まるで夢心地だった。
全身が風船になったみたいに脚が軽い。
鈴木陸と本音をぶつけあって、すっきりした。
カラス兄に胸の内を打ち明けて、有頂天になっていた。
さっきまで——老木が死んでから——感じていた鬱屈さはもうどこにもない。
常に光明が見える。出口だろうか。あそこにたどり着く方法は簡単だ。
突っ走ればいい。
自分の気が済むまで。
呼吸が出来なくなるまで。
足がちぎれるまで。
死にたくなるほどボロボロになりながらでないと、たどり着けない場所だ。
でも、わたしはその光に魅了されてしまった。
一度抱いた憧れは止められない。
どこまでも突き抜けていくしかない。
汗だくで、足裏がジンジンと痛んでも、楓は走り続けていた。
苦しい。痛い。そう感じていても、進む足を止められない。自分が今からする行動を想像するだけで、心臓が高鳴って仕方がない。
夏祭りのメインステージ。のど自慢大会。すでに一番手は歌い始めており、熱気が周囲を包んでいる。
(あそこに立つんだ)
楓はにんまりと笑った。楽しみで仕方がない子供のような表情だ。
ステージの裏へと向かい「あの、すみません」と声を掛けた。
「今から歌う曲を変えられませんか?」
「ん? 今更か?」
反応したスタッフが振り向くと、本屋さんだった。楓のことを『気違い』と呼んだ老人だ。神経質そうな眉を動かしながら、差し出されたCDを受け取った。そしてCDのジャケットを見て、楓の顔をハッと見返した。
「本当にいいのか?」
「いいんです」
本屋さんは楓の自信に満ちた顔を目の当たりにして、無表情のまま何も言わなかった。しかし楓の服装に視線が移ると、険しい表情に変わる。
「お前、その恰好……」
今の楓は浴衣が破れ、所々が濡れすぼみソースで汚れ、頭に付けた仮面は割れている。明らかに何かがあった格好だし、人前に出れる状態ではない。
「順番を最後にずらすか。その間に着替えてこい」と言いながら、すぐに行動しようとした本屋さんを
「待ってください」と楓は呼び止めた。
本屋さんから鬱陶しそうな瞳を向けられても、楓の態度は全く崩れない。
「すぐ歌いたいんです。我慢できないくらい」
「だが……」
晴れ晴れとして、茶目っ気のある口調で言い放つ。
「これから歌う曲にはピッタリじゃないですか」
自然と不敵な笑みを浮かべていた。
本屋さんは、物珍しいものを見つけた時のように目を見開いた後、ニヤリと笑った。
「ああ、わかったわかった。任せておけ。最高のライブにしてやる」
「ありがとうございます」
ヒラヒラとCDで旗を振りながら、本屋さんは奥へと消えていった。
それから何分経っただろうか。楓はステージに呼ばれた。
タタタ、と。
ステージの上まで軽快にあがる。
自分に向けられたライトの光に目が慣れてくると、ステージ上からの景色が見えてくる。
視界いっぱいに観客が見えて、楓は舌なめずりをした。
(みんなから、わたしはどう見えているのかな)
観客には見知った顔も多い。驚愕の顔。困惑の顔。好奇の顔。みんな楓の姿に驚いている。
浴衣はスリットのように破れ、所々濡れたり、ソースで汚れたりしている。頭に付けた仮面は無残に割れているし、裸足からは血が滲んでいる。
そんなみすぼらしい格好の上に鎮座するのは、吹っ切れた不敵な笑みだ。
息を吸った瞬間、楓の頭の中に様々な思いがよぎった。
こんな曲を歌えば迷惑になるかもしれない。『人助け』どころの話じゃないかもしれない。家族にも友達にも引かれるかもしれない。
(でも、そんなの知るか)
何も知らずに頼んできた老人たちが悪いんだ、と心の中で不安を突っぱねる。
(これが歌えれば、それだけでいい)
観客の騒めきを遮るように、音楽が流れ始めた。
♪!~♪!~♪!!!
流れ出した曲は、のど自慢大会にしてはアップテンポ過ぎた。音の圧が強すぎた。
民謡でもポップでもない。
のど自慢大会での選曲では、ありえない曲だ。
(ああ、やっぱり――)
心臓が高鳴って、一気に息を吸い込む。
「――――――――!!!」
楓が絶叫したのは、ロックだった。メタルロックだった。
好きだと言える唯一の曲。楓が毎夜のように聞いている、ちょっぴり激しい子守歌だ。
マイクをスタンドごと持ち上げて、振り回した。
これがわたしなのだ、と叫んだ。喉が切れても構わなかった。肺から空気が無くなってもお構いなしだった。
全力で歌って息苦しい。それなのに、胸の中から喜びがあふれ出てくる。
(そうか。楽しいんだ)
できなかったことが出来るようになるのが楽しい。
モノ作りは楽しい。
勉強は楽しい。
料理や菓子作りだって楽しい。
楽しい、なんてありふれている。なんでこんなことに気付かなかったんだろう。
(わかってる)
ずっと罰だと思い込んでた。
罰だから苦しまないといけない。辛くないといけない。そんな先入観が、罪悪感が、どんな楽しさも塗りつぶしていた。
(でも、今は違う)
何もかもが軽い。
心が風船みたいに膨らんでいく。
頭が綿菓子みたいだ。
ふわふわしてて、甘くしびれて、何も考えられない。
息をするのも惜しい。高鳴る心臓が心地いい。
(この瞬間、まだ続いて!)
視界が真っ白になる程、世界が輝いている。
(ああ、必死になるって、こんなに気持ちいいんだ)
無我夢中の先にトンネルの出口が見える。
くぐってしまえば、終わってしまう。もったいない。終わってほしくない。だけど、ワクワクのせいで足を止められない。
駆け抜けて、飛び出して、快感が全身を突き抜けた。
(あア……!)
絶頂だった。
今までの人生がちっぽけに思えるほどの輝きが見えた。
・・・・・・・・・……――――――――――――――――――
「はぁ、はぁ、はぁ、アハ」
歌い終わると、静かな現実に引き戻された。
呆然とした観客が目に映る。家族の間抜けな顔もあった。でも、そんなことは全然気にならなかった。
パチパチ、と大きい拍手が聞こえた。目を向けると、見知ったカップルが大きく手を叩いていた。
「サイコーーーーー!!」
さらに、力強い声援が聞こえた。バレーボール部の部長が、目いっぱいに叫んでいた。その姿を見ただけで、自分の全てが満たされた気持ちになる。
気持ちよさの逃げ場を求めるように、空を見上げた。
晴れ晴れとしていた。夜空で星も見えないのに、晴天のように清々しかった。
ヒラリ、と。
空から真っ赤なモミジが舞い落ちてきた。そっと拾うと、それはカラス兄に渡した栞だった。
(うわぁ、ひどい状態)
栞は見るも無残な姿になっていた。カラス兄の嚙み跡がついていたり、ラミネートフィルムが茶色く変色していた。これでもカラス兄としては大事に扱っていたはずだ。
(それだけの時間、わたしは止まっていたんだ)
今なら老木の言っていたことがわかる。
『人助けをして生きていきなさい。君は——』
わたしはバカ正直すぎた
人助けを盲信していた。そうしなければならない、と自分に言い聞かせていた。でも、そういうことじゃなかったんだ。
きっと、老木はわたしを人間の社会に戻したかったんだ。だから、わたしが人間に関わるように言い残した。
それを理解した今なら、否定できる。
わたしは『人助け』をしないといけない。
(そうじゃない)
わたしは『人助け』をしないと受け入れられない。
(そうじゃない!)
『人助け』をしないと、生きてる資格は無い。
(そうじゃない!!!)
そんなのはただの思い込みで、世界は途方もなく広くて、好きに満ちている。
それに、青木楓の居場所はもうあるのだ。今全身についている汚れが、歓声が、拍手が、それを教えてくれる。
やりたいことを我慢してきた。
見たいものを見て見ぬふりをしてきた。
聞きたいものに耳を塞いでいた。
我慢して、耐えて、殻にこもってきた。
でも、もう抑えられない。あれもやりたいこれもやりたい。膨れ上がるワクワクを抑えられない。
(そっか)
これがわたしなんだ。幸せなわたしなんだ。
(好きだ。何もかも好きだ)
幸の薄い女の子が好きだ。バレー部の部長が大好きだ。
ナイスミドルな男性が好きだ。用務員さんが好みだ。
家族が、カラス兄が、モノ作りが、歌が、上達するのが——他にももっともっと——エトセトラエトセトラ——
(全部、大好きだ!)
一瞬、母の顔がチラついた。生まれると同時に、殺してしまった母。
罪悪感は今でもある。でも、それ以上に湧き上がる想いがあった
(ああ、生まれきて、産んでくれて、よかった……!)
わたしはお母さんの一生分の愛を受けて生まれてきた。老木にも思いを託された。でも重くなんてない。それ以上に――
(わたしは、この世界が、みんなが、楽しいが、大好きだ)
押しとどめてきた感情が、洪水のようにあふれ出して、視界全てを染めていく。
やっと息を吐いて、吸った。空気がこの上なくおいしい。
(この瞬間、わたしを生かしてくれる空気も好きだ)
司会の声に混じって、癪に障る声が聞こえた。
(今なら何でもできる)
ステージを降りたその足で、楓はトラウマへと向かっていく。
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