さっきまで立っていたステージ上では、今は男の子が歌っている。
小学校低学年ぐらいの少年で、とても上手に、そして健気に歌っている。所々聴き惚れている観客がいる程だ。歌唱力だけで言えば、楓より何枚も上手だろう。
どこかほのぼのとした雰囲気が漂う中、空気の読めない人間が騒いでいた。
「さっき歌っていた子、わたしの孫なのよ? 凄いでしょ!?」
楓にとってはもう聞きたくない声だった。しかし今なら立ち向かえる気がしていた。
「あら、楓ちゃん。あなたやっぱり最高よ」
祖母が媚びへつらっているのは明らかだった。
「でも、わたしと一緒に暮らせば、もっともっと素敵になれるわ」
(どの口が言ってるんだろう)
楓は全部知っていた。腹いせにお店の妨害をしていたこと。それを邪防ごうとしたカラス兄をモデルガンで撃ったこと。
そして思い出す。幼いころに突き付けられた心無い言葉。
『あなたが死ねばよかったのに』
楓はありったけの想いを込めて、腕を振りかぶった。
(ああ、もっと早くこうすればよかった)
目の前の顔を見ているだけで最悪の気分になる。でも、この気分を晴らす方法はとても簡単だ。
「ねえ、孫って言わないでくれる?」
青木祖母は何を言われたか分からず、ポカンとアホ面をぶら下げていた。対して楓は不敵な笑みを浮かべていた。
スパン、と。
軽快な音が響いた。
驚愕する祖母の頬には、赤いモミジが刻まれていた。
反撃が来るかと思い、楓は身構えた。しかし祖母は頬を抑えたまま固まっている。拍子抜けして、これ以上追撃する気にはなれなかった。
そのまま踵を返す。
これだけで楓の怒りが収まったわけではなかった。しかし嫌いな顔をこれ以上見たくもなかった。
「ちょっと、楓!」
「あ、お姉ちゃん」
心配気な表情をした君乃が駆け寄ってくる。
「無茶しないでよ」
そう言いながら、君乃は楓の顔を抱きしめた。
「あの人、警察に通報したり、弁護士をけしかけたりしてこないかな」
「大丈夫だよ。プライドが高いから、孫に暴力を受けたなんて言いふらすわけがない」
「確かに、ありそう」
「絶対そうなるよ」
楓には確信があった。血が繋がっているからこそ、祖母の思考を理解できてしまう。
(でも、家族じゃないし)
血がつながっていても、何の思い出も共有していない。一緒にご飯を食べたことも無ければ、笑いあったことも、ぶつかり合ったこともない。血の繋がっているだけの、ただの他人だ。
「あの人は何しに来たのかな」
「わたしの夢を果たすために来たんだよ、きっと」
楓がビンタの振りをすると、君乃はニヤけるように笑った。
「なんか、変わったね」
そう指摘されると妙に恥ずかしくなって、目を合わせられなくなった。
「変、かな?」
「ううん、かっこいい。お母さんそっくりだった」
「そうなんだ」
楓には実感がなかった。しかしトンと自分の中でピースがはまった気がした。
「教えてなかったけど、その浴衣はお母さんのお下がりなの。本当、アルバムで見たお母さんにそっくり」
「え……」
楓は驚きのあまり、つい足を止めた。
「何で言ってくれなかったの? こんなにしちゃった……」
「だって、楓はお母さんの話になると、あまりいい顔をしないから」
「そういうわけじゃないんだけど。顔を合わせづらかっただけで」
昨日まで、自分が殺した相手の遺影を、どんな顔で見ていいのかわからなかった。でも、今は顔を見たいと思える。
「そうなんだ」
「うん、そう」
「もっと早く、ちゃんと話しておけばよかったね」
「うん、そうだね」と言った後すぐに「でも、これでよかったのかも」と考え直した。
君乃は楓の顔をジッと見つめ始めた。恥ずかしくなって顔を背けると、柔らかい笑みに変わった。
「遅くなったけど、言わせて。おつかれ。最高だった」
「歌? それともビンタ?」
「ごめんね、ロックはよくわからないの。ビンタはとってもいい音だったよ」
「それは残念。歌っていて楽しかったのに」
二人はなんだか愉快な気持ちになって、クスクスと笑い合った。
「ごちそう、用意してるよ」
「うん、楽しみ」
夏祭りの後は、家族水入らずのお疲れ様パーティーの予定だ。ついでに君乃と清水の関係を父親に認めさせる、という一大イベントもある。
(なんだか、お姉ちゃんと自然と会話出来るな)
いつも遠慮して言えなかった言葉が、すんなりと言えてしまう。
「ねえ、お姉ちゃん。甥っ子はいつ?」
突然の言葉に、君乃は思いっきりせき込んだ。楓はその様子を面白がりながら、背中を擦った。
「ちょっと何を言い出すの!?」
「あれ、姪っ子の方がいい?」
「そういう問題じゃない!」
君乃の慌てる姿があまりにも面白くて、楓は満足げに笑っていた。
(昨日のわたしだったら、言えなかったかな)
家族で一番幼いから、構ってもらえているのだと思っていたから。赤ん坊が生まれたら、その座を奪われるかもしれない、と考えていた。
(ガキかよ)
でも今は違う。楓の胸の中には確信に満ちていた。新しい命を家族として受け入れられる、と。
そうこうしているうちに家に――『Brugge喫茶』の前に着いていた。
「ただいまー」
家に入って最初に向かったのは、仏間だった。
線香に火をつけ、線香を立てる。そして母の遺影を見たのだが、「あれ?」と違和感を覚えた。
「ねえ、お母さんの遺影あんなに笑顔だったっけ?」。
冷蔵庫を開けていた君乃に声を掛けすると、仏間まで駆け寄ってきて遺影を確認した。
「何言ってるの。何も変わってないじゃない」
「そうだっけ……?」
小さい頃——祖母が来たトラウマの日には、もっと怖い写真に見えた記憶があった。だけど、今は笑顔に見える。
(写真が変わるわけないよね)
そう思い直した後、手を合わせて、目を瞑った瞬間だった。
――おかえりなさい
声が、聞こえた。モノの声のようにも、人間の声のようにも聞こえる不思議な声だった。
「え? なに? 楓、何か言った?」
君乃が慌てている様子に、楓は目を見開いた。
「何も言っていないけど……」
「ほんとう?」と君乃は腑に落ちていない様子だ。
(え、ウソ……)
もし聞こえたのがモノの声だとしたら、チョメチョメを持たない君乃に聞こえるのはおかしい。
(幻聴?)
一瞬勘繰ったが、どうしてもそう思えなかった。
また遺影を見る。
自分と瓜二つの女性の写真。今にも動き出しそうな程、エネルギーに満ち溢れて見える。
(まさかね)
改めて遺影を見ていると、疑問が湧いてくる。
「よくよく考えれば、なんでモナリザなんだろう」
君乃が優しく微笑んで、答える。
「偉大なお母さんだからだよ」
その言葉には不思議な説得力があって、思わず納得してしまった。
「お母さん――」
君乃が拝むのに釣られて、楓もまた手を合わせる。
(おかあさん、ありがとう)
自然と、二人の声がぴったり合う。
「「ただいま」」
線香の煙が、嬉しそうに揺らめいていた。
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