(最近、わたしの周囲が発情期を迎えているんだけど……)
楓は二組のカップルを思い浮かべて、眉根を寄せた。
鈴木陸と日向音流。付き合いたての奇天烈カップル。
青木君乃と清水なつ。よりを戻した熟年カップル。
特に後者カップルは『Brugge喫茶』店内でイチャ付いており、呆れる他なかった。
食べさせ合いっこに始まり、カウンターの下でこっそり手を握るは、視線を送り合うは、自然とボディタッチするは――挙句の果てには、まかないのオムライスにケチャップでハートマークが描かれていたのである。妹として、げんなりする他ない。
(のど自慢大会の選曲、間違えたかも)
楓は夏祭り内で開催されるのど自慢大会に出ることになっており、歌う曲を練習している。選曲したのは一昔前の有名なアイドル曲で、愛を綴ったラブソングなのだが、そこが問題だ。
(独り身のわたしが歌うなんてバカみたいじゃん)
楓にとって、歌詞のほとんどに共感できないし、商店街のご年配向けの選曲なのだが、
(大体アイドルがラブソング歌うなんてどうなの? 絶対にファンに向けたものじゃないよね?)
そんな口には出せない愚痴を心の中だけで漏らしつつ、大きなため息をついた。
(まあでも、わたしに恋人ができれば解決、かな?)
しかし真剣に恋人を作る考えはなかった。憧れよりも面倒くささが勝ってしまう。同級生と付き合う、というのは楓にとってはあまり魅力的ではないのだ。
(ええと、去年は誰だったっけ)
楓はスマホを操作して、去年の夏祭りの写真を表示した。同年代の男子とのツーショット写真だ。楓と男子の間には距離が出来ている。
「あーこいつか」
その男子の顔を見て、楓は眉をひそめた。特に特徴のない、地味な顔立ちだ。教室の隅でずっと読書をしていそうなイメージがある。
(えっと、何人目だったっけ?)
『なんでも頼みごとを聞いてくれるヤツ』として噂になっているからと、楓に告白をしてきた男子生徒の一人だった。楓は『人助け』として付き合うことにした。それは楓が『人助け』をするようになってからの恒例行事のようなものだった。
(なんで同級生はあんなに瑞々しいのかな。もっと落ち着けばいいのに)
楓は交際してきた面々を思い浮かべながら、小首を傾げた。そして、次に思い浮かんだのは、怒りながら去っていく後姿だった。
楓はデートよりも、目の前の『人助け』を優先してしまう。それを許容できる少年が、『なんでも頼みごとを聞いてくれるヤツ』という都合のいい相手を求めるはずがない。
楓は飲んでいたジュースを置き、マイクを取って、歌い出す。
のど自慢大会で歌う予定の曲。律儀に練習を続けている。楓としても自分で納得できない出来栄えのものを披露したくない気持ちがある。
「大分上手になってきた」
夏休みに入ったことで、歌の練習に時間が割けるようになっていた。しかし本来教師役だったはずのクラスメイト二人の姿はない。家でカップルの乳繰り合いをみているのに、カラオケという密室で乳繰り合いを見せつけられたくないから、と断ったのだ。
派手な演出と共に画面に点数が表示される。70点。決していい点数ではないが、最初と比べればマシになったと言える。
(もうちょっとだけ頑張ろう)
楓は再びマイクをとった。歌い終わると、少しスッキリした気分になる。
(歌うの、結構好きかも)
正確には上手くなる実感に心を躍らせていた。最初が壊滅的だっただけに、伸びしろは大きい。昨日できなかったことが今日できるようになる達成感。それがうれしくて仕方がない。
試しに、と自分に言い訳をしながら楓はある曲を選ぶ。練習のためではなく、ただ純粋に好きだから、歌いたいからとマイクをとった。
歌い終わった後、楓は満たされた表情をしていた。額に流れる汗をぬぐい、息を整えてから、オレンジジュースを一気に飲み干す。ぬるくなったジュースが異様においしく感じる。
(もう一回だけ……)
タッチパネルを操作していると、壁の受話器からチャイムが鳴った。時間になったのだ。
(延長……)
財布の中を覗き込むと、苦虫をかんだような顔をした。悩んだ末、カラオケボックスを後にすることにした。
帰路についている間、楓は自分の歌について考えていた。
(わたしが歌って、何の意味があるんだろうか)
発端は商店街の人達に頼まれたことだった。楓としては『人助け』として受けたに過ぎない。しかし商店街のみんなが、楓に歌をお願いする理由がわからなかった。
(でも、まあいいか)
簡単にそう割り切れる自分に気づいて、楓は不可解に思った。なんで自分はこんなに歌を歌いたいんだろうか、と訝しんだ。
結局、理由も見つからないままに家についた。
『Brugge喫茶』――住宅兼用でもある店舗の裏口から入ると、シチューの匂いが漂ってきた。
狭い玄関を通り、店内の厨房で夕食の用意をしている君乃に声を掛ける。
「ただいまー。今日はシチュー?」
「おかえりー。ごった煮シチュー。そろそろできるから、手を洗ってきて」
「うん、わかった」
楓は流し場で手を洗いながら、ごった煮シチューかぁ、と考えていた。自然とよだれが垂れてきて、とっさにすすった。
ごった煮シチューとは青木家の定番メニューの一つだ。余った具材を一緒くたに煮込んで、シチューにする。作る時間があるからと、定休日の夕食によく出てくる。それは口実で実際には定休日に食材の買い出しが面倒だから有り合せで作っているだけだ。ジャガイモやニンジンなどの王道の食材だけでなく、インゲンやコンニャクや凍み豆腐といった変わり種も一緒くたに煮込まれる。
(ナスが入っていた時なんて最悪だった。魔女の鍋みたいに紫色なのに、なんであんなにおいしいの)
ナス入りシチューの味を思い出したせいで、また涎があふれた。
洗面所から出た後、配膳を手伝い、二人で食卓についた。
シチューとごはんとサラダ。シンプルなメニューだった。それでも、好物が食卓に並ぶだけでごちそうに見えてしまう。
「「いただきます」」
手を合わせた後、シチューを一掬いし、口に運ぶ。最初の一口は複雑怪奇だ。いろんな食材の味やクセが混ざっており、シチューにしても調和しきれていない。しかし不味いというわけではなく、自然と次を食べたくなるような不思議な魅力がある。
「うん、おいしい」
楓は反射的にそう口にした。姉が作ったご飯を食べる時は、いつも欠かさず言っている。
「それはよかった」
君乃は淡白に返す。妹が条件反射的に「おいしい」と言っていることに気付いており、楓もまた木が枯れていることを察している。それでもこの茶番は繰り返されている。
自然と二口目を運ぶと、一口目と味が変わっている。多種多様な具材が入っているせいだろう。三口目からは味に慣れ始める。四口目以降は癖になってくる。そうなればスプーンを持つ手が止まらない。
楓はこの味がなんだかんだ好きなのだ。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
楓は食べ終えた皿をシンクへと持って行き、手早く洗い出す。
「お姉ちゃん、ついでに使ったコップがあったら持ってきて」
「えー。明日でいいよね?」
「ダメ。もう一週間も洗ってないでしょ。お腹壊すよ」
「……わかった」
しぶしぶ自分の部屋に向かう君乃の背中に対して、楓は出来の悪い娘を見る様な視線を向ける。
(店では比較的しっかりしていても、私生活では自堕落すぎる)
洗濯では襟のシミを放置する。色モノと白モノを一緒くたに洗濯機に入れる。使った食器は次の朝まで放置する。風呂掃除は三日に一度だけ。その他諸々――枚挙にいとまがない。
君乃からカップを受け取ると、底についていた茶シミに嫌気がした。不穏な雰囲気を察したのか、君乃はある提案をした。
「そうだ。来週三人でいいところに食べに行かない?」
楓は顔を見せなかった。三人というのは清水も含めてであることを察したからだ。
「どうせなら二人だけで行けばいいじゃん」
「最近、楓と出かけてないなー、って思って」
「だけど、カップルと一緒なんて恥ずかしいよ」
「私達みたいな見目麗しいカップルと同席できるなんて役得だよ?」
「やめてやめて恥ずかしい。それ、他の人には言わないでよ」
「うん、約束するから、一緒に行こ? おいしいピザがあるところだから」
ピザと聞いた瞬間、楓の眉がピクリと動いた。
「……石窯?」
「うん。マルゲリータ。チーズもトマトもイタリアからのお取り寄せみたい」
楓の頭の中は、石窯で焼かれた本格的なピザのことでいっぱいになっていた。モッツアレラチーズとトマトソース、バジル達のハーモニーを想像するだけで涎があふれ出る。
「……うん、行く」
「やった! 楓大好き」
姉の無邪気な笑顔を見て、楓は食欲に負けた自分が恥ずかしくなった。ごまかすように洗い物に集中する。
コップの底についた茶渋は、重曹に少し水を含ませて擦る。一回では取れず、何度も繰り返す。取れたのを目で確認して、匂いを嗅いで再度確認して、ようやく満足する。真っ白になったコップの底を見ると、自然と口角が上がって、残りの皿洗いもスルスルと終わらせた。
皿洗いが終われば、休むことなく洗濯をするべく洗面所に向かった。
「お姉ちゃんがやるよ?」
君乃が控え目に声をかけると、楓は呆れたように言い返す。
「お姉ちゃんがやるとシワができたり、縮んだりするじゃん。洗剤や柔軟剤の量も適当だし」
「大丈夫。お姉ちゃんに任せて」と君乃は何も無いところから湧いた自信で胸を張った。
「そう言って、うまくできたことはないでしょ。わたしに任せて」
「えーでもー。私お姉ちゃんだし……」
「ほら、ズボンからレシート出てきた。なんでカフェの店長がコンビニのエスプレッソ飲んでるの」
「……悔しいけど、自分で淹れるのよりもおいしいんだもん」
君乃はふてくされながら自室に戻っていった。慣れた手つきで洗濯物を洗濯機に放り込んだ後、手元のレシートに意識を向ける。
『やあ、ぼくはかみだよ』
レシートから甲高い声が聞こえた。楓の持つチョメチョメというモノの声が聞こえる感覚器官の力だ。
レシートの声は幼児ぐらいに聞こえる。消費社会の現在において、年老いたモノは非常に少ない。大抵はすぐに壊れてしまう。
『きみはなんなの?』
「人間」
洗濯が終わるまで暇だから、とレシートとの会話に付き合うことにした。
『にんげんってなに?』
「わたしみたいないきもの」と楓はレシートに釣られて幼い口調になった。
『よくわかんない』
「わからなくていいよ。わからないほうが幸せな時もある」
『もっと人間のことを教えてよ』
「……わたしもよくわかってない。二足歩行で頭でっかちな生き物ってぐらい」
『そうなんだ。おもしろいいきものだね』
レシートが話している光景の方がシュートで面白いでしょ、と言い返したかったが呑み込む。
『さっきもうひとついたよね?』
「ひとつ、じゃなくてひとり。あれはお姉ちゃん」
『おねえちゃんってなまえなの?』
「えっと、そうじゃなくて、わたしのお姉ちゃん」
『おねえちゃんってなに?』
一瞬、言葉が詰まった。簡単に説明できる言葉がすぐに浮かばなかった。そもそも親から生まれてくることはないモノには親兄弟や家族という概念はない。楓はそれを考慮して、頭をひねっている。
「だいじなひと。なんだかんだでたよりになるし、あのアホっぽいあかるさにはいつもたすけられている」
楓の返答は"お姉ちゃん"という言葉を説明するには不適格だろう。しかしこれが楓にとっての"お姉ちゃん"だった。
『へー、そうなんだ。すきなんだね』
「すき、なのかな……?」
照れ恥ずかしくて、曖昧に笑った。
『でも、ぼくにはつめたいよ』
「お姉ちゃんはきみのこえがきこえないからね」
『なんで?』
「それは、お姉ちゃんがおかしいんじゃなくて、わたしがチョメチョメをもっているから」
『チョメチョメってなに?』
楓はしばらく考え込んでしまった。本人も正しく理解できていないし、恩師であった老木もうまく説明できていなかった。
「モノと話すためのもの。でも、人間がみんなもってるわけじゃない」
なるべく短く、相手の知りたい情報だけを伝えることにした。
『へーそうなんだ。それじゃあ、きみはとくべつなんだね』
レシートの無邪気な誉め言葉を聞いて、レシートを握る手に自然と力が入る。
「とくべつ、なのかな。……こわれてるかも」
諦めたような声で、そう言った。
『むずかしい。よくわかんない』
「そうだね。ごめんね」
話し終えて、レシートをゴミ箱に放り込む。
『わあ、なかまがいっぱいだ』
ゴミ箱には丸めたティッシュやお菓子の包み紙が入っており、それらを仲間だと判断したのだろう。レシートの喜ぶ声を聞いて、楓はため息をついた。レシートから意識をそらすことで、声が聞こえなくなる。
揺れる洗濯機をぼんやりと眺めながら、ため息をつく。
楓はふと考えてしまう時がある。
(わたしが聞いているのは本当にモノの声なのかな)
聞こえている声は全て妄想や幻聴の類で、本当は自分の頭がおかしいのではないだろうか。突然、そんな不安に駆られる時がある。だから、日常的にモノの声を聞いたり、『人助け』として探しものをしている。モノの声が本当にあるものだと、少しでも信じ込むために……。
それでも不安は拭いきれない。いくら確信できたとしても、それを誰とも共有できないのだから、結局"自分だけ"を抜け出せていない。
しかし最近、劇的な変化があった。友人の音流がチョメチョメに目覚めたのだ。
楓の周囲には今まで、チョメチョメを持った友達は一人もいなかった。カラス兄などのチョメチョメを持った動物と話すことはあっても、人間と話すのとはまるで違う。
他の人が同じ声が聞こえている。それは楓にとって、
(うれしい、はずなんだけど……)
それでも純粋に喜べないのは"唯一"というアイデンティティを失ったからだろう。
(あー、イヤだ。自分がキライ)
ゴンゴンゴン、と何度も自分の頭を殴る。決して強い衝撃ではないが、脳の芯まで響くような殴り方だ。
「よし!」と気分を切り替えた瞬間、ピーピーピーと洗濯機から通知音が鳴った。
なんだか邪魔された気分になって、洗濯機を小突いた後、洗濯物を取り出す。
『ひどくない?』
洗濯機からの非難を無視して、洗濯モノをカゴに入れていく。
いっぱいになったカゴを持ち上げて、外に出る。空は真っ黒で、街灯の光を巡るように歩いていく。
数分もしない内にコインランドリーが見えてきた。中に入り、乾燥機の中に洗濯モノを入れ、コインを投入する。
(洗濯モノ干す場所が欲しいなぁ)
カフェの空間を取りすぎたために手狭になった住居スペースのリフォーム案を考えながら、外に出た。
自販機でペットボトルのお茶を買うと、『やあ、ぼくはぺっとぼとるだよ』と声が聞こえたが、無視して蓋を開ける。
(今は聞きたくないんだけどなぁ)
モノの声は聞きたい時だけに聞こえるわけではない。
(ネルちゃん、大丈夫かな)
ふと道路を歩く人影が見えて、つい注目してしまう。そして、それが誰なのか気づいて、目を見開いた。
「ネルちゃん!?」
「あ、楓さん。コンバンワです」
浮かない様子の音流は、予想外の出会いに戸惑いながらも挨拶をした。
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