二〇一二年十月十二日 金曜日
試練、という言葉がある。
試して練習、などとばらして表すと、大したこともないような気がするが、試練という言葉になれば、それはそれは越えがたい何か、という大層な言葉になってしまう気がする。
しかし聖書にはこうある。
『あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方ですので、あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。試練に耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます』
俺はクリスチャンではないとはいえ、それでも聖書を曲解すべきではないが、逃げ道が用意されているような物事を試練とは呼ばないのではないだろうか。
試練の道を行くが男のど根性、なんて有名すぎる格言だってあるくらいだ。困難な試練ほど、それを乗り越えることによって人間的に大きく成長できるだとか、かけがえのない経験ができるだとか、そのために試練はあるのではないだろうか。
「なぁ聡」
部活帰り、そんなことを考えながら歩いていると、隣を歩いていた慧太が不意に口を開いた。
「どうした」
「一也ってホントに死ぬのかな……」
慧太の気持ちは判らない訳ではない。俺だって信じたくはないし、未だに一也の姿を見ているとそれが信じられない。だが、渡樫慧太がそれを口に出すとは正直な気持ちとして意外だった。
「だってあいつ、ピンピンしてんじゃん」
俺が言葉を返せずにいると、慧太はそう続けた。
「そうだな。だが、瀬野口先輩や一也本人がああ言っている以上、本当に死ぬんだろうな」
「どうにか、なんないのかよ」
これが全て冗談だったならどれだけ良いか。俺は恐らく激怒して一也を二、三発殴るだろう。だがそれで手打ちだ。きちんと一也や俺を騙した人間が詫びを入れれば俺はそれを許す。そんな簡単な話で済めばどんなにか良いだろう。しかしことはそんな簡単な話では済まないと、もう判り切ってしまっていることだ。
「ならんだろう。医者が匙を投げるほどだ。俺たちにはどうしようもない」
瀬野口早香の言葉を借りる訳ではないが、専門家がどうしたって解決できない問題を、一介の高校生である俺たちがどうにかできる訳もないのだ。そして、だからこそできることがたった一つだけあって、それをやるしかないと覚悟を決めたのではないのか。
「……お前は、奴の死を受け入れたんじゃなかったのか」
だから一也と共にあっても、いつも笑顔でいられるのではないのか。
「……受け入れられる訳ねぇだろうが」
「……」
まさか、と思った。だが自分に照らし合わせて見れば、それは確かに判る話だということに気が付いた。慧太の言葉を聞き、理解できるまでのほんの少しの間で。
俺は少々勘違いをしていたようだ。勝手に、過度な期待を寄せていたのだ。俺が思い悩んでいるように、慧太もずっとこういった葛藤と戦ってきたのだろう。今までの慧太や慎の行動や態度は、覚悟を決めた者の行動や態度ではなかったのだ。ずっと迷いながらも、一也を気遣い、自分たちの心を守るための行動だったのだろう。
「……軽音楽部の中でも、お前たちは特に仲が良いらしいしな」
「あぁ。親友だと思ってる」
「恐らく、一也も同じだろう」
そして恐らく慎も。一也が俺と関谷に病のことを話した日、一也、慧太、慎は一緒にvultureにいた。三人が創りだしていた雰囲気は、とても楽しそうなものだった。だからこそ、俺も慧太や慎を見習わなければならないと学んだのだ。
「だと、いんだけどさ……」
自信は持てない訳か。ならば、慧太から自信を奪う何かがあったということか。容易に想像がつくのは、一也が慧太や慎にも、長いこと病のことを隠していたというケースだ。だが、全てを包み隠さず話すことが、友情の証しや、信頼度の大きさでなどではないことなど、慧太は既に判っているはずだ。だからこそ、思い悩んだ末に自信が持てなくなってしまったのか。
「お前は一也を親友だとは思えない、という訳ではないのだろう」
「当たり前だろ!」
それでも一也が命に関わる重大な真実を親友に話さなかったという事実は、少なからず慧太をぐらつかせてしまった。俺はそう仮定し、その仮定に基づいた上であえて慧太に辛辣な言葉を投げた。
「ならばお前がぐらついてどうする」
「判ってっけど!でも、判りたくねんだよ!」
慧太は激昂する。俺はまだ一也と親しくなってからの日が浅い。だが、慧太は少なくとも約一年半の月日を一也と過ごしているはずだ。俺も慧太も一也とは、過ごした時間はともかく、親しいという点においてのみ、慧太の気持ちが少しだけ判った。
「俺はお前や慎の、一也に相対する態度から幾度も学んできた。俺自身の立ち振る舞い方を」
「は?」
少し唐突だったか。だが、激昂した慧太の勢いを止めるには充分効果があった。慧太の勢いを止めるには少々突飛な話をした方が良いということなのかもしれない。
「悪いところだってあった。こいつらのこんな阿呆なところは見習ってはいかん、とな。だが、いい所はもっとあった」
理解しているのかいないのか、ともかく慧太の表情が変わったので俺はひとつ嘆息する。
「いい、所?」
「あぁ。当たり前のことなのかもしれないが、お前はどんな時でも、一也を対等な存在だと思っている」
「……当たり前だろ、そんなこと」
少し落ち着きを取り戻したのか、慧太はそう言った。そう。確かに慧太ならばそう答えるだろう。俺もそう思ってはいるが、俺自身がそれをできているかは聊か疑わしい。
「そうだな。だがこの状況下で、その当たり前を貫くのがどれだけ大変かを、俺は今、身を持って痛感している」
一也の希望は矛盾を孕んでいる。いつも通りに接して欲しいという気持ちは判るが、それは奴が死ぬことを大前提としている。そんな特殊な状況下で今までと何も変わらないで接しろという方が無理な話だ。だが、奴がそう望んでいる以上、俺たちはできる限りそれに応えなければならない。それを慧太は自然体でできているのだと俺には思えるのだ。
「痛感?」
「あぁ。この間の関谷を見たか」
「あ、あぁ。あいつには悪いことしたって思ってる」
よくよく考えてみればこの件に関しての発言力は、慧太や慎には無かっただろう。一也を差し置いて、幾ら軽音楽部の仲間であったとしても、勝手に話す訳にはいかなかった。それは姉である瀬野口早香も同じだ。姉とはいえ本人を差し置いて、一也の命に係わる病のことを、そうおいそれと話す訳にはいかなかったはずだ。
だが俺は関谷に事の真相を隠していた連中を少なからず責める気持ちがあった。しかし、そういった考え方ができるようになってきた今では随分とその呵責の気持ちも和らいでいる。それはつまり、俺の中に少しずつ瀬野口一也の死、という事象が浸透してきているからなのだろう。
「俺よりも付き合いが長い関谷でもあの態度だ。性格のことももちろんあるとは思うが、あれが自然な反応だろう」
「……かもな」
関谷の反応と俺たちの行動など、実は大同小異だ。『いつも通り』を望む一也に付き合っている。つまり、関谷が一也に何かできることはないか、と問うたことに俺たちは応えている。だがしかし、今はそれを言わない。言う必要がない。それにこんなことなど恐らくは誰もが気付いている理屈であり、屁理屈でもあることだ。
「だがお前たちはそうはならないし、してはいけないと判っている。『いつも通り』を貫きながら、いつも一也を気遣っている」
「……」
俺自身にも言い聞かせるように言う。
「だから俺はお前たちを見習った。そんなお前がぐらついたら、俺はどうしたら良い」
慧太を諭すような形になってしまったが、俺自身も確認をしながら言っている。不安なのは皆同じだが、今ぐらついているのは慧太だ。恐らく、この手の話にまともに取り合えるのが俺しかいないのかもしれない。慎は一緒に悩み込むだけだろうし、尭也さんはあの性格だ。泣き言を言おうものならばけんもほろろだろう。意中の伊関至春には情けない姿は見せられないし、関谷や水沢に対しても同い年の男としての意地もある。だから俺にこうして態々話しているのだろう。
「でもお前はいつも冷静じゃねぇか。憎たらしいくらいに」
きっと慧太は初めてこんな話を他人にしているのかもしれない。今までずっと独りで考え続けてきたに違いない。
「そうかもしれないな。俺は冷徹な人間なのだろうことは自覚している。だが冷徹な人間は、いついかなる時でも冷静さを失わないとでも思っているのか」
そこで買いかぶられても困る。俺は自らめっきを纏っているつもりはないが、他人が、例えば慧太や関谷が『新崎聡は大した奴だ』と思っているのならば、それは簡単にはがれてしまうめっきでしかないのだ。
「そうじゃ、ねぇけど」
頭では判っているのだろう。だが慧太は俺よりも、より慧太自身が深く悩んでいることを自覚している。だから、俺の言葉も認めたがらない。
「俺だって既に、お前たちと共有する時間がかけがえのないものになっているんだ。その中でも特に、俺に正面切って、俺と組みたいと言った一也がいなくなるとなれば、俺だって冷静ではいられない」
もしかしてこいつらは、俺が友人を喪っても平気でいられるほど冷静な人間だと思っている訳ではないだろうな。俺だって辛ければ涙も出るし、嗚咽する。一つの感情だってまともにコントロールできない、ただの人間でしかない。
「あいつは平常を望んだ。それを一番近くにいて、真っ先に体現しているのはお前たちだ。親友が亡くなればショックは当然でかいだろう。だが俺は、そのショックをもっとでかいものにしなければならないと思い始めた」
以前関谷と話していても思ったことだ。絶望するための準備。その人と別れなければならなくなった時、どれだけの絶望感に襲われるかは、別れるその瞬間まで、どれだけその相手と密な時間を過ごせたかで変わってくる。
「どういうことだよ」
自然にそれができているからこそ、慧太は理屈など並べれば並べるだけ判らなくなってしまうのだろう。
「当たり前のことだ。慧太。お前たちがやっているようにやるだけのことだ」
「何言ってんだかさっぱり判んねぇよ」
拗ねたように言うので、俺は少し笑顔になって、言いたいことを頭の中で整理しながら話し始めた。
「そうだな、済まん。簡単に言ってしまうが、一也が死んだ時、ショックを受けないことと、ショックを受けること、どちらが良いか、という話だ」
自分がこの先体験するであろう、耐え難い事実をシミュレーションできているから、思い悩むのだ。そしてその悩みの種が何なのか、判っているのだろうからこその投げかけだった。
「そんなもん、ショックなんてない方が……。い、いや、そうか」
自分に置き換えれば実に簡単に判ることだ。
「あぁ。俺はお前じゃない。お前がどれほど辛いかは判らない。だが、お前も俺じゃない。お前ほどではないかもしれないが、俺だって一也がいなくなれば辛い。当たり前のことなんだ」
ゆっくりと、確かめるように俺は言葉を紡ぐ。
「一也がいなくなってショックを受けないなんて、所詮それまでってことか」
それが現実であり、事実であり、真実だ。
「あぁ。辛いのは皆同じだ。度合いは違うにしてもな。あいつが死んだとき、悔やんで悔やんで、何で死んだんだ、って泣いて泣いて、頽れて当たり前なんだ」
一也を親友だと認めているならばこそ、むしろそうならなければいけない。楽しすぎてあっという間だったと思えるような日々を一也とは過ごさなければならない。そして一也が死んだとしたら、その時に、悼み、思いを馳せ、悔やみ、泣き、頽れれば良い。その試練を乗り越えられるかどうかは、各々の心の強さや状況にもよるだろう。乗り越えたところで何一つ得るものもない、瀬野口一也という大切な存在が失われてしまうだけの試練でしかないのかもしれない。だけれどそれは誰もが乗り越えなければならない試練だ。
一也と全く面識の無い人間でも、そう言った場面は必ずやってくる。殆どの場合、親は先に逝く。順番と言ってしまうと冷たい言い方になってしまうが、誰もが経験し、超えて行かねばならない試練がある。俺たちにとってはそれが誰よりも早く、それも親しい友の死という形で訪れてしまうのだけの話だ。
「一也がいなくなった時のこと、想像するのも怖くて、どうにかできないのかって不安で、押し潰されそうで……それで、いいのか」
確認するように、ゆっくりと慧太は言った。
「いいかどうかは判らない。だが、人間として当たり前のことだろう」
そればかりを考えて、考えすぎて、それが良いことかどうなのかというのは俺にだって判らない。ただ、間違ったことではないはずだ。
「よし。んなら喰らいに行こう!一也も呼ぶ!」
善は急げ、とでも言いたげに慧太は携帯電話を取り出した。
「一也は持ってるのか?」
「あぁ。あいつは元々狩る方より喰らう方だ。おれは狩る方が好きだったかんなぁ」
そもそもそうか。持っていなければ態々喰らいに行こう、等とは言わないか。そして俺、慧太、一也ときたら、仲間外れにされて恨めしい言葉を散々言い続けるであろう男が少々心配だ。
「慎は」
「あいつも持ってる。下手糞だけどな」
それは何よりだ。仲間にはもちろん入れてやるが、慎をいじれるネタが増える。そして男四人、花も咲かない面子だが、それならば場所はうってつけの場所がある。
「よし、ならば場所は俺の部屋だ」
「まじで!」
それほど広くも綺麗でもない部屋だ。期待されても困るが。
「人目も気にならなければバッテリーの心配もしないで済む。幸い明日は休みだしな。とことんやろう」
関谷や水沢をはべらせてゲームをしている姿を見られて、などという余計な心配を一切気にする必要もない。
「よしきた!」
ぱん、と手を打った後、慧太はゆっくりと俺を見た。
「人目?」
「あ、いや、客がある程度は入っている喫茶店でやっていては他の客に迷惑も掛かろう」
俺は慌てて正論を口にする。実際に慧太は俺と関谷と水沢が一緒にゲームをしていたことを知っているので、何も慌てることなどなかったのだが。
「あぁなるほどな!んじゃ呼ぶぜ!」
「待て慧太」
携帯電話を操作する手を掴んで俺は真剣な面持ちで言う。
「な、何だよ。まだ何かあんのかよ」
「いいか、これだけは言って置くがな」
ことは深刻だ。慎や一也が来る前に、いや、慧太が連中に連絡を取る前に言っておかなければならないことがある。
「お、おう……」
慧太の表情が硬くなる。心配するな。お前が一言二言、連中に伝えれば良いだけのことだ。
「今、俺の部屋には何も食い物がない。金は後で清算するから、一也と慎に食い物、飲み物を山ほど買ってこさせろ」
言って俺はニヤリ、と笑う。一也がいないときは仕方がない。だが、一也といる時は慧太や慎がそうであるように、俺もこの俺でいられるように努めなければならない。
「了解げば!」
慧太の心情の吐露でまた一つ俺は学んだような気がする。友達というのはどんな場面でもありがたいものなのだ。それがやっと判ってきたような気がした。
「何だそれ」
「で、連中が帰ったのが朝七時です……」
土曜日の朝八時。俺は喫茶店vultureにいた。あれからすぐに一也と慎が来て、ただひたすらに喰らいまくった。途中一也と慧太がアダルトDVDはないのか、と騒ぎ出した他は、ただただ喰らいまくった。おかげで一睡もしていない。
「若いわねぇ。羨ましい」
そう言って涼子さんは俺が注文したブルーマウンテンの準備をしながら言った。
「少し寝ようかとも思ったんですが、せっかくなので涼子さんのコーヒーとサンドウィッチでも頂こうかと……」
どうせ今日は何も予定がない。少しでもアレンジを進めて今日中には全ての曲を弾けるようにしておきたいと考えていた程度だ。誰かが訪れる予定も無ければ、訪れるような友達は揃って徹夜明けでダウンだ。途中で寝てしまうことがあっても大丈夫だろう。
「その心意気は嬉しいわね。でも目の下、くまが出てるわよ、聡君」
「今日は仕方ないです」
誰かに会う訳でもなければ、会ったところで気にする必要のない人間しかいない。事実涼子さんにだって、この顔を見られたところでどうということはない。
「そんな顔、香織ちゃんに見せられないじゃないの」
「……は?」
一瞬、涼子さんの言葉の意味を掴み損ねて、反応が遅れた。突然出た関谷の名前と顔が、俺には何の関連性もないと思ったからなのかもしれない。
「好きな女の子にそんな酷い顔、見せたくないでしょ」
更に涼子さんはそう畳み掛けてくる。見当違いも良いところだ。
「あの……」
どう返答したら良いものか。
「え!あれ?聡君、香織ちゃんのこと好きなんじゃないの?」
好きの度合いもそれぞれだと思うが、異性として、恋人として、もしくは恋人候補に挙げたい女性としての好きとは少し違う。だからと言って、慧太や一也や慎のように、友達として好き、というのも少々違う気がする。
「や、関谷は可愛いとは思いますが、好きとかそういうのとはちょっと……」
「ええ!」
人間観察眼が鋭い涼子さんでも見抜けないことは沢山ある。考えてみれば、こんなことなど当たり前のことだ。人の気持ちなど、誰も見えやしないのだから。いくら涼子さんが何百人、何千人、何万人と人間を見てきていたとしても、俺という人間は過去のデータとは必ずしも一致しないものだ。
「俺、何かそういった素振りを見せてましたか?」
ふと気付いたが、確か瀬野口先輩や伊関先輩、慧太までもがそんなようなことを言ってはいなかったか。面白半分でくっつけたがっているだけだとばかり思っていたのだが。
「だって一緒にうちに来てくれたり、帰りだって毎日送ってあげてるんでしょう?」
「あぁなるほど……。一緒に来たのはたまたまです。この間は一也の件で騒がせた割りに缶コーヒーだけで済ませてしまったんで、侘びです。送っているのは本当に関谷の部屋が通り道だからです」
それだけのことだ。ただ、詫びとは言え、一人の女性を喫茶店に誘うという行為に少々緊張したのは紛れもない事実ではあるが。
「そうだったのね……」
「あの、冗談ならまだ良いですけれど、本当にそんな話をしたら、本気で関谷に迷惑かかるんで……」
本当に冗談だと判るレベル。もしくは冗談だと言って聞かせられるレベル、相手。そういう場合ならばまだしも、涼子さんにそう言われてしまえば、ただでさえ冗談が通じ難い関谷のことだ。本気にしかねない。
「そうね。もう言わないわね」
少し焦っている涼子さんというのも中々珍しいかもしれないが、ことは自分に関わってくる話だ。悠長に見物などはしていられない。
「……思わせぶり、ですかね」
少し考えて、俺は言った。あくまでも仮定としての考えだったが。
「ん?」
「まぁ無いですけど、仮に関谷が俺のことを気になっていたとしたら、俺の行動は関谷に対して思わせぶりだったのではないか、と」
仮定だ。俺が人に好かれるなどそうそうあってたまるものか、とどこか意固地になっている部分は、確かに自覚している。だが、こう立て続けに親しい人間が増えれば、これ以上は流石にもうないだろう、という気持ちがまた膨れ上がってくるものだ。
「んー、そうかもしれないわね。でも聡君が香織ちゃんを送って行くのって、聡君ちへの通り道で、同じ部員だったり、クラスメートだったり、女の子で独り暮らしだったりするから、ってこと?」
「そうです」
それ以外には何もありません。
「じゃあ例えば、それがうちの子でも、至春ちゃんでも、早香ちゃんでも、聡君は同じことをするってことよね」
「ですね」
そんなものは男として当然の行為だ。同じ土俵に立てない立場同士で、お互いの弱点を補い合うのは当たり前のことだ。仮に襲われたとして、関谷はあの華奢な身体つきだ。腕力では絶対に男には適わない。だとしたら、それに対抗し得る人間が守らなければならない。それが親しい間柄ならば尚のことだ。
「ね、聡君」
「はい」
「もしもね、まぁ聡君が自分で無いっていうんだから、無いのかもしれないけれど、もしも香織ちゃんが告白してきたら、どうするの?」
ブルーマウンテンの良い香りが漂ってきた。涼子さんは冷蔵庫を開けて銀色のボウルを取り出しながらそう言ってきた。
「あの、何故に恋バナモードですか……」
正直逃げたい。俺はろくな恋愛をしてきていない。友達も今までは本当に少なかったし、恋愛にしたってそうだ。結果、俺は大した人間ではないし、言ってしまえばろくでなしだ。だから、こんなに真っ当な恋愛話などできるはずもないのだ。
「答えてくれないとサンドウィッチにマスタードいっぱい入れちゃうかも」
「りょ、涼子さん……」
黄色いチューブ的なものを振りかざして涼子さんはにやりと笑う。うう、やはり女はどんな女であろうと怖い。絶対に舐めてかかってはいけない。
「あぁ、聡君は辛いの大好きだっけぇ。いっひっひ」
い、いや、いっひっひは言っていない。だが、俺の耳にははっきりと、悪い老婆の魔法使いが漏らすような笑い声が聞こえていた。
「わ、判りました!」
ば、と涼子さんに五指を広げて見せて、俺は観念した。
「い、今、現状ではペンディングで……」
「えぇー、何で?」
途端に小首を傾げて可愛らしい声に切り替えると、涼子さんは満面の笑顔でそう言ってきた。怖い女だ……。
「ようやっと少し関谷のことを判ってきたところです。全てを判るまでなんて言いやしませんが、仮に関谷と恋人同士になったとして、まだちゃんと付き合って行けそうかどうか、全く想像がつきません」
本当に、今俺が考えていることだ。いや、考えたことだ。普段からそんな考えは持ってはいなかった。自分の立てた仮定から導き出した推論と結果だ。
「なるほど……。じゃあ絶対ナシ、って訳じゃないんだ」
「それは、そうです」
ただでさえ関谷は可愛らしいし、心優しい。何故関谷に恋人ができないのか、不思議に思うくらいだ。そんな関谷がもしも俺に想いを寄せてくれているのだとしたら、素直に嬉しいと思うだろう。
「じゃあ言うけれど、聡君の行動は香織ちゃんがもしも聡君を気にしてたら、思わせぶりです。聡君に付き合う気が全くないなら、すぐ辞めるべきだと思います」
「え、えぇ、まぁそうですね……」
ただ、そこまでとは思っていない。桜木八重の時とは違う。彼女は話したこともない俺に告白してきたのだ。だが、関谷の場合ならば俺にもある程度の認識は備わってきている。関谷香織という人間がどういった人間なのか、ようやっと、少しだけだが判ってきたところだ。付き合う気がないどころか、充分に思い悩む余地はある。
「でもまだ判らないし、この先もしかして香織ちゃんと付き合える、とか好きになれるかも、っていうんだったら、続けても良いと思います」
「は、はい……」
的確、なのか。仮定、という大前提があったにしても。
「以上!」
ぴん、と人差し指を立てて涼子さんはウィンクする。俺が知っている中では恐らく唯一のウィンクする四十代だ。それがまた良く似合うから困る。
「そ、それは、関谷が俺のことを気にしている、という仮定の元ですよね」
「だって聡君がそう言ったんじゃない」
確かにそうだが、関谷が何とも思っていない、もしくは迷惑だと感じているが断りきれなくて、という仮定もあるはずだ。一番都合の良い仮定だけを立てて物事を進められては困る。というか、何の解決にもならないではないか。
「そ、そうですが、現状は……」
「知りません。私は香織ちゃんの好きな人が誰かなんて知らないもの」
いや、今関谷の好きな人が誰か、などと問うている訳ではない。訳ではないのだが。
「……少なくとも好きな人はいる、ってことか」
思わず呟いてしまった。
関谷本人が言っていたように、一也の言ったことが言葉の文だったとしても、どうやら関谷に好きな男がいるのは確実なようだ。だとするならば、今後は関谷を喫茶店に誘ったり、一緒にゲームをしたり、送って行ったりなどという行為はしない方が良いのかもしれない。もしも関谷の好きな男がこの辺に住んでいるのだとしたら、俺と二人で歩いているところなど絶対に見られたくないだろう。俺も配慮が足りなかった。
「ま、考えなさいな少年。……っとぉ早速試練、かな」
「は?」
どうやら外を見ていた涼子さんがそう言って、直後、入り口に設えられているカウベルが鳴った。
「いらっしゃい、香織ちゃん、祥君」
俺は妙に弾んだ涼子さんの言葉に、反射的に反応して入り口を振り返った。
「あ、し、新崎君!」
驚愕、というのは今の私の顔です、と言わんばかりの表情で関谷は俺の名を呼んだ。配慮が足りないと思った矢先のこれだ。俺はとりあえずどうしたものかと迷った挙句、ひょいと片手を挙げてこう言った。
「よ、よう関谷……」
第十六話:試練 終り
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