案内されないことを気にする様子もなく、祖母は勝手にテーブル席に座った。その顔には薄ら笑いが張り付けられており、楓の瞳には呪いの仮面のように映っていた。
「メニューをちょうだい」
まるで赤ちゃんに対して話すような甘い口調に、虫唾が走った。早く帰ってくれ。その一心でメニューを叩きつける。
「へー。案外そろっているのね」
「何をしに来たんですか」
楓は祖母をにらみつけた。自分と似ているその顔を。
「偶然入ったカフェにあなたがいただけよ」
絶対に嘘だ、と確信していた。本当に偶然だったら祖母の態度に説明がつかない。
「これをちょうだい」
祖母は横柄な態度でメニュー表を指さした。
「ちゃんとメニュー名をお願いします」
「別にいいじゃない。わかるでしょ」
「ルールですので」
「全く、自分の無能を棚に上げてお客に手間を掛けさせるなんて最悪ね」
ストレスのあまり、眉がヒクヒクと動いた。大きなため息をついた後、それ以上のやり取りは無駄だと考え、清水に注文をまわす。
「どうかしたのか?」
清水が手を動かしながら訊いてくる。
「いえ、なんでもないです。気にしないでください」
「そうは言っても、顔色が悪いぞ?」
「……すぐによくなりますから」
清水の心配をよそにコーヒーを載せたトレーを運んでいく。
(あれ……?)
突如、足が異様に重くなった。まるで床に根が張ったみたいに足が上がらない。そこでようやく気付く。自分の心臓が凄い勢いで鳴っていた。
ドクンドクンドクンドクン
鼓膜まで響くような脈動だった。
緊張か、恐怖か、どちらにせよ、楓の心に強い付加を掛けていた。
(立ち止まったら、終わる……!)
無理矢理に足を動かす。まるでさび付いた歯車を動かすように、一度動き出してしまえば、後は動き続けてくれる。
(お姉ちゃんが買い出しに出ていてよかった)
もし君乃がいればもっと酷いことになっていただろう。
テーブルに向かう間、祖母はじっと楓を見続けていた。その瞳は検品するライン工のようで、視線を感じるだけでゾクリと鳥肌が立つ。
「レギュラーコーヒーのホットです」
震える手を抑えつけて、カップをテーブルの上に置いた。これで後は無視を決め込めばいい、と安堵した瞬間だった。
ゾワリ。
祖母のしわがれた手が、楓の手に触れた。突然の出来事で固まってしまう。
「キレイな手ね。あの子によく似てるわ」
まるで赤子の手を舐めまわすような動きで、手の甲を撫でていく。触れられた場所に鳥肌が立ち、あまつさえ腐っていくような不快感が駆け抜ける。
「——ッ!」
さらには痛みが走る。祖母がネイルを突き立てたのだ。
(なんなの、こいつ!)
最も不可解だったのは、暴力的な行動をしても、優し気な顔をしていることだった。まるで自分が何も悪いことをしていないと信じ込んでいるかのようだ。
楓の困惑に気付いてすらいないのか、祖母は話し始める。
「あの男はわたしから娘を奪った悪い男なのよ。あの男に似ているあの女もきっと一緒よ」
頭の中が真っ白になった。
(この女は何を言っているんだ? おとうさんが悪い男? お姉ちゃんも一緒?)
自分の中に煮え返るものを感じて、抑えるだけで精いっぱいになる。
「わたし辛かったの。娘を無くして、人生がどうでもよくなって、おかしくなっていたのよ」
だからなんだ、と言い返したかった。今すぐ目の前のコーヒーをぶっかけたかった。しかし祖母のあまりの不気味さと、幼少期に刷り込まれた恐怖のせいで、指一本も動かせない。
「今からでも遅くないわ。わたしと一緒に暮らしましょう?」
「……は?」
グチャグチャな心の中に反して、感情の一切こもっていない声が漏れた。
「きっと幸せになるわ。わたし、見ての通りお金はあるのよ」
瞼は開いたままなのに目の前が真っ暗になった。全身の感覚がなくなっていく。このまま意識を失って、さっきまでの全てを忘れたい衝動に駆られる。
しかし頑丈な楓の体は、そんなことを許してはくれない。
「ねえ、聞いてる?」
祖母の心配そうで、不満そうな顔が覗き込んでくる。不気味な手が近づいてくるのだが、その動きがすごくゆっくりに見えた。
(イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ!!)
嫌悪感が限界に達して、反射的に体が動いた。
バチン、と祖母の手を弾く。その拍子に手の甲に爪が引っ掛かり、血が流れる。
一瞬、驚いていた祖母の表情がみるみると変化する。さっきまでの微笑みが嘘だと確信できるほどの下卑た笑いを浮かべていた。
「やっぱり間違いだったわ。こんなにもおバカさんに育つなんて、もっと早く迎えに来るべきだったわ」
「ふざけるな!」
楓がいくら強く叫んでも、祖母は動じない。自分の無力さが嫌になりながらも、ひたすら睨み続ける。
「きっと娘もあの世で呆れてるわ。全く不幸ね」
「不幸じゃない!」
「そうね。あなたには不幸なんて言う資格は無いものね。理咲を殺したあなたには」
一気に頭に血が昇っていく。我慢の限界を超えた。
「出て行ってくださいっ!!」
「お客様に言うこと?」
祖母は事もなげに返す。楓の精いっぱいの怒りにも、身じろぎ一つしない。
「客じゃない。あんたなんて、客なわけがない!」
「そうね。わたしはあなたのお祖母ちゃんだものね」
全く話が通じない。もう目の前にいる人物が同じ人間なのか疑問に思えてくる。もういっそのこと手を出そうとした瞬間だった。
弱々しく肩をつかまれた。
「楓さん……」
振り返ると、音流が心配そうな顔をしていた。その顔を見ていると、頭が冷えてくる。周囲を見渡すと、店内にいるお客さんの視線が集中していた。
そのことに祖母も気づいたのだろう。
「まあいいわ。今日は顔を見に来ただけだから」
踵を返して、悠々と帰っていく。
カランコロン、という軽い音とともに祖母の姿が見えなくなると、崩れ落ちてしまう。
料金を置いていかなかったことなんて、もはやどうでもよかった。
(お客さんに謝らないと……)
しかし体に全く力が入らなかった。安心感と情けなさと恥ずかしさが湧き上がってきて、泣きたくなってくるが必死にこらえる。
「大丈夫ですか?」
音流に支えられて、やっと立ち上がれた。しかし「ありがとう」とお礼を言う気力すら残っておらず、視界はぼんやりとしている。
「大丈夫か!?」
数秒遅れて、血相を変えて清水が駆け寄ってくる。すると、楓の状態を見てヒョイッと持ち上げた。そのままお姫様抱っこをして、居住スペースへと運んでいく。
(うわぁ、お姉ちゃんが見たらすごい顔をしそう)
よく鍛えられたに抱きかかえられたまま、そんなくだらないことを考えていた。
(本当にお姉ちゃんがいなくてよかった)
君乃は普段おっとりしているが、一度怒ると手が付けられなくなる。下手すれば刃傷沙汰に発展していただろう。
階段を登って、楓の部屋の前で一旦止まった。
「部屋に入ってもいいか?」と清水に聞かれて「はい」と楓は力なく頷いた。
自分の部屋の光景が目に映り、匂いに包まれる。
ポロリ、と大きな涙があふれてくる。一度出てしまえば後は抑えることが出来ず、ゲリラ豪雨のように流れていく。
その様子を見ていた清水は、気まずそうな顔をしながら
「今日はもういいから。休んでろ」とだけ告げた。
さっさと店に戻ろうとする清水の袖を、とっさに掴む。
「お姉ちゃんには……言わないでください」
清水は一拍置いてから「任せとけ」と胸を叩いた。
後で様子を見に来る、とだけ付け加えて清水は店に戻った。その頼りがいのある背中を見ながら、楓は考えていた。
(絶対に言うだろうな)
清水は楓の味方ではない。君乃の味方だ。楓はあくまで好きな人の妹に過ぎないのだ。
(いや、本当は隠す方がダメなのか)
家族として、ちゃんと話すべき事態なのだろう。しかし楓はある考えのせいで、自分から言い出す気分にはなれなかった。
(わたしが悪いんだよね、多分)
祖母は明らかに楓を目当てに来ていた。だから――
もし生まれた時に母を殺してなかったら。もし母と瓜二つの顔をしていなければ。祖母が関わってこなかったかもしれない。
一番悪いのは祖母だ。そんなことは理解している。しかし次に悪いのは、きっと楓自身だ、という嫌な考えが頭から離れなかった。
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