君乃の後姿が見えなくなると、緊張していた空気が一気に緩んだ。
「はあ、なんだか疲れました。もう今日は宿題はいいですね」
「最初からやる気なかったでしょ」
「今年は最終日に追い込んでやるつもりなんですよ」
「今年は、って去年は違かったの?」
「最初の五日ぐらいで終わらせて、後は日向ぼっこしてました」
「今年もそうすればよかったじゃん」
「それじゃあ、青春っぽくないじゃないですか」
音流の言っていることが理解できず、陸は肩をすくめた。
「何考えてるの?」
「ドラマの影響ってヤツです」
コト、と
二人が雑談していると、君乃がケーキを持ってきていた。
「お詫びでございます。どうぞお受け取りください」
「君乃さんも悪い人ですねぇ」
「いえいえ、日向ちゃんほどでは」
そんな軽い"お代官ごっこ"をした後、君乃は戻っていった。
ケーキを前に目を輝かせている音流を見て、陸は呆れていた。
(さっきもサンドイッチを食べたはずなのに、よく食えるな)
「僕のも食べていいよ」
「いいんですか!?」
言い終わるよりも手が早かった。ヒョイッ、と陸の前に置かれていたケーキを持っていった。
「ん? どうしたの?」
さっきまでの勢いは突然どこかへと行き、皿に乗っていたフォークをじっと見つめていた。陸が不審に思っていると、音流は眉を動かさずに口を開いた。
「ねえ、同志。ウチは今日すごく大変だったんですよ」
「あ、うん、そうだね。一緒にいたから知ってるけど」
「君乃さんにお話ししたのもそうですけど、やっぱり同志の貧乏ゆすりは本当に恥ずかしかったんですよ」
「あ、はい、ごめんなさい」
「言葉だけでなくて、行動で謝罪してほしいです。あえて厳しく言うなら、罰ゲームを執行します」
音流はさっき奪ったケーキを陸の前に戻し、フォークをツンツンと叩いた。
「アーン、です」
「あ、あーん……」
陸は思考が追い付かず、思わず反芻した。
「してください♪」
「ここじゃなくても……今度でも……」と陸がゴニョゴニョと抵抗しても
「ウチが先に恥ずかしかったんですよ?」と返されるだけだった。
音流の笑みには、凄みがあった。陸は逃げ道がないのだと悟った。
しかし覚悟がすぐに決まるかとは別問題だ。陸が踏ん切りがつかずに悶々している内に、業を煮やした音流がフォークをケーキに突き刺した。
「まずはウチからにしましょう」
「え?」
チョコレートケーキの欠片を取り、陸の唇の前へと運んでいく。
「……肉食すぎない?」とせめてもの抵抗で皮肉を言うと
「バス停で突然脱いだ人が言いますか?」
皮肉を返されて何も言えなくなった。
陸はとっさに周囲を見渡した。お客さんは数人。彼らは陸達を見ていない。問題は店の人達だった。興味津々に様子を伺っている。
(うわ、初恋の人に見られながらか)
今度は音流の顔を見る。
(見せつけたいんだろうなぁ)
陸は短い交際期間で、音流の嫉妬深い一面を知っていた。しかしそこに嫌気が差しているわけではない。むしろ逆だ。
(そこがかわいい、と思える時点でもうダメダメなんだろう)
素直に受け入れて、口を開ける。
スーッとフォークが口の中に入ってくる。ケーキを舐めとると同時に、違和感を覚えた。
(あれ、いつもどうやって食べてるんだっけ?)
口に入れて、咀嚼して、飲み込む。そのプロセスの最初を異性に補助されるだけで、全く別の行動のように錯覚してしまう。
えずきそうになりながら、なんとか飲み込んだ。
「おいしいですか?」
「……レアチーズケーキよりはおいしくない」
「それは上々ですね」
上機嫌な音流に対して、陸は顔を背けた。
「さて、これでもう後戻りはできませんよ」
今度は皿にのったショートケーキを陸の前へ置き、具体的なことを何も言わずに、大口を開けた。
(これでやらなかったら後々大変だろうなぁ)
陸は観念してフォークを手に取った。
(うわあ、無防備だ)
陸の目は、自然と口の中に吸い込まれていった。そこには、
(うわぁ、のどちんこまで見える。歯並びもいいなぁ)
口内に見惚れていると、
「同志。流石に口の中をそんなに見つめられたら恥ずかしんですけど」
「……ごめん」
「なんか同志って、変なフェチがありますよね」
「変なフェチ……」
音流としてはただ感想を述べただけだったのだが、純粋な陸の心にはグサリと刺さった。
「あんまり見ないようにしてくださいね」と言いながら、音流は再び口を開けた。
(そうは言われても……)
口の中から意識を逸らそうとするほど、他の情報が入り込んでくる。周囲の喧騒や光景を意識してしまう度に、羞恥心と緊張が湧き上がってくる。
それでも、陸の目線は最終的に少女の口の中へと吸い込まれていく。それほどに、陸にとっては魅力的だった。自然とフォークを持った手が伸びていく。
いざ、口に入る瞬間だった。
パァン、と。
外から馴染みのない音が聞こえた。その後、何かの落下音と女性の高笑いが続いた。
「なんでっ!」
突然、音流は顔を真っ青にして、店を飛び出していった。
陸は徐々に情けない顔になりながら、行き場を失ったフォークを見つめていた。
「なんなんだよ」
状況を咀嚼した瞬間、全身の力が抜けて、フォークがカランと落ちた。
乾いた唇を潤そうと、無造作にカップを手に取って、飲み干した。
(あれ? もうなかったはずだけど……)
手元を見ると、さっきまで音流が口をつけていたカップを握っていた。
耳まで真っ赤にした陸は、テーブルをトンと叩いたのだった。
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