タタタ、と。
音が聞こえなくなる場所までつくと、ようやく人心地がつけた。
「はぁ……」
チクリと胸の奥底に痛みを感じた。今すぐにでも理咲にこれでよかったのかと聞きたかった。しかし迷いを振り切るように大きく足を上げる。
『Brugge喫茶』――娘たちが待つ場所の前に着いた。
ふと看板が目に入る。
(青木だからブルージュかぁ。変な捻り方)
"青木"から"青樹"に変換して、"青"は英語でブルー、"樹"は音読みでジュ、あわせてブルージュ喫茶。ローマ字は同じ読み方のベルギーの地名から借りている。
そんな経緯だから、ベルギーなんて一切意識していないし、日本の王道な喫茶店がコンセプトだ。
(本当、変なところで母親に似たなぁ)
どんどん娘に会いたい衝動を抑えきれなくなって、『CLOSE』の札が掛けてあるドアノブを回す。
ゆっくりと開けると、カランコロンと軽快なベルが鳴る。
「あ、お父さん、おかえりなさい」
「おかえり」
娘たちの顔を見た瞬間に、さっきまで抱えていた鬱々とした気分に晴れてく。
(ああ、いつになっても、この瞬間は――)
娘たちの顔を見ているだけで、自分に「おかえり」と言ってくれるだけで、この世界の全てに感謝したくなる。
それほどの多幸感が、心を満たしてくれる。
「ただいま」
涙がこぼれそうになりながらも、微笑んだ。
しかしある人物の姿を見つけてしまって、さっきまでの感動がどこかへ飛び去ってしまった。
(ああ、そういうことか)
チッ、と舌打ちを隠すことなく、その人物の前に立つ。
「それで、なんで君がいるのかな? 清水くん」
冷や汗をかいている青年を前に、千里は薄ら笑いを浮かべた。
清水はガチガチに固まりながらも、必死に舌を回す。
「お、お久しぶりです」
「またね、とは一度も言ったことはないんだけどね」
「あ、あははぁぁ」
千里の皮肉を受けて、清水は引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「ほら、お父さん!」
男二人がギスギスしていると、呆れた様子の君乃が割って入ってきた。
「そのくらいにして! 今日の主役は楓でしょ」
千里は娘に逆らうことが出来ずに、渋々ながらも娘についた虫への嫌がらせを中断した。
改めて、楓に向き直る。今日は楓の『のど自慢大会お疲れ様パーティー』なのだ。
「楓。いい歌だった……ヨ」とつい片言になってしまった。
「お父さん、無理しなくていいから。ダメダメだったのは、わたしが一番わかってるから。
それに、ごめんなさい。お母さんの浴衣ボロボロにしちゃって」
「いいんだ。いつか捨てないといけなかったんだし」
千里はとにかく頑張った娘を褒めたくて、必死に思考を回す。でも何も気の利いた言葉は浮かばず、結局は
「それよりも、よく頑張ってたと思うよ。うん、えらい」とぼかした。
「お世辞下手すぎ」
楓からの容赦ない毒舌に、千里はズーンと落ち込んだ。そんな父をよそに、パーティの準備が整っていった。
数分後。準備が整って、全員がグラスを掲げていた。
「それじゃあ、楓、のど自慢大会お疲れ様!」と千里が音頭を取ると
「「お疲れ様!」」と清水と君乃が声を揃えた。
「……ありがとう」
楓は照れながらオレンジジュースを口に含んだ。
それからは、のんびりとしたパーティーだった。
君乃が作ったビーフシチューやオムライスに舌鼓を打って、思い出話に花を咲かせた。単身赴任のせいで普段は娘と会えない千里にとって、この上ない幸福だった。
だが――
(ちっ、これが問題だ)
なぜかテーブルの向かい側に清水が座っていた。一瞬でも顔を見たくなくて、常に顔を横に向けている。
それでも、清水は挫けることなくゴマを擦る。
「どうですか、このビーフシチュー、君乃と俺が一緒に作ったんですよ」
「娘を呼び捨てにしないでくれないかな」と千里が嫌味を言うと
「こら、お父さん!」と君乃に怒られてしまった。
大人しくビーフシチューを口に運んだ。予想以上においしくて、つい夢中で食べてしまった。
(一気に食い過ぎた)
一旦お腹を休めて、オレンジジュースを飲む。
(うまいな、これ)
スルスルと喉を通っていき、一瞬で飲み干してしまう。すると、すぐにコップに新しいオレンジジュースが注がれた。
「お、助かる」と言いながら顔を上げると、営業スマイルを浮かべる清水の姿があった。
「どうぞ。お酒が飲めないと聞いたので、評判のいいオレンジジュースを用意させてもらいました」
「ふん、お前が注いだジュースなんて何が入っているかわからん」
「お父さん、いい加減にして」
今度は楓にたしなめられてしまった。
いじけた千里は、オレンジジュースをチビチビと飲んで、楓の顔をジーッと見つめた。
(楓はこっち側だと思っていたんだけど……)
いつの間にか不利な状況になっていることを察して、しばらくは大人しくことに決めた。
それからは穏やかに時間が進んでいき、ある程度料理を食べ終えた頃。
「ねえ、提案があるんだけど」
楓が控えめに手を挙げて発言した。
「お母さんのビデオレター、皆で見ない?」
「「なんで知ってるの!?」」
千里と君乃の声が重なった。
お母さん――理咲が遺したビデオレターの存在は、楓に秘密にしていたのだ。
慌てふためいている二人を見て、楓は不敵な笑みを浮かべた。
「二人とも、わたしに隠し事できるわけないじゃん。誰がいつもお片付けしてると思ってるの?」
(入念に隠してたんだけど)
千里としては、絶対に見つかる訳がない、と思った場所に隠していた。仏壇の収納で、テーブルで隠してもいた。
それでも見つかってしまっていたのだ。気まずく思いながらも、楓に語り掛ける。
「ごめんね。楓。隠し事をしてて」
「いいよ。気にしてはいるけど……。多分、わたしに気をつかってくれたんだよね」
「お母さんの話をすると、いつも酸っぱい顔しかしないから……」
「そんな顔してた?」と楓は少し眉を歪ませた。
「してた」
千里が短く答えると、楓は少し困った顔を浮かべた。それから皺だらけの手を握って、柔らかく表情を変える。
「もう大丈夫だから、一緒に見よ」
はにかんだ笑顔がとても眩しくて、理咲の面影が重なって見えた。たったそれだけのことで、頬がほころんでしまう。
「ああ、そうだね。もう大丈夫そうだ」
それから喫茶店スペースからリビングに移動した。しかし準備をする中、どうしても気になることがあった。
「清水くんまで見る必要があるかい?」
「あ、はい、そうですよね。すみません」と清水が寂しそうに出ていこうとすると
「私が見てほしいの」と君乃がすぐにフォローを入れた。
「……君乃がそう言うなら」
千里は渋々ながらも、清水の同席を受け入れることにした。
「すみません。ありがとうございます」
頭を下げられても、千里は無視を決め込んでいた。
「大人げない」
楓がボソリと呟くのが聞こえて、千里は苦虫を噛んだような顔になった。
いくら偉ぶろうとも、娘たちには絶対に勝てないのだ。また大人しくすることにした。
「これとかどう?」
楓がディスクを取り出して掲げると
「あ、ぴったり!」と君乃が反応した。
『君乃 婚約した時用』と書かれたディスクだった。ちなみに『結婚式用』と『ハネムーン用』まで揃えられている。細かく用意しているものだから、ビデオレターは二十枚以上もあるのだ。
早速プレイヤーに入れて、再生する。
『あー、見えてる? 聞こえてる? お母さんだよ。君乃』
テレビの画面いっぱいに、理咲の顔が映し出された。
「あ、お母さん」と君乃は弾んだ声を上げ
「こんな声だったんだ」と楓は意外そうにしていた。
しかし突然、画面が激しく揺れた。おそらくはカメラが落下しかけたのだろう。
『おっとっと、ごめんね。手持ちで撮影してるから』
理咲はそう謝りながら、画角を調整した。
(ちゃんと教えてくれれば、撮影を手伝ったのに)
当時、ビデオレターを撮影していることを、千里は知らなかった。初めて知ったのは死後、病室の理咲の荷物を整理した時だった。
(いや、知ってたら反対してたか)
理咲本人は死ぬ覚悟を持って楓の出産に挑んでいた。しかし千里はそうではなかった。当時の千里が知っていれば、残酷な選択をしてでも出産を止めていたかもしれない。
思いを馳せている内にビデオレターは進んでいき、衝撃的なセリフが聞こえた。
『多分、お父さんが猛反発してると思うけど、気にしないでね』
「ゴホッ!」
いきなり図星をつかれて、思わずせき込んでしまった。
「流石お母さん。よくわかってる」と君乃は大きく頷き
「おかしい」と楓がクスクス笑い
「大丈夫ですか!?」と清水だけが千里を気遣ってくれた。
『話を聞かない人じゃないけど、一度決めるとかなり頑固だから。そうだ、ちょっとした魔法を残すね』
画面の中の理咲は、背筋を伸ばして、真剣な顔つきを取り繕った。
『千里さん、子離れしないと嫌われちゃうからね。子供はいつまでも子供じゃないの。私はそんなあなたを見たくありません』
(だったら、傍にいて注意してよ)
そんな子供っぽい感想を抱いてしまって、ハッとした。
ふと自分の手のひらを見つめる。皺だらけで、到底子供の手には見えない。それどころか、神経質な老婆の手が重なって見えた。
(僕も、あの人みたいになってるのかもな)
『じゃあ、君乃。幸せになってね』
ビデオレターが終わって、少しだけの沈黙があった。君乃は懐かしさの余韻に浸り、楓はしばらく呆けていた。そんな中、清水が声を上げる。
「すみません、千里さん」
一瞬無視しようと考えたが、あまりにも真剣な声音で、つい振り向いてしまう。
目に入ったのは、好青年のこの上ない程熱意のこもった顔だった。清水の顔立ちがあまりにも良いものだから、まるでドラマの一幕のように見えてしまう。
「今日お伺いしたのは、大事なお願いがあったからです」
(ああ、わかってるよ。頼むから言わないでくれよ)
青年のまっすぐな瞳に気圧されて、嫌味の一つも口に出せなかった。
「千里さん、お願いします。君乃さんをオレにください。一緒に生きていきたいんです」
清流のように澄み切った声で言い切って、深々と頭を下げた。
その場にいる全員が息を呑んだ。
(そういえば、僕はこんなことをしてなかったんだよな)
理咲も千里も一般的な家庭では育ってこなかった。理咲は君依という一人親に育てられ、千里は親と反りが合わずに絶縁状態だ。だから、相手の親に挨拶することもなかった。
ゆっくりと首を回して、娘たちの様子を眺める。
「お父さん……」
楓が心配そうな顔をしながら呟いた。
その横で、君乃がひたすら目で訴えかけている。瞳には怒りも威圧もなく、純真な懇願の想いがこもっていた。
(理咲や娘たちにここまで言われたら、さすがに……)
心の中では色々な葛藤が渦巻いていた。そう簡単に整理できなくて、目を閉じて考え込む。
「……………………」
千里が黙っている間、空気は重苦しかった。息を吐く音や身じろぎする音が聞こえる程だ。
(……よし)
5分ほど考え続けて、ようやく覚悟が決まった。
乾いた唇を開き、重々しく舌を動かす。
「少しだけ、娘をよろしく頼むよ。清水くん」
ぶっきらぼうに告げた。すぐに態度を変えるのが気恥ずかしかったのだ。
「「「え?」」」
まさか色よい返事がもらえると思っていなかったのだろう。三人は素っ頓狂な声を上げた。
最初に我に返ったのは清水だった。
「あ、あああ、ありがとうございますっ!」
まるでライオンに命乞いを認められたかのような喜び様だった。
整った顔が台無しになるほどに大声で叫んで、何回もガッツポーズをしている。
その姿を見て、衝撃を受けた。
(僕、そんなに怖かったのか)
さっきまでの自分が途端に恥ずかしくなって、居たたまれなくなった。目の前の青年を直視できなくなって横を向くと、君乃と目が合う。
「お父さん、何かあったの?」
その問いに、千里は曖昧な表情をするしかなかった。
(あのことは言える訳がないし)
なるべく表情筋を動かさないように意識して、答える。
「何もなかったさ。何も」
「そう?」
君乃は不思議そうにしながらも、興奮状態の清水をなだめに戻った。
「ちょっとお母さんと話してくる」
簡単に言い残して、騒がしいリビングから出た。
ガラリ、と仏間の扉を開けて入る。仏壇の前に座り、線香を立てて、流れるように手を合わせる。
「ただいま、理咲」
――おかえりなさい
突然、声が聞こえた。千里が聞き間違えるはずがない。理咲の声だった。驚きのあまりに周囲を見渡した。しかし遺影と仏壇しか見当たらない。
(さっきまでビデオレターを見てたり、心が弱ってるせいかな)
ふと天井を見上げる。背伸びすれば届く天井。その先には広大な空が広がっていて、そのずっとずっと先には天国があるかもしれない。
(はあ、これでいいのかなぁ……)
突然、キリリ、と心臓が痛んで胸を抑える。
(あぁ、もう、この体は――)
千里は心臓を患っている。普段は薬で安定させているが、飲み忘れただけで発作が起きる時がある。おそらくは健康的な人よりは長生きできないだろう。
(僕もそのうち娘たちを置いていくのか)
後二十年か、もっと早いか。その時はいずれ来てしまう。
徐々に実感が湧き始めていた。特に今日は大きな転換日だったのだ。君乃の婚約が決まって、親の手から離れてしまった。
後は楓だけだが、いつの間にか大きく成長していた。
肩の荷が下りたような、もの寂しいような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。
それでも娘たちとの時間を大切にしたくて、自然と前を向く。
(後悔しないようにしないとな)
そうでないと、あっちにいる妻に笑われてしまう。
「理咲。もうちょっと待っててね」
モナリザ風の遺影に向かって、もう一度手を合わせた。
モナリザを真似た遺影。本人に頼まれて撮影したものだが、その時の千里は遺影になるとは予想もしていなかった。遺書を見つけて初めて本当の意図を知った。
(本当、これを遺影にするなんてなぁ)
切ない気持ちで見ていると、ある光景がフラッシュバックした。
理咲がやる気を出す時の仕草。それはいつの間にか、娘たちにも受け継がれている。
(やってみるか)
「どっこいしょ、っと」と立ち上がって、背筋を伸ばす
バチン、と自分の頬を叩いて気分を入れ替えた後
拳を天に突き上げる。
そして、叫ぶ。
「「やってやるぞ! おー!」」
千里は目を丸くした。
「……え?」
なぜか声が重なって聞こえたのだった。
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