外に出た音流は、目の前の光景に大きく目を見開いた。
夕日の影が落ちる路側帯に、大きなカラスが倒れていた。
「カラス兄さん、大丈夫ですか!?」と呼びかけると、カラス兄は瞼を薄ら開いた。
カラス兄はくぐもった声を漏らすばかりで、カラス兄は翼を強く打っており、血がにじんでいる。
音流はどうしていいかわからず、何とかできそうな相手に連絡を取ろうとスマホを取り出した。
「楓さんに連絡を——」
『やめてくれ!』
鬼気迫る剣幕に、音流は思わず動きを止めた。
『アイツには、言わないでくれ』
今度は縋るような声だった。切実で愛情深い思いがこもっていて、無視できるわけがない。
「……わかりました」
なら動物病院に、と提案しても『あそこは嫌いだ』と抵抗されてしまう。
『大丈夫だ。少し休めば治る』
「本当に大丈夫なんですか?」
『これぐらいのキズなんてことはない。妹の投げる石の方がよっぽど痛い』
冗談なのかわからず、音流は曖昧に笑った。
「何があったんですか?」
『何もなかったさ。ちょっと飛ぶのに失敗しただけだ』
「ウソなのはわかってますよ。高笑いが聞こえてましたから」
『全く、もっと上品に笑えよ』
カラス兄は苦々しい顔でため息をついた
「楓さんを守ってるんですか? あの人から」
音流の脳裏には、『Brugge喫茶』で昨日起きた出来事がフラッシュバックした。青木祖母と、楓の大喧嘩だ。
(まるで蜘蛛の糸で作った綿菓子みたいな声だった)
青木祖母の声は、聞き分けのない赤ん坊をなだめる様な声だった。一見優しくて包容力がある声だが、奥底には人を思い通りにさせる計算高さが潜んでいた。
カラス兄は質問に答えず、顔を背けた。
「答えてください。楓さんを守ってるんですか?」
もう一度訊いても頑なに何も答えない。しかしキョロキョロと泳いでいる目が、口よりも真実を語っていた。
「ケガするまでやるなんて……」
音流の声を聞いて、ごまかしきれないと悟ったのだろう。カラス兄はポツポツと白状し始めた。
『老木に託されたからな。オレは老木に大恩がある。死んだからと言って無視するのは憚られる』
「老木って、楓さんの師匠ですよね」
『当たらずといえども遠からずだな。どっちかというと、第二の親と言った方が近い。……あいつは詳しく話してないのか?』
「そういう話はあまりしないですね」
『……そうか』
カラス兄はしばらく何かを考えていたのだが、突然立ち上がった。
『もう大丈夫だ。心配をかけてすまなかったな』
そのまま颯爽と飛び去ろうとしたのだが、音流に押さえつけらえて『ぐぇっ』とアヒルのような声を漏らした。
「あのおばあさんはちょくちょく来てたんですか?」
『ほぼ毎日——いや、そんなの、オレが知るか』
「来るたびに追い返していたんですか?」
『偶然、フンの下にいつもいるだけだ。間が悪い奴なんだろう』
「楓さんが嫌っている相手だからですか?」
『オレが気に食わないからフンを落としているだけだ』
「……もう言ってること矛盾してますよ」
ハッとした後、カラス兄は露骨に顔を背けた。
「……カラス兄さんは優しすぎるんですよ」と音流は涙ぐみながら言った。
『人間が悲しむタイミングは理解できない』
「悲しいんじゃないんです。うれしいんです。愛おしいんです」
『……ハァ、お前の方が優しいだろ』
カラス兄は居心地の悪さを感じ、この空気を何とかしてくれ、と嘆いた矢先だった。
「おーい、何をしているんだ?」と陸の呑気な声が聞こえた。しかしすぎにギョッとした。音流の涙ぐんだ顔をみてしまったのだ。
「なにが……」と言いかけたところで、カラス兄の羽に血が付いていることに気付いた。状況を察して、頭をそっと撫でると、音流はわずかにはにかんだ。
すぐに切り替えて、カラス兄を持ち上げた。しかし、すぐに情けない顔をして
「どこに連れて行けば」と途方に暮れた。
その様子を見て不安になったのだろう。カラス兄が身じろぎした。
『離せ。体を打ち付けただけだ。すぐに治る』
そう言いながら逃げ出そうとしたのだが、傷の痛みで体を硬直させた。
「大丈夫じゃないじゃないですか」
悔しそうに唸るカラス兄を尻目に、音流は連れていく場所を考え始める。
(『Brugge喫茶』は論外)
飲食店にカラスが入るのは衛生面で厳しい上に、楓に見つかる可能性が高い。
(なら同志の家……いや、ダメ)
陸の家には親も妹もいる。彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。動物病院はカラス兄本人が拒否した。残る選択肢は一つしか残っていない。
「ウチの家に連れていきましょう」
「いいの?」
「今日はママもいないんで大丈夫です。多分、新しい男のところにいます。寂しがり屋なので」
音流のママは中学生の親にしては若い。学生結婚だったこともあり、まだまだ結婚適齢期なのだ。パパと離婚した途端、寂しさを埋めるように夜遊びに出かけるようになっていた。
(友達と旅行に行ってくる、って絶対に嘘だよね。バッチリ化粧してたし、ハイヒール履いてたし)
最近はママの背中を見ていないことを思い出して、ため息をつく。
(せめて本当のこと言ってよ)
それでも今は都合がいい、と意識を切り替えることにした。
「でも、僕の家でも」
「同志の家族には迷惑を掛けられませんし、カラス兄さんも安心して羽休めできませんよ」
「……大丈夫なのか?」
心配性な陸の顔を見て「大丈夫ですよ」と音流は笑顔を作った。
すぐに顔を引き締めて、行動に移る。まずは上着を脱ぎだした。陸の「うわっ」という驚きの反応は今はどうでもよかった。
(暑かったけど、少し無理してオシャレしててよかった)
「カラス兄さん、ちょっと上着をかぶせます。見つかると面倒なので」
『羽根と匂いが付くぞ』
「それはファッショナブルになりそうですね」
『なんだよそれ』と諦めたように目をつむったカラス兄に、優しく上着をかぶせた。
「それじゃ、行きましょう!」
音流が先頭になり、陸はカラス兄を抱きながらついていく。しかしすぐに隣にいないのが寂しくなって、陸の隣に移動した。
「ほら、そんなにビクビクしてたら逆に怪しいですよ」
「みつかったら困るのは日向だろ」
「そうなったらそうなったで、一緒に謝ってくださいよ」
「それは別にいいけどさぁ。もう共犯だし」
共犯という言葉を聞いて、音流のテンションが一気に上がった。背徳的で特別な関係に思えて、気に入ってしまった。
「じゃあ今は同志であり、共犯者であり、恋人ですね」
「多すぎない?」
「多ければ多いほどいいじゃないですか」
それからは無言で歩き続けていた。話す内容が無いというよりは、話す余裕がなかった。
陸はずっと周囲を警戒していたし、音流は家についてからの段取りを考えていた。
20分もしない内に音流が足を止めた。
「あそこがウチの家です」
音流が指さしたのは、十階以上はあるマンションだった。
「はえー」
陸は思わず感嘆の息を吐いた。まるで都会に初めて来たおのぼりさんのような反応だった。
「ほら、同志。置いていきますよ」
「あ、ごめん」
マンションに入ってしばらくしてから、音流はおもむろに口を開いた。
「ウチのマンション、ペット禁止なんですよね」
「ちょっと!? 初耳なんだけど!」
陸はとっさに上着にくるまれたカラス兄を見た。
「大丈夫ですよ。カラス兄さんはペットじゃなくて友達ですから」
「そういう問題じゃないだろ!?」
「見つかって追い出されたら、同志の家に住ませてくださいね」
「ちょ!?」
陸は驚愕の連続で情けない顔になり、その顔を見て音流は上機嫌にニンマリしていた。
『友達……か』
ひっそりとカラス兄が呟いているのを、誰も聞いていなかった。
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