千里は風化した妻の温もりを思い出して、身を震わせた。
表情はいつの間にか、穏やかな父親の顔ではなく、愛しい人を守る男の顔になっていた。
「僕は理咲の夫としてあなたと話しに来ました」
「あなたを理咲の夫だなんて認めてない!」
あまりにも予想通りの反応で、千里は嗤いたくなった
「それよりも、あの子いいじゃない。楓ちゃん。ちょっと貸してよ。いくらいる?」
まるで買い物をするような軽々しい口調なのに、内容は残酷だった。あまりもの不快感に、千里の顔が自然と歪む。
「子供はペットじゃないんですよ。おもちゃじゃないんですよ」
「私が娘を産まなければ、あの子たちは生まれなかったのよ。これぐらいの権利はあるはずよ」
「それなら、僕がいなくても娘たちは生まれなかったでしょう」
千里は感情を出来るだけ押し殺して、淡々とした口調で言い返した。対照的に君依は
「腹を痛めたこともない男が知った口を言うんじゃない!」と感情的に怒鳴りつけるばかりだ。
どれだけ威嚇されても、千里は一歩も退かなかった。
千里は理解していた。この女性とは会話をできないことを。きっと生半可な言葉では何の意味のないことを。
「理咲は、あなたに良い感情を抱いていませんでした。死ぬ寸前も、全くあなたの名前は出てきませんでした」
「そう。それが何なの。嫌われてもいいじゃない! あの子が生きててくれれば!」
「親のことが、たった一人の親のことを嫌いになる苦しみが、あなたにはわかるんですか!?」
脳裏に浮かんだのは、最愛の女性の笑顔。そして寂しげに諦めた顔だった。
そのどちらも、思い出すだけで胸が締め付けられる。
「それに、理咲はもう死んだんですよ……」
「死んだ……」
突然、君依の動きがピタリと止まった。
「死んだ……? 死んだ、死んだのに、私はなんで……?」
明らかに異常だった。周囲を見渡して、手足が小刻みに震えている。見えない何かにおびえているように見える。
(まさか、実感がないのか……?)
理咲が死んだ時、千里はずっとそばにいて、見届けていた。病院ではずっと寄り添っていたし、葬式の喪主だってこなしていた。
それに対して、君依はずっと理咲に会っていなかったのだ。葬式や法事にも出ていない。普段顔を合わせない人が死んでも、実感は湧きにくいだろう。
だからこそ、まだ理咲の死を受け止められていないのだ。赤ちゃんが中学生になる程の時間が過ぎても。
千里と君依。二人の差は、たったそれだけのことだったのかもしれない。
(それなら、伝えないといけない)
深呼吸をしてから、穏やかに言葉を紡いでいく。
「理咲が最期に言い残した言葉は三つあります。一つ目は妻としての、僕への感謝。二つ目は母親としての、子供たちを心配する言葉。
三つ目は、娘としての、産みの親に対する言葉でした」
虚空を見つめていた君依の瞳がゆっくりと動き、千里の口の中を覗き込む。
「『産んでくれたことは感謝してる。でも、あの人よりも先に天国に逝けることに、ちょっとだけホッとしてる』」
聞いた瞬間、君依の顔がグニャリと歪んだ。ムンクの叫びのようで、ひどく醜い。
「あの子は、本当に……?」
千里が静かに頷くと、君依は目を見開いたまま、首をゆっくりと回した。
何もない場所を見ながら、歪に口角を上げて
「なんだ、いるじゃない」と震えた声で呟いた。
その姿はあまりにも不気味だった。
「何を言ってるんですか……?」
「理咲よ。ほら、そこにいるじゃない」
「理咲は死んだんですよ」
千里の言葉を――現実を、君依は強く拒絶する。
「嘘よ! だって、あそこにいるでしょう!?」
君依が指さした先には、誰もいない。ただ、虫が群がる街灯だけが佇んでいる。
「ほら、あそこにも、あっちにだって、こんなにいっぱいいるじゃない! 私の理咲っ!」
あちこちをデタラメに指さしては、理咲の名前を叫び続けている。もちろん、どこにも理咲の姿はない。きっと君依の瞳には本当に映っているのだろう。
(もう話はできないだろうな)
もう君依の心は壊れている。どんな言葉を投げかけても無駄だろう。それでも、言わないといけないことがあった。
君依の目線の先に立った後、屈んで視線を合わせて、虚ろな瞳をみつめた。
そして、淡々とした口調で告げる。
「あなたには、理咲に出会わせてもらえて感謝しています。
ですけど、もう僕たち家族に関わらないでください。娘たちの前に現れないでください。声を掛けないでください。
もう僕の家族をメチャクチャにしないでください」
「そんなこと、言わないでよ。人でなし!」
君依の悲鳴に対して、千里はまくし立てる。
「人でなしで結構です。僕は人である前に、楓と君乃の父親です。娘たちを守れるんだったら、鬼にだって悪魔にだってなります。
それが親ってものでしょう」
千里の言葉を受けて、君依の瞳が激しく揺らいだ。自分の顔をペタペタと触り、手の平をぼんやりと見つめた。その手のひらには、剥がれた化粧がべったりと付いていた。
「そう、あなたもなのね……」
君依は力なく呟いた後、抜け殻のような瞳を千里に向けた。
「ねえ、最後に聞かせて」
まるで遺言をささやくような、穏やかな声色だった。
千里は儚い老婆を直視することが出来ず、月を見上げて、息を吐いた。
君依はじっと暗い地面を見つめながら、口を開く。
「あの子、よい子だったでしょう。最高の、かわいらしい女の子だったでしょう?」
君依の問いかけに、千里は迷いも澱みもなく答える。
「僕にとっては、最高の女性でした。彼女以外のことが考えられなくなる程、この上なく素晴らしくて、力強く輝いた女性でした」
愛に満ちた顔から、幸福にあふれた声が響いた。
その言葉を聞いた瞬間、君依の目端から、ツー、と水滴が零れていく。
「お願い。どっか行って」
とても弱々しい声だった。もう普段の過激な姿はどこにもない。
「あなたには、あなただけには、見られたくないの。だから、お願いします。お願いします」
「……そうですか」
青木父は踵を返して、一歩一歩進み出す。
ふと、背中越しにしわがれた声が聞こえる。
「あのとき……あのこ……りんご……ち……だから守ら……ない…とって……」
それは、たった一人しか覚えていない思い出だった。理咲すらも忘れていた、些細で純粋な優しさだ。
ドン、ドン、ドン、と。君依は地面を叩き続けた。まるで地底にいる何かを叩き起こすように、何度も、何度も……。
音だけで、かなりの力で叩いていることがわかる。握りこぶしは血が滲んでいるかもしれない。
「…………」
千里は振り向かなかった。
声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けるのだった。
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