかおりだった。部活帰りだな。ということは恐らく桜木も喫茶店に向かっている頃かもしれない。

(……どうする)

 俺はとりあえず片手を上げて返事に変えると、歩みを止めた。関谷に訊いてみるべきか。関谷はこのことを知っているのだろうか。太田の情報が本当だったとして、瀬野口早香、伊関至春、そして瀬野口一也本人は知っている。恐らく詠しんも。

「どしたの?か、顔色悪いよ」

 関谷は俺に近付くなりそう言った。気遣いは有難かったが、今はそれどころではない。

「あのな、関谷」

 俺はすぐ近くのベンチにまで歩み寄ると、関谷を手招きして先に座った。関谷も俺に習いすぐに腰を下ろすと、不思議顔を俺に向けてきた。

「うん?」

「……」

 だめだ。言えない。もしも関谷が何も知らなかったとしたら、無用の混乱を招くことになる。ことは人一人の命の話だ。関谷は俺よりも瀬野口との付き合いは長い。男子部員に借り出される時などは瀬野口と一緒にリズム隊を務めるのだから、他の女子部員よりも繋がりも深いはずだ。そんな関谷に確実性に欠ける情報を与えて、混乱させる訳には行かなかった。だとすれば。

「仮にだ。いいか、これは仮定だ。とりあえず聞いてくれ」

「え、うん」

 余り良い例えではないが、一度は疑ったことがある仮定だ。それを渡樫や詠ではなく、関谷に置き換えて話してみることにした。

「しつこいようだが仮定だから、俺の本心ではないということはまず判ってくれ」

「うん」

 関谷はしっかりと頷いた。

「例えば、お前たちが俺を軽音楽部に入れたいから俺を騙してまで入部させようと試みる」

「そ、そんなことしないよ」

「仮定だ。関谷」

 まだ割り切れていないか。判らないでもないがとりあえず理解してくれ。

「あ、そうだね、ごめんね」

「そうだな……。例えば、お前という存在を俺に近付けて、仮に俺がお前を好きになってしまったとする」

「え、あ、うん」

 仮定だ、関谷。夜でも判ってしまうほど赤面する必要はない。

「もっと関谷と仲良くなるためには、部に入ればいい。きっと今以上に仲良くなれる。よし、軽音楽部に入ろう、となれば万々歳だ」

「つまり、わたしが餌っていうことだよね」

 ようやく理解してくれたようで、俺は関谷の言葉に頷き、続けた。

「そうだ。だが途中でその思惑が俺にばれたとしたら、どうする」

「あ、謝るしかないよね」

 なるほど。それは一面の結果だ。部の思惑が俺にばれたと知ってしまった場合は確かにそうだろう。

「それはどちらにも公然になった場合だな。だが、俺だけが気付いていたとしたら、俺なら、気付かない振りで逆切れして、お前に俺と付き合うんだったら部に入ってやろうか、と持ちかける」

 俺は全てを知っているが、さぁお前たちはどう出る、といった感じだ。

「……い、いいよ」

「は?」

 余りにも訳の判らないことを関谷が言い出すので、頓狂な声を上げてしまった。判っていたのではないのか。

「え?」

「例え話だぞ。お前に無理強いさせる気は更々ない。で、だ、仮定を続けるぞ」

「う、うん、ごめんね」

 真っ赤な顔をして謝ってくる関谷は可愛らしかったが、今はそこに構っている余裕が俺の方になかった。

「そうなったら、どっちに転んでもばれる。お前が断れば当然嘘だったとその場で判る。俺はやっぱりな、とお前たちをせせら笑うだろう」

 新崎あきらを部に入れるために一芝居打ちました、と言う連中を俺はきっと見下すだろう。

「そして俺は当然、全てを知りながらにそれをやっているのだから、お前が仮に承諾した場合でも、お前に嘘をつくな、好きでもない相手と付き合えるものかと言って、結局俺は部に入らない。……ここまでは判るか?」

「う、うん」

 部のためにお前自身の気持ちを偽るな、と俺はきっと怒ることだろう。

「で、でも新崎君」

「そうだ。もう一つの可能性がある」

 意外ときちんと頭が回っているようだ。少し安心できた。

「……わたしが、新崎君を本当に好きになっちゃった場合、だね」

「そうだな。まぁ仮定とはいえ虫のいい話でお前には申し訳ないが」

 ふるふる、と首を横に振って関谷は笑ってくれた。最初に何度も仮定だ、と言い続けた効果はどうやらあったようだ。

「もし関谷の本当の気持ちに俺が気付けたとしたら、俺は素直に部に入るべきなのか?もし俺がお前と本当に付き合ったとして、そこで俺が満足して部に入らなかった場合、それはもちろん部の思惑からは外れることになる。俺もお前もハッピーになれるが、お前は部の期待を一身に背負い、失敗した役立たずになる」

「そ、そうだね」

 一気にまくし立ててしまったが、関谷はきちんと理解してくれているようだ。

「だとしたら、俺はお前の立場のためにも、部に入るべきなんだろうな」

 瀬野口が実際に自分の死を隠したがっているのだとしたら、俺はそれを知らない振りで軽音楽部に入る他に道はないのかもしれない。瀬野口が自分の死を餌にしてまで同情を買って俺を部に入れたくない、と思っているのならば。

「そ、それはダメなんじゃ、ないかな」

 駄目?だと?

「何故だ?この仮定の場合、俺とお前は恋人同士になり、俺は当然お前を守りたい、という衝動に駆られる」

 それは当然の気持ちだろう。実際に付き合っていない、この仮定の話でもそのくらいは判ることだ。

「それは、女の子としては、凄く嬉しいことだけれど、やっぱり違うよ」

「付き合えはしても、部には入るべきではない、ということか」

 だとするならば、仮に付き合いを続けるとなれば、部に理解を求めるか、もしくは関谷が部を辞めるか、ということになる。しかしそうなっては本末転倒だ。俺を入れたいがために芝居を打って、女子部のベーシストまで失うことになるのだから。

「ううん。そういうことじゃなくて、新崎君が部に入って、詠君たちと本当に一緒にバンドをやりたい、って思う気持ちが大きいかどうかっていうのが、抜けてる」

「……ふむ」

 俺の考えはどうやら見当違いだったようだ。俺はそのまま関谷の言葉を待つ。

「仮に、わ、わたしが新崎君のことをす、好きで、新崎君のその気持ちは嘘でも凄く嬉しいけれど、で、でももし新崎君がわたしを守りたいって思ってくれてる気持ちだけで軽音部に入るんだ、って判っちゃったら、わ、わたしはちょっと、嫌だな……」

「……情けをかけられた、と思うからか?」

 なるほど。瀬野口の死が本当だとして、瀬野口がその死を受け入れているのだとしたら、という仮定にはなるが、有り得ない話ではない。

「それもあるけど、部の思惑も、わたしの気持ちも関係ないところで、新崎君の一番大切な気持ちが抜けちゃってるから、そもそもこの仮定は仮定にすらならないよ、ね」

「……なるほど」

 そういうことか。俺はどうやら自分を殺しすぎていたのかもしれない。ベースを弾きたくない、バンドには参加したくない、という気持ちのみが前面に出すぎてしまったため、いつの間にか俺の行動原理に成り代わっていた、ということか。

「なるほど」

「新崎君?」

 もう一度頷いた俺を、関谷が覗き込んできた。

「え、あぁ済まないな、妙な話をしてしまって……」

 だとするならば、やはり、もう真実を聞き出すしかない。太田の虚言に長時間振り回されるのも御免だ。嘘なら嘘で笑い飛ばせば良いだけの話だ。

 そして本当だったのならば、今度は俺が覚悟を決めれば良いだけの話だ。

「悩んでるの?」

「有体に言ってしまえば、そうだろうな」

 今関谷が想像しているよりも、恐らくはもっと深く、重たい悩みになっているのだが。だから、関谷には悪いが、この気持ちに便乗して一つだけ訊いてみよう。

「悩んでる俺に免じて、一つだけ、正直に聞かせてくれないか、関谷」

「う、うん」

 俺は関谷の目を見て、真剣にそう言った。関谷も恐らく、俺の顔色や、唐突に話し出した訳の判らない仮定で、ただ事ではない何かを俺が秘めていることには気付いてくれているような気がした。

「お前は、俺に、何かを隠しているか?」

 なるべく厳しい言い方にならないように、気を廻しながら俺は言った。

「え、か、隠してる、って……?」

「委細は問わない。あるのか?」

 俺に言えないこと、という限定でだ。俺に話していないことなど山ほどあるだろう。何せきちんと話すようになってからまだ日が浅い。取るに足らないことなども多いだろうが、そんなことを俺が聞きたいなどとは思っていないことは恐らく判ってくれているはずだ。

「あ、ある……。けど、それは、隠してる訳じゃなくって……」

「そうか、判った。ありがとう」

 それで充分だ。恐らく本当に事情を知らないのは俺だけなのかもしれない。隠し事、と言えば隠し事なのだろうが、ことは瀬野口個人に関わる問題だ。どれだけ仲が良かろうが、血族ではない他人がおいそれと口に出して良い問題ではない。なるほど、どいつもこいつも口を噤む訳だ。

「関谷、時間はあるか?」

「あ、うん。か、帰るだけだから大丈夫」

 ならば、できるだけ多くの人間の前で明らかにしてもらおうではないか。俺の覚悟はどうやら決まったようだ。他人事のような言い方だが、俺はもう、瀬野口一也も渡樫慧太も詠慎も藤崎尭矢も、伊至春関も瀬野口早香も関谷香織も、赤の他人ではいられないと思ってしまっている。素直ではない自分に嫌気が差すほどに。

「そうか。済まんがvultureに行く。少しだけ付き合ってくれ」

「え、あ、うん」

 その覚悟を揺らぎないものにするためにも、俺はvultureに向かわなければならなかった。

 瀬野口の死が嘘であれ、本当であれ、何も関係なかった。ぐるぐると理屈を捏ね回し、奴らの期待を感じて優越感に浸っていた俺も、太田と変わらずくだらない男だった。

(おれはドラマーだからさ、あんなベースと組みてぇ、って思ったんだよ)

 ferseedaの俺を見た瀬野口が言った言葉だ。

 それを聞いて、俺は嬉しかったんだ。




「いらっしゃい……。あら、聡君またきてくれたの?香織ちゃんも今晩は」

 店に入ると、変わらずカウンター席に瀬野口と渡樫、そして詠が残っていた。客はもうこいつら以外にはいなくなっていた。

「こんばんは、涼子さん」

 関口はそう言うと穏やかに涼子さんに会釈した。俺も慌ててそれに倣う。

「おぉ、何だよ、女連れとは豪儀だな、聡!」

 渡樫がいつものノリで囃し立てるが、今はそれに構っていられなかった。邪険にする訳にもいかず、俺は渡樫に掌を見せて、渡樫を制した。

「え、何だ、どうした?」

「詠、桜木は」

 桜木には関係の無い話だ。妙な噂を広められないためにも今はいない方が好都合だ。

「まだ来てないよ」

「そうか。好都合だ。……瀬野口。もう一つだけ、確認したいことがある」

 俺は椅子には腰掛けずにそう言った。

「なぁんだよ。いいけど教えたら軽音部、入れよなぁ」

「……そのつもりだ」

 瀬野口は軽くそう言った。俺はその軽口を軽口としては受け取れなかった。

「は?」

 それでも軽いノリで返してくる。当然だ。こいつらは俺がある仮定を立ててここに戻ってきたことを知らないのだから。

「応えろ、一也。一切の誤魔化しは無しだ。誤魔化しだと判った瞬間に、俺はお前たちと一切の関わりを切る」

 真剣に、一切の冗談も含まない声で俺は言った。きちんと注意を引くために、意を決して瀬野口の名前を呼んで。

「……あぁ。言えよ」

 その一言で判ってしまったのだろう。瀬野口は、いや、一也は穏やかな笑顔すら浮かべて、そう言った。

 どうか杞憂であってくれ。俺はお前が生きようが死のうが、もう軽音楽部には入るつもりでいる。もう一度、この手にベースを持つ気でいる。ならば一也の死など、嘘であることが一番だ。

「一也」

「瀬野口君」

 渡樫と詠が口々に一也を呼ぶ。それでもう決定打だった。恐らく渡樫も詠も、全てを知っている。俺の仮定が、恐らく真実なのであろうことを知っている。

「いい面だな。ならば問う。お前、太田という医師を知っているな?」

 声が震えそうになる。いや、少し語尾は震えた。俺は人の死になど直面したくない。

「……」

 僅かな沈黙。そしてふ、と力を抜いた笑みで。

「ははは、バレちったか。お前には正直、知られたくなかったんだけどな。何で判った?」

 諦めに似たその笑顔が全てを物語っていた。嘘であって欲しかった。太田の言うことなど嘘で、俺は太田をぶっ飛ばしに行く。そのシナリオが一番だったのに。

「え、な、何の話?」

「え、ちょっと待て。関谷、お前知ってるんじゃなかったのか」

「え?」

 関谷は知らなかったのか?だとするならば、これは失態だ。今関谷に、真実を伝えることに、恐らくあまり意味はない。

「済まん関谷。ここまで連れて来て申し訳ないが、席を外して欲しい。頼む、この通りだ」

 俺は言って関谷に頭を下げた。

「え?……え?」

「いいよ聡。その内全員にばれることだ。知らねぇのは一年と、二年じゃ関谷だけだしな。いい機会だ」

 なるほどな。関谷以外は全てを知っていたということか。渡樫が俺を勧誘しに来なかったのは、一也の真実を漏洩させないためだったのかもしれない。

「……いいのか」

「あぁ、いいさ。それより何で判ったか教えてくれ。姉ちゃんか?至春先輩か?」

「いや……。その外科医の息子は、ferseedaのギタリストだ」

 思わぬ伏兵に恐らく一也自身も驚くことだろう。思えば瀬野口早香と伊関至春の二人は一也の意見を尊重するような口ぶりだった。あの時は判らなかったが、これで点と線が繋がって行ってしまう。もう俺の祈りなどとうに届かないことが、判ってしまう。

「はぁー、そんなくっだらねぇとこでバレるもんなんだなぁ。必死になってたのがちょっとばからしいぜ」

 けらけらと笑いながら一也は言った。

「ばれる?え、と、瀬野口君?」

 関谷は大丈夫だろうか。この事実に立ち向かえる、心の力があるだろうか。

「……こんな形で知られたくはなかったんだけどな。関谷も聞いてくれ」

 聞きたくない衝動に駆られる。だが、渡樫も詠も聞いたであろう言葉だ。俺はこれから、本当の意味でこいつらの仲間になる。だから、正面切って受け止めなければならない。

「おれな、あと二、三ヶ月で死ぬんだ」

第九話:杞憂 終り

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