ふと気づくと呼吸を忘れていることがある。
そんな時はいつも自分で自分の首を締める。爪が首の薄皮に食い込み、痕が残るまで、自然と涙が流れるまで——。しかし死ぬまで絞めることはできない。いつも苦しくなって手を放してしまう。
ゲホゲホと咳込みながら顔を上げると、少しだけスッキリした気分になる。しかしすぐにバカバカしさと切なさが湧き上がってきて、固く耳を塞ぐ。
そんな毎夜を過ごしている。
――音流は毎夜死のうとしている。
(あーあ、つらいなぁ)
壁越しに罵声が響いてくる。
大人の男女の喧嘩だ。
お互いに容赦のない罵声を浴び合っており、一向に収まる気配はない。
音流は不快な音が耳に入らないように布団をかぶって身を丸めた。だが、そんなのは意味をなさない、と言わんばかりに、パリン、と陶器が割れる音が響いた。
それから女性の短い悲鳴の後に「音流が起きるでしょ!?」というヒステリックな叫びが聞こえた。
(あ、これは長くなるパターンだ)
さらなる火種が投下されたことを察して、手で耳に蓋をした。
「もういい加減にしてよ」
苦々しい声で呟いた。だが、すぐに男性の怒号にかき消されてしまう。
音流の予想通り、喧嘩の熱はさらに燃え上がり始め、一際大きな不快音が鳴り響いた。
音流は現実を忘れるように物思いにふけり始める。
少し前まで仲睦まじかった両親。じいじとの日向ぼっこ。
(じいじに会いたい)
すぐハッとして、頭を振った。
(まだ、死ぬわけにはいかないよね)
音流はじいじの遺した言葉を思い出し、反芻する。
【お日様の下で死にたかった】
その後、自分の心を慰めるように唇を震わせる。
「じいじはおてんとさまと畑が大好きでしたから」
音流はふと思いついて、ゆっくりと3本の指を立てた。
(大好きなもの、これだけ……)
少し自分に嫌気がさしながらも考えを巡らせる。
(日向ぼっこは大好き。でも、中々殺してくれない)
薬指を折る。
(パパもママも大好きだった。でも、殺してなんて頼めない)
中指と人差し指を折る。
すると、ただの握りこぶしになった。
音流はしばらく考えてから、親指を立ててサムズアップを作り、指の腹を見つめる。
(同志、今寝てるのかな)
陸の顔を思い出すだけで涙があふれ出て、それを親指で掬った。そのまま唇に当てて、塩辛いくちづけをする。一分程そのままでいただろうか。
(バカらしい)
突然冷静になって、ゆっくりと唇から親指を離す。
(楽しいこと、考えなくちゃ)
脳裏に浮かぶのは、直近で起きた出来事の数々。中学二年生になってから劇的に変わった学校生活だった。
一年生の頃は最悪の学校生活だった。
きっかけは中学校に入学したばかりの頃、じいじが亡くなったことだった。
それから音流は変わった。日向ぼっこに執着するようになってしまった。ただでさえマイペースだったが、さらに拍車がかかり教室で孤立していった。
それは単に音流が悪いのではなく、恋愛から来るイザコザや、スクールカースト競争に巻き込まれたことが主な要因だろう。その頃の音流には抗う気力もなく、最後には教室からつまはじきにされてしまった。運が悪かった、と言えばそれまでだ。
教室に居場所はなく、チャイムと共に廊下に出る日々。居場所を求めて人気のない踊り場や空き教室を転々とし続けた。しかし人のいない場所は居場所になりえない。ただ居るだけで受け入れられているわけではない。
さらには家庭環境も悪化の一途をたどった。仲睦まじかった両親はよくケンカするようになり、家にいるのがつらくなった。夜に一人でぶらつくようになり、眠れない分を日向ぼっこで補うようになり、さらに孤立した。
二年生に進級して心機一転やり直すつもりだったのだが、そう単純ではなかった。
しばらく友人とコミュニケーションをとっていなかった音流は、距離の詰め方がわからなくなっていた。少し話すだけで舞い上がって、距離を詰めすぎることも多く、一気に人が離れて行った。
そうやって悪目立ちしている内に、グループが固まっていき、結局はどこにも入れずじまいだった。
じいじが天国に迎えられてから、音流は生きていることさえつらく感じるようになった。まるでじいじがお前も来いと手招きしているかのように。
そんな中でも明るい気持ちが残っていたのは、日向ぼっこを純粋に楽しめていたからだ。
しかしそれでも、音流の精神はやすりで削られるようにすり減っていっていた。
いつしかじいじがいた過去が懐かしくなり、縋るようになり、『日向ぼっこで死にたい』と考えるようになっていた。
そんな時に、声を掛けられた。
「困りごとがありますね」
その少女は、校内の誰もが後ろ指をさすような、悪い意味での有名人だった。
『なんでも言うことを聞いてくれる』という少女。男子から告白されても二つ返事で了承し、小狡い人間に利用されても懲りない、不気味なクラスメイト。本当に困っている人間を助けたという噂もあるが、悪名の方が際立っている。
そんな人に声を掛けられた。音流が正常な状態だったら、四の五の言わず逃げ出していただろう。しかし心が弱っていた音流にとって、その少女が救世主のように見えた。
『ウチ、日向ぼっこで死にたいんです』
そう告白すると、少女は困った顔をしながらも「わかった」と言ってくれた。
それからの日々は目まぐるしかった。
陸と出会い、カラオケに行き、はじめてのジムを体験し、夜の校舎で騒いだり……。憧れていた青春を、これでもかと言うほど味わえていた。
怒涛の2か月だった。音流にとって、陸と楓は楽しさの象徴になっていた。
(楓さんは、今頃寝てそう)
音流は小さく寝息をたてる楓の姿を想像して、口元が緩めた。
(同志は、何をしているのかな)
陸の寝ている姿が想像できず、思わず眉間に皺が寄る。
音流の中では、陸は『突拍子もないことをする変人』というイメージに凝り固まっていた。
レアチーズケーキのことが何よりも大好きで、暗いところが苦手で、情けないところがいっぱいある。それでもなんだかんだで付き合ってくれる優しさがある。心配だから。たったそれだけの理由で。
だからこそ、どういう場所でどう寝ているのか、一切想像ができない。
(レアチーズケーキ型のベッドを自作しててもおかしくないかも)
そんな奇天烈な寝姿の方がしっくり来て、音流はついつい笑ってしまう。
ふと気づくと、怒声は聞こえなくなっていた。喧嘩が終わったのか、どちらかが出ていったのだろう。どちらにせよ、音流はやっと眠れるようになった。
電子時計に目をやると、時刻はすでに十二時を回っている。
(クマを隠すのは大変だから、ちゃんと寝ないと)
しかしいくら目を閉じようとも、全く眠れる気がしなかった。寝ようと目を閉じていると、こめかみが痒くなっていき、我慢が出来なくなる。それを何度も繰り返している内に、わずかな眠気も吹き飛んでしまった。
それでも寝ようとして、出来るだけ安らかに目を閉じる。
瞼の裏は無地の暗闇だ。しかし徐々に模様が生まれていき、何かの形が浮き彫りになってくる。死んだじいじ。喧嘩する両親。顔を見ようともしてくれないクラスメイト。いろんなトラウマが一気に通り過ぎていく。
(もう見たくない!)
必死に目を閉じようとも意味はない。すでに閉じられているのだから。そのことに気付いて、目を開く。
視界に広がる見慣れた天井。
豆電球すら点いていないのに、壁紙の模様まではっきりと見える。神経が鋭敏になっているのかもしれない。
寝てもいないのに悪夢を見た。いや、実際に悪夢を見ていたのかもしれないが、どちらにしても最悪な気分だ。
(もう寝るのもツライ)
まだ心の中に残っている不快感を吐き出すように、深いため息をする。
時計を見ると、眠ろうとしてから一時間以上が過ぎていた。
(お昼に日向ぼっこしよ)
もう今眠るのもバカバカしくなって、スマホに手を伸ばす。
なんの目的もなく青白い光を浴びる。
リアルタイムで流れるSNSの投稿を流しで見ていく。
(みんな愚痴ばっかり……)
ありふれたニュースに対する批判や、日々の生活に対する鬱憤が見え隠れする投稿ばかりが目に付く。
(そんなに生きづらいのかな、この世界って)
そう考えた瞬間、目の前が真っ暗になった。
どこにも逃げ場所が無いように思えて、ふさぎ込んだ気持ちになる。もう『眠れるのか』だけでなく、『生きていけるのか』が不安になってくる。
(ウチが全部悪いのかな……悪いよね)
そうではないことは、本人も理解していた。だが『この世界が悪い』と考えるより『自分が悪い』と考えた方が、納得できてしまう。音流はそんな優しい女の子だった。
自分が無意識に逃げる理由——いや、死ぬ理由を一つでも多く求めていた。自分はこんなに悪い子なんだから、死んでもおかしくない、死んだほうがいい。そう思い込むために。
「ぁ……」
つい声を漏らしながら、手を止めた。
目線の先にあるのは、とりとめもないメッセージ。
《眠れない》
それが知らない他人のものだったら、目にも留めていなかっただろう。しかしそのメッセージは友人が発したものだった。
(これ、同志のアカウントだよね)
音流は本人に直接教えられなくとも、アカウントを特定してフォローしていた。
(滅多に投稿しないのに)
しかしこの夜は違った。普段は布団をかぶっているはずの時間に流れてきたメッセージ。
(まさか、何かあったんじゃ……)
一瞬で様々な想像が脳をよぎり、全身の肌が粟立つ。しかしすぐに次のメッセージが流れてくる。
《月がキレイ》
音流はメッセージに促されるように起き上がり、カーテンを開けた。カーテンが滑る音をうるさく感じつつも目線を上げると、そこには小さな月があった。
春から梅雨に移り行く月。淡く温かみがあり、少し近くにいてくれる。そんな優しいお月様。
(確かにキレイ)
真っ暗闇の夜空と、そこに浮かぶ暖色の月。
音流の目には、絶望的に苦いコーヒーと、そこに浮かぶ甘いアイスクリームのように見えた。
(色的にバニラ味かな。いや、同志ならレアチーズケーキ味だと言い張りそう)
想像するだけで、気持ちがほぐれていく。蚕の繭みたいに固く絡まっていた感情が解きほぐされていき、スーッと胸が軽くなる。
(早く会いたい。顔を見て、声を聞きたい)
軽くなった足取りでベットに戻り、スマホを手に取る。
明日のために充電ケーブルを差し込む。
SNSに何かを書き込もうとして、一瞬手を止める。頭の中に伝えたいことが大量に浮かび上がって、簡単に決められない。
悩んだ末に、慎重に指を動かす。
《おやすみ》
なんの変哲もない4文字だけを流した。
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